20. 少年少女の雑談 ―トロッコ問題編―
これもまた、秋のお話だ。
未だ二人だけの秘密である洞窟の中で柿を食べていたら、唐突に乙音がこんなことを言った。
「ねえねえ睦月。トロッコ問題って知ってる?」
ぼくは少し考え込んで、首を傾げる。
「……なんだっけ、それ」
聞き覚えがあるような気もするが、説明できるほどの記憶もないので素直に訊くことにする。
乙音はよいせと水から上がると、最近お気に入りのハンモックに腰かけた。
簡単に説明するとね、と言っていつものように指を魔法使いのようにくるりと回す。
「トロッコ……あ、路面電車的なイメージでお願いね! トロッコが線路で暴走していて、進む先の線路で一人作業してるのと大勢作業してるの、どちらかに進む二つの分かれ道があったとき、分岐を操れるあなたはどうしますか! ってやつ」
「雑だな……。まず避けられないわけ?」
「思考実験だしねえ。たしか速すぎ&近すぎで回避不可だったかな。あ、石置いたりして脱線させるのもなしだって」
「ツッコんだら負けってやつね。了解」
顎に指をあてがい、考え始める。
カチコチと、乙音が拾ってきたばかりの振り子時計の音だけが岩の間に反響する。
さて、どう答えたものか。
というかまずこれは何を問いただしたいんだろう。
人の命の重さは利益に応じて決まるのか? それとも、助けようとして殺した場合も罪になるのかという話だろうか。面識の有無で命の優先度が変えることの是非についてという転がし方もできる。なんなら乙音が問題のどこかをすっ飛ばしているのか、そもそもの問いが抜けているのかは知らないが、そもそも穴が多すぎやしないか?
一つ思いつくと芋づる式に疑問が湧いてきてしまい、どうにも問題自体に集中できない。自分の答えの方向性はなんとなく定まってはいるものの、答え方としてあっているのかが不安だ。
「で、どっちを選ぶ?」
問うてきた本人の中ではとうに答えが決まっているのだろう。悠長に自分の分の柿をむしゃむしゃ食べながら乙音が答えを促す。
まあ、確認してから答える方が無難だろう。
一つ頷いて、ぼくは口を開いた。
「……まず一人と複数って知り合い?」
ぱちりと目を瞬いた乙音が傍らの鞄から薄い本を取り出す。
なるほど、正確な問題はきちんと確認できるようにしてあったのか。文面を見せてくれれば早いものの、会話自体を楽しむ気分らしい乙音はぼくに本を渡すことなくサクサクと文面に目を通し、ふむ、とそれらしい声をあげた。
「特に書いてないねえ」
ぼくは続けて質問する。
「操作しなかった場合どうなるんだっけ」
「五人の方に直進するね」
悪趣味で大変いい問題だったらしい。最大多数の最大幸福、だっただろうか。
「ああなるほど。大多数の為に少人数を殺すのかってあれか」
「そうそうあれ」
「で、我が親友はこれで何が知りたいわけ?」
どれかと言えばぼくは苦手な思想だし、乙音も別に好ましく思うものではないと思っていたのだけれど。
「え、別に何にも? はじめて聞いたから、睦月はどう思うのかなーって」
食べ終わった柿の残した果汁でべとべとした手を、どうしたものかと見つめながら返された。
なるほど。単なる暇つぶしか。
納得しつつ手拭きを投げてやれば、尾びれで器用にキャッチされた。
暴投した自分が悪いが、それはそうとして尾びれよりも手の方が近かったのではないかと思いつつ、ぼくはさらに質問を重ねる。
「というかさ、これ、道徳じゃなくて利益の問題だっけ?」
「いや道徳だと思うよ? あ、法律とかの問題は置いといてとりあえず道徳だけ聞いてるらしい」
法律って道徳も絡むと思う。まあ、そう言うのならば、ぼくはぼくの良心に則って答えるとしよう。
「じゃあ、ぼくは『なにもしない』」
選んだ答えに、どちらかを選べという無粋なことは言わず、乙音は面白そうににんまりと笑った。
「理由は?」
「後で説明するから乙音の答え聞かせてよ」
当然、彼女が答えに窮するわけもない。
尾びれがゆったりと、音もなく岩を撫でる。
「わたしなら、『分岐には触らず作業員どちらとも同じ情報を流す』。こちらに救う術があることは告げずにね」
ぼくのと結果的に起こることは同じ。けれど、明らかに言葉に含みがある上に、響きがどうにも裏で糸を引く黒幕みたいだ。
「……その心は」
乙音が悪役なら喜んでそちら側に転がる準備はあるけれど、これは仮定の話だ。お互いの思考を覗き合うお遊びなのだから、解説はあってしかるべきだろう。
「え? 先に睦月が説明するんじゃないの?」
自分の言ったことが外から見てどういうものなのか、彼女が理解していないはずもない。だが、そう言ってぼくに促す表情はあくまでいつも通りだ。
「ああそっか。まあ単純にね、知っての通りぼくは割と薄情だからさ。成功するかもわからない分岐に手を出すよりはたまたま列車事故を見てしまった人になって、通報したほうが自分の精神にダメージが入らないって思っただけなんだよ」
うん。口に出すと薄情どころの騒ぎじゃないな。乙音のことをどうこう言えるような答えではない。
だというのに、乙音は「ああー」と深く頷いてみせた。
「人数は最初から考えてないってことか。ある意味睦月らしい」
「仮にどっちかに顔見知りがいたら、まあそっちを生かそうとするんだろうけどね」
少なくとも、片方に乙音がいるならばぼくは迷わず乙音がいる方を助ける。万人に恨まれようと知ったことではない。
「あははは、それっぽい」
「で、問題の乙音さん。お答えをどうぞ?」
そう促しながらも、ぼくはてっきり『反応して自分を信じた方だけ助けに行く』みたいな、物語の英雄なのか悪役なのかわからない答えが帰ってくるだろうと、なんとなく予想していた。
帰ってきた答えを聞いて、ぼくは乙音を理解しきれていなかったことを痛感する。
「ん? わたしも簡単だよ。分岐をいじって一人殺しても、いじらず五人殺しても、どっちに居たのがどんな人かを知らないって前提なら罪悪感はどっちも同じだろうから、分岐のことは言わずに両方の人たちに『列車が来てるぞ! 全力で逃げろ!』って叫んで『自分にできることはした』って思いたいだけ」
青い光の中で、あくまで穏やかな笑みを浮かべながら影を揺らす姿の美しさに見蕩れ、思わず息をのんだ。
「もしも叫んだことで何か変わったらそれはそれでよし、何も変わらなかったらそういうものだと思えるでしょ?」
さらりと、歌うような口調ですらなく、乙音が言い切る。涼やかなその眼差しには悩み苦しんだ様子もなく、かといってこの問いをただの架空の話だと面白がっているわけでもないのは、目に宿る怜悧な光が物語っている。
まるで、とても高いところから地面を見下ろす大鷲のようだ。
思えば、最初にあったころの乙音はこういう目をしていた気がする。
こういうところがあったからこそ、あの頃のひねくれ曲がってなにもかもから目を逸らしたかったぼくの心にも、彼女の存在だけは刺さったのだ。
ぼくは、つられるように笑みを浮かべた。
「……仮にどちらかに顔見知りがいたら?」
「同じだよ」
やはり、淡々とした声が応える。言葉が連なるたびに、かつて彼女に感じていた恐怖と好奇心が蘇り、笑みが深くなる。
「優先的に声をかけるかもしれないけど、わたしは同じことをする」
生温かい、平穏無事で退屈な日々も嫌いではない。大切なことだと思えるようになった。
けれど、それ以上にこの少女が内に秘めている異様な雰囲気を感じるこの瞬間がなければ、ぼくの人生にはもはや意味がないのだ。
暴くことはしないから、きみの輝きを濁らせることはしないから、どうかきみの顔をたくさん見せてほしい。
きみの友達として、その栄誉を与えてくれ。
そう希う心を見透かしたように、不意に乙音の表情が挑発的なものに変わる。
試されている。
「……少なくとも、睦月がもし『五人の一人』だったとして、自分を助けるために一人を殺した奴を親友だなんて言えないでしょ?」
「言うけど?」
戸惑わずに即答できた自分をほめたい気分だった。時折こうして彼女が見せる苛烈で人をはかるような視線には圧倒される時もあるけれど、その程度でぼくが親友を降りると思ってもらっては困るのだ。
試すならいくらでも試してくれ。
きみにとってぼくは弱い存在だろう。実際肉体は比べ物にならないほど弱いし、精神だって脆弱だけれど――この絆を手放してやるつもりは毛頭ない。
なんなら、この情だけは乙音に勝てると思っている。
予想通り、乙音の目が見開かれ、満月のような瞳があっけにとられた様子でこちらを映した。
「舐めないでよ、親友。きみが何をしようが、誰を殺そうが、ぼくにとっての価値が下がることなんてないんだからさ」
きみの根本が、ぼくとは違うことを知っている。きみが何者なのかは知らないし、知る術もない。
けれど、そんなことがぼくらの友情に必要か?
乙音がホンモノでぼくが偽物だとしても、同じところがあることだって知っているし、わからないことがあるからいつまでだって飽きは来ない。
いつかきみがこの世のどこかにいるかもしれない本物の52ヘルツの同胞に会えるその日まで、ぼくがきみの同胞だと言い張ったっていいだろう。
「……睦月ってさあ」
籠めた想いがどれだけ伝わったかはしらないけれど、乙音が細い指で自分の口元を覆いながらくすくすと笑い出す。
「たまにすごいこと言うよね」
そうして笑えているなら結果は重畳だろう。引かれそうなことを告白した甲斐がある。
「言わせてるのはだれだ?」
「わたしかな」
「自覚があるのが本当、乙音らしい」
笑って、すこし表面が乾いてしまった柿に口をつける。
しゃくしゃくとした食感と軽い甘さはぼく好みで、乙音はもう少し甘いほうが好みだろうなと思った。
** 余談 **
「あ、そういえばさ」
一段落したと思った話題を蒸し返すように乙音が首を傾げた。
「なんで道徳か利益か、なんて確認したの? 答え変わる?」
なんだ。気づいてなかったのか珍しい。
「変わる。というか確認したかったのはそこじゃないんだよ」
いつもの乙音の真似をして、ぼくはくるりと指を魔法使いのように回す。
「この問題で道徳を問うのは別にいいけどさ、仮に利益を問うなら決定的な欠点があるんだよ」
「欠点?」
「五人と一人、単純に『作業にかかる規模』の問題で人数が分かれているならまだ『五人を生かした方が労働力が減らずに済む』っていう答えが出るけど、仮に『五人は技術力を身に着ける気も無い半人前』、『一人が人間国宝級の技術者』だった場合はどうなる?」
そこまで言えば、乙音は傾けていた頭を元の位置に戻した。
「ああ。そういう」
「命の価値は等価だとしても、技術の価値は等価じゃないだろ? だからはっきりさせておきたかった」
以上。と締めくくれば、乙音がふんふんと何度か頷いて、ぽんっと何かをひらめいたように拳をもう片方の掌に落とした。
「なんというか、睦月ってさあ、ちょっと文月にいちゃんに似てるよね」
「文月さんに?」
理知的なまなざしが特徴的なその人を思い浮かべ、今度はぼくが首を傾げた。
実兄だから容姿が似ているような気もするけれど、このタイミングで言いだすということはそういう意味ではないのだろう。苦労人ではあるけれど、基本的にはクールなお兄さん、という印象が強いあの人に似ているというのは悪い気分ではないけれど、乙音のことだからどこで共通点を結んでくるかわからない。
ちなみに現在中学二年だが、ここに至るまでにぼくは三度家出を経験している。行先はすべて乙音の家。すなわちぼくの生家だ。
結果、現在大学生の文月さんとは顔見知り以上に割と仲が良くなっている。いや、あっちは生まれた時に見たことあるんだろうけど。
「文月にいちゃんもこういう問題出すと大体『質問の情報量が足りない』って言い出すから」
「ふうん。でもまあ、気になったら聞くよな」
中身や発言の傾向が似ているという意味だったのかと肩をすくめれば、そう? と乙音の目が瞬いた。
「わからなくはないけど滅茶苦茶気になる! ってわけでもなくない?」
「なんと」
そうなのか。当たり前だと思っていた。
驚くぼくに、琥珀色の目が楽し気に三日月を描く。
「それを考えるとあれだね。睦月はそういう研究とか向いてそう」
「そういうってどういうのだよ……でもまあ、そっか。文月さんと似てるならもしも将来迷ったときは、相談させてもらおうかな」
「いいんじゃない? 兄ちゃんもきっと喜ぶよ」
別にその気になったわけでもないけれど、いずれは直面するだろう話だ。胸に留めておこう。
そんなことを思っていれば、再び乙音が「あ。」と声を上げた。
「一個訂正していい?」
「どうしたの、今日は珍しい。別にいいけど」
果物を食べて頭のねじでも緩んでいるんだろうか、今日の乙音は少し抜けているようだ。
そんな風にほのぼのしていれば、乙音がすんっと表情を消した。
「もしも一人の方が母さんだったり、あるいは五人の方に母さんがまぎれてたりしたら、迷わずそっちに分岐させる気しかしない。絶対止められるもん」
「ああ……皐月さん、この間ついにシャチに勝ったんだっけ?」
ぼくは青い天井を思わず仰いだ。
パワフルすぎる武勇伝が日に日に増えていく皐月さんの話が出ると、つい遠くを見たくなってしまう。
「勝ったというか、ちょっとずつ海獣言語がわかるようになってきた気がするからって手合わせして一本取ったというか……」
「まずシャチと手合わせってどうやるのさ」
「殴り合い尾びれの蹴り合い?」
「想像しただけで怪獣大戦争なんだけど」
「大体あってるよねえ」
けらけら笑う乙音もいつか皐月さんみたいになるのかなあ、とぼくは楽しみ半分不安半分の心境になりながら、大きくなった乙音をいくつか想像してみて、すぐに脳内から消去する。
美人だけどとんでもない女に成長することだけは目に見えているのだから、その時その時で柔軟に対応しようと心に決めた。
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