3. 臆病少年と無敵少女、のち青空アイス
あんなことを言ってしまったのだから、もう会うことはないだろうと思った。
後悔と寂しさとぼんやりとした喪失感が、心臓の裏側で泥のように混ざり合って渦を巻いていた。
だというのに。
「あ、むつきんだ」
ぱしゃん、と尾びれが水面を叩いて、つめたい雫が頬にぶつかった。
夢じゃ、ない。
「……なに。その呼び名」
罪悪感まみれのぼくをからかうように当たり前の顔をして、乙音はそこにいた。
今日ぼくが車輪の行く先に選んだのは、昨日までの陸路の行き止まりとは繋がっていない、二番目に気に入っている場所だ。
家から近い水場の中でもことさらひとけのないそこは、水路といってもずいぶんメインストリートからは奥まっていて、ちょっとした池のように流れがほとんどない。
今まで誰かがそこを通っているところなんて見たことがない。昨日までの場所が穴場だとするならばここは廃墟といった趣だ。けれど、彼女はあまりにも当然の顔をしてそこに居る。
とくにあたりをうかがうことなく、慣れた様子で泳いでいるところを見るに、彼女にとっても初めての場所というわけではないらしい。
むしろ昨日までの場所よりも寛いでいるようにも見える。
もしかしたら、彼女の家はこのあたりなのかもしれない。
(気になるわけじゃないけどさ)
ふいに浮かんだ考えを振り払うように、言い訳じみた言葉を口の中で転がす。
傷つけたのではないか、それとも自分なんかの言葉では彼女はびくともしないのだろうか。それはそれで悔しい。
絶交宣言みたいなことをしたくせに、そんなことをつい考えてしまう。
そんなぼくを見かねたわけでもないのだろうが、軽い様子で陸路側にいつものように上半身を投げ出した乙音がばしゃんと水面を叩いた。
「ねえ、なんでそんなの乗ってるの」
今さらだ。この数日間ずっと触れなかったのに何で今そんなことを聞くんだ。
あぶくのように喉の奥から競り上がる言葉は次から次へとはじけて消えて、ようやく舌先にたどり着いた言葉は、なんとも情けない声を纏っていた。
「……足、痛めているから」
語尾が口の中でもごもごと丸まる。いかにも言いたくないですといった表情のはずなのに、乙音は珍しく距離感を狂わすように言葉をつづけた。
「でもそれ、むつきん嫌いでしょ」
まるで、もう真綿は要らないだろうとでもいうようだ。
「その呼び方辞めて」
「睦月」
苦し紛れの話題逸らしもなんなくいなして、琥珀色の目が、清涼な声が、狙いすました狩人のようにぼくを射抜く。
「嫌いでしょ、その重そうな椅子」
ぎい、とタイヤの継ぎ目が鳴いた。
「なんでそんなこと」
「別に、言いたかないならどうでもいいんだけどさ」
真珠色の髪が風に揺れて、形のいい額にちらちらと影が揺れる。
「睦月がなんか言いたそうなんだもの」
「そんなわけがないだろ」
反射だった。
車いすについて言いたいことなんてない。
そう自分に言い聞かせ続けたせいで、妙に焦った声が出る、それは同時に、この銀色の重しに腰かけるよりずっと前から抱え続けている、一つの疑惑を暴く問いかけに繋がっていると、直感したせいでもあった。
「ふうん。まあ今はそういうことにしとくけど」
飄々とした風のような態度のくせに、逃がさないからなと言わんばかりに追撃は続く。
「じゃあ、それがないと動けないの? 睦月は」
いつのまにやら、初めて会った日のように眼前まで迫っていた乙音が、そっと指を車いすにかける。
きいきいと、大した力もかけられていないくせに、重しのような椅子が鳴いた。
たかが指の数本だ。振り払おうと思えば簡単に振り払える。けれど、ぼくはそれを選ばなかった。
琥珀色を見るのは、随分久しぶりな気がした。
「……大げさなんだ。母さんも、父さんも」
どこか抜けている人たちだから、きっと足のケガなら車いすだと安直に決めつけて、安くない買い物を息子のためだからと思い切ってしてしまったのだろう。と親子としての経験上、推測ぐらいはできている。
その善意が命を奪うことは確かにあるけれど、少なくとも今はまだ、ただの過保護で収まっている段階だ。
そう、冷静な頭ではわかっていても、心のどこかで、疑念を抱えた自分が囁くことを止める術をこの頃のぼくはまだ知らなかった。
すっと大きく息を吸い――細く長く、吐き出す。
月のように静かで鏡のように怜悧な視線に助けを求めるように、震える唇が言葉を紡いだ。
「……ぼくは、本当に、あの人たちの子供なのかな」
ずっとずっと、心臓からあふれて腹の奥底へと溜まり続けていた真っ黒なインクが零れ落ちていく。ボロボロと溢れた雫が膝に落ちて、灰色の布地が濃色に染まるのが見えた。
手厚い保護がこどもだからではなく、【他人の子供】だからなのではないか。
数年前に生まれた妹を見る温かい目と、自分を見つめる目の温度が違う気がする。それは、妹が赤ん坊であるという年齢だけの違いなのか、それとも【血縁の差】なのか。
もしも自分があの人たちの本当の子供ではないのならば、本当の親はどうして自分を手放したのだろうか。
一度それを抱いてしまったなら、日常が崩れるのは簡単だ。
なんてことはない日常の端々まで、余すことなく自分を騙すことを目的として作られた舞台装置なのではないかという疑念がいつも胸の中にあった。
両親や妹の髪の色や瞳の色が自分と色味が違う気がするとか、些細なことが気になって洗面台の鏡をふいに見ることすら嫌になって。
それでも、信じたくて――そんな、途方もない間違い探しをしているうちに、一番くつろげる場所だとかつては思っていたはずの家の中こそが、一番息苦しくなっていた。
逃げ出した先で見つけた光が、乙音だった。
乙音は耳から入れた情報を脳内で整理するように、ふっと空を仰いだ。そのまま背面からするりと水の中に戻り、幾度か沈んだり浮いたりを繰り返したかと思えば、ぱしゃぱしゃとどこか落ち着かない様子で尾びれが水を二度打ち、くるりくるりと横軸回転しだす。
初めて見る仕草だな。なんて、思い切って吐き出してみたおかげか、妙にすっきりした視界で改めて観察しようと目を凝らした瞬間、 ぱしゃん、といつものように水がはねた。
「ん~。それ、さあ」
随分と歯切れの悪い言葉が絞り出される。まるで口の中で今まさに成型するための型を探しているようだ。気を使おうとでもしているのだろうか。
だとすれば、そんなものは無用だ。
「ガキっぽいって?」
そう言って、ふは、と口先だけで笑ってみせる。
「いやいや。わたしたちまだ子供だし。じゃなくてさ、」
やっと口の中で言葉が練り終わったのか、乙音はとつとつと言葉を紡ぎあげる。
「もしも、睦月がその人たちの血の繋がった親子じゃないとして」
形のいい眉が怪訝そうに歪んで、名工が丁寧に作り上げたように繊細な造りをした桜色の爪が滑らかな頬を掻く。
そこでようやく、ぼくは彼女が言葉をなかなか見つけられずにいた理由を悟った。
「なんで血が繋がってなきゃいけないの?」
無神経に触れるようなものではないとはわかるけれど、それでも持ち合わせていない価値観の悩みをぶつけられて、困っていたのだ。だから、聞いていいのかどうか、どう伝えたものか――それだけを、悩んでいた。
「それは」
血縁の有無の大切さなんて当然だと咄嗟に反駁しようとして、我に返る。
答えるほどの根拠が、ぼくの中には存在しないことに気づいてしまったから。
「……なんで、だろうなあ」
茫然として、両手を見下ろす。
金魚の墓を作った時の、冷たい土の感触を思い出す。あれは忘れてはいけない記憶だ。けれど――その夏まつりに連れていくために手を引いてくれた彼らの熱だって、そこには重なっていたはずなのに。
その記憶だけは、何があっても確かなものなのに。
「わたしもたまーにあるよ。あ、この人たちわたしと血が繋がってないのかもなって」
あまりにも軽く、軽く、紙風船で遊んでいるような言葉だった。
「え」
「でもさ、今さら『私が乙音ちゃんの本当の親です』なんて言われてもさ、どうしろって言うのって思っちゃうんだよね」
ぼくの動揺は無視しているのか、それとも気づいていないのか。乙音がくるりくるりと水の中で踊る。真珠色の髪が揺れてきらめいて、自由な色が尾を引いている。
「わたしに獲物の仕留め方を教えたのは母さんだし、宿題わからないところを一緒に見てくれたのは
くるくると魔法使いを真似て指を踊らせているくせに、歌うようにそう語るくせに、家族自慢をしているというにはあまりにも静かな目で、少女は空を見上げていた。
ぼくを宥めすかすためだけに話を合わせたにしてはあまりにも、底の見えない横顔だった。
「わたしを生んでくれたことにはまあ、ありがとうって言わなくもないけどさ。わたしが『わたし』になったのは、間違いなく育ててくれた家族があるからだよ」
同い年の、小学生の、女の子だ。
どうして、彼女は感情に囚われずにいられるのだろう。こどもにとって家族なんてものは、どうしようもなく社会の最小単位で、最初に知る人で、基準になってしまうものじゃないのか。
ぼくがあんまり頭を抱えていたせいだろう。彼女はさきほどまでの静かな横顔が嘘みたいに、喉の奥からくつくつと笑い声を零した。
「……ま。あくまでわたしの気持ちだからね。睦月はもうちょい考えてみれば?」
ぱしゃん、と尾びれが悪戯に水飛沫を立てる。
きらきらと、太陽を跳ね返して銀の雫が光る。
「だってわたしたち、まだガキなんだから」
そう言って、ぼくの英雄は歯を見せながら笑った。こどもらしく、けれど決して弱くない、満面の笑顔だった。
「は、はは」
顔を手で覆えば、手のひらに濡れた感覚があった。口からは笑いしか出ないというのに、涙がでているらしい。
「なんか、馬鹿みたいだなあ、ぼく」
あんまり彼女がかっこいいものだから、自分がひどく小さなものに思えてくる。劣等感というよりは、自分の大きさを初めて正しく思い知ったかのような、恥じらいと充足感が 足元から満ちてくる。
「頭いいでしょ。睦月。だから悩むんだよ。多分。わたしはわたしだからモヤモヤを抱えたままにしておきたくなくて、一回これ! って答えを決めちゃっただけだし」
「そっか……」
それができるのが特異だということを、彼女はまだ知らないらしい。
きみは特別なんだと告げてしまおうかと迷って、やっぱり口を噤む。言ったところで何も変わらないし、どう言葉を選んでも僻みのように聞こえてしまうだろう。
飲み込んだ言葉の代わりを見つけたのは、少しの沈黙の後だった。
「ねえ、乙音。一個、内緒話をしてもいい?」
「お。いいよいいよ。乙音ちゃんの口はオオジャコガイのように硬いのです」
オオジャコガイってなんだろうと思いながら、九〇度に保たれたままの自分の足を見下ろした。
「……本当はね、ぼく、もう歩けるんだよ」
松葉杖もそろそろいらなくなるくらいに回復しているのだといえば、きっと目を丸くしているのだろうなとわかる声がした。
「え、なら歩けば?」
「そうだよね。そう、しなくちゃいけないのは、わかってるんだけどね」
ため息交じりに頷きながらも、ぼくの足は歩みだすことをしない。馬鹿にされたって仕方がないほどに情けないぼくの状況を改めて認識する。
重くても、邪魔でも、不必要でも――これは両親の気持ちそのものだと思えば、突き返すことがひどく恐ろしいと、怯えていることを自覚する。
ぼくは、そんな自分の弱さが嫌いだった。
両親の思慮の浅さを罵りながら、妹へのまっとうな愛をうらやみながら、こんなものを絆の証明としてすがるしかない自分が、嫌で嫌で仕方がない。
嫌ならやめればいいのだろうけれど、そうした先でわかってしまうかもしれない本当のことを知るのもまた、怖くて仕方がない。
あれが嫌だ、それが怖い。
そんなものに囲まれて、そんなことしか考えられなくなって、もうどこにも足の踏み場がなくなってしまった。
臆病で、卑怯で、嫌になる。
乙音が眩しくて、厭わしいのに、愛おしい。
明るくて、聡明で、自由な彼女が――目に痛い。
それでも見たいと思ってしまうのは、よく晴れた日の満月をつい見上げてしまうようなものなのだろうと、恐る恐る顔を上げる。
「って、あれ?」
顔を上げた先に、乙音の姿はなかった。
(帰った……?)
いつだって、帰ると言い出すのはぼくの方だった。だから、どんな話をしても自分から言い出さなければ彼女は最後まで聞いてくれる――そんな甘えを見透かされて、乙音は去ってしまったのだろうか。
「そりゃそう、だよな……こんな話、聞かされてどうしろっていうんだ」
当たり前だ。と唇を噛もうとした時、薫風が吹いた。
「どうしろっていうんだと思ったから、アイスを買ってきてみたよ!」
ばしゃん、とおなじみの音を立てて跳ね上がり、乙音が器用に二又の尾びれで陸に着地して見せる。その頭上で揺れる籠の中には、鮮やかな原色で「アイスバー」と刷られた袋が二つ収まっていた。
何考えてるんだ、こいつ。
「は? なんでそうなる?」
思わず真顔になって低い声が喉から漏れた。そんなぼくの様子など見えていないように、乙音は当たり前の顔を崩さない。
「え、ゆっくり悩むということが苦手そうだから」
「待って。たぶんすっごい途中が抜けてる」
「そう?」
満月みたいな目がぱちりと瞬いた。パンッと袋の空気が握りつぶされる。
「だって、アイスは溶けちゃうからさ、悩む間も食べ続けないといけないでしょ?」
「……うん?」
わかるような、わからないような。
質問に疑問を返すのも癪だけれど、理解もせずにそのアイスを受け取るのも違うような気がして、首を傾ける。
乙音はそんなぼくを見て、至極愉快そうに笑った。
「楽しく生きながら悩めばいいってこと!」
どうせ悩むなら、楽しく悩もうよ
そんな言葉と共に問答無用で口に突っ込まれたアイスは、爽やかな空の味がした。
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