9. 秘密基地と体温

「……死ぬかと思った」

 数分後、ぼくは陸地に膝をついていた。乙音が何かを仕込んでいたようだから呼吸は水中にいた間もできていたのだけれど、心にかかる負担というものがある。水に引き入れられたこと、深淵のような奈落を見せられたこと、そんな非日常を頭から被せられたどころか全身漬け込まれたような体験に、どっと体力が減ったような気がする。

「ごめんって」

 対する乙音はあくまで軽い。そこまで長くない付き合いではあるけれど、受け流しているとか真剣にとらえていないとかじゃないんだろうな、ということくらいはわかった。たぶんあまり陸の人間の生態を理解していない影響もあって、多少ビックリさせたけれど自分がやりたくてやったことだから後悔はしていない、くらいの認識なのだろう。重荷を持っていない感じがする。

 その様子に、ぼくがなにを咎めたいのかしっかり言い聞かせることを胸に決める。予防策を取っていたにしても、いつ事故になるとも限らない。

 けれど、それを責め立てるよりも前に、ぼくには吐き出したい言葉があった。

「でも……」

 息を吸う。水中で感じた感動を、衝撃を、革命を、余すことなく伝えたい。そう思って口を開いた。

 けれど、ぼくの口はぼくの意に反してたった一言の、幼稚園児でも言えるような拙い言葉だけを吐き出した。

「きれい、だった」

 零れ落ちた音が耳に届いて、羞恥が背中を熱くする。違う。もっと、もっとぼくは伝えられる――そう叫びたくなったぼくを余所に、乙音はなぜだか満足げな笑みを浮かべて頷いた。

「――うん。その顔の方がいいや」

「……はぁ?」

「言いたいことぜーんぶ口の中に詰め込んでさ、どうしたらいいかわかりません! って感じだったから、つい」

「つい、って……まあ、少し、すっきりは、したけど」

 善意、というかなんというか。少しの違和感はあるけれど、少なくとも彼女なりの考えがあり、なおかつそれがぼくの為と思うとついまごついてしまう。

 いや、おそらくぼくの為ですらないから、反抗しようという気持ちがわかないと言うほうがより正しい。乙音はあくまで乙音にとっていやな雰囲気だったから、ぼくの沈み込んだ状態をどうにか改善したかっただけなのだろう。

 『あなたのため』という善意に散々足を括りつけられていた身だ。あの真綿で首を絞めていくような感覚を伴わない彼女の在り方にほんの少しではあるけれど救われた気がして、それが気恥ずかしくて、話題をずらすことにする。

「というか、ここどこ?」

 ぐるりと見回して、絶句する。


(ぼく、やっぱり死んだのかな?)


 そう思ってしまうほど、美しい光景だった。

 先ほど見た水中の、生命と死のすべてを抱いてどこまでも広がり続け、光の調子によって顔を変える色とりどりの青も美しかったが、まだ即座に場所を判断できる程度には現実らしかった。

 けれど、ここは違う。

 周囲は電灯を落としたように暗いのに、自分の輪郭も、少し離れたところにいる乙音の輪郭も、すべてが水面から発せられる青い光によって浮かび上がっている。いや、ぼくたちだけじゃない。ぼくたちを囲う岩肌とその天井も光る海面の光に照らされているのが見える。

 まるで宝石の中にいるかのように、非現実的なまでの美しさがその空間すべてに満ちている。この世に存在するすべての青い宝石の中から最も純粋な色をした部分の輝きだけを抽出して固めたと言われても納得してしまうほどに、その景色は圧倒的に突き抜けた無機質の美しさを湛えている。

 海面で、そして海底で、すべての余分な光の色を吸い取られて生まれた純粋無垢な光の青。

 時の流れさえこれを壊すことはできないだろうと思わせるほどの、完成された青の世界だ。

 あまりの雑音のなさに、この世であってほしくないとすら思ってしまう。

「――すご」

 喉がひゅっと音を立てる。

 今日は驚いてばかりだと心臓のあたりをとっさに抑えれば、んふふ、と独特の調子で乙音が笑った。

「綺麗でしょ。突然引っ張ったのもチャラになるくらい」

「こんな場所、近くにあったんだ」

 感嘆の息を吐く。

 色々歩いたり、泳いだりしてみたとはいえ、ぼくらはまだ町を出ていないから、一応ここも住み慣れた町の一角のはずだ。陸の人間には縁がないが、水側の人間にとっては近所と言っていいだろう。

 けれど、ここはあまりにも人の気配がない。ひっそりとした、誰からも忘れ去られた秘境のようだ。

 感嘆を吐くぼくに、乙音はひどく満足げだ。そのあまりに無邪気な顔に一つ釘を刺さなければならないことに良心が咎めないわけでもないが、ぼくもさすがに命は惜しい。

 チャラになどしてやるものか。

「さすがに引き込まれたときは本気で死ぬかと思ったというか、叔母さんに聞いてた『本当は怖い魔物としての水の人』の話がよぎったから、次からは事前に言って」

「んー、考えとく。というかなぁに、そんなこと思ってたの?」

「思ったよ。これに関しては本気で反省しなよ。陸の人間はまず水に入るなんて考えたことないんだから」

「はぁい」

 話し半分に聞いているなこいつ。

 じっとりとした目で見てしまうが、この幻想的な風景の中で佇む乙音を見ているとなんだか気が抜けてしまう。絵になりすぎていて、冗談みたいに見える。

「……はぁ、で? ここは?」

 肩を落として尋ねれば、慣れた様子で定位置らしい岩場に腰かけた乙音がぱしゃんと水面を叩いた。天井にまで届く青が水面の陰をうつしてゆらゆら揺れる。

「ここは前に集落に居た『尾びれ持ち』の人に聞いた隠れ家だよ」

「乙音と同じ……」

 思わず、先ほどとは違う意味で息をのんだ。

 乙音はそんなぼくにも気づかず、揺らぐ水面をじっと見つめている。

「わたしが母さんの言葉にショックを受けなかったのは、前も言ったみたいに『多分この人たちはわたしとは違うなあ』と思っていたからって言うのが一個」

 ぽつぽつと、岩からしみだして落ちる雫みたいに乙音の口から言葉がこぼれる。

「もう一個の理由が、ここ」

 青く照らされた真珠色の髪が耳の後ろへと流れ落ち、琥珀色が光をたどるように天井を仰ぐ。

「ここは集落に生まれた『尾びれ持ち』が代々引き継いできてる場所なんだって」

 なんで、と問いそうになって、口をつぐむ。

 青く光る洞窟の中、真珠色の彼女はひどく意地の悪い――それでいて、どうしようもなく泣きそうな表情で、ぼく(人間)を見ていた。


「『尾びれ持ち』は『ヒト』なのか」


 その言葉は、ひどく残酷な響きを伴って洞窟の中に反響した。

「優秀な睦月なら知っているでしょ、たまに特集とかやってるし」

「それは……過激なやつが言ってるだけだろ?」

 尾びれ持ちは見方によっては先天的な障害とされる。

 今ではよほどの偏った人以外には個性の一つだと見られているし、乙音も自由に泳いでいるから気が付かなかったけれど――その属性を持つ者同士で共有される隠れ家が必要とされる扱いを受けている現実があるのだ。受け入れがたい。けれど、受け入れなくてはならない。

 ぼくが感じるような疎外感ではない、正真正銘の迫害を目の前の少女が受けているのを想像して――固く握りしめた手の中で、皮膚が裂ける感触がした。


「過激だろうが何だろうが、一定数の人数が叫べばそれはもう凶器だよ」


 実際に暴力を振るわれなくてもね、と声が落ちる。低く、低く、奈落の底へ。

「『わたしたち』には聞こえてるんだから」

「……乙音」

 劇的に、役者のように抑揚をつけて、少女の口から言葉が流れ出す。

 それまでの染み出る雫のような静けさは、もうその声の中にはない。濁流のような激情を曝け出しているのが、手に取るように伝えられてくる。

「母さんや兄さんたちと血が繋がっていなかろうと、ここまで一緒に過ごしてきたことは変わらない。だから、驚いたけど、ショックじゃない。当たり前でしょ? ――自分が『ヒト』じゃない可能性があること以上に、怖いことなんかない」

「乙音、ぼくは――」

「別に」

 口を挟もうとするぼくの声は、まるで場を支配する指揮者のように手を振って、声を張って、朗々とセリフを謳いあげる少女の前にかき消される。

「別に、睦月にわたしの答えを押し付ける気なんてないよ。何が怖いかなんて、人それぞれだもの」

 吐き捨てた言葉の激しさをすっと抑えて、乙音の顔がゆるゆるとぼくの方へと向けられる。乱れた真珠色の髪の隙間から、火の消えたような生命力のない色の目がこちらを見る。

「でもね知ってほしかった。きみにだけは」

 儚く、海の泡のような笑みが浮かぶ。

「わたしの半身みたいな睦月になら、預けてもいいと思った」

 ライトアップされた舞台の上で観客に染み渡らせるように、少女から結びのセリフが告げられる。


「わたしの恐怖を、分かち合っていて」


 空っぽのまま差し出された手が、計算されたように美しい角度を保ってぼくへと差し出される。水かきのある小さな手を取れと言わんばかりに、掴みやすく。

 ぼくは、迷わずその手をとった。

「わかった。預かっとく――でも、さ」

 すうっと息を吸う。潮のにおいがする空気が肺に詰め込まれる。

 そして、声を張る。

 舞台役者のようには、乙音のようにはいかない。情けなく震える声で、ぼくは叫んだ。

「人の話は聞けよ! この! 馬鹿!!」

 美しい静寂の青が台無しになるくらいの、美しさの欠片もない言葉を、肺が萎れてしまうくらいに、全力で叫んだ。


 ショックだった。

 素直に言おう。ショックだったのだ。ぼくは。

 つい先ほどぼくに善意を押し付けなかった彼女も、それに救われたはずのぼくも、否定されたような気がした。

 だって、この血を吐くような告白は――混乱し、怯えたぼくを慰めるために行われているのだと、理解してしまったから。

 自分よりもひどい状態のものがいると、見下していいと――だから、安心しろという、人間の悍ましい性質を利用した、あまりにも暴力的な慰めだ。

 不幸は他者と比べたからって楽になるわけじゃないと理解している顔で、ぼくに愚者になる道を差し出してきたのだ。この少女は。

 ショックが押し寄せ、波のように引き、次いでやってきたのは、怒りだった。

 その程度の存在だと思われたことが、腹立たしくて仕方ない。

「ぼくは、ぼくが怖いと思ったことと、きみの怖いと思ったことを比較して、『ぼく』を否定してやらない」

 腹に力を入れる。繋いだ手を引き寄せて、ここに居るのは観客じゃないと知

らしめる。

「ぼくの恐怖を、乙音のものにしたりは、しない」

 目を見開きながらゆるゆると心底楽し気に彼女の表情が切り替わっていく。その琥珀色から目を離さずに、これまで人生で出したことがないくらい真剣な声を突き付ける。挑戦状のように、まっすぐに。

「ぼくが怯えているからって、それを全部背負い込むような真似、許してやるもんか」

 この、ともすれば英雄になるのだろう少女によりかかることは簡単だ。実際、ぼく如きの恐怖や困惑を背負ったところで、びくともしないのだろう。

 それだけの度量があり、才覚があると――乙音を目の前にした生き物は思わずにいられない。ぼくもまた、例外ではなく、本能はそうしたいと叫び続けているし、抗いきれているのかもわからない。

 本当は何も抗えていなくて、これすら彼女へ託す行為なのかもしれない。

 だからこそ、せめて、まがい物でも構わないから、格好つけて笑うのだ。


 いつか、彼女はぼくより相応しいものと出会うだろう。

 まがい物で取り繕ったぼくではない、彼女と同じ本物に。

 ――だから、それまでの幼年期くらいは、こう言わせてほしい。

「ぼくたちは対等なんだから」


 ぼくは、精いっぱい本心をさらけ出して、子供らしく笑った。

 いいよと許すように手を握り返して、乙音も同じ顔をして笑った。

 

 殴り合ってもいないのにへとへとに疲れたぼくは、べっとりと岩盤の冷たさに身を任せる。

「親って、家族って何だろうね」

 ぽつりと吐き出した言葉は、どちらのものだったろう。

「……わかんないんだろうな、多分ずっと」

 応えた言葉も、続けた言葉もぼくのものだったから、最初は乙音だったのかもしれない。けれど、自問自答から始まったようにも思えた。

「血が繋がっていれば、それでいいのか。育ててもらったなら、それでいいのか……そんなの関係ない、ほかの絆を、家族って呼んでいるのか。多分ずっと、ぼくは悩んでいくことになるよ」

「つらくない?」

 覗き込んできた乙音の表情に、ぼくは、あの見事な一人舞台にも彼女の本心はあったのかもしれない、と不意に思った。

「つらくなったら分かち合ってくれるんだろ?」

 いつか、それに触れられたらいい。

 ぼくは乙音を真似るように意地の悪い笑みを浮かべてみせた。

「うんうん、いい表情になったね」

 ぼくの返答は彼女のお気に召したらしい。

 喉の奥で笑って、一つ問いかける。

「親気取り?」

「親友気取り」

 たった一文字の違いはとても大きくて、ぼくの気はそれで済んでしまった。

「なら、いいや」

 頭上から、名前を呼ぶ声がした。聞きなれた声が、必死に僕の名前を呼んでいて、聞きなれない声がどこか呆れた調子で乙音の名前を呼んでいる。

「……どうする? まだ逃げたい?」

「もう、どうせ他に行ける場所知らないだろ。ぼくもだけど」

「じゃあ大人しく捕まろっか」

「そうしようか」

 そういうことになった。

  

 陸路に続く道もあるらしいこの海底洞窟だけれど、そちらへはまだ行ったことがないという乙音の言葉に、来た道を戻ることにする。

 頭から飛び込む自信はまださすがにないから、つま先から風呂にでも浸かるように順に体を浸していく。膝を水面が越したあたりで、あんな風にダイブしたのに服が大して濡れていないことに今さら気づく。こうしてがっつり水の中に足を踏み入れても、靴の中が濡れた気配すらない。これも空気石の効果なのだろうか。

 そんなことを考えていれば、とうとう腰がすっぽりと収まるほどの深さへと到達する。

 雑念を払い、青く、深く、飲み込むような水面を眺めながら、息を止める。

「じゃ、いくよー」

 緩い声と同時に、手が引かれる。


 ――ひんやりとした体温を不気味に思うことは、もうなかった。

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