16. クピドの真似事(4)

 言葉を探しながら、それでもまっすぐ前を見据える横顔はとても強いものに見えた。

「俺は」

 ぼくにはなかった強さだ。まぶしいったら、ありゃしない。

「俺は……あの子に、言いたいことがある」

「へえ」

 乙音が楽し気に笑う。

 主人公のように堂々と、夏の燦燦とした陽を浴びながら橘が言う。


「あの時、俺……あの子が滝つぼで泳いでいるところに、見惚れたんだ」


 思い返しているのだろう。橘の目がずっと遠い山の方へと意識をやる。

 それは、ぼくにとっても覚えがある感覚だった。乙音と出会った日に、宙を泳いだ彼女の美しい軌跡のきらめきが、鬱屈としていた日常に変化をもたらした。

 けれど、彼の感情の行きついた先は、ぼくとは違った。

 ぼくの柔らかさも甘さも微塵もないくせに執着と敬慕だけが粘度を増していくような名状しがたい感情とは違う、もっと輝かしい感情が彼には灯ったのだ。

 羨ましさはない。ただただ正道を進めるだろう彼へのまぶしさと、自分への失望だけが募っていく。

 ふいに、彼のしゅっとした目が熱に浮かされたように蕩け、頬に朱色が走った。訥々と、夢を見るように恋を語る口は止まらない。


「キラキラしてて、きれいで、それで――俺は、どうにかして触ってみたいって、思って」


 再現するように、少年の腕がまっすぐにのばされる。椅子の上の乙音のさらに向こう、ぼくが見知らぬ彼の恋した少女に向かって。

 宝石を溶かしたようの赤いいちごジャムに似た、甘ったるいまなざしがどんどん糖度を増していく。見ているこちらが胸焼けしてしまいそうだ。

 触れてみたくて、仕方がなくて、それで……。

 続いていた言葉がそこで切れて、大きな手のひらが木漏れ日をぐっと握りしめた。


「橋の上から何も考えずに手を伸ばして――落ちたんだ」


 どぽん、と重たい水音が聞こえた気がした。


 濃淡様々な緑に囲まれた風の冷たい山の奥、白く輝くあぶくに包まれて、透明な清水をたくわえた滝つぼへ少年が落ちていく。

 橋の高さはどれくらいだったのだろう。高かったのだろうか、低かったのだろうか。見惚れた少女の髪は、目はどんな色彩を持っているのだろうか。水の温度は、深さは、味は?

 すべて、ぼくは知らないけれど、一つだけ不思議な確信をもって想像できたことがある。

 落ちていく瞬間でさえ橘の目は水面ではなく、その少女だけを見つめていたに違いない。

 たった十年と少し。けれどぼくたちにとっては生きてきたすべての年月の中で見つけた、最も美しいものだけを見つめながら――落ちていったのだ。

「あの子は突然落ちてきた俺にびっくりしたみたいだったけど、すぐに岸まで連れて行ってくれた」

 尊いものを抱きしめるように柔らかく切なげなその笑みは、驚くほど大人びて見える。いつかぼくらもそんな表情をする日が来るのだろうか。そんなことを思いながら乙音を見れば、なぜかまずいものでも食べたような顔をしていた。

 水側視点だとまずいことでもあったのだろうか。ぼくよりはずっとお嬢さんから話を聞いているはずなので、今さら新発見があるとも思えないのだけれど。

 

 恋に想いを馳せる橘には乙音のそんな顔など目に入っていないようで、話が止まることはない。

「捻った足をテキパキ手当てしてくれて、なのに」

 その時に彼女の手が触れたのだろう足首にそっと触れ、切れ長の目が伏せられる。もう何ともないはずのその場所が、今も痛んでいるみたいに。

 あるいは、真実そこに痛みがあるのかもしれない。心が縛り付けられるように、何もない場所がじくじくとうずく感覚を思い出し、ぼくは思わず膝をさすった。

「俺、なんか恥ずかしくって、お礼を言うことすら忘れて……逃げるみたいに、帰っちまって」


 知らなかった感情に触れて、混乱して、相手のことも考えずに逃げ去った。

 ――鏡を見るようだ。

 あの日、乙音に身勝手なことを言って逃げ出したぼくに、よく似ている。

 けれど当然、ぼくとはまったく違う人間なのだと、すぐに思い出すことになる。

 

「だから、ごめんって、ありがとうって、きちんと言いたいんだ」

 

 ぼくが今もできていないことを、彼は至極自然に、口にした。

 真っ当な人としての在り方を目の前に突き付けられ、ぼくがいかに乙音に甘えているか再認識させられる。

 ズルズルと心の奥に罪悪感だけを引きずりながら、彼女が気にしていないことをいいことに、記憶がすっぽり抜けていることを言い訳に、ぼくは逃げ続けているだけだと思い知らされる。

 ――でも、きちんと覚えていないことを謝って、それは本当に誠実か?

 ――いいや、覚えているじゃないか。たとえどんな経緯であろうと、乙音に向かって吐いた言葉だけは鮮明に覚えているじゃないか。

 違う。違う。あの日――ぼくは?


「じゃあ作戦ね」


 ノイズに侵されていくぼくの思考を遮るように、乙音の尾びれがびしゃっと手に乗ってきた。

 冷たい。涼しい。気持ちいい。

 ほわほわとする頭から、途端に鬱屈が逃げていく。

 何度か瞬きをして、ようやく乙音が椅子の上から降りてこちら側に泳いできたのだと認識が追いつく。今日ここで泳ぐ気はあまりないと言っていたのに、どうしたんだろう。

「余韻って知ってるか?」

 ぼくの心の中で怒った嵐に当然気づく様子もなく、乙音が移動してきたのも気にせず、橘が肩を落とした。

 あれだけ熱弁したというのに、という脱力感と羞恥が同時に襲ってきたのか、耳まで赤くなっている。

「それでうだうだしてたら日が暮れちゃうよ」

 悪戯っぽく笑う乙音はこちらをちらとも見ないけれど、不自然に岸に乗り上げた尾びれがぼくの手の上から退くことはなかった。

 

「で、作戦はとっても簡単です」

 気を取り直して、とナップサックから取り出されたスケッチブックにはカラフルな文字が踊っている。


「題して『お嬢さんの忘れ物です! 心を込めた手紙を添えて』作戦!」


「わかりやすいけどわかりにくい」

「えっと……なに?」

 さっきよりもネーミングセンスが悪化している。

 言葉のまま受け取っていいのかわからなくて、再び橘と顔を見合わせてしまった。

 乙音はやはりきょとんとした顔をして首を傾げている。本当にワザとじゃないのかこいつ。

「本当に簡単だよ? わたし名義で川に郵便を送ります」

「郵便、機能してるんだ……」

「してるよ。回遊魚じゃあるまいし」

 これまでの話を聞いていたら断絶してると思うだろう。

 相手への影響力を理解して自分の声色を使い分けているとばかり思っていたけれど、実は無意識だったりするのだろうか。いや、それはそれで怖いからすっとぼけているだけだろう。

 ちなみに回遊魚じゃあるまいし、というのは『住所不定ではない』という海側の慣用句だといつぞや聞いた覚えがある。たしか父親の話を聞いた時だ。ぼくの血縁上の父親であるその人は住所が定まっていないので回遊魚タイプらしい。

 素知らぬ顔で解説を続けようと乙音が再びスケッチブックを捲れば、油性ペンのように太い線で描かれた簡単なイラストが現れた。ニコニコ顔のマークと手紙の絵が海と滝つぼの絵の間に引かれた矢印の上で踊っている。

「まあとにかく、わたしの名前で『忘れ物あったよ!』って荷物を送ります。その荷物の中身が梓くんからの心を込めたお手紙! って感じでいこうかなって」

「途端に雑だな」

 シンプルすぎないか、それは。

 橘の顔がどんどん不安の色を増していて、面白いが気の毒だ。

「失礼な。ちゃんと考えてますー! 大人にバレないように『次』もやり取りするにはどうすればいいかとか」

 ぷくりとむくれながら乙音が取り出したのは、これまで秘密基地で見せてもらったことのない、くすんだ緑色をした雫型の石だ。もう片方の手にはなぜかハンマーが握られている。

「この石を同封します」

「石」

 橘が不安を通り越して真顔になってしまった。

 乙音の見つけてくる不思議石は空気石のように陸でも市販されているものもあれば、全く無名のものもあるから気持ちはわかる。正直ちょっと変わった色と形をした変な石にしか見えない。まあ乙音が持ち出した以上なにか面白いものであることに違いはないだろう。

 なお、空気石なんかは勝手にとっていいのかとも思って文月さんに確認もしたけれど、水の人の間では自分の家の庭のつくしを摘むような感覚らしいので、一応法律違反などはしていない。

「最近見つけたんだけどねー。この石を人間の手で割るとちょっと面白いんだよ」

 橘の様子を気にすることなく、乙音は石をコンクリートの上に置き、思い切りハンマーを振り下ろした。

 キィンと高い音がして、雫型の石がちょうど縦半分にぱっくりと割れた。

 その綺麗な割れ方だけでも驚いたというのに、そこからさらに奇妙な変化が目に見えて始まった。


 くすんだ緑色だったはずの石が、光り出したのだ。


 汽水に入れて光る照明用のそれとは輝き方が違う。

 ぴかぴかと星が内から跳ね上がるように小さな光の粒がいくつか飛び散ったかと思うと、まるで火の粉を散らすようにその煌めきがぱちぱちと弾けて踊るのだ。

 線香花火のように四方八方奔放に跳ねまわっているように見えた光はある距離まで離れるとくるりと弧を描き、花びらのような軌跡を描いて石へ帰還する。

 そして帰還した光がパチンと触れた箇所はそれまでのくすんだ緑からさっと晴れ、見たことも無いほど爽やかなライムグリーンへと染め上がっていく。


  ぱちん、ぱちン、パチン、パチパチパチパチッ


 音の間隔が次第に短くなり、炭酸の中に入れた氷みたいに無数の光の泡が表面を覆い上げていく。

 まるで魔法だ。

 これまで見てきた乙音の不思議石の中でも、とびきり夢のような光景にぼくは息をのみ、橘はあんぐりと口を開ける。

「石の片方の上に30分くらい置いておいたものがね、もう一個の石のほうへヒューっと飛んでいくみたいでね」

 何度も試してみたのだろう。この場で乙音だけが冷静に、けれども宝物を自慢するように鼻歌交じりの声で石の効能を解説していく。

 そうする間に、光は次第に収まっていき――最後には、すっかりライムグリーンに染まり切った石二つだけが残った。

「これを応用します!」

「さりげなく世紀の大発見してないか……?」

 じゃーんと言わんばかりの乙音に思わずそう言えば、驚きすぎて言葉を亡くしていた橘もこくこくと激しく首肯する。

 さして興味もなさそうに、乙音が首を傾げた。

「さあ? こんなに便利なんだからもう誰か使ってそうだけど」

 余談だが、この十数年後、ぼくらが大人になったころにこの石は不思議便利アイテムとしてとんでもなく重宝されるようになる。乙音の発見した不思議な石たちのなかでもトップクラスといえよう。

「さ、つまりはね」

 そんな未来を知る由もなく、あるいは知っていても頓着することなく、彼女はそんなことは置いといて、と言わんばかりににっこりと笑う。


「あとは梓くんのお手紙次第って感じだと思うな!」


 がんばれ! と当初の宣言通り華麗に応援だけされた橘はバシンと自分の頬を叩いて気合を入れると、手渡された石をぐっと握りしめた。

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