秋深まる日々の徒然

秋の日常

19. 少年たちと秋の空

 それは、小学校を卒業し、やはり町内にある中学校にぼくらが揃って入学した年の秋のことだ。

 すっかり色づいた校庭の木々を眺めていれば、宿題がわからないと泣きついてきたはずの橘がふいにこんなことを言った。


「そういえばさ、乙音と睦月って付き合わねえの?」


 青筋が立つのを感じた。

 いつぞやの恋心拗らせ暴言事件とは違い、大真面目に問いかけてきたのだとわかる分、より苛立ちが増す。

「……突然なに」

「いや、めちゃくちゃ仲がいいだろ? 二人。なら付き合っちゃえばいいのにって思ってさ」

 何言ってるんだこいつ。頭蓋骨にマシュマロでも詰まってるのか。

「きみ、文通始めてから思考回路が可笑しくなってない?」

 眉間の皺をほぐしながら尋ねれば、抱え込んだ椅子の背もたれをガタガタいわせる騒音と共に不満そうな声が上がる。

「ええー。だって千早ちゃんもよくそう言ってるぜ? 手紙だけどさ」

 なんやかんやうまくいっているらしい川のお嬢さんの名前を出され、いよいよぼくは頭を抱えるしかない。

「この脳内花畑カップルめ……」

 愛情こそ重めだが基本的には箱入りでふわふわとした少女と精悍な容姿に反して天然入ってる少年という、今時漫画でもそうはお目にかからない組み合わせで成立してしまったこのカップルは、なにかにつけてぼくらにトラブルを運んでくる。

 ぼくらを巻き込むだけなら暇つぶしになるからいいけれど、こうして話題の中心に出されると嫌な予感しかしない。

「それにさ」

 半眼になって睨みつけるぼくの視線をものともせず、橘が頬杖を突いた。

「俺から見るとおまえらの関係ってよくわかんねえんだよな。めっちゃ距離近い割にベタベタしてねえっていうか」

「だから親友だって言ってるだろ」

 何度言わせるのだろう。半ば呆れを込めたというのに、どうにも納得いかないようでなおも食い下がってくる。

「じゃあ、恋じゃねえって言いきれんの?」

「言い切れる」

「うわ即答……。なんで?」

「なんでって……」

 なんでもなにも、ぼくの乙音への感情はそういうのではないから、としか言いようがない。そもそもぼくは恋というもの自体未だ実感がわいていないのだ。


 誰も彼もが恋を燃料に生きていると思わないでくれ。


 そう言ったところで、おそらく納得しないのだろう。

 さてどうしたものかと悩んでいれば、我が意を得たりと言わんばかりに橘がつらつらと言葉を重ね始めた。

 その口縫い付けてやろうか。

「だって乙音可愛いだろ? 中身はたまにおっかないけど顔は確実に」

「中身だって悪かないだろ」

 癖があることは認めるが、あの中身のおかげで縁結びされたくせに何を言い出すんだこいつは。

「ほら不機嫌になった」

 揚げ足取りのつもりなら未熟すぎる。

 普段ならそう切り返せるはずの言葉はなぜかうまく出てこなかった。

 喉の不調かと黙り込んだぼくの頬を橘がシャーペンの消しゴムの方でうりうりと突いてくる。いや、勉強しろよ宿題やるんだろ。

「おまえ、乙音のことつつかれるとすぐ態度に出るじゃん。それにすぐ見つけるし。それって恋じゃねえの?」

 胃からむかむかとしたものがせり上がってくる。

 ああ、本当に、しつこい。

「それにほら、おまえらチェンジリング同士なんだろ? なんか運命っぽいじゃん?」 

「……」

 不快だった。

 ぼくと乙音をそういう目で見られることが、ひどくひどく不快だった。

 それは、柔らかな関係性に傷をつけられたとか、そういうセンチメンタルなものではなく。そう――例えるなら、美術館で接触禁止の掲示がしてある展示品に、無遠慮に不躾に触れてみせる客と出会った時に近い。腸がぐつぐつと煮えるような、それでいて体の芯から冷めていくような、憎悪と嫌悪に近い感覚だ。

 そして、思い出す。

 目の前の彼は、美しいと思った水の少女に触れたいと思って、手を伸ばしたんだったな、と。

 心のどこかで、薄れかけていた線を黒く、太く引き直す。

「そういえば、そうか……きみはそういうタイプだったな」

「……なんだよ」

「きみは美しいものに触れたがるタチだったな、と思い出しただけだよ」

 怪訝そうに潜められた眉に、ああ、本気で分かっていないな。と小さな落胆を零す。別に、彼が嫌いなわけではない。なんやかんや続いている交流の中で、多少は人となりを知っているつもりだ。

 愚直で、凛として、大勢に好かれる、明るい人間。そして――よく見知った、小さな無遠慮さを無自覚に備えた、ごく普通の少年なのだ。

 悪気はない。だが、自覚もない。幸い言えばわかるタイプだから、常ならばさりげなく諭して終わる場面だった。

 けれど、どうやらこの話題はぼくにとって、ひどく琴線を揺さぶるものだったらしい。

 煮えたぎる腸の熱が、そのまま口から蒸気となってあふれ出している様な錯覚さえ覚えながら、彼を睨みつけるように見据える。

「きみとぼくを同じように見るのはやめてくれないかな。ぼくは一度だって、あの子を自分のものにしたいと思ったこともなければ、手垢をつけたいと思ったこともないんだよ」

 あの日、天を泳ぐ彼女の軌跡はぼくにとっての救いだった。

 息苦しかった世界に風穴を開けた相手――たしかに、よくある恋物語にありそうな、恋愛感情の矛先だ。けれど、そんな甘く苦いと言われる感情に、ぼくは覚えがない。

 心底、覚えがないのだ。

 乙音の笑顔も、自由さも、少しばかりの残酷さも、確かに好きではあるけれど、そこに独占欲や焦がれるような気持ちはない。

 そりゃあ乙音の興味をそそるものが目の前に現れて、ぼくから視線が外れた瞬間は面白くないと思うこともある。どうかぼくを見てくれと思うことはある。

 ――けれど、永遠にじゃない。押し寄せ続ける波がないように、その感情は時間と共に引いていくものだ。

 誰にだってある事だろう。

 自分が一番の仲良しだと思っていた相手が後から出てきた奴に取られてしまうんじゃないか、自分に興味をなくして遊んでくれなくなるんじゃないかとそわそわとしてしまう。

 そんな単純だからこそ強い、友達への激情に似た感情だ。ぼくが抱えているものが多少粘度が高くて宗教染みていることはことは認めるが、系統としては同じものだと言い切れる。

 朝から夕方まで遊びまわって、馬鹿みたいに笑いあって、また明日と手を振って、例えば十年二十年と会わずにいても、ばったり会えば変わらず遊びはじめることができればそれでいい。

 突き詰めればそれだけが、ぼくの抱いている彼女に対する感情なのだから。

 明日、もしも乙音が恋人出来た! といつもの調子で言ってきても心から祝福できる自信すらある。ひどい相手なら張り倒す気ではいるが。

「理解できないならそれで構わない。でも、覚えていてくれ」

 低く、低く、唸るような声が出て、気づけばぼくの手は橘の胸倉を掴んでいた。


「ぼくと乙音は親友だ」


 たとえ周囲にどんな関係に見えていようと、そうありたいとぼくらが定めたことを誰にも邪魔させたくはない。

 思えば、二次性徴をほとんどの人間が迎える年齢に差し掛かり、煩わしい視線が増えていたことが、この時のぼくを余計にも凶暴な感情に駆り立てた大きな原因の一つであったのだろう。

 男子だ女子だと区分され、小学校の頃のように遊んでいるだけで色眼鏡で見始める奴らが、邪魔で邪魔で仕方がなかった。


 ――みんな、突然どうしたっていうんだ。


 そう叫び出したいのに理性が邪魔をして、衝動の吐き出し口を求めて奥歯がギリリと鳴った。

 今にも噛みついてしまいそうな心の隙間から、努めて冷静な声を絞り出す。

「あとね。運命というものが仮にあるとして……それが『恋』だけなはずないだろう?」

 どこか納得がいかないまま曖昧に頷いていた橘の目が、大きく見開かれた。ごくりと大きく上下した喉は、果たして何を飲み下したのだろう。

 それが、ぼくの言葉への納得であればいいなと願った。

「ぼくらの間に運命なんてものがあるなら、そいつの名前は多分『友情』だし、そうじゃなければ『半身』だ」

 鼻の頭がぶつかるくらいに近づいて、渾身の力で睨みつける。

 

「きみの恋を否定しない。だからさあ、ぼくの友情も、否定するなよ」


 たのむからさ、と意図せぬ弱々しい声が続いて、ぼくは存外橘のことを友達として気に入っていたのだと、ようやく認識した。

 なんともまあ、あんなにも乙音だけでいいと言っていたくせに調子のいいことだ。そう自嘲することは選ばずに、ぼくはゆっくり橘の胸元から手を放すことを選んだ。

 

 慣れないことをした手が、小さくしびれていた。

 

 ひとけがないとはいえ、ここが教室であると思い至ったのは、キンと静寂が耳に刺さってからだった。

「……なんか、ごめん」

 雨に濡れた仔犬みたいにしょぼくれて肩を落とした橘に、ぼくは少し気まずくなる。

 言葉を撤回する気はないけれど、いつもとは調子が違ったのは、本当の事だった。

 なんだったら、ぼくがいつも通りであれば、こんなにかき乱されることもなかったのだから。

「……こちらこそ。少し熱くなりすぎたみたいだ」

 我ながらひどく珍しいことに素直に謝罪を口にすれば、橘が一瞬硬直した。

 張り倒してやろうかと不穏なことが頭を過った瞬間、いつもの人好きのする笑顔がぱっと咲き誇る。

 がしりと組まれた肩が痛くて、けれども悪い気分はいっこうにやってこない。

 

 ああやっぱり、今日は調子がおかしいようだ。

 

 窓の外は雲一つない秋晴れを見上げて、ぼくらは年相応に笑いあった。

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