7. 奈落へ誘うのは

 それから、ぼくたちは先ほどの崖のすぐ近くにある海岸へとやってきた。崖から一緒にダイブしようと誘われたときは血の気が引いたが、どうにかなだめすかして道なりに下ることができた。

 そう思っていたのが、どうやら諦めていなかったらしい。


 ざざん、ざざんと白い波が砂浜に模様を描いている。

 ぼくたちはそこで手押し相撲のような体勢になっていた。ただし、勝敗は『引き倒された方が負け』の勝負だ。

 簡単に言えば、乙音に海の中に引きずり込まれそうになっている。

 ぐい、と数秒前と同じ強さで再び手を引かれ、ぼくは眉を寄せた。

「言っただろ? 水には入るなって、言われてるんだよ」

 語調が強くなる。水路であんなにも水に触れたがってた身でなにを言っているのかというように、乙音がにっこりと笑う。

「ええー、誰もいないんだし、いいじゃない」

「誰も見ていないからってルールを破るのはダメだろ」

 今まさに逃避行の真っ最中なぼくが気にすることでもないし、正直理由になっていない気もする。それでもこうして大海を目の前にしながらいざ飛び込めと言われると、どうにも尻込みしてしまう。

 泳いだことがないとかそういうのは一旦横に置くにしても、底の見えない水は大きな口を開けた生き物のようで怖いのだ。

 そんな臆病極まりない本心を隠しながら優等生の顔を取り繕えば、乙音はまさにその答えを待っていたとばかりに笑みを歪ませた。低学年の子が見たら泣きそうだ。

「まあね。でもさ、そのルールって奴を水っ子サイドでは聞いたことがないんだよ」

「は?」

 陸の方で重要視されているというか、もはや破ったら極刑みたいな扱いをされているルールに対してなんて言った?

 乙音はあくまでにこやかなまま手を緩めることもなく言葉を続ける。

「いやあ。睦月が生真面目に守っているから、言おうかどうか迷ってたんだけどね、いい感じに噴火してくれたしちょうどいいやって思って」

「いや、水の中に入るなって、そっちが言いだしたことじゃないの? 自分たちの領域に入るなって」

「まっさかー。海に線は引けないよ。縄張りはまああるけど、それだって害意がないなら逃がすくらい理性は持ってますし」

 そう言われると、そうだ。

 水の人、とくに海に住む人々は乙音の話を聞く限りとてもおおらかだ。利権や富に頓着しないと言ってもいい。

 だからこそ、水出身の商人は有名になるし――珍しがられている。

「じゃあ、なんで?」

「……さあ、案外合理的じゃない理由なんて、ぷかぷか浮いてたりするんじゃない?」

 乙音はすべてわかっている賢者のような声で、それでいて何も知らない無垢な子供のように笑ってみせた。

 これ以上は答える気がないのだろう。ぼくはひとつ息をついて乙音の手を引いて真後ろに倒れ込む。意表を突かれながらも楽し気な乙音の笑い声を聞きながら空を仰げば、後頭部が案外柔らかな砂地にさるんと埋まった。

 布団みたいにぼくの体の上に倒れ込んだ乙音は塩水でべちゃべちゃに濡れていて、人間らしく重かった。肋骨が軋んで、もう二度とやらないと心に誓った。

 

 手押し相撲ならぬ手引き相撲はぼくの勝利で終わった。


 ぼくらはあれこれ話していたせいか、ひどく喉が渇いていた。太陽に雲がかかっているとはいえ、夏もまだまだ過ぎ去っていない。

 暑いねえ、と言いあって、ぼくらはなけなしのお小遣いを出し合って一番安い棒アイスを海沿いにある駄菓子屋で買った。

 当たり付きのそれは、真っ白なミルク味をしていた。

 浜辺で並んでそれをまぐまぐと食べてはじめてしばらくしたとき、おもむろに乙音がぱしゃんと尾びれで向かってきた波を蹴飛ばした。

「睦月ってさあ、たまーに変な顔するよね」

 突然そんなことを言われて、ぼくは首を傾げる。アイスが垂れてきてしまわないうちに食べてしまいたいのに、何を言い出すんだこの子は。

「……変な顔って?」

「んー、他の陸の人がたまにしてるみたな、へーんな笑顔」

 思い当たる節はある。知り合って最初の方になにか取り繕おうとしてついしてしまった、いつも学校でしている無感情優等生ヅラのことだろう。最近は本心から繕うことはなくなった影響なのか、もはや愛想という言葉は乙音の辞書から削除されたらしい。

 取り繕うべきか、あっぴろけにするか。悩んでいるうちにぼくの顔は勝手に慣れたその表情へと切り替わっていく。

 しまった。クラスメイトととの会話を思い出したらつい出てしまった。

「あ、その顔」

 乙音は見逃すことなく、ぴっとアイスの棒をぼくの方に傾けた。

 いつのまにやらすっかりミルクアイスの欠片すらなくなったそれには、くっきりと『アタリ』の焼き印が押されている。

 自慢か? と思って表情を見返しても、特にそこに喜びの表情は浮かんでいない。

 気づいていないのか、それとも当たるのが基本という豪運の持ち主だったりするのかはわからないが、少なくとも彼女はその文字列を気にしていないようだ。

 ぼくもそれは気にしていないというポーズをとろうとして、失敗する。

「……どうでもいいだろ。そんなの」

 出会ったころみたいに低くてつっけんどんな声が出て、なるほどあの頃からぼくは彼女の自由さとか、豪胆さとか、そういったものへの口惜しさというものを持ち合わせていたのだなと、ぼくはぼく自身を知る。

 あの頃から変わったことと言えば、せいぜい親しみと好意が増したから許せるようになったというだけだろう。

 今だってそうだ。

 こんなにわかりやすく妬みを顔と声とに載せているのに、何でもない顔をして軽々と言葉を打ち返してくる。

 さあっ、と風が吹いて、早々に乾いたらしい真珠色の髪が形のいい眉の上でさわさわと揺れた。


「別に言わなくてもいいけどね。睦月の自由だし」


 静かな笑みを浮かべた乙音のこういうところを好ましく思いながら、少しばかり憎たらしく思う。

 そして、そんな相手だからこそ、話していて楽しい。

 気づけば、口角は上がっていた。

「じゃあなんで聞いたの」

「さー」

 ガジガジと『アタリ』の棒を無頓着に噛みながら、琥珀色の瞳が水平線に向けられる。瞬間、ひときわ大きく風が吹く。ぼくは咄嗟に目を閉じる。

 陽光に透けた瞼の裏を見ながら聴いた声は、ぞっとするほど静かだった。


「なんでだろうね。わかんないや」


 本当に、彼女の声か疑わしいほどに、深く、遠く、奈落のような、声だった。

 

 風がやんで、瞼を押し上げる。

 当然、そこに居るのは乙音だった。先ほどの静かな笑みを浮かべたままの、真珠色の少女だ。

 ほっと胸を撫で下ろして、わずかにこわばった頬を緩める。

「……乙音にもそういうの、あるんだ」

「あっははは、なにそれ。睦月ちゃんったらわたしのことなんだと思ってんの?」

 からりと笑う彼女の顔の縁の産毛が、陽光を纏うように光っていた。

「だって、さ」

 その先を、言っていいのか迷う。

 少なくとも、同い年の少女に向けるものではないと、ぼくは理解していた。

 彼女の人間らしいところを知りながら、それでも時折見せる表情に、常に抱いている印象は――その細い肩にはあまりにも似合わない。

「乙音は……」

 口ごもるぼくを、乙音の琥珀色の瞳がじっと見つめている。

 どうしたいのか、問うように。

 言ってしまえば、楽だろう。

 おそらく乙音は笑って受け流すか、あるいは受け止めてそのように振舞ってくれるだろう。振舞えてしまうのだろう。

「いいや。なんでもない」

 ぼくは、そういって笑った。

 ――彼女に、物語の英雄がダブって見えて仕方ない、なんて恐ろしいことはぼくの胸の内にしまうことにした。

「ウソだ」

 間髪入れず見抜く彼女に、ぼくは目を細めた。

「嘘だよ。でも言いたくない」

 この感覚が幼年期の魅せる幻なら、それで構わない。子供の見た、他愛ない夢としていずれ大人になった時に笑い話として酒の肴にでもして遊べばいい。

 けれど――もし、彼女が本当にそういう存在ならば。

 ぼくがここで告げないことで、少しでもそうなることへのモラトリアムが生まれるというならば、その方がいいと思った。

 どうしてかは、わからないけれど。

「ふーん。なら、いいや」

 ぼくの面白みのない黒目をじっと覗き込んでいた乙音はそういうと、特に気分を害した様子もなくぐっと伸びをした。

 ずっと噛まれているアイスの棒はもうボロボロで、字もそろそろ読めなくなりそうだった。

 途端に無言の時間が訪れて、ざざん、ざざんと海の歌が大きくなる。

 頭上を旋回するウミネコがみゃーみゃー鳴いて、波にさらわれる砂がくすぐったそうに笑う。風が耳元の髪を攫って、地面とぼくらにかかる影がゆっくり流れていく。

 沈黙が心地よく眠気を誘う中そっと乙音の方を見れば、眠たげな横顔が手の上に蟹を乗せて笑っていた。

 

 ぼくは、乙音が好きだ。


 もちろん友人として。

 恋愛感情というのは、よくわからない。

 彼女の琥珀色の瞳が面白いものを見つけて、情報を取り込もうと瞳孔を広げて色を濃くするのは見ていて楽しいし、発見したことへつらつらと意見を述べる聡明さも心地いい。道化と普段は評してしまうが、ひねくれずに見れば彼女はいつだって周囲を明るくすることを選んで過ごしているということになる。

 学校で似たようなことをしてお腹の奥に黒いものばかりため込んでいるぼくのような偽物とは違って、彼女は本物だ。天然モノではなくとも、まがい物ではない。

 もちろんぼくとしては彼女の道化の奥の奥を覗いてみたいとも思う。

 役者の仮面をはぐような真似をするのは無粋ではあるけれど、観客ではなく友人として、あるいはこの一種のカリスマ性を持った少女の人生の共演者や裏方として関わっていきたいと、ぼくは望んでしまったのだ。

 ぼくはこの数十年後この望みを抱いたことを悔やむかもしれない。

 けれど、それでも――その時になっても、この望みはぼくという生き物が選択し得たことの中で最も美しい瞬間であったと、胸を張ることができると確信している。

 そう思える大人になろうと、ぼくが決めた。

 

 幼さからこれまで出会ったことのない未知に熱をあげておかしくなったと言われるかもしれない。実際にそうなのかもしれない。

 それがどうしたというのだろう。

 ぼくがこの変革を望んでいたというのに?


 思い出す。


 会話が成立しているのかいないのかわからないクラスメイト。

 妹に話しかけるくらいに噛み砕かないと理解しない同学年。

 扱いにくそうにぼくを見る先生。

 善性の煮凝りのような、両親だと思っていた人たち。

 それらすべての齟齬が細かく細かくゆるやかに、重く重くのしかかって、苦しくて仕方がない。

 それらはすべて、すべて、すべて

 

 ――きっと、ぼくがおかしいのだろう。

 

 周囲に責任を押し付けておしまいにできるほどの自己愛は、ぼくにはなかった。

 ぼくの方が歪んだ歯車で、規格自体がおかしくて、噛み合うことははなから不可能だった。

 だから、ぼくは偶然与えられた車いすなんてものを最後の命綱みたいに握って話すことができなくなってしまった――他の世界なんて知らなかったから、間違えた歯車のぼくはどこにもいけないと、そう思い詰めた。

 そして身を投げようとした先で、新しい世界そのものと出会った。

 未開の地を恐れるように彼女を恐れ、尊いものを愛するように彼女を愛して、どうしようもないところを憎んで好んだ。

 雛の刷りこみのように、ぼくは突然目の前に現れたその世界に縋りついた。

 繰り返しているのかもしれないと思いながらも、魔物のように魅惑的な彼女との日々が楽しくて仕方がない。

 

 それでいい。と締めくくろうとした頭の中で、不意に一つの記憶が再生された。

 たしか、いつだったか父方の叔母のもとに数時間だけ預けられたときのことだった。

 ――ぼくを膝に乗せた叔母が、声を潜めて恐ろしげに語る。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと、遊び疲れて眠ってしまいそうなぼくを寝かしつけようとしているはずなのに、ひどく不気味な調子でささやいている。

 『人魚はね』と叔母が言う。叔母は内地でずっと育っているから水の人が住むような深い水辺とは縁遠く、今では時代遅れと笑われるほど水人への認識が古いと思い出す。

 『人魚はね、いまでは私達と同じような顔をしてるけどね、昔は人を惑わせる魔物だったんだよ』

 馬鹿らしい。幼児に吹き込む話でもないし、寝物語としても最悪だ。

 『美しい姿と声で私達を惑わして、狂わせて、最後には水の中に引きずり込んでしまうの』

 童話や神話の中の話を真剣なまなざしで言い聞かせる叔母は、今思えばぼくの出生のことを知っていてこんなことを言ったのかもしれない。なんであれ、悪意しか感じないけれど。

 『だからね、睦月くん』

 わかっているのに、その言葉は毒のようにぼくの心に染み付いてしまう。

 『水辺に近寄っては、いけないの』

 ――震える手の感触まで再生され、叔母さんの娘は川で足を滑らせて亡くなったのだったかと思い至ったところで、ぼくの意識は現実に引き戻された。

 

 他ならない乙音が、手を引く感触で。

 

「え、ちょ、まっ」

 先ほどぼくが勝って終わったはずの手引き相撲を再び執り行うように、乙音がざぶざぶ海の中に入っていく。先ほどまでと違って座っているから、踏ん張りも効かない。

 慌てるぼくとは正反対に、のんきな声がする。

「うーん」

 検討するようなその声に、手を引くのをやめてくれるのかと期待する。

 けれど、乙音はへらりと笑って、無情にも強く強くぼくの手を引く。背中から水へと滑り込むように、乙音の白い体が三日月のように反っていく。


「ごめんね。飽きちゃった」


 体が前へと傾き、眼前に水面が迫る。手を引いてくれていたひんやりとした体温がひどく恐ろしい。

 地面に、『はずれ』たアイスの棒が落ちて、石にぶつかりカランと音を立てた。

 ――人魚は、怖い生き物なんだよ。

 叔母が恐ろし気に語る声が、ふいに脳裏をよぎる。


 まだ明るい空に、白い満月が浮かんでいた。

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