5. 駆けだす少年少女
随分と水側に寄っている道なのに、どうしてあの人がここにいるのだろう。
目を瞬かせて思わず車いすの車輪を止めれば、少し遅れて乙音がこちらを振り返る。
「睦月? どうかした?」
「いや、母さんがそこにいて」
指で指し示した先に、二つの人影があった。
これからぼくらが進む先の水路の縁に立つようにして、その人たちは話し込んでいるようだった。どちらも女性で、片方は全く知らない人。
けれど見間違いようもなく、もう片方は母だった。
「睦月の?」
「うん。知り合いと話してるみたいだけど……誰だろ、あの人」
水路を背にして立っているその人は随分背の高い女性だった。ショートヘアが似合っている。かっこいいという言葉がよく似合う佇まいは、どこまでもふわふわとした母とは対照的な印象だ。
「ふむふむ……うん?」
その女性をしげしげと見つめていた乙音が声を上げた。驚きというよりは、ぼくと同質の疑問を帯びた声だった。
「あれ、うちの母さんだよ」
「へえ……」
思わず眉が上がる。思わぬところで繋がりがあるものだ。
「まあ、同じ学校だし、知り合いってこともあるのかな」
「狭い町だしねえ」
車輪と尾びれを並べて進めば、じりじりと前方の二人の姿も鮮明になっていく。特に用事もないけれど、無視するのも可笑しいだろうか。
未だに胸の中に巣食う小さな淀みとの折り合いがついていないせいもあって、まごまごと口の中で言葉を探してしまう。ハンドリムに再び力を加えようとして、汗でぬめった掌がずるりと滑った。
ミンミンジリジリ、ジージーギギッ
蝉の声がうるさくて、まだ離れたところにいる母親たちの会話は聞こえない。
――そのはず、だったのに。
蝉しぐれの隙間を突いたのか、それとも向かい風の悪戯か。届くはずのなかったその会話が、ぼくらに届く。
届いてしまった。
「――ええ、本当に。睦月君はとってもいい子ですよ」
「乙音もちょっと変わり者だけれど、元気に育ってくれているよ」
「本当……ちょうど同じころに生まれた子がいて、助かりました」
「それはこっちのセリフさ。私も『水』の方にしか親類がいないから、『陸』の子が生まれてどうしたもんかと思っていたところだったからね」
「うちも。元々内地のものですから、『水』の子のお世話の仕方なんて全然わからなくて……」
「本当。ちょうどよく『取り換えられる』子がいて、お互い良かったねえ」
「え」
蝉の声が、聞こえなくなった。
そして不意に、思い出す。
――ねえおかぁさん、おかぁさんのお名前ってどういう意味?
――おかあさんのお名前はね、織姫様からもらったの
――おりひめさま? おほしさまの?
――睦月ちゃんはすごいねえ。もうお星様の名前なんて覚えたの?
幼少期の、他愛ない会話だった。まだ母の体温が恋しくて、ぺたぺたと引っ付いて回っていた頃の、今となっては少し気恥ずかしい記憶だ。
時間が早送りになって、つい先日の記憶がよみがえる。
――わたしは乙音だよ。乙姫様の乙に、音楽の音
そして思い出すまでもなく、当然の知識を取り出す。
ぼくの、まだ小さな妹の名前は『かぐや』。
母がつけた、『母娘でお揃いにするのがあこがれだった』という理由で一も二もなくつけた、名前だ。
ピースがハマる。
なるほど、聞き覚えがあるわけだ。
すぐそばに、二つもコンセプトが同じ名前があったのだから。
それに、先ほど聞いた乙音のきょうだいの名前もまた、よく考えればすべてぼくと同じような月の名前だ。聞き間違いや勘違いであってほしいという願いが湧いてこないほどに、納得してしまった。
ちらりと隣にいる乙音を見れば、ぼくと同じように固まっているように見えた。視線を感じたのだろうか、琥珀色の瞳がこちらへ向く。
パチパチと真珠色の睫毛が上下して、桜色の唇が小さく『ああ』と音もなく動く。
その瞬間の彼女の表情を、どう表現すれば適切なのか、ぼくは今でもわからない。
寂しいような、諦めているような、なにもかもがしっくりきたような、最初から全部わかっていたような――愉しんでいるような。
様々な感情がぐちゃぐちゃに混ぜ込まれた、笑みに似たそれ。
きっとすべてが正解で何もかもが間違いなのだろう。けれども、ぼくはその表情を見て、いよいよ頭が真っ白になった。
抱え続けていた不安が的中したことよりもずっと、世界から切り離されていく感覚に襲われる。
きっと彼女もぼくと同じように混乱していると、期待していたからだろう。
世界でただ一人、ぼくと同じであれと、願っていたからだろう。
母の、母だと思っていた人の飴色の瞳がこちらを捉える。
驚愕だけではない、失敗したとでも言いたげな色がその奥に滲んでいる気がして、ぼくは咄嗟に――車いすを蹴り飛ばして立ち上がった。
勢い任せに立ち上がったせいで、車いすが道の端へ遠のいていく音がする。
数週間ぶりに踏みしめた地面は、靴越しでも熱が滲みてくる気がした。
「睦月ちゃん」
お節介で、抜けていて、それでもどこまでも善良な、無下にできない温かさがあったはずのその声が、ひどくざらついて聞こえた。
じりじりと脳天を焼く陽光に、目の前がすべて陽炎になったみたいにぐらぐら揺れている。アスファルトの焼けた臭いが鼻をつく。
こちらに駆け寄ってこようとするその人から離れたくて、逃げ出したくて、右足が一歩、後ろに下がった。
そこにもう、重たい車いすはない。
「睦月」
重たく伸し掛かっていた重い空気を拭うみたいに、いつもと変わらない涼やかな薫風の声がした。
「ここに居たくない?」
こくりと、一つ頷く。
「ここから、逃げ出したい?」
――少し迷って、ぼくはまた、こくりと一つ、頷いた。
「わかった」
小学生にとってはまだ少し目線よりも高い水路から、美しい神様みたいに乙音はそう言って笑うと、ぐるりとその場で旋回し――力強い尾びれで思い切り水路の水を、すぐそこまで迫っていた母親二人に向かって『蹴り飛ばした』。
大きな水柱と銀色のきらめきが虹色の光を帯びる中で立ち尽くしていれば、ぐいっと水かきのある白い手が僕の腕を掴んだ。
悪戯で、意地悪で、とびきり優しい太陽みたいな笑顔が光る。
「逃げるよ! 睦月!」
久しぶりに駆けだした足はどうしたって重くて、すぐにでも膝から力が抜けてしまいそうだったけれど、心臓はこれまで感じたことがないくらいに、耳の奥でバクバクと大きな音を立てて笑っている。
視界の端にブロック塀にもたれかかる車いすの寂し気な影が見えて、慌てて目を逸らす。
そんな様子をからかうように、乙音の歌うような声が降ってくる。
「なに下向いてるの? コケるよ!」
「そんなに鈍くない!」
反射的に言い返そうと、水路の方へ顔を上向けて――その眩さに、絶句した。
青く澄んだ濃い空に、大きな大きな雲が山脈のように浮かんでいる。
くっきりとした輪郭は、触ればきっと柔らかいのだろうと夢想するほど滑らかで、あれは巨人の背中だと言われれば思わず納得してしまうほどに存在感がある。
入道雲。と呼ばれる雲であることは、もちろん知っている。
夏にはよく見かけるものであるし、けして珍しい風景などではない。
けれど。
それでも、その光景はあまりにも。
(ぼくは、いつから空を見上げていなかったんだろう)
巨大な雲が空中の他の雲を吸い上げてしまったように不純物のない青の、すっと胸がすく感じが、どうしようもなく懐かしくて、嬉しかった。
子供の足で行きつける先なんて高が知れている。
ぼくも乙音も、そんなことは承知の上で――それでも駆けださずには、居られなかった。
こうして、ぼくらの小さな逃避行は幕を開けた。
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