6. ちいさな夏の逃避行

 海に近いこの町には、血管のように無数の水路が張り巡らされている。

 陸路と隣り合うもの以外にも、地下に潜る地下水路というものもあるらしい。それを知ったのは乙音と知り合ってからで、気づかなかっただけでこの世界では水の人のほうがずっと自由に生きているのだな、と新しい本の表紙を捲ったような気持ちになった。

 突然そんなことを思い出したのは、手を引く乙音の速度があんまり速くて、これまでどれだけこちらに合わせて泳いでくれていたのかを思い知ったからだろう。


 器用に陸路と水路が並んでいる道を正確に選びながら、白い尾びれが力強く左右にうねる。割れた水がざぶざぶ水路の縁にぶつかって波になり、ギラギラきらきら光になって飛び跳ねる。

 本当に通れるのか疑いたくなるような細い道や何処を曲がったかわからなくなりそうな細かい分かれ道を右に左に。ただ真珠色の導くままに走っていく。

 気持ちとしてはもう一時間は走っただろうかかと思うころ、子供のぼくらでなければ通れないだろう小さな穴を潜り抜け、ようやく乙音は爆走をやめた。

 憩いが着いたままと、と、と、とたたらを踏んで立ち止まり、弾けるような音を立てる心臓を大きく息を吸って宥めすかす。

「大丈夫?」

 涼やかな声が少し憎たらしくも頼もしい。

 ぜーぜー息を切らしながら、ぼくは大丈夫と頷いてみせる。膝が笑っているけれど、不思議と気分は悪くなかった。

 意気込んで周囲を見渡せば、そこは見知らぬ林の中だった。針のような葉が青空をつつくみたいに伸びている。少しだけ潮のにおいが強いから海との境かもしれない。

 こんなところにも水路は通ってたのか、と思いながら後ろを振り返る。通ってきた穴がある塀は随分と背が高い。大人でも覗き込むことはできないだろう。

 ようやく人心地ついて、ぼくは改めて乙音に向き直った。土と緑と潮のにおいがする中で、いっそう真珠色が生気を帯びて見える。

「どこまで行こうか」

 ここがどこかもわかっていないのに、ぼくはいたずら小僧のように笑って、まずそう問いかけた。

 灰色の不安は胸に微塵もなく、この上ない冒険の予感に少年らしく心が湧きたって仕方がなかった。

 乙音もやはり、にんまりと笑った。

「どこまででも」

 ロマンしかないセリフを吐いて、自分たちが何か物語の主人公になったような気持ちにさえなったけれど――乙音もぼくも、浸りきるには冷静すぎる。

 たっぷりのロマンで肺を満たして、顔を見合わせてぷっと笑いを吹き出して、けらけらと子供らしくひとしきり笑いあって、楽しみ切れば――もう終わりだ。

 ひらりと乙音が手を振って、格好つけた空気を霧散させる。

「そんな風に言いたいけど、まあわたしら小学生だしねえ。多分お山を超えることはできないよ。そもそもあっちにいくと川の人の縄張りに入っちゃうし」

「だよね。体力的にも……ねえ、乙音。今食べ物とかどれくらいある?」

「さっきお菓子食べちゃったからなーんにもない」

「知ってたー」

 ぼくらは無邪気にどこまでも逃げ続けられるなんて信じることができるほど、幼くないし、無理を押し通して本当に姿をくらませてしまえるほどに大人でもなかった。

 二人して旅の終わりを初めから悟っている、まったくかわいげのない逃避行だった。

 けれどお互いわかっている相手だったからこそ、今こうして走り出すことができたのだということも、なんとなく知っていた。


 例えば、相手が賢明で『逃げたところでどうしようもないよ』なんて言い出す子だったならこの心を預けることなんてできなかっただろう。

 例えば、相手が純真で『ずっとずっと逃げられるよ』なんて夢を見る子だったのなら手を取る事さえせずに、こちらから帰ることを諭しただろう。


 そういう気質で、そういう立ち位置に自分を置いている似た者同士なのだ。ぼくたちは。――まったく、皮肉なことに。

「……まあ、いざとなったら食べ物はわたしがとってくればいいんだよ」

 なんでもないような口調で乙音がそう言った。

 林の中だから当然蝉だって多いし、頭上からは絶え間なく鳴き声が熱気の尾を引きながら降り注いでいる。

 それでも不思議と街中よりは静かで、いつもよりもずっと声が聞き取りやすい。

 心地よく森林浴でもしている気になって、ぼくの心もすっかり凪いでいた。

 衝撃を忘れたわけでも、激情が溶けたわけでもないけれど――それに振り回されるのは、いったん横に置いておこう。

「とってくるって?」

 聞き返せば、白い指がくるりと魔法使いのように揺れた。

「海藻でも、お魚でも、貝でも。甘いお菓子はないけどね」

「逞しいなあ」

「あはは、海っ子にとってはあたりまえだよ」

 軽い調子で乙音は笑った。

 いつも通りの笑顔のはずなのに、ひどく強い生き物の笑みに見えた。

 意図せず背筋に力が籠る。

 小学生でも海側と陸側を比べれば、断然海側の方が資源が多いことくらい知っている。陸地よりも広い海の中にないのは甘味くらいだろう。

 いや、むしろそれすらも探せば見つかるのかもしれないと思わせるくらいに、この世界において水の中は神秘に満ちた場所だった。

 無論、場所だけが特別なのではない。

 そこに住む彼女たちもまた、それにふさわしい。

 空気石のような、原理すら不明なアイテムは彼女たちの周りにはいくらでも転がっている。陸側がどれだけ大層な武器を拵えようと、水人たちが蓄えた何気ない知識の中にはそれらを容易く打ち破る叡智がある。

 かつては海の上に陸人が船というものを作って浮かべていた時代もあったらしいけれど、海を荒らすようなことをし始めた途端にすべての船という船が水人たちによって沈められたのは有名な話だ。

 人によって、敬ったり、恐れたり、利用しようとしたり――接し方は様々だ。

 ぼくのように、友人になりたいと思った人がどれほどいるのかは、知らないけれど。ましてや、親に交換し合われた子なんて、尚更だ。

 こみ上げた苦みが気つけになって思考から浮上する。さほど長い時間ではなかったのだろう。乙音の表情に怪訝な色はない。

「……じゃあ、ぼくは木の実でも、探してみようかな」

 正気に戻ったついでに。そんな提案をしてみた。

 何もかもを乙音に任せるというのも寝覚めが悪い。

「そんな特技あったっけ?」

「ちょっとだけ。昔、内地にいる祖母ちゃんがいろんな木の実の見分け方を教えてくれたことがあったんだ」

「おお! おばあちゃんのちえぶくろってやつだ!」

 知恵袋の発音が怪しいのはたぶん、水の人の血縁の希薄さからくるものなのだろう。そんなことを思いながら、いつかの祖母の言葉を思い出す――彼女もまた自分とは血の繋がりがない、赤の他人だったのだ。自分のあらゆる地盤が、思い出が音を立てて崩れているような感覚から目を逸らすように、ただ蓄えた知識だけをひっぱりだす。

「グミの木、クワ、ヤマボウシ、ガマズミ、ヤマモモ、ビワ、エビヅル……でも確かどれも微妙に季節がなあ……」

「あー、真夏! って感じだもんねえ、今。果樹園とかのだと泥棒になっちゃうし……今回は見つけたらラッキーって感じでいいんじゃない?」

「そうだね。……でも、まずは移動かな」

 そう言えば、乙音が不思議そうな顔をする。ぼくは足元に落ちていた針のような葉を拾い上げた。

「ぼく、クロマツの食べ方なんて知らないから」

 肩をすくめて笑ってみせれば、乙音もつられて笑い声をあげた。

 

 **


 それから少しして、ぼくらは潮風が吹く崖の上にたどり着いた。

 ごうごうと音を立てて吹き付ける風は、薄っぺらなぼくらの体を容易く飛ばしてしまいそうなほど強い、

 落ちても死なない程度の高さだと乙音は言ったけれど、水路の果てから落ちた水が海の波間にかき混ぜられて泡の陰さえ見えなくなるのを見ると、泳いだことのない身としては嘘としか思えない。

 嘘だと言ってほしい。

 ろくに信じたこともない神様に祈りながら落ちないように足元ばかり見てしまうぼくとは対照的に、乙音はぴょんと水路から出てきたかと思えば、崖の上にしぶとくも力強く生えている木に這い寄っていく。

 わりと草は生えているけれど、あんなに勢いよく進んで痛くないのだろうか。

 用心するあまり奇妙な歩き方になりながら彼女の後をついていって、ようやく乙音の表情がはっきりと見えた。

 とてつもなく珍しい顔をしていた。


「おお。これが桃の木……!」


 輝いている。というのが一番的確な表現になるような、これまでにないワクワクとした表情だ。琥珀色の虹彩が一か月くらい天の川に漬け込んだようなきらめきを帯びている。

 頬の紅潮具合からして、いつもの道化ではない。

 こんな表情出来たのかこの子、とぼくは妙な敗北感に打ちひしがれながら口を開いた。

「たぶん。……だけどこれ、たぶん花桃だろうなあ。実がちっちゃい」

「ん? 桃の木なら全部食べられるんじゃないの?」

 よっぽど食べてみたいのか、口の端からたらりと漫画みたいによだれを垂らしかけてはいそいそと拭っていた乙音が怪訝そうな顔をする。

「花桃はたしか、観賞用で花がメインだったはず。生食はできないんじゃない?」

 いつだったか図鑑で見た記憶を告げれば、星が一つまた一つと琥珀色の瞳から失せていく。がっくりと細い肩が落ちた。

「そっかあ……残念」

 見るからに気落ちした様子だ。そんなに食べたかったのか。今度桃を見つけたら乙音用に買っておこう。

 身もふたもなく事実だけ知らせてしまったことに罪悪感が湧く。とっさに何か使える情報はないかと遠い記憶をめくる。

 よかった、どうにかなりそうだ。

「でもまあ、花はきれいだし、たしか加工すれば食べる方法もあったはずだよ」

 何気ない顔で情報を付け加えれば、ぱちんと大きな瞬きをして星を瞳が縫い留める。三日月のように魅力的な笑みが浮かび、太陽のように弾んだ声が桜色の頬の上で跳ねた。

「やったぁ!」

 加工方法も道具もまだわからないというのにひどくはしゃいだ乙音を見て、ぼくは心底覚え違いでないことを祈った。

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