10. まがいものの揺り籠から見上げた先に

 乙音と共に海岸に戻れば、空は真っ赤に染まっていた。

 びしゃびしゃに濡れるはずの服はやはり、さっぱりと乾いたままだった。

 言い訳せずに済むし便利なことだ。

――便利だしこの石一かけらでいいからくれない? いいよ。 本当に?

 遠くから声が近づいてくるのを待ちながら、ぼくらはそんな緩い会話をぽつぽつと交わす。

 一日が終わっていく景色の中で話していると、どんなことでも切ないような喪失感を伴うものなんだなと思っていれば、いよいよ聞きなれた声は手が届くところまでやってきた。


「睦月ちゃん!」


 善性に満ちた、いかにも自分の子を案じているという必死さに満ちた声が投げつけられると同時に、ぼくは慣れ親しんだその腕の中に閉じ込められた。ふるふると、薄い肩が震えている。

 手を背中に回して号泣の一つでもしてみせるべきかな、なんて乾いた心で考えていれば、遅れて聴きなれない声が到着した。

「乙音ー。帰るぞー」

「必死さの度合いが違いすぎてさすがに困惑するんだけど」

 ひらりと手を振りながら現れた背の高い女性にそう言いながら乙音は砂浜に頬杖をつく。眼差しは隣で抱きしめられているぼくに向けられていた。

「……母さん、痛いよ」

 気恥ずかしさもあれど、実際に骨と骨とがぶつかり合って痛かったので藻掻いてみれば、ますます腕に力を籠められる。

「――心配したの。貴方に何かあったらって、本当に」

 本心なのだろうけれど、おかしなことにぼくにはまるで台本を読んでいるようにしか聞こえなかった。

 もっともっと、荒れ狂って、泣き叫んで、苦しんで吐き出すのだとばかり思ってい

た言葉が自然と口から零れる。


「……それは、ぼくが余所からもらった子だから?」


 きつく、きつく結ばれていた腕が解けた。

「睦月ちゃん……」

 ゆるゆると見開かれていく黒い瞳を、ぼくはやはり他人事のように見つめていた。確かにそこにいる人は母親と呼んだ相手のはずなのに、その実感ごとどこかに行ってしまったようだ。


「あー……ちょっといい?」

 ほんの少し気まずげで、かなり面倒くさいと思っているのだろうハスキーな声がぼくらの最悪の沈黙を破った。

「あなた、は」

 首が痛くなるくらいに背が高い女性。目元も立ち姿もなにもかも、乙音よりは鏡の中のぼくに似ている造形だけれど――こちらを見据えるまなざしは、二人を親子だと言うには十分なほどに同じ色をしている。

 女性は少しだけ空へ目をやって、またすぐに視線をこちらへ傾けた。今の一瞬で覚悟を決めたのだろうか、眼差しから気まずさが完全に失せている。


「皐月。一応きみの産みの親」


 ハスキーなその声は、やはり薫風に似ていた。

 どう切り返そうか考える間もなく、ひょっこりと女性……皐月さんの足元から顔を出した乙音がえへんと胸を張った。

「そしてわたしの育ての親!」

「ややこしくなるから暫くそこで海藻食べてなさい」

「あい」

 流れるように海藻を渡した。当然だけど道化ようとする乙音の扱いに慣れている。

 まぐまぐと海藻を食む娘を困ったものを見るように眉を寄せながら、けれどもめいっぱいの慈しみを滲ませて見ていた皐月さんは、くるりとぼくの方へと顔を向けた。

「で、睦月」

「……はい」

 なにを言われるのだろう。カラカラに渇いた喉とバクバクと音を立てる心臓がせわしない。

 娘を巻き込んだ子供への苦情か、それとも手放した息子への謝罪か、あるいは――ぐるぐると予想が渦巻く脳内に滑り込んできた言葉は、どの予想とも違っていた。


「……うん、元気そうだな」


「はい?」

 しみじみとした表情でぼくの爪先から頭のてっぺんまで眺めたわりに、簡潔な言葉だった。まるで庭で育てている植物がすくすく育っているのを確かめて満足したような、そんな雰囲気だ。

「こういうと陸の奴には引かれそうなんだけど、私はぶっちゃけチェンジリング制度で取り替えた子のその後は『元気であればそれで良し』って主義でね」

 淡々と告げられるそれは、人によっては冷たく聞こえるだろう。子供を交換しておいて、あまりにも軽々しいと憤る者もいるだろう。


「だから、元気そうでよかった。以上」


 けれど、ぼくはそう言いきってからりとした笑みを浮かべたこの人を嫌う気にはなれなかった。

 それどころか、好感を抱いてやまない。

 西日のまぶしさに心臓が焼かれるようだった。

「……乙音のお母さんらしいや」

 笑ってしまうほどに、乙音と皐月さんはよく似ていた。

 この人のもとで育っていたらぼくはどうなっていたのだろうかと、考えても仕方のないことを夢想する。

 もっと明るくあれただろうか、彼女たちのように美しい背中を見せられるものになれただろうか。浮かびかけた理想は、すぐに破り捨てた。あの善性のもとで育っても獲得できなかったなら、それはぼく自身の問題なのだから。

 大海原の上に小舟でこぎ出したような気分に浸っていると、皐月さんの女性にしては随分と逞しく水かきの厚い節くれ立った手で、頭をわしゃわしゃと撫でられた。

「ま、陸に飽き飽きしたらこっち遊びにおいで。うちはこいつ以外水人の中でもわりと陸に近い形してるから、家もそれほど過ごしにくくないはずだし」

 なあ? と海藻を食べ終わったらしい乙音に言葉を投げかけた皐月さんに食いかかるように、母がきゃんきゃんと吠えた。

「ちょっと皐月さん! うちの子たぶらかさないでくれます!?」

 常にふわふわとしていてる母にしては珍しい物言いに、ぼくは目を丸くした。

 サメやシャチに似た迫力の皐月さんよりもずっと小さくて柔らかい面立ちだから、小型犬が食ってかかっているようにしか見えないけれど――母のそんな声を聞くのは初めてだった。先ほどまでぼくの言葉に当惑して黙り込んでいた人とは思えない。

 一方食ってかかられた皐月さんにとっては慣れたことなのか、至極呆れた顔をしている。

「だーれがたぶらかしてるよ。娘のダチがしょぼくれた顔してるから気にかけただけだろうが」

「でも、」

「でもも何もねえわ」

 子供のように言いあう二人をぽかんと見上げていれば、乙音がそういえばさあ、と声を上げた。

「ねえ、母さん」

「ん?」

「ちぇんじりんぐ? 制度ってなに?」

 言われてみれば、と瞬く。なんだろうそれ。

 大人二人が当然の顔で使っているからうっかり見過ごしかけたけれど、聞いたことがない。前後の言葉からするとぼくと乙音の取り換えに関係しているのかな、という位は推測できるけれど、それだけだ。

 揃って見上げる子供二人に、皐月さんは思案するように眉を寄せ、後頭部をガリガリと掻いた。

「……今何年生だっけ?」

「小学五年生」

 ぴっと乙音が五本指を立てる。慣れた仕草だ。皐月さんがどれだけ学年というものに頓着していないかよくわかる。

「あー、じゃあ来年やるだろ。たぶん」

「はーい」

「それでいいんだ」

 あまりにもさっくりと済んだ母娘の質問タイムにぽつりと呟けば、乙音がくるりと振り向く。

「だって学校で教えてもらえるならそっちのほうがいいし。母さん教え方が雑だから」

 理解能力が低いわけではない乙音をして雑って、どんな教え方なんだろうと好奇心をくすぐられていれば、皐月さんが腕を組んでため息をつく。

「悪かったな体感派で」

「ホホジロザメ一人で討ち取った人は体感派とかそういう段階にいないんだよなあ」

 対サメシャチ部隊のことは聞いたけどそれは聞いてない。

 ぽんぽんと軽く投げ交わされる母娘の会話の一言一句すべてが常識を紙のように容易く破り捨てていく。頭痛を覚えながら絶句していると、少し離れた場所から砂が軋む音がした。

「……かあ、さん」

 ぎゅっと胸の前で祈るように手を組んだ母が、ぼくの方を見つめていた。

「睦月ちゃん……」

 ゆらゆらと揺れる瞳は、何のために揺れているのだろう。

 親友母娘を微笑ましく思っていた胸の暖かさがすっと抜け落ちていく。


 深く息をすれば潮のにおいがして、あの青く美しい世界が瞼の裏に蘇った。


「……。たぶん、今どんなことを言われても、心の底から納得することなんてできないと思うから、一つだけ、確認させて」

 小さく母が頷いた。真っ白な手に、どれだけぼくの言葉を恐れているのかよくわかる。

 罵られることを恐れて、自分が偽物だと言われることに怯えているその姿に、どうしようもなくぼくをここまで育てた人なのだと実感する。

 これまでどんな善性の姿を見てもそう思えなかったくせに、こんなところばかり自己評価と結びついているなんて、いやになる。

 自分の心音を確かめながら、ぼくは言葉を吐き出した。

 ――ずっとずっと聞きたかったことではなく、あの青の洞窟で彼女が残酷な慰めの中で確かに告げていた恐怖を聞いた瞬間から、こっそり決めた言葉を告げる。


「……乙音を捨てたわけじゃないよね」


「えっ」

 落ちてしまいそうなほどに大きく、目が見開かれた。

 予想外だったのだろうけれど、そんなことは知らない。これがぼくにとって今一番聞きたいことなのだから。

「あの人のことを見てれば、ぼくが別に捨てられたわけじゃないっていうのは、わかるよ。家の事情もだいたい乙音から聞いてるしね」

 皐月さんはたぶん、その時の最善を選べる人だ。

 決して曲がらず、折れず、歪まず、自分を見失わない――乙音によく似た人。血縁だろうと伴侶だろうと容赦なく自分と他人としての一線を引けるあの人がぼくを手放したのならば、そこにある理由は環境への適性だけだろう。

「だから、そっちは、もうあとはぼくの心の問題だけ」

 もう少しだけ時間があれば、あるいは知識があれば、納得できる要件を揃えてくれているだろうと、出会って間もない人に信頼を傾けているこの姿は滑稽かもしれない。

 それでも、ぼくは――十年と少しを共に過ごした人よりも、あの自由な海の母娘の方が信じられると思った。


 母は善性に属している。父もまた同じく。

 けれど彼らの善性は、彼らの尺度の中で決定されている善性であることを、彼らの知識の及ばないところでは機能しないものであることを、ぼくは知っている。

 水の人としても珍しい尾びれ持ちとして生まれた乙音を、魚の形をした下肢を持っているなら海の方がよく似合うとか、あるいは『陸の人間から生まれるのは陸の人間でなくてはならい』とか、そんなくだらない理由で手放す可能性を、否定できない。

「もしも、ぼくが親と仰いでいたあなたたちが、ぼくの友達を……親友を、『欲しい子供じゃなかったから』なんて理由で、ぼくと交換したっていうなら」

 大きく息を吸う。潮風が背筋を支える。

 これはぼくのわがままで、エゴにまみれた願望からくる言葉であることをしかと自覚したうえで、言葉にする。

 

「そうだとしたら……ぼくは、今すぐあなたたちの子供をやめなくちゃならない」


 一分一秒、ほんの刹那でも、あの子をないがしろにした事実がこの人たちにあるというならば、そんな人間と同じ場所で生きていきたくなかった。

 そこに悪意がないとしても。


 ぼくの中でとぐろを巻く黒い感情を知る由もなく、ほっと胸を撫で下ろした母は懐かしむように水平線へと視線を投げて口を開いた。

「あの子が生まれた時、心底びっくりしたのは、そうね」

 とても穏やかで、森の木々の葉がさざめく音に似た声だった。

 黒い瞳が柔らかく細められ、思い出を抱きしめるように微笑みが咲く。

「でもね、同時にとっても嬉しかったわ。どんな形でも、あの子は元気に生まれてきてくれたんだもの」

 その視線が、皐月さんとじゃれている乙音へと向けられる。夢を見る少女がお伽話を語るような丸い声がぽろぽろ落ちる。

「信じてもらえないかもしれないけれど、あの子は私たちの大切な赤ちゃんだったわ」

 真摯に子供の問いかけに応える姿は、正しく善人だ。

 乙音を邪見にしたわけじゃないのも本当だろう。

 縁を切らずに済んだことに安堵しながらも、ぼくは続くだろう言葉を思い、気づかれない程度に手のひらを握りこんだ。

「……ありがとう、あの子のことを思ってくれる、優しい子に育ってくれて」

 何の変哲もない、言祝ぎだ。

 誇らしい、素晴らしいと心底思っているのが伝わってくる。素直で素敵な子供だったのならば、喜べたのだろう。

 けれど、残念ながらぼくはそんないい子にはなれなかった。

 なれなかったのに。

(……そういう、ところが)


 胸の奥に、ぽちゃんと黒いインクが落ちる。


 無垢に、善良に、ただ無邪気に喜ぶこの人は想像できないのだろうなという諦めと、それでもどうか気づいてほしいと叫ぶ迷子の欲望が混ざった、どうしようもない雫が絡んだ布のように淀んで凝る。

 これは優しさなんかじゃない。乙音のための確認でもない。どこまでも自分のため、そんな不快な欲望の下で育てられたくないという子供の潔癖だ。

 そんな感情を吐き出すべきか飲み込むべきか、悩みながら口の中で言葉を転がしていれば、母がひとつ、瞬いた。


 気づいてくれたのだろうか。

 沸き上がった願望を、即座に理性が否定する。

――無理だよ、この人には。


「? なぁに?」

 お人好しそうな表情はそのままに、幼げな仕草で首が傾いだ。


 インクの淀みはゆるりと解けるように広がり、想いの水の中に溶けていく。もはや取り除くことができないほどに、薄く広く混ざり合う。

 

 ほんの少しだけ、期待していた。

 いい子じゃないぼくを見つけて、叱って、理想の子供ではないぼくを、どうしようもないぼくを、掘り当ててくれるのではないかと。

 無茶をして怪我をしてみれば、与えられたものを蹴り飛ばせば、ルールを破れば、我儘を押しつければ。

 そんな風に、いつかあの金魚のように消毒された水の中で溺れ死ぬ前に、どうにかなってくれと足掻いてみたけれど。駄目だったようだ。

 ――もう、やめよう。

 目を閉じて、ゆっくりと開く。

 ぼくは笑う。


「なんでもない」


 乙音に変と言われた、あの顔で笑う。


「なんでもないよ」


 目の前の大人は、ぼくの言葉と笑顔を受け取って、にこやかに頷いた。

 それだけだった。


 そうして、ぼくの小さな逃避は幕を下ろした。


  **


 家路につく一瞬前、大人たちの視線を縫って乙音がぼくの手を取った。

 ぎゅっと、まるで体温を分け与えるように握られた掌のぬくもりに思わず瞬きをする。

 水から上がって暫くするからだろうか、洞窟の時よりも随分と温かい。


「みてみて、一番星!」


 囁きながらも弾んだ声で示された水平線の上に、確かに星が光っている。

 オレンジ色が端に残る空でも存在感を放つ真っ白な光は、涙が出るくらいに綺麗で、潮風に晒された目元がひりひりと痛む。


 ほんの少し、心臓が軽くなった気がした。

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