2. 再会、時々後悔

 次の日、ぼくはどうにも家にいる気が起きなくて、昼下がりに家を出た。正直、なんで一番日が高い時間に出てしまったのだろうと車いすの重さに喘ぎながら昨日の場所にたどり着く。

 ここは水路と陸路に障壁がなく人通りも少ない。ぼくの目的のためにはぴったりな場所だから。

 そう思っていたのに。

「あ」

「げ」

 その薫風のような声が耳に入ると同時に、思わずひきつった音が喉から漏れた。我ながらあんまりの態度だ。さすがに怒るかと思えば、やはり少女はからりとした声で笑う。


「同じ時間に来ておいて、それはおかしくない?」

「別に。ここが通り道なんだよ」

「それは無理があるよ。この先、陸は行き止まりじゃん」


 昨日は突かれなかったからごまかせるかと思ったけれど、そんなことはなかった。下肢がアシカのようになっている彼女がどうやって陸路の様子を知ったのかは気になるところではあるけれど、体のことで嘲笑っているようにも聞こえかねない。そういうことをしてはいけないと、散々学校でも家でも言い聞かされているし、実際あまり格好のいいことではない気がして、別の逃げ道を探そうと頭を回す。

 けれども、暑さのせいだろう。ふいに、なんだかどうでもいい気分になった。少しの逡巡の後、ぼくは素直に言葉を舌に載せた。


「……水に」


 思えば、これを誰かに言うのは初めてだなと気づいて、すこし喉が渇く。やってはいけないと散々言い聞かされたことを踏み抜く言葉はひどく苦い味がして、つばを飲み込んで続けた声は少し掠れていた。


「水に、触りたくて」

「へえ、陸の人もそう思うことあるんだ」


 乙音は馬鹿にする様子もなくそう返し、ぱしゃんぱしゃんと風に落とされたのだろう白い花をつついて遊びはじめる。キラキラとした飛沫がサンダルから覗いた爪先にかかって、涼しさが滲みる。


「暑いから。今日」

「ふうん。そんなものなんだ」

「水の人はそういうのなさそうだよね」


 なにせ、生活の大半は水に浸かっているのだというのだから、このべた付いた熱気との縁はすぐに切れるだろう。

 乙音の手元から離れてするすると流れていく花を目で追いながら、羨ましさ半分に言葉を投げる。乙音の目がぱちりと瞬いた。


「ええ? あるよ」


 今度はぼくの目が丸くなる番だった。羨ましさが少し遠のいて、目の前の少女の輪郭が見えた気になる。


「あるんだ」

「もちろん! ……まあ、暑いよりは寒いときだけど」

「ああ……」


 いつか、本で読んだことを思い出す。気温が低いと水中の方が温かい、とかあるのだったか。


「寒い地域の水っ子は逆らしいけどね」

「……へえ」


 寒さに慣れていると暑さに弱いのだろうか。水面を見つめてみれば、光の線を模様のように散らしながら、真珠色の尾びれがゆらゆら揺れているのが見えた。


「お。こういう話好き?」


 なぜだか、しげしげとぼくの顔を覗き込むようにしてそう聞かれた。丸い琥珀色の目が三日月のように弧を描いている。


「好き……とかは、よくわかんないや」


 足を自由に動かせたなら、水面を蹴っていただろうな。なんてできもしないことを思いながら、ぼくは白い光の面の隙間から見える水の内側の感触を夢想する。

 陸の人間は湯船に入るとき以外、めったに水に浸かることはない。

 水の中は乙音のような水の人の領域だから、軽率に立ち入ろうとも思わないのだという。

 ――あんなに美しいのに、なんてもったいないことをするのだろう。

 ――なんでぼくは彼らのように自由にできる体ではないのだろう。妬ましい。口惜しい。

 ぼくが水の人だったなら……なんて、叶うはずもない夢を脳裏に描いていれば、目の前にすっと長い枝が差し出された。見覚えがある枝ぶりと長さに思わずため息をつく。誰が持っているかなんて言うまでもない。


「……きみ、本当なんなの」


 地面に落書きするのが好きだとでも思われたのだろうか。心外である。

 なんだか妬ましく思うのも馬鹿らしい自由さに、がっくりと肩から力が抜けた。そんなぼくの様子を気に留めるでもなく、乙音は水の上にぷかぷかと浮きながら両手でピースする。


「乙音ちゃんでっす」

「あっそ」


 軽い調子でおどけているのは、たぶんわざとだろう。頭の回転も察しも悪くないと、昨日と今日の彼女しか知らなくてもわかる。寄せては返す波のように、距離感が常に心地よく保たれている。こんなことができる子は、少なくとも陸のクラスにはいなかった。

 ミンミンジリジリ、ジージーギギッ

 蝉の声が土砂降りに思えるくらいの沈黙が流れた。

 といっても、不思議なことにうるさいはずの蝉の大合唱も不快にはならず、憎いはずの暑さも夏らしいと思えた。ましてや乙音との間に横たわった沈黙は不快どころか、真綿のような柔らかさをもっているようで、いっそ心地よさすら感じる。

 こんなことは初めてで、どうかこの時間が途切れないようにとひそかに祈りながら、ぼくはなんとなしに乙音を観察する。

 相も変わらず水面で気持ちよさそうに漂っている彼女の、肩口で整えられた真珠色の髪が太陽光を受けて赤に、緑に、黄色に、青に、くるくるとシャボン玉のように色を変えながら光っている。陸の人間にはいない色彩だけれど、水の方では多いのだろうか。それともぼくが知らないだけで、世界にはこの色も溢れているのだろうか。

 ――それは嫌だな、と頬を流れ落ちる汗をぬぐいながら思う。

 健康的な肌によく映えるその髪色は、自由の象徴のように思えた。どんな固定の色とも言い難い、以前テレビ画面の中で見た真珠がかろうじて似ていると合格点を与えられるような、今まで見たことのある色の中で最も定まらない、美しい色だ。

 そんなものが世界中にありふれているというなら、ぼくはもっとぼくを呪わなくてはならなくなる。ただでさえ鏡を見るのは、ぼくの鬱屈を掘り起こすようで気が重いのに。その色を持って生まれてこれなかった自分が大嫌いになってしまいそうだ。

 乙音に実際どうなのか確認しようとも思ったけれど、やっぱりこの心地いい真綿の時間を終わらせるのは惜しい。

 髪と同色の尾びれだけを水面から出してなにやら曲芸泳ぎをし始めた彼女の観察はいったんやめにして、昨日見つけたひまわりの黄色へと目を移す。

 意識を傾けたからだろうか、髪を揺らした風に供をしてきた水の香りに混ざって、土のにおいが鼻の頭をかすめた。ここ最近常にたっているコンクリートの焼けるようなにおいとはまた違う。少し湿っていて、生々しい命と死のブレンドされたような少し恐ろしくて懐かしいにおいだなと思った。

 別にこの町は都会と違って全部が全部固められているわけではないのに、案外土のにおいを意識したことがなかったんだな。なんて新鮮な驚きがぼくの心臓を支配した。

 ひまわりが水面にチカっと光って、蝉がボトンと根っこに跳ねて、さあっと木々が葉を鳴らす。

 手の甲がお日様に焼かれては熱を持ち、汗をこそげとった指先には透明な絵の具がべたついて、しょっぱいにおいがぷんと鼻をつく。

 なんてことはない、夏の鬱陶しい景色だ。昨日まではそう切り捨てていた光景だ。けれど今のぼくには、やけに面白い発見に溢れているように見える。

 

 夏とは、こんなに明るいものだったのか。

 

 視線がぼんやりと、水面に戻る。ちゃぷちゃぷと揺れる水がひどく美味しそうに見えて、ぼくはぶら下げていた水筒に口をつけた。

 苦いような酸っぱいような甘ったるいような、いかにも補給用ですというスポーツドリンクは苦手なはずなのに、そのときは喉を通る冷たさだけを感じて、美味しいと素直に思えた。

 きゅぽん、となんとも言えない音が飲み口とぼくの唇の間で鳴って、なんだか真綿を裂いてもいい気分になる。

 といっても、こんなものの裂き方を知らないぼくは、やはりうだうだと不満めいた言葉しか発することができなかった。


「……あっつ」

「夏だもんよー」


 ぱしゃん、と尾びれがぼくの爪先に水を蹴る。


「そういうことじゃ、ない」


 お返しにこちらもばしゃんと水をかけ返してやろうと水面に手を伸ばそうとして、ぎしりと呻いた車いすに引き留められる。ぼくは金縛りにあったみたいに動かない足を見下ろしながら、銀色の椅子に小さく爪を立てた。

 そんなぼくの不自由を見ていなかったのだろう、乙音は空を眼球に映したまま、こどもらしく笑った。


「はは、何それー」


 水の人は汗をかかないのだろうか。きゃらきゃら笑う顔に思わずイラッとくる。乙音に咎がないことくらいわかっているけれど、感情が理性を追い越して心を染め変えていく。

 ――どうして伝わらないんだ。なんて、言葉にできていない自分のせいだというのを棚に上げた言葉が頭をよぎる。

 情緒不安定にもほどがある。落ち着け。頭をふるふると振ってざわめいた腹の奥にそう語り掛けても、苛立ちの波は収まることがない。

 妙な八つ当たりとしてぶつけてしまうよりはマシだろう。そんな身勝手なことを思いながら、ハンドリムに手をかけた。


「……帰るね」


 我ながら理不尽だし唐突だ。

 さすがにこんな突然去ろうとする相手なんて、気分を害するに違いない。引き留めて文句の一つでも投げてくるだろう、と思っていたこのころのぼくはやはり、まだまだ彼女のことを理解していなかったのだ。

 だって、この時も乙音は何でもないような顔をして、ひらりと手を振って体を水面に横たえていたのだから。


「そう? じゃあねー」


 少しくらい惜しんでくれてもいいのに。

 そんなじっとりとした感情が舌の根っこに張り付いて、気持ち悪かった。

 

 次の日も、また次の日も、乙音はそこにいた。

 怒った様子はやっぱりない。ぼくは謝ることもできずにそんな彼女の調子に無賃乗車して、真綿の時間を甘受し続けた。

 鉢合わせて、水に少し触って、ぼーっとして、帰る。無意味と言われるだろう行動ばかりを繰り返しているのに、それが奇妙に心地いい。

 うだるような夏の熱気も蝉の声も、乙音がぱしゃんと一つ尾びれで叩くだけでなんだか煌めいたものになるようだった。

 ぼくはそれに勝手ながら友情という名前を付けた。

 真正面から「今日からぼくらはお友達だね」なんて言える愛らしい性格であればよかったのだろうけれど、ぼくはそんな物を持ち合わせていない。よって、胸の中でひっそりと呼ぶだけだった。

 けれど得難いそれを両手で抱きしめれば抱きしめるほど、なんだか後ろめたいことをしているような気持ちが徐々に色濃くなっていくのを、ぼくは心の隅で感じていた。

 いつまでもこの日常が失われないようにと願うことが、罪であるように思えてならなかった。

 最初は気のせいだろうと思っていた。宿題だって順調にこなしているし、こうして水辺にくることはたしかに大人はいい顔をしないのだろうけれど、別に法律違反でも何でもない。ぼくと乙音が仲良くなることは悪いことじゃない。だって先生だって言っているじゃないか、『水側の子とは仲良くね』って。

 ――そうやって、言い訳のような言葉を重ねてしまう時点で、本音がすぐ後ろにあることに気づいているも同然だった。

 わかっている。この後ろめたさの正体は――乙音のちょうどいい距離感に甘やかされて、自分の居場所だと勝手に名付けて居座っていることへの罪悪感だ。

 そんなことを思うこと自体許されないというのに、腰を落ち着けようとしている自分への嫌悪感だ。


 だって、落ちてしまいたくて、沈んでしまいたくて――かえりたくて、ぼくは水に近づいたのだから。


 最初に乙音が言い当てた通りに、水をぼくを殺す道具にしようとしたのだから。

 仲良くしていいと――友達なんて名前を付けて呼んでいいと本気で思っているのかと、良心が叫んでいるのだ。

 

 日に日に、そんな後ろめたさが注ぎ足されて。心の中のコップの縁へと近づいてくる。

 ハンドリムにかける手が重くなった。

 目を見て話せなくなった。

 差し出された氷菓を受け取ることを戸惑った。

 夕食はおろか、昼も夜も食べる気がしなくなった。

 水面に映った自分の顔が醜く見えた。

 鏡すべてをかち割りたくなった。

 全部吐き出してしまおうと開いた口で、差しさわりのないことしか言えなかった。

 自分の身勝手さに、弱さに、反吐が出た。

 

 離れなくては、そばが心地いい、彼女と友達でいたい。友達でいる資格なんてない。

 

 ぐるぐると頭の中で、そんな言葉だけが煮詰められていく。

 煮詰めて煮詰めて、言葉が焦げ付いてしまうほどに。

 

 だから、こんなことを言ってしまったのだろう。


「きみといると、ぼくはおかしくなる」

「もう、ぼくに関わらないで」


 正直、傷つく資格もないくせにぼくはこの時のことをよく覚えていない。


 いつものようにゆったりとした時間の中で言ったのか、なにかきっかけがあったのか。こんなことを言ってはいけないと理性が叫んでいたのか、それとも言ってしまっても構わないと捨て鉢になっていたのか。あらゆることを、覚えていない。

 ただ一つ。困った顔をした乙音の顔だけが、瞼の裏に焼き付いている。

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