17. クピドたちの傍観
張り切ってレターセットを買いに向かう橘の背を見送り、ぼくらは帰路に着いていた。
仰向けでぷかぷかと浮かびながら進んでいた乙音がおもむろに口を開いた。
「思ったよりもピュアだった……」
物足りなさそうな顔をしていると思っていたら、そういうことか。
「乙音って案外そういうところ下世話だよね」
小学生の恋に何を期待しているんだ。という意図を込めてため息をつけば、それはそうなんだけども、と舌先だけで転がしたような声が返される。人のことを言える性根は持っていないけれど、他人の感情をエンタメ扱いするのはやめた方がいいと思う。人のことは言えないけれど。
ふいに、乙音がその場で起き上がった。
「というかこの一年睦月と話していて気づいたんだけどね、たぶん水っ子と陸っ子ってそういう話題の程度が結構違うみたいでさあ?」
「例えば?」
「まず水っ子は息をするように子づくり計画の話をします。ちびっこの頃から」
「ひえ」
予想だにしない発言に妙な声が出た。
子づくり。
保健の授業も真面目に受けているので原理は知っているけれど、縁遠い言葉だ。いや、冷静になると妹が生まれている時点で陸の両親も関係しているのだろうけれど、具体的にどういうものかピンと来ていない単語を堂々と投げつけられて目が回る心地がする。
暑さとは関係のない変な汗が出そうになっているぼくのことを放置して、のほほんとした様子で乙音が言葉を連ねる。
「たぶん本能なんだろうねー。わたしたちどれだけ大人が頑張っても死ぬときは死ぬし。文月兄ちゃんとかは水っ子のそういうところが嫌いだからって陸の大学行きたがってる」
続く言葉が生々しいものだったらぼくは倒れていたかもしれないので、そうでなかったことに心底安心した。
「あ、水側でも苦手な人はいるんだ」
面識のある相手も苦手がっている事実に胸を撫で下ろす。これまで入り浸っていた友達の家にして生家がまるっと異界に見えてしまうようなことにならずに済みそうだ。
「そりゃいるでしょ。わたしはどっちの感覚もよくわかんないなーって思ってる」
「まあ、ぼくもあんまりわかんないや」
乙音に実感があったら泣くところだった。
置いて行かれる覚悟はしているけれど、この方向での置いて行かれ方は想像したことがなかったら、もうしばらく待ってほしい。
滅茶苦茶な焦燥に予期せず心臓を焼かれてぜーはーと息を切らしていたぼくに追い打ちをかけるように、乙音の声のトーンが下がった。
「わからないことをいうのもよくないかなーっていうのもあって、梓くんには後押しだけしたってところもあるんだけど……一個思い出したことがあって」
「…………なに?」
嫌な予感というわけでもないけれど、不穏な気配はひしひしと伝わってくる。
「ほら、お嬢さんを預かってた時にさ。なんで鯉の真似とかしたかったの? って聞いたんだよ。そうしたら」
すっと乙音が口元に手を添えて目を伏せた。揺れるまつ毛の下の瞳は甘く蕩け、声はいつもよりも高く丸く――どこぞのお嬢さんのような高貴さを帯びて響いた。
『龍になれば、いつでもあの御方のところへ往けるでしょう?』
ああこれがくだんのお嬢さんの声なのか、と突然の物真似に動揺しつつ納得し、遅れてその発言の内容の重さに気づく。
自分も大概だという自覚はあるが、なんというか、健気とも取れる割にぼくとはまた違ったえぐみがあって、つい頬がひきつってしまう。
乙音はぼくの顔をしげしげと見つめ、同類でもこうなるかあと言いたげに生温かい笑みを浮かべた。
「……これ、熱烈だなあとしか思ってなかったんだけど、もしかしたら交配相手に梓くんを選んだって意味だったのかなあとか」
「こうはい」
先ほどどうにか繋ぎなおしたはずの場所がショートしかけた。
慣れろと言わんばかりに目配せして、乙音は淡々と話を続ける。
「あの子、本当に川上の方のきれいな滝つぼに住んでるってことはガチガチのお嬢様だろうから、礼儀に厳しいと思うんだよね」
乙音が名探偵のように顎を撫でつける。
「そんな子が挨拶もできずに逃げ出した梓くんに、礼も払わずいるかもわからない龍になってまで会いに行きたいと思っていたって……熱烈通り越して執着じみてるし」
「……乙音」
「うん?」
つらつらと言葉を連ねながら、どうにか直接的な表現を避けようとしているような、あるいは――自分がしたことに少しの後悔が芽生え始めたような、そんな風に目線を彷徨わせる乙音はあまりにも珍しい。もう少し観察してもよかったが、ぼくも時を同じくして気づいてしまった。
「前につがい主義とフリーダム主義の二つがあるって言ってたけど、川の子も?」
すぅっと乙音が目を細めた。
「……あははは、さすが気づくなあ」
ばしゃんと尾びれが水面を打つ。
頭痛をごまかすように、乙音が首の後ろをがりりと掻いた。
「川の子はね、バッチバチのつがい至上主義な上に運命至上主義って噂がね。すんごいある」
それはもう、いっぱい。
と念押しするように言う乙音の顔がうっすらと青ざめて見える。
「そんなに?」
「そんなに。こんな離れた海にまで噂が度々流れてくるくらいに」
「それは……」
想像することすら恐ろしい。
未だ会わぬ父親のような奔放さも理解しがたいけれど、『運命』とか『至上主義』という言葉にも恐ろしさを感じる。
なんというか、拒否権がなさそうで。
同じことを思っていたのだろう、真珠色の頭が深く深くうなだれた。
「梓くん、逃げないといいけど」
「……もしかして乙音、途中でそれ思い出したから文通なんて言いだした?」
ふいに思いついた問いに、乙音は一つ瞬きをしてからにこりと笑った。
「正解」
帰り際になって思い出して後悔していたわけではなかったのか、と少し残念に思いながらも、今の今までそれをちらとも顔に出していなかった役者ぶりへの感嘆が勝る。顔色のコントロールが完璧すぎる。
すっかり血の気が引いた顔で、乙音がだらりと弛緩する。上半身を陸側に預けながら下半身は水路の中で流れに任せて揺れているから、遠目から見たら妙な形の袋にでも見えそうだ。
「そりゃわたしは基本的に水っ子の味方だけどね。目の前で溺れそうな子がいたら浮き輪くらいは渡してあげますとも」
「浮き輪だけか?」
「浮き輪だけだよ」
疲れ切った顔で浮かべた笑みは、ぞっとするほど綺麗に唇を彩った。
「だって、溺れたくて溺れる子もいるでしょ?」
なるほど道理だ。
ここにまさに溺れたくて溺れている奴がいるのだから、実に説得力がある話だった。
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