12. 恋の噂話と少女の思い付き
「この間、台風が来たでしょ」
話はその一言から始まった。
ぽっと灯った蝋燭の火をじっと見つめるような気持ちでぼくはその声に囚われる。
数日前の、ざあざあごうごうと雨戸を打ち付け軋ませる激しい風と雨の音、ざぷざぷかき混ぜられてあふれ出す水路の映像、少し重たく濁った空気の色が脳内で再生される。
記憶につながる糸をくんっと引き寄せるように、乙音の声が鼓膜に滲みていく。
「あの時にね、川が結構増水しちゃって、うっかり流されてきた女の子が一人いたんだよ」
「えっ」
清聴しようと思っていたところに投げつけられた情報に、思わず声を上げる。
茶色く黒く濁った濁流の中、子供一人で流される様を想像して血の気が引く。
そんなぼくの声に一つ頷いた真珠色の頭の下で、肩がひょいと竦められた。
「ケガとかはしてなかったから大丈夫。かなり水流を読むのがうまい子だったよ」
乙音がそう言うのだから、かなり泳ぎがうまかったのだろう。
濁流の中為すすべなくもみくちゃにされる痛ましい子供の姿を塗りつぶし、華麗に濁った流れの中で樹木や岩を避けながら泳ぎ抜ける逞しい子供の姿に書き換える。
ほっと胸を撫で下ろしたぼくを確認して、乙音が再び口を開いた。
「まあそれはそうとして、その子のお迎えが来るまでうちで預かっていたんだけどね。その時面白い話を聞いたんだよ」
器用に体育座りに似た形をとった尾びれに両肘をついて、乙音がにんまりと笑う。クラスの女子がきゃっきゃとはしゃいでいる時の顔に比べるとだいぶ邪悪というか、上位生物が面白いおもちゃを見つけような顔。
親友信者の自覚があるぼくでもちょっと関わりたくない表情だ。
及び腰になっているぼくに気づいているだろうに、鼻歌でも歌いだしそうな調子は崩れない。
「去年、ちょうどわたしたちが会ったころに、川の方でその子は一人の陸の男の子に出会ったんだって」
「……まあ、川の方が会いやすいって聞くよな」
「浅いしねー。潜水時間が短い分流れを読むのがうまくなるって言うのは発見だった」
どこかで聞いたような話だけれど、まあさすがにその子供たちもチェンジリング制度やら自分の根暗さやらで、すったもんだしたわけではないだろう。
わざわざ話の腰を折ってまでぼくらの間で言葉にすることでもないだろうと頷く程度にしておいたというのに、別方向で乙音が鯖折にしてきた。
「ズレてる」
ぼくは大きくため息をつく。てへっとわざとらしく乙音が舌を出す。
「ごめん。で、その子とその男の子はとても仲良しになったんだって」
「へえ」
「わたしたちみたいだよねえ」
人が言わないで置いたのをわかっておいて言ってるな、この子。
ノッて欲しいのだろうなと口端に笑みをのせ、合いの手を入れる。
「わざわざ言うあたりが乙音。で、その子たちがなんだって?」
「ここからがわたしたちと違うところでね。なんとその子は男の子に恋をしてしまったというのです」
大変! とでもいうような大仰な仕草で乙音が声を張る。まあ最初から恋の話って宣言された時点で予想はしていた。
つい、気のない声が鼻を抜ける。
「ふうん」
「まあ、珍しい話でもないよね。最近知ったけど案外そういうカップル多いらしいし」
「長続きはしないらしいけどな」
乙音と交流を持つようになってから自然と水側の情報も多く耳に入るようになった。その中でも陸と水の越境カップルは多くても、結婚までこぎつける人はほとんどいないらしいという情報は何とも言い難い感覚をぼくにもたらした。
世知辛いなというような、ぼくは友情を抱いてよかったなというような、そりゃ乙音のお父さんの話を思い出せばそうなるよなという納得に似た感情とか、そんなものがすべて混ざった感覚だ。
ちなみに余談だが、ぼくはまだ乙音のお父さんつまりは実父であるその人とは会ったことがない。各地を飛び回っているらしいからタイミングがびっくりするほど合わないのだ。嫌っているわけではないが、正直いつか会うのが怖かったりもする。
「価値観違うもんねえ」
同じ会話を思い出していたのだろう、乙音も少し困ったように肩をすくめた。
「まあ、そもそもその子が好きになった理由って言うのが、その男の子に手当てをしたから、っていう」
めずらしく歯切れの悪い言葉と、その内容に目を瞬かせた。
それはまた、不思議な話だ。
そういうのは噂にせよお話にせよ、貰う方が恋に落ちるものだとばかり思っていた。
まあ、ぼくにはやっぱり恋というものはよくわからなくて、いろんな物語や噂話からサンプルをもらうしかないから現実はちがうのかもしれない。
そう思って乙音の顔を見つめてみれば、その顔もまた少し不思議そうな色をしていた。彼女がそういう話の正解を知っているかどうかは知らないけれど、とりあえずこの場においてはこの違和感は共有されているらしい。
「逆じゃなく?」
「逆じゃなく。なんでもあて木をしてあげた時のがっしりした足が忘れられないそうで」
「すごい子だな……」
なんというか、パーツに恋をしていると宣言したようなものだ。
他にも好意を持ったポイントはあるのだろうけれど、少なくとも初対面だろう乙音に語ったのが部位の話ってどういうことなんだ。
水では普通なのかもしれないという一縷の望みを託してみるも、続く言葉を乙音が実に愉快そうな、笑い交じりの声で発した時点で頭痛に襲われた。
「水っ子とはいえ、増水した川で『今なら鯉のまねっこができますわ!』ってチャレンジしてたらしいからね。面白い子だったなあ」
乙音は些細なことまで面白がるタイプではあるものの、わざわざ面白いと形容することはあまりない。つまりは直球で面白いと言われているその子は、陸基準では滅茶苦茶エキセントリックな少女ということだ。
というか鯉の真似って、増水した川って、その口調って、なに。
「どこからツッコんだらいいのかわからない」
「ツッコんだら負けって言葉覚えると楽だよ」
乙音がそれを知っていたことがぼくにとっては一番の驚きだ。
お言葉に甘えて、そのあたりへのツッコミも放棄させてもらおう。
「……で、それと橘くんに何の関係があるって?」
「え、睦月鈍くなった?」
「いや、ぼくまだエキセントリックな川のお嬢さんの話しか聞いてないんだけど」
話の流れで察してはいる。だがこの会話をぶった切りがちな天才肌娘に『省略しても察してもらえる』という癖をつけてくれるなとご家族――とくに兄である文月さんから要請をうけているので、あえてそ知らぬふりをしておく。
今はぼくも察せているけど、そのうち追いつけなくなりそうだし。
言語化できるくせにサボる癖がある英雄は往々にして早死にすると聞く。才覚があるぼくのかわいい英雄殿には長生きしてもらわなくては。
それこそ、ぼくが死んだ五百年後とかに死んでほしい。
親友を看取るというのも中々魅力のある話ではあるが、今のところ置いて逝かれたくない方が勝っている。
もちろんぼくのこんな感情を晒しても乙音が困るだけなので、きちんと畳んで仕舞っておく。
嫌われるのが一番いやだ。
こんなことを考えているとは露知らず、乙音は「それしか話してないっけ?」なんてとぼけながら尾びれをゆらゆら空中で揺らした。
途端、細やかな真珠色の毛が青い光の中で独特の偏光を起こしたかと思うと、天井いっぱいに広がる瑠璃色の水面の影に満天の星を思わせる光がぱっと広がった。
足元には光る海、頭上には手が届くほど近い宝石の星空。地上に続く道に空いた空洞からは素朴な笛の音に似た旋律。岩の間に転がる、乙音が海の底で見つけてきては積み上げて遊んでいる、見たこともない不思議な石たち。
それらすべてが詰め込まれたこの秘密基地は、まるで童話に出てくる宝箱だ。
魔法のような、乙音にしか起こせない奇跡を見たような気持ちになって、ぼくは瞬きすら忘れて、呼吸すら放棄して、その瞬間を網膜に焼き付けることに専念する。
戯れですらない何気ない一つの動作で世界を魅力的に塗り替えてしまうような、世界が愛してやまない少女がここにいるのだとそこらじゅうに広めてしまいたくなる。
同時に、美しい真珠色をを中心に構成されたこの世界に引き入れてもらえたことを今さらながらに実感して、胸が熱くなる。
そして、小さな優越感が湧く。
世界も気の毒なことに、愛している少女には当たり前の光景と思われてもはや認識すらされていないらしい。
頬に瞼に虹色のラメが散っていることにも気づかず、いつも通りの調子で乙音がぴっと人差し指を立て、エキセントリックなお嬢さんの想い人のヒントをぽんぽんと投げ始める。
「その子が手当てしたっていう子はとても日に焼けていて」
「まあ、見つけたのが夏ならそんなに珍しいことでもないんじゃないか」
無論、とぼた回答をしてみる。実際それだけで絞れないし。
乙音が珍しく悔し気な顔をしたので気分がいい。にんまりと、先ほど乙音が浮かべた笑みを真似して邪悪に笑ってみる。
ぱちんと真珠色の睫毛が星を弾いて瞬いた。
どうやらぼくが遊んでいるのを察したようだ。鏡写しのように笑いあって、調子よくヒントと的外れな言葉でキャッチボールが始まった。
「短いツンツン頭で」
「男子なら珍しくはないよな」
「年齢に見合わない高身長で」
「うん、まあ、いるだろうな」
「みかん農家の子だそうです」
「乙音は何で橘くんの家業知ってんの?」
うちの町内にはみかん農家は橘の家しかない。ヒントを何だと思っているんだ。もうちょっとあるだろう。いや、乙音がこれ以上あいつの個人情報を知っていても嫌だからネタ切れが早くてよかったというべきだろうか。
悶々としていれば、乙音も呆れたような声をあげた。
「反応するのそこ? っていうか、その返しは最初からわかってたやつだ」
自分だって最後の方にはわかってキャッチボールを始めたことは棚に上げることにしたらしい。ぼくに可愛さ余って憎さ百倍みたいな性質がなくてよかったな。
「わかっていたけど、乙音があれで通じると思ってるのが将来的に不安だからあえてやった」
胸を張って言ってやれば、ええーと気の抜けた抗議の声を上げながら乙音が岩の上でべしゃりと寝転がった。
「親なの?」
「親友様だが?」
「ならいいや」
依頼主が文月さんというのは伏せておこう。家の中で居心地が悪くなるのはぼくだけでいい。いや、乙音なら上手に喧嘩もできるだろうから、ぼくの二の舞を演じることにはならないだろうけれども。
「で、何がしたいんだ?」
乙音はいつだって面白いことを愛しているが、噂話をすれば気が済むような可愛い愛で方で終わったためしはない。
大きな問題こそ起こらず、ぼくの気持ちがざわつくようなこともない穏やかな一年ではあったが――乙音の思い付きから始まる、思い出を彩る装飾くらいにはなるような小さな事件はわりとたくさんあったのだ。
列挙するのもめんどくさいくらいに。
今回もまた、乙音が楽しげに笑う。
邪悪さの欠片もなく、色素の薄いその容姿も相まってまるで天使のようと評されてもおかしくないくらいに、かわいらしく。
おねだりする子供みたいに、とびきり清々しく。
「……キューピッドってやつ? かな」
こうして、ぼくらの二回目の夏休みの予定が決まった。
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