15. クピドの真似事(3) 

「むかしむかし、わたしたちをきみたちの御先祖様が『人魚』と呼んでいた時代には、陸の人たちは水に網を放り投げたり、銛を使って狩りをすることもありました」


 それは、ぼくらがお互いをヒトと認めず、ただ姿のよく似た獣として扱っていた時代の話。

 言葉が通じるか試しもせず、通じたとしてもそう聞こえるだけとして処理していた――そんな時代があったのだと図書館の隅で知ったとき、ぼくはしばらく立ち上がれなかった。

 信じられなかったから、ではない。

 もしもぼくが水の人の存在を知らず、調べる術を持たず、水面から顔を出す彼らと全く無防備に出会う時代に生まれていたならば。

 その時代に乙音と出会っていたならば。

 ――きっと、ぼくはただ恐れ、あの美しい真珠色を美しいとも思わずにただ獣として扱っていただろうと想像ができてしまったから、立ち上がれなくなった。

 自分の残酷さを自覚して、恥じて、恐れた。

 ぼくはまだ子供で、知らないこともたくさんあって、きっと世界すべてを知る日は来ないのだろう。

 けれど、それでも、無知であることが、無辜の命を奪うことにつながることは、知っている。

 まるで他の人と違う下肢を持っていても、それでも、彼女が人であることは、知っている。

 知ってしまったならば、それから逃げることをぼく自身に許してはいけないと、その時に決めた。


「魚、貝、海老に蟹、海藻……そして、人魚」


 歌うようなその声は、神話のセイレーンのように妖しく響く。

 そう聞こえるように、意図的に発声しているのだろう。

 橘の体が硬直しているのをじっくり観察しながら、その呼吸や鼓動までも計算に入れて、彼女は道化を演じている。

 人の心に敏感なくせに鈍感にふるまい、背中を押したり引き留めたりしながら距離を保って――祈っているのだと気づいてしまえば、もう彼女からは逃げられない。

「陸の人って怖いねえ。よくもまあ水の中にいるってだけで同じ形をした相手を食おうと思えたよ」

 皮肉げに、ぼくらの神経を逆なでするようにそういったかと思うと、青ざめていく橘にひらりと手を振って、へらっと笑った。

「ああ、ごめんごめん。具合悪くなった? 後ちょっとだから頑張ってよ」

 ゆらんゆらんと、振り子のように尾びれを振って、ぼくの英雄は悪党のようにこちらを見下ろしながら笑っている。

「まあね。実際食べられていたかどうかはわからないんだよ。脅かすようなことを言ったけど」

 なんで、と橘の喉から掠れた声が漏れた。きっともう思考は追いつけていないだろうに、頑張ることだと少し感心する。

「え? なんで、って……骨が見つからないから、だけど?」

 生々しい響きを、まるでその時代にいたように少女が語る。

 文字がない時代に長い間、吟遊詩人たちがそうしてきたように、朗々と。ぼくらの脳髄に刻み込むように、語り、歌う。

「水に生まれたものは水に帰る。でも陸に捕まった子は帰ってこれなかったからさ。ひどいことされてたのか、それとも大事に扱われてたのか、それすらわからないんだよね」

 静かな声が美しく、もう草と錆びた鉄の遊具しかないような場所で響く。

「……で、海の中のわたしたちの御先祖様はクジラの骨とか、サメの歯とか、色んなものを使って対抗手段を作った。それで自分たちは狩られるような存在ではないことを証明できたんだよ」

 めでたしめでたし、と締めくくるように深く呼吸をした乙音につられて、橘が深く呼吸をする。深く、長く、彼が息を吐き切ったのを確認した瞬間。乙音が再び口を開いた。


「でも、川の方はそうはいかなかったんだって」


 空気が凍った。

「川は確かに深いところもあるけど、海に比べたら全然浅いところの方が多いでしょ。それに、生活圏が被っているからより狩場になりやすくて、武器になるようなものの素材もほとんど根こそぎ陸に持っていかれてしまった」

 深さがあるがゆえに、資源があるがゆえに、悠然としている海の人々。

 流れこそ急だが人知の届かぬ深さではなく、資源も簒奪されていく川の人々。

 それは、同じ水人であっても、意識が断絶するには余りあるほどの環境の違いだった。

「……そんなこんなで、あの子たちはこれまでわりと搾取される側だったんだって」

 血の気が引くほど握りしめた拳から肩までぶるぶる震わせている橘は、怒っているのだろうか、恐怖しているのだろうか、それとも――悲しんでいるのだろうか。

 見開かれた彼の瞳をじっと見つめた乙音が、そっと困ったように微笑んだ。

「だから、個人が例え好意的でも川の人たち全体が友好的になってくれるのはまだまだ遠い……って話かな!」

 薄暗い部屋にパッと灯りをともすように、声のトーンが一気に明るくなる。

「わたしが話した感じだと、お嬢さん自身は別に怖がってたりはしないみたいだから、そもそも突っ返されるようなことにはならないよ」

 そこは安心してね、と大河の向こうに流されていきそうだった話題を引き寄せながら、乙音が気遣うように柔らかな声を紡ぐ。

「ねえ梓くん。今言った通り、たぶん川っ子たちの壁はとっても厚いよ」

 緩みかけた橘の拳が、再び固く握りこまれる。

 椅子の上から、神様みたいに乙音が問う。


「それでもきみは、彼女と交流を持ちたいの?」


 むごい問いかけをするものだ。いつになく、感情の結論を急いでいる気がする。

「……そんなこと、言われても」

 迷っているのだろう。当たり前だ。

 知らない情報と抱え込み切れていない感情をこの場で処理するなんて、きっと大人にだって難しい。

 そんなことを乙音がわかっていないはずもないのに、言葉は止まない。

「決めなきゃだめだよ。中途半端な気持ちなら、わたしは水門を閉めなきゃならなくなる」

「乙音。急すぎるよ」

「急じゃないよ。睦月」

 いつかのぼくに対してでさえ、もう少し余裕があったはずだ。そう思ってブレーキをかけろと合図を送っても、止まらない。

「わかっていてほしいだけ。長らく天敵がいなかった陸の子はそういう怖さって言うのがわからないみたいだから」

 怒っているわけではないのだろうが、その言葉が持つあまりの強さに、橘だけでなくぼくもまた、息をのんだ。

 天敵。――乙音が語る、サメやシャチの脅威を理解したつもりになっていたけれど、きっと、足りていなかったのだろう。

 陸の人間と水の人間は世界中に同程度の数がいるというけれど、ある程度の文化レベルになれば早々死ぬこともないぼくらには、どうあがいても天敵という感覚が芽生えにくい。

 精神的なものとか、相性とか、そういうものでならあるだろうが――直接的に命を散らされることへの恐怖が、わからない。

「無遠慮にただあの子に会いたいからって踏み込んでみなよ。たぶんすぐに追い払われるよ」

 あえて見せつけるように尾びれが揺れて、先の方に小さな欠けがあることに、今さら気づく。

 ぼくが知らない乙音がまだ無数にいるのだと、示されたようだった。

 乙音はぼくを見ることもなく、再び橘に問いかける。


「さあ、梓くん。そもそもきみはどうしたいのかな?」


 橘が、ゆっくりと口を開いた。

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