おまけの出会い/恋の手伝い

11. 友達前の犬猿タイム

 それからは大きな事件もなく、ただ緩やかな時間をぼくらは過ごしていた。


 背中合わせになって本を読んだり、大人に内緒で秘密基地に改造した青い洞窟の中で泳いだりする時間は、足首を撫でる小波のように心地いいものだった。

 紅葉でいっぱいになった水路が不便だとか、白い息になるのはどうしてだとか、甘い林檎で当たり年だとか、秘密基地の真上の崖にあるらしい桃の花が落ちてきたけど、実が落ちてきたことは一度もないだとか、今年の梅雨は雨が少ないとか。


 他愛のないぽつぽつとしたお互いの言葉が耳に残る程度には穏やかに一年が巡り、また夏がやってきた。


 その日は、学校というものが特に好きではない人間にとっては苦痛でしかない夏休みの登校日だった。秋の欠片が迷い込んできたように少しだけ涼しくて心地いいけれど、それですべてがチャラになるほど、ぼくの学校嫌いは甘くない。

 ――学ぶのが嫌いなわけではない。むしろ好きな方だ。それを思えば、登校日というものだからこそ、あんなにも腹の中が重たくなったのかもしれない。

 陰口をたたかれるだとか、暴力にさらされるだとか、そんなことをされたことはない。ただ、どうにも周囲との波長というものが噛み合っていない気がして、居心地が悪いことこの上なかったのだ。

 

 そんな居心地の悪い時間から、やっと抜け出せると思った放課後のことだ。


「おまえ、最近水の奴と絡んでるらしいじゃん」


 随分と唐突で失礼な奴だな。と眉間に力が入る。帰り支度をしていたランドセルから顔をあげれば、目の前には黒い布の壁があった。声の主は随分と背が高いらしい。この時点でだいぶ嫌になりながら更に顔を上げれば、よく日焼けした顔がそこにはあった。

 橘梓たちばな あずさ、という少年だ。いかにもスポーツ万能といったさわやかな出で立ちをしているクラスのムードメーカー的存在。

 学級委員長をしている身なので、一応見覚えはあるが――目の前の少年こそ、とくにこれまで関わってこなかった人間のはずだ。乙音のことをどうこう言われる筋合いはない。

 適当に否定して誤魔化してさっさと立ち去ろうかとも思ったけれど、なんとなく言い返してみたくなった。

「そうだとして、橘くんにそんな顔されるようなことじゃないと思うけど?」

 優等生の顔を一応取り繕って苦く笑ってみたけれど、通じるだろうか。

 ぼくの懸念をよそに、意外にも表情を的確に読める人種だったらしい橘がさっと顔色を変えた。くるくるくるりと、なんとも忙しく。赤い羞恥、そして青い後悔を通って――真紅の怒りへ。

「そっ……俺がどんな顔してるっていうんだよ!」

「鏡でも見てきたら?」

「はあ!?」

 日焼けしていても案外こういう顔色はわかるものらしい。新発見だ。ぼくも乙音もあまり焼ける方ではないから知らなかった。

 声を裏返して拳をぎゅっと握った彼にとくに新たな興味がわくこともなく、帰り支度を再開する。ちょっと待てよ。だとか、話を聞けよ。とか囀る声が聞こえる気がするが、気のせいだろう。

 筆箱を入れて、机の中を確認する。忘れ物は特にないようだ。

「じゃあ、さようなら」

 ぼくは礼儀を知っているので、丁寧にあいさつをして教室のドアに手をかける。

 ひときわ大きい鳴き声がした。

「水の奴と仲良くしたって、なんになるんだよ!」

 ――随分とまあ、ぼくらの年代にしては古臭いことを言う。まるで内地にいる老人のような片寄り具合だ。どうにも頭に血が上っているようだし、たぶん誰かの受け売りだろう。まるで刺さらないったらありゃしない。

 無視すればいい、と冷静なぼくは言う。けれどどうにも、こいつのいうことが鼻について仕方がない。

 同じ土俵に乗るなんて馬鹿だと思いながら、向き直った。

「なにかに、ならなくちゃいけないわけ?」

 温度のない声が舌先に乗った。とんとんとん、と指で机の天板を叩く。

「それは」

 橘の喉ぼとけが上下する。そんなに目をあちこちに向けたら酔ってしまうだろうに、と言いたくなるほど視線がぐるぐると宙を踊っている。

 こんな他愛のない一言で参ってしまうくらいなら、絡んで来なければいいのだ。放っておいてほしい。

「だいたい、きみとぼく、話すの今日がほとんど初めてだろう? よくもまあそんな声のかけ方ができたものだよね」

「そ、れは」

「それは? なに。言ってごらんよ。納得出来たら少しは考えてやるからさ」

 予想通り、反論が返ってくることはない。きゅ、と白くなるまで噛み締められた唇に、まるでぼくが虐めてるみたいな気分になってくる。

「さあ言ってよ。わざわざ交友関係がないぼくに話しかけておいて、まさか時代錯誤な因縁をつけるためだけだったとか言わないでね」

 橘のツンツンと跳ねた頭ごしに壁掛け時計を見れば、話しかけられてからもう5分も経っている。早く秘密基地でこの間の本の続きを読みたいというのに、まだ口を割らない。焦れて帰ろうかと再び体を扉の方に向ければ、ダンッと音がした。委縮したように丸まりかけてた背中がまっすぐ伸びて、後退しかけていた足は床にどっしりと根を張っている。

 まっすぐ、黒曜石みたいな目がこっちを見た。

「……俺は、水の奴とつるんでるおまえが気に食わない」

「なんで?」

 自分の言葉を探すように一言一言くっきりと話す声は、一番最初のどこか刺々しいものとは別人のように聞こえた。

「……水の奴は、どうせ俺たちには手が届かないものなのに、当たり前の顔でそこにいるとか、おかしいだろ」

「水の人たちは別にそんなに遠くないよ」

「遠いんだよ!」

 白く骨が浮かぶくらいにぎゅうぎゅうと拳を握り締めて吐き出されたそれは、泣いているようだった。

(乙音のこと……じゃないなこれ)

 乙音は本音はどうあれ陸の人間にも基本フレンドリーに接してくる。距離感がうまいから、遠さをわざわざ感じさせることはしないだろう。思い返せば、橘はさっきから一度も乙音の名前を出していない。ひょっとすると彼女と面識すらないのかもしれない。

 だとすれば、これは本当に難癖というか……喧嘩の売られ損、という奴かもしれない。なら、冷静なぼくが正しかったのだろう。

 ぼくを見ていないし、あの子のことも見ていない奴のサンドバッグになる趣味はない。

「八つ当たりに人を使うの、やめたほうがいいよ。無自覚かもしれないけど」

 止める声を無視して教室から足を踏み出す。もう廊下には水にも陸にも人は見当たらない。

 ドアを閉める時に見えた橘の顔はぽかんと口を丸く開いた、間抜け面だった。

 ぼくは内心べっと舌を出して駆け出した。


**


 場所を変えて、秘密基地。

 相も変わらず非現実的に美しい青い世界で、ぼくは去年の暮れに持ち込んだクッションを膝に抱えていた。

「……ってことがあってさ」

 内容は勿論、本日教室で帰り際に起こったことだ。愚痴なんて聞かせるものじゃないと口をつぐもうとしたぼくだったが、目の前の少女の手によってくすぐり地獄の刑に処されたので、こうしてしぶしぶ話している。

 上半身をもう一つの大きなクッションに横たえながらばしゃんと尾びれで水面を叩いた乙音は、耐えきれないとばかりに大きく口を開けて笑いだした。

「あははは 弱ってるねえ」

 弱っているのは間違いなく、くすぐられたせいだ。精神的負荷なんかではない。断じて。

「笑い事じゃない。まったく……」

「睦月はさあ、もっと陸の子とも話した方がいいんじゃない?」

 ごろんと仰向けになった乙音のまっしろな額が露わになる。体勢はだらけているくせに、トーンはいたって真面目そのものだ。

「話してるよ」

 ため息交じりに返答すれば、琥珀色の目がチェシャ猫のように笑う。

「イソギンチャクの中から顔出しながら?」

「……猫被ってるみたいな意味でいいのそれ」

 この一年暇さえあれば駄弁ってきたけれど、まだまだお互いの慣用句はわからないことが多い。あとで聞こうと思っているとうっかり忘れることがわかった今、知らない言葉が出てきたらお互いすぐに聞くことに決めている。

 話の腰が折れようと知ったものか。

 鏡合わせに首をひねりながら、乙音も至極不思議そうな表情を浮かべた。

「ネコは被れないでしょ?」

 言われてみると不思議な言葉ではあるけれど、それを言ったら乙音が入れるサイズのイソギンチャクがあるのかという話になりかねない。二人で悩んでも仕方がない場合の対処法も、もうぼくらは決めている。

「あとでお互い辞書交換」

 そろそろ交換するのも面倒なほどに確認しているから、そろそろ自分用のものを調達するべきかなと思いつつも、こうして話すのは楽しいからそのまま放置している。

 なによりぼくらはお小遣い制で生きている小学生なので、辞書を自分で買うとなるとこうして秘密基地の中で過ごす際のお菓子も満足に買えなくなってしまう。乙音はともかくとして、ぼくはおねだりをすることに抵抗がある身だ。取捨選択は大切なのである。

「……で、話を戻すけどね」

「戻さなくていいよ……」

 ぼすっとクッションに顔を埋めて呻くように言えば、べしっと乙音の尾びれが岩を叩いた。

「だめ。戻す。別にさ、ベタベタ仲良くしろって言ってるわけじゃないよ」

 むにむにと頬をつつかれる。なんだか弟くんへの対応に近い気がするが、ぼくらは一日のズレもなく生まれた同い年なので気のせいだろう。きっと。

「もうちょっと警戒解いてもいいんじゃない? って、ただそれだけ」

「警戒、なんて」

 した覚えがない、と言い切るには自分が余所行きの顔をガチガチに組んでいることを思い出して、むにゃむにゃと語尾を咀嚼する。

「警戒じゃないなら、そうだなあ……岩礁、じゃなくて……えっと陸で言う、ハードル? ってやつを下げてみたら?」

 黙り込んだぼくの顔を乙音が覗き込む。琥珀色の瞳の真ん中で、真っ黒な瞳孔がきゅう、と窄まった。

「陸の教室でも、もうやったんでしょ。チェンジリング制度のこと」

「……うん」

 チェンジリング制度。乙音の母親で、ぼくの血縁上の母親でもある皐月さんがあの日口にしたその制度のことは、六年生に上がってしばらくした頃に授業で取り上げられた。

 簡単に言ってしまえば、水の人のもとに生まれた陸の人と、陸の人のもとに生まれた水の人をよりよい環境で育てるために、相互で養子に出す制度、らしい。


 *


 そもそも『水の人』と『陸の人』がお互いに人種の一つであると認め合うことができたのは、この生態によるところが大きいのだと、熊のような体格のわりに小さな字を書く担任の先生は言った。

「尾びれ持ちの子とかに会ったことはあるか? あの子たちみたいに、水の人の中には俺たちとだいぶ離れた形をしているものもいたから、最初は完全に違う種族だ、とも言われていたんだ」

 深い緑色の板の上に白や黄色の棒でまめまめしく図や言葉を書いては横に跳ね退くのを繰り返しながら、誤解がないように丁寧に丁寧に先生は言葉を重ねていく。

「でも、だんだんと陸でも水でも、生まれた場所じゃないほうが生きやすい子供がいることがわかってきた。決定的だったのは、日本だと江戸時代に多くの尾びれ持ちの子供が陸の人から生まれてきたときだったと言われている」

 教科書に載っている当時の瓦版らしき絵のなかには、たしかに乙音のように下肢が一つにまとまった赤ん坊が描かれている。

 まるで妖怪のように恐ろし気に描かれたものからふくふくと愛らしいものまで幅が広いあたり、認識の変化でもあったのかと思っていれば、予想通り先生が矢印を描き始める。教科書を示せばいいものを、わざわざ自筆でそれっぽい絵を描いているあたり変なところが凝り性だ。

 ちなみに絵は大してうまくない。瓦版の妖怪絵の方が可愛く見える。

 視界に入るクラスメイトが総じて笑いをこらえていたり頭を抱えてたりするが、それに気づかず先生は話し続ける。

「当初は祟りだ物の怪だと言われていたらしい。けど、ある海沿いの村に住む母親が水の人と交流を持ってみたらなんと! 水の人の側でも上手に泳げない子供が生まれているという話が出てきた」

 パンッと両手を打って、うとうとしていた生徒をそれとなく起こすと、先生は再び黒板に向き直る。

 語りはうまいのだから、そちらに専念したほうが寝るやつは減りそうなのにな、と思いながら資料集をめくれば、砂浜を背景に赤ん坊を渡し合う二人の女が描かれた浮世絵が目に入る。ぼくらの時もこんな風だったのだろうか。

「まさかと思ったその母親同士がためしに我が子を交換してみたら、互いにそれまで弱り切っていたのが嘘みたいにすくすくと成長していったそうだ」

 陸の上と水の中で元気にはしゃぐ子供の絵に、思わず目を細めた。眉が小さく動きそうになる。

 先生は最後に手のようなものを二つ描いてチョークを置くと、くるりと生徒に向き直った。

「こうして、徐々に水の人との隔たりは薄れていって、今のような社会の形ができたってわけだ」

 人に歴史ありとはこのことだな! そうにかっと歯を見せ笑った先生は、一度深く息を吸った。すっと眼差しに怜悧な光が宿って、熊のような体が小山のような存在感を放つ、

 山の神様みたいに深くて静かな声が、威容に呑まれて静まり返った教室に優しく響いた。

「チェンジリング制度という形で法が整えられたのは最近になってからだが、子供を生かすための制度に今も昔も変わりはない」

 もしもこの話を、去年のあの日より前に聞いていたら何か変わっていただろうか。

 一瞬、そんな夢想がよぎった。

 あれはきっかけに過ぎなかった。ずっとずっと胸にあったあの人たちの気質への恐れだとか不和だとかが、自分の出生を引き金にして吹き出しただけだ。

 そうわかっていても、なにかのせいにしたくなるのは、人の性なのだろう。

 そんな自己嫌悪の吹き溜まりをいつも通り脳内で畳んでいれば、先生がぼくの方を見ている事に気が付いた。

 あからさまではないけれど、視線を送られている対象には察することができる目線に慈しみをたっぷり籠めて、先生は微笑んでいる。

「親御さんからいつか、自分がこの制度を使って交換された子供だと聞く日が来るかもしれないが……悪いことじゃない、ってことだけ、今日は覚えてくれ」

 ああ、善意が痛いなあ。

 ぼくは、何もわかっていない表情で首をかしげて見せた。


 *

 

「わたしたちは別に、特別でもなければ悲劇でもないよ」

 薫風のような声が冴え冴えと青い世界に響いて、回想から浮上する。

 容赦もなければ善意もないその態度に胸を撫で下ろしながら、視線をずらして青い天井を見上げる。

 光がオーロラのように揺らめいているこの美しさにもずいぶん慣れてしまったことに少しの落胆を抱いた。

「わかってるよ」

 明瞭に答えたつもりの言葉が、唇に押しつぶされたようにひしゃげた音になって洞窟の中に響いた。

 くつくつと乙音が笑う。

「わかってるけど、感情が胸の中から出ていかない?」

 なにもかもお見通しと言わんばかりに澄んだ瞳に見つめられ、ぼくは顔をしかめながら大きく息を吐き出した。

 ぐうの音も出ない。

「……そうだよ。ガキだなーって思うけど」

 頭では制度の利点だってわかっているし、両親がぼくの『イイコ』の側面しか見ないという葛藤とは全くの別問題だということも理解している。

 けれど、最初に抱いた衝撃と嫌悪が胸の内に渦巻いて仕方がない。

 善意を素直に受け止めきれないぼくの性質と合わさってしまったのか、どうにも消化しきれないでいる。

「小六は世間的に立派な子供だよね」

「そういう意味じゃない」

 反射的に返した言葉に、じゃあどういう意味なの? というつまらない切り返しをすることもなく、乙音はぱっと能天気な表情を浮かべた。わざとらしい。

「……まあ悩め悩めー! 焦らずにさ!」

「面倒になった?」

「よくわかってるね」

 だんだんぼくに対する道化が雑になっていってる自覚はなさそうだ。

 それだけ気を許されているということなのかもしれないけれど、あの名役者っぷりが見られないのかと思うとすこし寂しい気もする。

 乙音のあらゆる側面をいつだって見ていたいのだ。ぼくは。

 聡明な顔も道化も奈落へいざなうような魔性の顔も、すべてぼくの心を揺さぶってやまない親友の表情の一つなのだから。

 そんな熱烈なファンに気づいているのかいないのか、陸地に飽きたらしい乙音はてちてちどぼんと青い岩の上から海の中に飛び込んだ。

 するりと姿が見えなくなって、またすぐに浮上する。

 たったそれだけの動作なのに、真珠色の尾びれがチラチラ動く姿から水中での髪のなびかせ方まで、すべてが抜群に見栄えするのはもはや才能だ。道化ていないときでさえこれなのだから、ぼくの親友はこの方面でも手が付けられない天才と言っていい。

 文化交流館である水族館でショーキャストとして活躍している有名な水人もいるけれど、案外この子もそういうものになるのかもしれない。

 その時は最前列のチケットを取らなくては。

 腕を組んでそんな未来を想像しているぼくを放置して、乙音はぷかぷかと水面に浮かびながら遊んでいる。

 もうこの話は終わりかな、と思って持ち込んだ本に目を落とすためにランプに手をかける。ちなみに光源は洞窟で火なんか燃やしたら危ないよなと悩んでいたところに乙音が持ってきた、『ぴかぴか珊瑚』である。

 淡水と海水を丁度良く混ぜた中につけるといい感じの光量で光ってくれる、空気石に続く水側の便利アイテムらしいが、陸側では聞いたこともない。

 名前からして乙音が適当につけているので正式名が知りたいところだが、残念ながら陸側の図鑑には載っていなかった。

 とぷとぷと水筒から淡水を注いでいけば、徐々に洞窟内が明るくなっていく。

 最後の一滴が落ちるかどうか、という瞬間、乙音が緩い声を上げた。


「まあ、その橘クンだっけ? その子の言うことに思い当たるふしがないわけではないよ」


「は!? アイツ、まさか乙音にまで絡んだの!?」

 そうだとしたらもっと痛めつけてやりたかった。物騒な想いを抱いて顔色を変えれば、乙音に手招かれる。いつものように顔を突き出せば、鼻の頭を軽いデコピンで弾かれる。

 すごく地味に痛い。

 乙音も大概ぼくの扱い方がわかって来たようだ。

 甘い痛みを帯びた鼻をさするぼくにひらひら手を振って、快活に笑う。

「あはは、まさかあ。わたしは顔をみたこともなければ、声も聞いたことないよ!」

 舞台に躍り出たキュートな案内役のように、はきはきとした調子で声が跳ねる。

 目を輝かせたぼくを、乙音が横目でちらりと見る。

 調子が出てきたのだろう。舞台役者がライトに向かってそうするように、ぐっと青い天蓋に向かって白い手を伸ばしたかと思うとひらりと手のひらを返し、人差し指と中指を残してすべての指が折りたたまれる。

 投げキスでもするように、二本の指が血色のいい小さな唇にふにっと当たる。

 声が、思わず耳を傾けたくなるほど甘く、囁くように潜められる。


「わたしが知ってるのはちょっとだけ不思議で面白い、恋のお話だよ」


 恋だって?

 耳をくすぐった声にぼくが目を見張っていれば、実に楽し気な乙音がるんるんと岩に腰かける。


 ぱちんと琥珀色の瞳で星をひとつ飛ばして、魅力的な笑みを浮かべた少女が話し始めた。

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