4. 雑談少年少女

 乙音と出会って二週間ほど交流が続いた、ある日のこと。

 

 すっかり馴染んだ道を進み、ひとけのない水路で乙音とどうでもいいような話をしながら過ごして、持ち寄ったボードゲームやカードゲームをして、熱さに辟易しては駄菓子屋で買ったアイスを頬張る。

 いい加減飽きてもおかしくない、あの日以来すっかりお馴染みになった流れを満喫し終わったぼくたちは、二人並んで帰路についていた。

 

「夏休みもそろそろ半分だけど、宿題とかやった?」


 日差しがまんべんなく肌に口づけてくれたおかげですっかり焼けた頬がヒリヒリする、と思っていたら乙音が突然そんなことを言った。


「は? 宿題とか始まったらさっさと終わらせるものでしょ?」


 人によっては嫌味と言われそうな態度をとっている自覚はある。

 仮にこの話を振ってきたのがさして仲のよくないクラスメイトなら、ある程度優等生面をしつつ差しさわりのない回答をするのもやぶさかではないのだけれど、なにせ相手は乙音だ。成績を聞いたことはないけれど、宿題サボり仲間を見つけようとしての問いかけではないだろう。

 その予測は当たっていたようで、白い尾びれがゆっくりと水面を打った。


「さすが~……あれ? 植物の観察日記とかあったよね? ホウセンカの」


 ぼくは予想通りの返しに、今日一番のいい笑顔を浮かべてみせる。


「録画してあるから、あれだけ最終日に全部書き出すつもり」

「うわあ」


 ものすごく呆れた顔をされた。名案だと胸を張っていたぼくは、一向に上がる気配のない踏切を睨むふりをして目を逸らした。肘をついた車いすが片車輪への負荷を嘆くようにぎいと、鳴く。

 相も変わらず重いし捨ててしまいたいと嘆いているのに、捨てられないことを咎められたように聞こえる。今は関係がない話題なんだから気のせいだなと切り捨てた冷静な自分に従って、ぎくりとひきつる気持ちは心の小箱にしまい込み、小学生らしい時間を楽しむことにする。

 隙を見ては心をチクチク刺してくる悩みに慣れることはないけれど、畳み方は随分慣れてきたなと自画自賛しながららにんまり笑う。


「ちまちまやってられないでしょ。あんなの」

「宿題出した先生全員に喧嘩売ったよこの子……」

「そういう乙音は?」

「睦月と遊ぶ前に毎日コツコツ! ……って、言えたらよかったんだけどねえ」


 両手でピースサインを作って太陽みたいに笑ったかと思えば、萎れた朝顔みたいな顔にくるりと切り替わる。今日も道化は絶好調らしい。

 それはそうとして、意外な宿題の進捗に片眉が上がる。

 てっきりコツコツ進めるタイプだと思っていた。豪快だったり大げさな仕草はするし実際享楽的ではあるけれど、先生の言うことはわりとしっかり聞いているようだし不真面目な生徒というわけではないだろうに。


「最終日にやるタイプ?」

「んーん。机に向かうやつはコツコツできるんだけど、こっちの教室で出る宿題って実際にやらないといけない奴が結構あってね」


 ぼくのように知恵を働かせれば短縮可能なやつ、というわけではないらしい。あと何個だっけなあ、と宙を見上げた乙音が指折り数えている。そろそろ両手に差し掛かるけど小学生に出る量なのか、それは。


「例えば?」

「自警団の対サメ・シャチ部隊の見学とか」

「対サメシャチ部隊」


 つい鸚鵡返しにしてしまった。

 え、水の人ってあれと戦ってるの? と先日見た海洋生物のリアルな生態を水人の冒険家が記録したというドキュメンタリー映画を思い出して混乱したぼくを余所に、乙音は「そっか、わからないよね」なんて軽い口調で説明を始めた。


「水の方の職業の一つだよ。陸だと……なんだろう。しょうぼうし? ってやつに近いのかな」


 有事に対峙するための職業ということなのだろうけれど、大迫力の肉食海獣の牙の鋭さと巨躯を思うと、どうにも自分の中で天秤が釣り合わない。

 消防士のほうが簡単とかいうつもりはないけれど、自分を襲う気満々の巨大な生物とか火とは別種の怖さがあると思う。さすがに殺意というものを感じたことはないから、本当のところがどうなのかはぼくにはわかりかねる。


「火事と肉食の脅威は同じなの?」

「さあ? 火事とか見たことないからわからない」

「ああそっか……」


 常に大量の水と共にある人たちだ。よっぽどのことがなければ火事になんてならないだろう。というか火がつけられる環境なのだろうか。

 聞いたら教えてもらえるかな、と好奇心がくすぐられる。さすがに脱線しすぎるし、なにより別のことが気になるので優先順位を後ろにずらして再び口を開いた。


「で、なんでそこを見学しないといけないわけ?」

「えっとねえ……、サメもシャチもいくら部隊の人が頑張って警戒していてもね、完全に避けられるわけじゃないんだよね」

「え? あんなデカい奴らを見落とすわけ?」


 映画で見る限り、かなり大きいものだったはずだ。さすがに警戒網を這っているなら気付けるだろうと思っていただけに、ついつい声が大きくなる。


「見落とすというか……サメは突然変なのが来ることあるし、シャチは大体群れでくるから、負けることもあるし」


 ぼくの驚愕の波を乗りこなすように、乙音が自分のペースを保ったのんきな声を返す。

 そんな明日の天気でも語るみたいな声で言うことじゃないと思うのだけれど。だって、負けるってそれは――。

 思わず、ごくりと喉が鳴った。冷や汗だってかいているかもしれない。


「負けるの?」

「負けないように頑張ってるけどねー。あいつらでっかいし頭いいし数いるしで怖いんだよ」


 淡々と語る彼女の瞳に揺れはない。怖いというのは嘘ではないだろうけれど、それに感情を乱されるにはあまりにも日常にしみ込んでいるとでもいうような、乾燥した態度だ。

 少なくとも陸の教室では見たことが無いようなそんな目に、ぼくは唇を震わせた。


「その……負けるって、やっぱり」


 ――食べられてしまうのか、という言葉は紡ぐことができなかった。

 事故とか、泥棒とか、そういうものに殺されるものがいるというのはテレビで知っているけれど、【食われる】というのはあまりにもぼくの感覚から遠すぎて、足がすくむ。

 自分がなにかの獲物になるって、どんな気分なんだろう。

 そんな気分と友人や家族のような付き合いをしている彼女は、水面の奥を見つめて、まるで独り言みたいにぽつりと言葉を落とした。


「サメは食いにくるけど、シャチはわからない」


 記憶の糸を手繰るようにすっと表情が抜け落ちた乙音の横顔に、道化の奥の素顔を見る。彼女が時折見せるこの表情が、ぼくはいっとう好きだった。

 今きっと、月を見上げるような目をしているのだろうなと思いながら、素知らぬ顔で疑問符を浮かべる。


「わからないって?」

「わたしが実際見たことがあるのは、一度だけなんだけどね」


 人差し指をくるりと回して彼女は口を開いた。


「あまり大きくないポッドだったみたいだけど、大人はうちの集落の周りをぐるぐる回っていて、子供が何匹か中に入ってきてた」

「ごめんちょっとストップ。そういえば聞いてなかったけど、水側の家ってどうなってるわけ?」


 いい雰囲気で語りだしたのに申し訳ないけれど、思い描く下地がないから全然想像がつかなかった。

 今のところぼくの中で彼らの住居は、テレビで見るような海中の洞穴で過ごしている原始的なイメージと、水の中に地上と同じような家が立ち並んでいる安直なイメージの二択しかない。さすがに途中で齟齬が出そうだ。

 乙音は特に気を悪くした様子もなく、それもそっか。とだけ呟いてイメージ図を描くように指先で空をなぞりだす。


「水中で呼吸できるわけじゃないから半陸半水って感じだよ。わたしはほら、足がこれだから下半身は水の中にあった方が楽なんだけど、二本足の場合は陸でも問題ないし、サメからの逃げ場あるし」

「水中街も全部水の中ってわけじゃないんだ」


 階段を下れば即水中だと思っていた、商店街にある水中横丁の入口への認識を頭の中で訂正しながら頷く。

 言われてみれば納得だ。学校で見かけたことがある水教室の生徒はほとんど陸と変わらない足をしていたのだから、そう生活様式が大きく違うはずもない。


「空気石とか使って海中洞窟に空間作ってる人もいるけどねえ。うちの集落だと三分の一くらいが完全海中」


 陸側では高いと噂の空気石も水側では日用品らしい。

 ちなみに空気石は名前の通り周囲に新鮮な空気を長期間放出し続ける、水側でしか採れない天然石だ。純度が高ければ高いほど美しく透明なブルーになるため、空気の追加を特に必要としない陸の人間にも宝石として人気が高いらしい。


「海中度合いは個人の好み?」

「個人の好み。一人暮らし始めた人に多いって姉さんが言ってたなあ」

「ふうん」


 完全海中の家というのは気になるけれど、この言い方だと乙音の家は違うのだろう。

 いつか見てみたいなあと思っていれば、乙音が空をなぞっていた指で自分の顎をとんっと突いた。そしてそのまま、ぐりんと首が傾く。わざとらしい。


「……何の話してたっけ」

「シャチ」

「あいあい えっとねー、そう。集落の中に入ってきたシャチの子供はなんか人懐っこかった。ぐいーっとしてきたりね。ちょっと遊ばせてもらっちゃった。陸の人なら溺れるんだろうけど、わたしたちだからそういうこともないし」


 ちなみに水中で呼吸できるわけではない彼女たちだが、潜水時間はイルカやクジラに近い。乙音いわく、個人差はあるらしいけれど五分から十分なら誰でも潜っていられるらしい。

 陸の人間はほとんどが泳いだことがないからそれがどれだけ長いのかはわからないけれど、風呂場で試してみたらぼくは十秒ももたなかった。


「友好種……ってわけでもないんだよな?」

「……さあ? 値踏みされてた気もするし、単におもちゃにされていただけな気もするし、仲良くしたかったのかもしれないし」

「曖昧だなあ」


 思わず笑って、その裏で想像する。

 深い深い青の世界で泳ぎ回る真珠色の尾びれを持つ少女と、じゃれつくように一緒になって彼女に身を寄せる海獣の姿を。悠然と泳ぐ、ふたつの影を。

 海の中での彼女はきっと、髪も尾びれも薄青くて、たまに光の筋に当たった時だけ虹色にきらりと光るのだろう。

 自分の身の丈よりもずっと大きな背びれにだって物おじせずに手を触れて、いつものような道化の笑顔ではなく素朴な、生き物として当たり前の表情を浮かべて生きているその姿を、見てみたい。

 それはきっと、陸と水それぞれの道で歪に肩を並べている今のぼくらよりも、ずっと美しい姿だろうから。

 そう思って、ぼくはさらに深く思いを馳せる。

 画面越しにしか見たことがない青い世界を――そこに在る恐怖と、美と、希望を、夢想する。

 手が届くことのない世界に焦がれるように、あるいは故郷を懐かしむように。

 そんなぼくの陶酔に気づいているのか、それとも無視しているのか、乙音は電車も通らなければ上がる気配もない踏切を眺めながら、ゆるりと口を開いた。


「一応海獣言語学? っていうのがあるって母さんは言ってたけど、まだ発展してないらしいからねえ。お話しできたら、面白いんだけど」


 琥珀色の目が好奇心を帯びて、きらりと光る。

 動物と会話するなんてお伽話みたいなことを語っているけれど、その口調は冗談には聞こえない。親のウソを信じている無邪気な子供というわけでもなさそうだ。


「そういえば、乙音の親って何してるの?」

「んー、とうさんはいないからよくわかんない」

「いない」


 今日のぼくは鸚鵡返しをしてばかりだなと思いはするが、予想外の答えばかり返してくる乙音との会話は大体いつもこうな気もする。

 表情が思わず硬くなっているのを一瞬遅れて自覚すれば、ちょうど同じタイミングでパシャンと水を叩く音がした。


「あはは、そんな深刻そうな顔しないでいいよ。海だと珍しくないし」


 ぱたぱたと手を振られたけれど、そんなことを言われても気を遣わずにいられる話題ではないだろう。


「……なんてコメントすればいいか全くわからない」


 思わず蚊の鳴くような声になってしまった。

 それを聞いて乙音はへにゃりと眉を寄せて笑う。


「うーん……そっか、陸だと珍しいんだ。えっとねえ、まず川の方の人は知らないけど、海の方では婚姻って別に必ず大切なものじゃないのよ」

「……夫婦がいないってこと?」


 そもそも一緒に住むとかそういう考えがないのだろうか、と聞いてみれば、ちょっと違うなあと投げ返される。


「なんていえばいいのかなあ、めちゃくちゃ相手を大事にするー! ってタイプと、こんにちはー! 子供作ろー! バイバーイ。ってタイプがいる感じ」

「……うん」


 ご丁寧に身振り手振りをつけてくれたが、軽すぎてどう反応を返せばいいのか本気で分からない。それは顔にも出ていたようで、乙音の尾びれが困ったように水面を掻いて銀色の波紋が浮かぶ。


「よくわかってないって顔だあ。なんだろうね、動物っぽいとでもいえばいいのかな。つがいを大切にするって本能で思ってる人と、色んな優秀な相手とたくさん残したい! って人がいるんだよ。うちの母さんは大切にしてるタイプではあるんだけど、とうさんが色んな相手とタイプでねえ、一緒に暮らしたことないからよくわからないんだよね。面白い人ではあるよ」


 さらに混乱させないでほしい。いや、乙音にとっては当たり前のことを言っているだけなのだろうけれど、茶化さずに説明しようとすればするほど陸と違いが思考を邪魔する。なにを言っても爆弾しか返ってこないような、嫌な予感がチリリと眉間のあたりで燃えた。


「その食い違いは大事件じゃない?」


 さすがにここは水陸関係ないだろうと思いながら探し出した言葉だったけれど、乙音のけろりとした表情に嫌な予感が的中したことを悟った。


「母さんは言いました『私があいつ以外と作る気がないのと、あいつがいろんな人と作りたいことになんの繋がりがあるって言うんだ?』」

「ぼくはそれを言われた子供の気持ちの方が気になるんだけど!?」


 キリリとした表情を作って母親の真似をしているけれど、かっこよさげな声色に対して言ってることがハチャメチャすぎる。一瞬道理かと思ったけれど、少なくとも小学生の娘に聞かせる言葉ではないだろう。

 ぼくなら一か月は悩んで知恵熱を出す。

 語尾がひっくり返ったぼくを余所に、この言葉こそ待っていましたと言わんばかりに乙音が歌うように切り返す。


「わたし『そっか!』、文月兄ちゃん『それを子供に言うな。まだ乙音と弥生は小学生なんだぞ』、姉ちゃん『ママはそういうタイプだよねえ』、流火にい『父ちゃんこの間フラれたって母ちゃんに泣きついてたよな』、弟の弥生『かあちゃんかっけえ!』」


「乙音のところの家族ドライ過ぎない?」


 器用に声色までつい分けて熱演されたけれど、残念ながらぼくは彼女の家族とは面識がないのでどれくらい似ているかは判断がつかなかった。

 それにしても文月さんとやらはきっと家族の中だと苦労しているに違いない。それ以外の面々が割り切りがよすぎる。

 目が据わったぼくの視線を受けながらも、乙音はちっとも違和感を感じてはいないらしい。無駄に声色なんて使うから喉が渇いたようで、肩掛けの水筒を両手で持ってこくこくと水分を補給しながら、こてんと首を傾げた。


「そう? 水のほうの家族なんてこんなもんだと思うよ? 両方つがい大切組が両親の子は違うかもしれないけど、なかなかそこで組める人って多くないらしいし」

「……ちょっと陸と違いすぎて頭痛がしてきた」

「ふうん……。じゃあ陸ってどんな感じ?」


 きらんと琥珀色が光った。

 たぶん、これはシャチの親が彼女の集落の頭上を旋回していた時と同じ目なのだろう。――好奇心と、こちらのスケールを図るような観察者の目。

 これは期待に応えなければと背筋を伸ばせば、少し熱い背もたれが背中に触れる面積が増した。


「どんなって……そうだな。まず基本的には一対一で夫婦になるし、浮気は倫理的にどうか、って言われる」


 乙音がはてと目を瞬かせた。顔のパーツが幼いからそういう表情をすると一気に子供らしく見える。


「うわき?」

「あっ、そこからか」


 言葉自体が存在しないこともあるのか。そうか。

 知ったかぶりしたものの、ぼくもまだテレビの中でしか見たことがない言葉だから、どうしたものかと宙を睨んでみる。慣れない言葉は使うものじゃない。


「……えっと、ぼくもよくわかってないんだけど、婚姻関係にある相手とか、恋人関係にある相手以外と デートしたり? みたいな」


 素直に白状しつつそういえば、おお、と言わんばかりに琥珀色が丸く見開かれた。


「うちのとうさん、陸だとやべーやつだね」


 だからといって突然嫌悪感が湧くわけでもないらしく、面白いことを聞いたと言わんばかりに口元が緩んでいる。まあ、乙音からしてみれば実生活に全く影響がない話なのだからその程度なのだろう。当然だ。水に陸のルールが通用するとは思っていない。

 ぼくだって、海では当然なのだから陸でもサメと戦えとか言われたら困るし。


「海に生まれてよかったね、乙音のお父さん」

「海に生まれたからああいう人なんだよ。たぶん」


 そんなことを話しながらようやく上がった踏切を超えれば、向こうの方に見慣れた横顔があった。

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