13. クピドの真似事(1)
「と、言うわけで橘梓くんの恋を応援し隊隊長の乙音ちゃんでっす」
水の人用に設置された水路の椅子に腰かけながらにっこりと笑った乙音の顔を見て、切れ長の双眸が困惑に歪んだ。
「おい委員長。突然呼び出したと思ったらなんなんだよこの状況。誰だよこいつ」
水陸どちらの子供も遊べるように設計された共同公園――だった場所でぼくらと向き合った橘が、刺々しい言葉とは裏腹にどこか怯えを孕んだ声でぼくに問いかけた。
こんな管理を放棄されて廃墟同然の場所に呼び出されたというのに、逃げるどころか時間の五分前にはきっちり着いてるあたり、だいぶ律儀な子なのかもしれない。
頭の中で当初抱いた失礼千万な奴という印象を少しだけ訂正しながら、ぼくは親友と同じくにっこりと笑ってみる。
「暇を持て余したうちの親友のお遊びだよ」
「なんで俺を巻き込むんだよ」
まあ、事情を知らなければそうなるだろう。
お嬢さんからの気持ちはわかったものの、彼からの気持ちをまだ確かめていないこともある。これでお嬢さんからの片想いだったらどうするのだろう。
正直乙音にしては珍しい失敗を見られるのかもしれないと、ワクワクしながらついて来ている側面もぼくにはあったりするのだが、それを顔に出しても仕方がないので余裕ぶった顔で解説することにした。
「巻き込んでるというか、橘くんが渦の中心にいるというか……。ちなみにこの子は橘くんが突っかかってくるネタにしてくれた水っ子」
ぎょっとした橘の視線が乙音に注がれる。
突き刺さるような視線をまるでスポットライトのように甘受して、乙音が元気いっぱいと言わんばかりにピースしながらよい子のご挨拶をする。
「どーも! 同じ学校の水教室六年A組出席番号二番の乙音だよ!」
「おまえが……?」
なるほど、やっぱり橘は乙音自身の事は知らなかったらしい。
いかにも明るくてクラスの中心にいそうな少女という顔をした彼女が普段の自分と重なりつつも、水の人であるということが畏怖と羨望のようなものに繋がって大変混乱していますとでもいうような、何とも言い難い顔をしている。
ダシにしたという罪悪感もあるのだろう、あちらこちらに彷徨う視線があまりにもあからさまだ。
混乱の渦中にある少年に、乙音は無慈悲にも新たな情報を投下する。
「ちなみにきみの名前を知ってるのは水教室で有名人だからだよ」
「はぁ!?」
困惑にさらに困惑を掛け合わされて、ついに変声期を終えたばかりの声がひっくり返った。
さすがに気の毒になってきたので助け舟を出すことにする。申し訳程度に。
「乙音。説明」
「海に甘味があると思う?」
そっちではない。
そっちではないが、気になっていたことへの答えが提示されてぼくは深く納得した。海っ子は甘味に餓えているのだ。
乙音、というか海の方の家にお邪魔する際に果物を持っていったらノリのいい流火さんや皐月さんだけでなく、普段一線引いて見守っている文月さんでさえとんでもなくテンションが上がるのだから、その程度はお察しだ。
「デザート情報かあ……」
「せいかーい」
きゃらきゃらと笑う姿を微笑ましく眺めていれば、げっそりとした声が聞こえた。しまった、忘れていた。
「……なあ、俺もう帰っていい?」
「駄目。言ったでしょ? きみが話題の中心なんだってば」
乙音は脱線しつつも本題を見失っていなかったらしい。
特に体を掴まれたわけでもないのに、そう言われただけで橘は返しかけた踵を地面に縫い留め、姿勢を正した。
道場にでも通っているのだろうか、いちいち動作が糊で癖をつけたようにぴっしりと礼儀正しい。
「話題ってなんの」
そんな仕草とは裏腹に、やはり言葉だけが刺々しく、伸び放題の野草の間に落ちていく。
琥珀色がわざとらしく大きく丸く見開かれた。
「え? 聞いてなかった? 最初に言ったじゃん『橘梓くんの恋を応援し隊』って」
ああこれは着火剤だな、と呆れていれば、ひゅっと鋭く息を吸う音が聞こえた。
「俺は!!」
腹の底からマグマが飛び出してきたような重たく熱い声が、夏草を揺らした。
休んでいたのだろう雀が、パタパタ向こうの方に飛び立っていく。
とっさに叫んでしまったのだろう。そんなつもりはなかったというように橘の顔が青ざめていく。幼さが抜けていく最中の大きな手が、轡のように自身の口の前を覆う。
指の隙間から、弱々しい声が零れ落ちた。
「……好きな奴なんて」
いない。と続けようとしたのだろうその言葉は、薫風のような声によって弾き飛ばされる。
「去年。夏。川のお嬢さん」
単語の羅列でしかない。
噂話を聴いていなければ、何が何だか分からなかっただろう。
――つまりは、当事者にしか理解できない言葉だ。
これが通じなければ、乙音の今回の予想は間違っていて、ぼくらはとんだ無駄骨を折ったことになる。
どちらに転んでもぼくは面白いことになるからそれでいいのだけれど、やはりというべきか、世界は乙音の味方をするらしい。
青かった顔が、ぐっと赤く、羞恥の朱色へと染め換わる。
「な!! ん、でしって」
上背のある少年がわたわたと忙しなく動く様は何ともコミカルだ。本人に楽しませている気は毛頭ないのだろうけれど、残念ながらぼくらはそれならやめておこうと引っ込むような人格者ではない。
最初にぼくに突っかかってきたのが運の尽きだったと思ってもらおう。
ぼくは口角を吊り上げ笑う。
「綺麗に大当たりのリアクション返してくれるね」
乙音もにやにやとチェシャ猫のように笑う。
「梓くん誤魔化すの下手だねえ」
まったくだ。これはぼくらが突かなくても、そのうちどこかでボロを出していたに違いない。
とはいえ、ぼくも鬼ではないのでここはブレーキ役としての役目を果たすことにしよう。
「茶化してやるなよ」
「はあい」
素直でよろしい。取り繕いきれていない優等生の顔を冗談めかして被ってじゃれていれば、頭が冷えたらしい橘がおずおずと口を開いた。
「……委員長、学校とキャラ違くね?」
まずそこなのか。
まあ学校でのぼくは真面目ぶっているし、彼の中では一番ギャップがある情報だったのかもしれない。
これに特に動揺せずに返答できるのは、真面目な顔以外で過ごせる場所ができたからだろうな、と少し感慨深くなりながらぼくは肩を小さく揺らした。
「その時々で楽な方でいるだけ」
素に近いのはこちらだけれど、真面目なぼくも別に嘘っぱちというわけではない。すべてぼくだ。
人が色々な場面で自然とやることをスムーズに切り替えられていないと考えると、むしろぼくは不器用な方だろう。
だというのに、橘はとても不思議そうな顔をした。
「そんなことできんの」
きっと彼は、色々な自分を試すことなく生きてこれた子なのだろうなと思って、小さく喉の奥がひりついた。
「できてるだろ」
すまし顔によどみがないことを切に祈りながら、ぼくは乙音を振り仰ぐ。
橘が話題の中心ではあるものの、今回のかじ取り役は乙音なのだからサボってもらっては困る。
「で、彼の恋を見抜いたのはいつ? 例のお嬢さんに聞いたの?」
「んにゃんにゃ。あの子は梓くんの恋に気づいちゃいないよ」
大して座り心地の良くない椅子が嫌になったのか、かなりだらけた座り方になってきている。いつものある程度管理された水路ならいっそ降りてしまえと言えるが、この公園の水路の凝り具合を見るとしかたないと思えた。
真珠色の尾びれにコケが着くところはあまり見たくない。
「じゃあなんで?」
「ん? カン」
「いやそこは確信してからにした方がよくない?」
いつも通りと言えばいつも通りだが、それだけでここまで動いてしまうのもすごいことだ。呆れるしかない。
まあ、乙音のカンは本人が頼りきりになるのも仕方がないほどの精度を誇るので、あまり問題が起こることはないのだけれど。だからこそ外れるところが見たいのだが、中々そういったことに巡り合うことはない。
カンと言っても、乙音のそれは手に入った情報を一瞬で処理しているせいで、本人も理解できないまま結論だけ口からまろびでているようなものだろう。
そうじゃなければ、当たる確率があまりにも高すぎる。
「えー、だって特徴的に梓くんなのはサクサクわかってたし。少なくとも嫌ってはいないことはわかってたし?」
出会う前からそう思えていたのか。ぼくに難癖付けてきた奴を。
なんだか面白くない。
「その心は」
「え、だって」
琥珀色の目玉の中心で標本にされたみたいな、真っ暗な瞳孔が収縮する。
「陸のヒトって、好意でもなければ水辺に近寄らないんでしょ?」
ぼくが教えた、奇妙な陸のルールを早々に飲み干して学習した乙音は、残酷で寂しい話だと笑いながらも、その結論を出さざるを得なかった。
美しい瞳が世界のヴェールを容赦なく剥がすように、怜悧で冷たい気配を纏って輝いている。
爛々と、まるで人ではないかのように。
「それが水自体になのか、水っ子になのかは置いておいて、さ」
ブルーホールのような瞳孔を真正面から見据えてしまった橘の喉ぼとけが、大きく上下するのが見えた。
ぞわぞわと、ゾクゾクと、無数の感情がぼくの体内を通り過ぎていく感覚に背筋を震わせる。
――可哀想に。怖いだろうね、ぼくの親友は。
――羨ましいな。その感覚を新鮮な状態で味わえるなんて。
――素敵だろう? 魅入られてしまうくらいに。
――ぼくと一緒に愉しめるかな?
――魅入ってくれるなよ、ぼくの半身に。
手を取り合って分かち合いたいような、目隠しをして妨害してしまいたいような気持ちが混ざり合っていく。
ぼくは今きっと、ひどい顔をしているに違いない。そっと歪んだ口元を手で隠しながら乙音の様子を窺えば、ぱちりと目が合った。
その瞬間、それまでの異様な気配が乙音から失せる。まるでにらめっこで負けた子供みたいに楽し気な笑みが少女の顔に花開く。
「さ、余計な話は終わりにして、作戦会議をはじめよっか!」
面食らったようにぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、橘が頷いた。
油の切れたブリキの玩具みたいにぎこちない動きだった。
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