8. 海中リバーシブル

「あ、起きた」


 まだ目も開けていないのに、そんなことを言われた。

 瞼を押し上げれば、チカチカと空が光っていて、まぶしさに目を細める。

 ここはどこだろう。

 青く、碧く、蒼く、揺らめくたびに色味を変える天蓋が目に入る。一度だけ見たことのある天使の梯子に似た光の帯が幾重にも差し込んで、天蓋の揺れに合わせてなびいている。まるで花嫁のヴェールのようだ。

 知り得る限りの青色をすべて束ねてもなお足りない、彩り鮮やかな青い世界の中にいる――その事実にはっとしてぼくは跳ね起きた。

 慌てて周りを見ようとすれば、体勢が崩れてぐるりとその場で肩から落ちるように逆さになる。何が起きたのかわからない。手で空中を掻けば重たい感覚がして、細かな泡が小さく湧いて、またぐらんと体が揺らぐ。どうすればいいのかわからず全身をくねらせようとして、また頭が揺れて――手を引かれた。

 真珠色の髪が重力を無視して、風にたなびくよりもなお軽やかに揺れる。琥珀の瞳が珍しく慌てたように見開かれている。


「あッぶなぁ……」


 そんな風に呟いて、するするとぼくの周りを泳ぎ回り、膝や肩を押してテキパキと頭を上に、足を下にした正しい姿勢へと直していく。


「暴れちゃだめだよ。空気石使っても溺れることはあるんだから」


 溺れる。ということはここが海の中なのか。

 返事をしようとして、ごぽりと口から泡がこぼれる。銀色の泡が空へ空へと昇っていく。全身の服が重力を失ったようにゆらゆら膨らんで、手足が自然と浮かびそうなのに動かすと重い。そのくせ、体の真ん中が上へ上へと内臓ごと持ち上げられていくような浮遊感がある。

 地上とは全く違う感覚に胸が高鳴る。こんなにも違うのか、こんなにも輝いているのか、一挙一動すべてが面白く彩られていくようだ!

 興奮のあまり大きく口を開こうとすれば、水かきのある手がベしりとぼくの口を押さえつけた。


「ダメダメ。喋らないの」


 あと首の奴外さないでね、と言う声はいつものような薫風の声だけれど、どこかノイズが入って聞こえる。ゴポ、とまた泡が立つ。


「ちょっと移動するよー」


 先導する真珠色に手を引かれ、体が傾ぐ。けれど落下するようなこともなく、その場を滑るように進んでいく。足を動かしていないのにぐんぐん景色が変わっていく。奇妙な感覚だけれど、とても気持ちがいい。

 海の中は、すべてが青く透けるようだった。

 魚や岩礁に生える珊瑚、イソギンチャクなどは紅葉のように燃える色をしていたり、はたまた目が覚めるような眩しい色をしていたりするけれど、どれもが薄く透明な青い薄衣を纏っている。先を往く乙音も当然、地上よりも瑠璃色を強く帯びていて幻想的だ。天蓋から差し込んだ光の柱を通れば、全身真っ白なその姿は光そのもののようにも見える。

 水面の上から見る時よりもよほど生き生きと力強く筋肉を躍動させ、尾びれが細かな泡を引き連れて輝く。まるで生きている宝石のように、あるいは人の形をした流れ星のように、乙音は広大な青色のグラデーションの中を突き進んでいく。

 目的地すらわからない、乙音の意図もわからない。けれど文句のつけようもなく美しい世界に、ぼくは瞬きすら忘れて魅入ってた。

 時折遊ぶように小さな魚の群れを突き抜けたり、大きな影が頭上を泳いでいくのを見送ったりしながら、ぼくらは進む。

 まるで全身で命を浴びているようだ。

 前後左右どころか上も下もすべてが命に満ちている――ここで生きられたら、どれだけ楽しいのだろう。重苦しい地上をすべて投げ捨てて、青く輝き広がり続けるこの世界にずっといられたら、どんなに。

 そんなぼくの考えを見透かしたように、乙音がこちらを振り向いた。


「睦月、あっち見て」


 そういえばどうして彼女は喋れるのだろうか。水の人はみんなそうなのだろうか。そんなことを思いながら、指さされた方へと目をやる。


 ――そして、血の気が引いた。


 そちらは、暗い。

 あらゆる光が吸い込まれていくように、暗く暗く青が消えて吸い込まれていく。地上で見る影や夜の暗さとはまた違う、飲み込まれそうな孔の、虚のような暗さが海底へ続く割れ目に落ちている。

 天蓋の煌めき、生命に溢れた色とりどりの青とは正反対の、奈落がそこにある。

 とたんに先ほどまでの歓喜が失せ、地面に足がつかない事が恐ろしくなった。


「水中を好きになってくれるのはいいけど、あっちみたいな場所もあるんだから、夢中になっちゃだめだよ」


 その声に、海へぼくを引きずり落とした時のような、得体のしれない恐ろしさはない。ぼくを心配しているのだとわかる。

 けれど、その時ふいに考えてしまった。

 差し込んだ光を受けてキラキラと光る真珠色の髪と血色のいい肌、それらに彩られた琥珀色の瞳の真ん中の黒さは、ひょっとしたらあの奈落と同じような光を飲み込む虚の黒さなのではないか、と。

 目の前の少女が、この海そのもののようだと――そんな、空想を。

 

 つばを飲み込んだぼくの視界の端で、ゆっくりと深淵へと泳いでいくクジラの尾びれが見えた。

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