人魚のきみと猿のぼく

冴西

夏に出会い

きみとのはじまり/ぼくのおわり

1. はじまりはじまり

 この世界には、人魚がいる。

 

 まあ、この呼び方は絵本の中や昔話でしか見ないような古い呼び名だし、なによりあの子が聞いたら不満げに片眉を上げた後、いじわるに笑うに違いない。

『じゃあ、きみのこと古式ゆかしく『毛なし猿』とでも呼んでもいい?』

 なんて、意趣返しの一言を添えながら、その真珠色の尾びれでぺしんと水面を叩くのだ。

 

 改めよう。

 

 この世界には、人間がいる。

 ひとつは陸に住んでいる。学名ホモ・サピエンス・テラ――陸の賢いヒト。

 ひとつは水中に住んでいる。学名ホモ・サピエンス・アクア――水の賢いヒト。

 

 歴史上、多くのすれ違いや軋轢、差別、弾圧を繰り返し、ようやく互いを『ヒト』と認め合った、未だ分かれ切らぬホモ・サピエンスの亜種二つ。これこそがぼくたちであり、あの子たちだ。

 もっとも、これから語る話に、そんなヒトが歩んできた多くの血濡れた道筋が大きく絡んでくることはない。

 あの子の人生において、そしてぼくの人生において、けして無視できない話題ではあるから、いつか語ることになるかもしれないが、今ではない。

 

 今回のお話は、もっと単純で至極ありふれた。二人の少年少女の友情譚だ。



 *** **** ******


「きみ、そんな死んじゃいそうな顔でこちらを見てどうしたの」


 風がないせいでひどく暑くて、べたべたとした空気が拭い去られるようだった。湿気や熱気とは程遠いさっぱりとした声に耳をくすぐられ、ぼくは眉をひそめてジロリとそちらへ眼球を回す。


 そこにいたのは、真珠色の少女だった。


 髪は白を基調としながらもほのかにブルーやピンク、ライトグリーンの小さな光の粒を帯びる真珠色。くるんと上向いた睫毛が意志の強そうな明るい茶色の大きな目を彩っている。人形だと言われれば納得してしまいそうな整った造形を持つ、同い年くらいだろうその女の子は、お風呂にでも浸かるようなを自然さで水路に浸かりながらこちらを見ていた。


 『水の人』だ。


 水路はそのためにあるから、何の不思議もない。けれどこれまでこの通りで見たことがなかったから、てっきり誰も使っていないものだと思っていた。

 ぎくりと跳ねた心臓をごまかすように、表情を作る。


「……ぼくに構わないでくれる」


 優等生に見えるように整えた容姿には不釣り合いだろう、唸るような声が歯列から漏れた。不機嫌だと喧伝するように眉間の皺も添えて、威嚇であると顔のすべてで示す。理不尽なセリフではあるけれど、大抵の人間ならば関わり合いになりたくないと背を向けてくれるから便利な言葉だ。

 しかし、それを真っ向から受けたはずの少女は怯えるわけでも呆れるわけでもなく、やはりさっぱりとした声でそれに答えた。


「そういうわけにはいかないよ。入水なんてされたら、わたし達しばらくここを通れなくなってしまうんだから」


 そうか、この水路は『彼女たち』にとっては本当に「道」なんだった。そんな少しの罪悪感を顔に出さないように腹の底に沈めながら、不機嫌な声を乱さないよう低い声のまま目を逸らす。


「そんなの知らないよ」

「えー、知っていてほしいんだけど」


 ぱしゃん、と軽く水を叩く音がして、少女の姿が一瞬水中に消える。白い波紋がゆらゆら揺れる合間に、透明な水の中でくるりと身をひるがえした彼女の下肢がちらりと見えて、心臓がどきりと大きく肋骨の中で鳴った。


(『尾びれ持ち』だ、この子)


 水の人は、陸の人と異なる水中に特化した体を持っている。けれどその大半は陸の人と同じような二本の足に、水かきや泳ぎを補助するヒレがいくつかついているだけだ。絵本に出てくる『人魚』のように、下半身がすっかり一つの尾びれになっている人間はひどく少ない。

 それは、まだ小学五年生になってやっと夏休みに突入したばかりの子供でも知っていることだった。――そのヒレのせいで、色眼鏡で見られやすいということも。

 こうして改めて実際に目にすると、その尾びれは魚というよりはアシカやオットセイのように滑らかに見える。光の加減で色を変えるそれで器用に方向転換した少女は、大きな水音と水しぶきをあげて銀色に光る水面から飛び上がった。

 きらきらと、砕いた宝石の欠片みたいなきらめきが美しい曲線を描いて少女を彩る。

 瞼がぐっといつもより大きく上がって、太陽光がより多く目に入る。太陽そのものがそこにあるわけではないのに、その姿は眩しく輝いて見えた。


(飛んでるみたいだ)


 アシカじゃなく、イルカだったのか。

 目の前の美しい生き物を観察するのに脳の大半を割いているせいで回らない頭で、ぼくは思う。

 水の中に生きる存在なのに、陸を歩く自分たちのほうが脳天は空に近いはずなのに、少女の肢体はあまりにも軽く、軽く、美しく宙を舞っている。


「って、あぶなっ」


 くるりくるりと宙を舞った少女の肢体が落ちていく先は、どう考えても先ほどまでいた水面ではなく、ぼくがいる硬い地面だ。

 思わず上げた声が聞こえていないのか、少女はそのまま、まっすぐ落ちていく。眼前で、けれどけして手が届かない場所で、真っ赤な柘榴の実がぐしゃりと潰れる様を幻視して、喉がひゅっと空気を鋭く吸い込んだ。

 ――不思議そうな目と、視線が絡んだ。

 茶色の目が、陽光を吸って本来の琥珀色に輝いている。

 白くて、細い腕が地面に向かって突き出される。

 幼い、ふくふくとした手を脱却しつつあるその指の谷間に、ピンク色の水かきが薄く伸びて透けるよう。

 きれいな真珠色の髪が、きらきら虹色を帯びながら、風に揺れている。

 つるりとした尾びれが空気をぱしんと叩いて、薄い腹の向きがほんの少し切り替わる。


(なんて、自由な)


 そんな場合じゃないのはわかっているのに、少女の姿に、まるで宙を自在に泳いでいるかのような美しさに、ぼくは魅入られた。

 瞬きや呼吸音すら雑音と切り捨てた上体が不自然に静止する。

 ぎし、と常ならざる体重のかけ方をされた車椅子の金具が悲鳴を上げて、世界に音が戻る。ジリジリと肌を焼く熱と蝉の声に、ハッとして息を吸い込んだ。どっどっど、と早鐘を打つ心臓を抑える。

 同時に、当然のように地面に軽々と倒立の形で着地した上で器用に前転した少女が、ぐいっと互いの鼻と鼻が触れるほどに顔を寄せてきた。それこそ、アシカのように両手をついて、背中を弓なりにしならせながら。

 水の清いにおいと、花のような香りがふわりと鼻孔をくすぐった。


「きみ達にとっては水路の一つが汚れるだけでも、わたし達にとっては道なんだよ? ここ」


 一瞬、何の話をされたのか、わからなかった。

 遅れて、先ほど入水したら水路が使い物にならなくなることを『知らない』と言ったことを責められているのだと、理解する。

 今まで見たこともない見事な大ジャンプを目の前で決められて、同年代よりも多少動きがいいと自負していた脳がまるで使い物にならなくなっている。それを自覚して、ぼくは背筋をじわじわと驚愕と羞恥が競り上がってくる感覚を知った。

 陽光に熱されたせいだけではない頬の火照りをごまかすように、再び口を開く。唇を滑り出した言葉の妙な速度に、ああ失敗したなと囁く自分がいた。


「変な子ってよく言われない?」

「きみには言われたくないなあ。もちろんよく言われるけどさ」


 気が済んだのだろうか、両手から力を抜いて、後ろに倒れ込むように水路へ少女は戻っていく。ばしゃん。と大きく水柱が上がって、膝のあたりがほんのりと濡れた。

 もともと、汗で濡れていたのだから構わないけれど。

 用事が済んだのだからいなくなるだろう。そう思っていたが、少女はなかなかその場から立ち去らず、目の前を気持ちよさそうに泳いでいる。

 こちらはこんなに暑いのに、と小さな苛立ちがどうにも目に余って、やはりぼくの口からはつっけんどんな言葉ばかりが零れだす。


「どっかいってよ」

「きみがここにどぽんと落ちてしまわないとわかったら、帰るよ」


 まるで湯船につかっているように陸路と水路の境目に少女が腕を預ける。


「なんでぼくになんて構うの」


 拗ねた声だ。と他人事のように思う。けして褒められた態度ではないはずなのに、彼女はやはり不愉快そうにするわけでもなく、琥珀色の瞳でこちらを見上げた。ちょうど彼女がいる水路側が木陰になっていて、白い肌に斑に光が落ちてふわふわ揺れて見えた。


「さっき言ったでしょ」


 にんまりと笑う彼女に、なにを言っても無駄だと悟る。


「……わかった」


 彼女が去らないなら、ぼくが去るしかない。ハンドリムに手をかければ、ひどく重い気がした。まだ、家への道は半分ある。

 憂鬱な気持ちを隠さずため息をつけば、少女がまたぱしゃんと一つ水面を尾びれで打った。


「ねえ、きみ」

「なに」

「名前は?」


 通りすがりだろうに、なんでそんなことまで聞いてくるんだ。そう不審に思う自分の裏で、わずかに何かがひび割れる音を聞いている自分がいた。その音に不快さはなく、むしろどこか心躍るような音だ。

 世界の殻が割れて空が見えることを期待している――そんな自分に気づかないまま、ぼくは彼女を見ずに不機嫌な声を作った。


「なんで教えないといけないの」

「それは」


 問うてきた最初と同じ、軽やかな調子のままで、少女はまた、にっこりと笑う。よく笑う子だ。


「わたしがきみに興味があるから、じゃあだめ?」


 人によっては蠱惑的と受け取ることもあるだろう魔性めいたセリフだが、ゆらゆらと上機嫌に揺れる尾びれが、どうにも愉快さを求める子供っぽい感じを滲ませている。


「……変人」


 応えた声に小さく笑いが載っていることに、発声と同時に気づく。もしかして、ぼくは笑っているのだろうか?


「よく言われる」


 けして誉め言葉ではない言葉をかけられたというのに、少女は面白そうに笑みを深めた。

 今まで級友や周囲との会話では感じた事の無いような、言葉を交わすだけわくわくとしてくる高揚感を覚えながら、優位をとられまいとすました顔で言葉を返す。


「先に自分の名前も言わない気?」

「あ、そっか」


 どこかわざとらしく手を打って、少女は琥珀色の目を煌めかせた。


「わたしは乙音おとねだよ。乙姫様の乙に、音楽の音」


 どこか聞き覚えのある響きだ。どこだっただろうかと思いながら、首を傾げる。


「……名字は?」

「みょうじ……ああ、家族みんなが名前の上にくっつけてるっていうアレ? 水側にはそういうのないんだよね」

「へぇ……、いいね。煩わしくなさそうで」


 純粋に、そう思った。腰を下ろしているものの重さがふいに蘇って、思わず腕をさする。


「生まれた時からこれだから、どっちが楽とかはわからないけどね。さあさ、次はきみの番だよ」


 楽しそうに、歌うような調子の乙音に問われると、なんだかぼくでも上等なものになった気になった。ちょっとだけ背筋を伸ばして、胸に軽く手を当てる。


「睦月だよ」

「むつき。漢字は?」

「普通に……。教科書とかで昔の月名って見たことない? あれの一月」

「見たことがあるような、無いような?」


 今度先生に聞いてみようかなあ。と乙音は顎に手をやる。薄い水かきが見えて、本当に水側の人なのだなとぼんやりと思った。


「……はあ、そこ、浮いてる枝とって。長い奴」

「? はい」


 昨日は風が強かったからどこかで折れたのだろうかと思いながら、手渡された枝を受け取る。びしゃびしゃに濡れていて、散々太陽に焼かれた体にはちょうどいい。


「腕、ちょっとどけて」


 熱されてよく乾いた地面に、濡れた棒で手早く『睦月』と書く。端から蒸発して消えていく様に、暑さを再認識してため息が出そうになった。


「これ」

「おお。確かに見たことある」


 どこか大仰にうなずいてみせた乙音に、失礼だろうけれどぼくは二、三目を瞬かせる。


「驚いた。きちんとそういうの覚えてるんだ」

「ふふん。乙音ちゃんは案外いろんなことを覚えているのです」


 どうだと言わんばかりに胸を張る彼女に、思わずふっと息を吹き出した。


「自分で案外って言っちゃってるし」

「……んふふ」

「なに。変な笑い方して」

「んにゃんにゃ。やーっと笑ったなあって」


 さっきから、楽しそうな声はしても顔には全然だしてくれなかったからさ。とにまにま笑う彼女に、思わず声が裏返る。


「はあ?」


 頬に触れる。意識していたはずのしかめっ面が、たしかにどこかへ吹き飛んでしまっていた。


「言ったでしょ。死んじゃいそうな顔が気になったんだよ。睦月のさ」


 満足満足と言いたげなゆったりとした仕草でくるりと水中をまわる彼女に、ぼくはなんだかしてやられた気分になって、膝の上で頬杖を突く。手のひらを当てた頬がなんだか熱いのは、きっと日焼けのせいだろう。


「……はじめて会ったくせに、なにそれ」


 あと、呼び方。そんな風にとってつけたように苦情を言えば、道化じみた振る舞いに反してわりと人を見ているらしい乙音は、おや、と眉を上げた。


「呼び捨て、嫌いなの?」

「……いや、ただ慣れないだけ、かな」


 下の名前で呼ばれにくい人種というのは一定数いると思うが、ぼくもそれだ。大体名字とか、あとは優等生の顔を作っている間にいつの間にかなっていた学級委員長とかの役職名で呼ばれている。


「ふぅん。普段はなんて呼ばれてんの? むーちゃんとか?」

「そんな幼児みたいな呼び方許したことはない」


 母あたりが幼めのふるまいを好むので名前にちゃんづけしてくるけれど、さすがにそこまで砕けた呼び方をされて覚えはない。


「充分わたしたち、子供だけどね」

「子供と幼児は違うだろ」


 ふにゃふにゃと、ベビーベッドの上で転がる妹を思い出す。あれは乳児だけれど、あのあたりと自分が同じと言われるとどうにも疑問がある。

 あんな持ち上げたら、ころころもちもちしていそうなものだったころが自分にあるとは思えない。


「そうかなあ。まあいいや。で? じゃあなんて呼ばれてるの?」

「別に。普通に、名字だよ」


 あとは委員長とか、と続けそうになってやめる。なんとなくこの短時間でつかめてきた乙音の性格的に、ここでそれを言うと永遠に委員長呼びしてきそうだ。ノリで。


「そういえばきみのみょうじ、聞いてない」

「言う必要ある?」


 できれば言いたくないという気持ちをこめてみる。

 一瞬考え込むように乙音は静止し、観察していなければ気づかないくらいに小さく視線を左下にやったかと思うと、ぱちりと瞬いて笑う。


「こっちにない文化だから、気になるな」


 たぶん、一瞬検討はしたけど好奇心に負けたとかそういうところだろうか。


「……久我山くがやま。久しぶりの久に、我がままの我、山は向こうに見えるそのまま」


 ついでなので、まだそばに置いたままだった棒でそちらの漢字も書いてやる。すでに名前の方の字は蒸発したのだろう。きれいさっぱり灰色の地面から消えていた。


「ふむふむ……じゃあ睦月は、久我山睦月くん。というのが正しい名前かあ」

「正しいって……名字と名前は別々だよ」

「そうなの?」


 一緒に捉える人もいるのだろうけれど、ここはあえて自分の持論を押し通しておく。


「そうだよ。いろんな事情でわりと名字は変わることあるみたいだし……少なくとも、ぼくは、睦月だけで充分ぼくだ」


 そう、信じておきたい。という気持ちからくる言葉だということには目をつむって、断言する。乙音は何度か吟味するようにうなずいて、はて、と首を傾けた。


「じゃあなんで名字なんてあるの?」

「知らないよ。大人の勝手とかそういうやつじゃないの」


 仮に知っていたとしても語る気になれない言葉への質問に、つい返答がとげとげしくなる。もともと優しく返しているつもりはないけれど。

 そんなあからさまな態度に不機嫌になるでもなく、やはりどこか愉快そうな表情で乙音はこちらを見たまま、口を開く。


「まだ出会って数分だけど、陸の社会ってもっとこう、愛想とかいうのが大切なんじゃなかったっけ?」

「なに。愛想ふりまいてほしいの。やってやろうか」

「ええー。いらないよそんなの」


 どうせ学校で散々やっていることだ。ともはや喧嘩を売ってるような語調になりながら返せば、ひらひらと手を振ってきゃらきゃら笑いながら躱される。


「じゃあ、なに?」


 沸騰しかけた感情がゆるやかに冷めていく。どうにも感情を目の前の少女に操られているようで気持ちよくない。けれど、無駄に乱高下する同級生たちを相手にするよりはずっと楽で、不思議な気分だ。

 ぼくの言葉を受けて、思い返すように琥珀色の目が宙を見上げる。陽光が射してキラキラ光る瞳の向こうが気になって視線を追えば、水路沿いの花壇にひまわりが眩しい黄色に咲いているのが見えた。

 えっとねえ。と乙音が口を開く。


「前に見かけた陸の人がね、楽しいのか楽しくないのかよくわからない顔をしてでも笑っていたんだよね。それが不思議で先生に聞いたことがあるんだよ。『なんで陸の人は群れになるとき変な顔をするの』って」

「直球過ぎない?」


 さすがに遠慮がなさすぎる。先生はどう返したんだと問えば、『それが愛想ってやつだよ。よくわからないよねえ』と言われたらしい。


「学校の先生がそれでいいのか……?」

「水側にはそんな社会性ないのだよ、ワトソン君」


 だいたい実技に重視置いてるしね。と言いながら乙音はその場でくるくると旋回する。軽い渦ができているが、そろそろ対話に飽きてきたのだろうか。


「コナン・ドイルに怒られるぞ……。というか水側でも本って読めるんだ」

「読めるよ? まあ陸で出てから数年待たないといけないこともあるけど」


 当然。とでもいうような顔で返されたが、ぼくにとって紙は水に弱いものだ。


「……紙ふやけない?」

「結構前に水用紙っていうのが作られたの。陸の人だって使ったことあると思うよ? ほら、水中ホテルとかでよく使われてるって聞くし」


 たとえに出されたのは、ここから電車を何本も乗り継がなくてはならない大都市にあるホテルだ。テレビでしか見たことがない。気軽にそれが話題にでてくるあたり、案外お嬢様だったりするのだろうか、この子は。

 浮かびかけた仮説を無粋だなと脳内で蹴散らして、話を続ける。


「それ、都会の話だろ。水の人が商売人に化けたとか言われてるやつ」

「こっちでは陸の商人が水に飛び込んだんだとか言われてるよ」


 ある意味で陸でも水でも一番有名だろうその人の、清潔すぎて白く浮かび上がって見える歯のきらめきを思い出し、食傷気味になる。

 乙音も全く同じことを思い浮かべたのだろう。すこし顔色が悪い。

 別に恨みはないのだが、どうにもあの商人は濃すぎて消化不良を起こす。


「……ごめん。帰る」


 胃のあたりのもやつきはたぶん、終業式の後に何も食べていないせいだろう。


「そう? その椅子重たそうだし、気を付けて帰りなよ」


 指さされて、タイヤを動かそうとした手を思わず止める。

 彼女に悪意がないことはわかっているし、きっと純粋に心配してくれているだけなのだろう。

 そこまで理解しているのに哀れんでいるように聞こえたのは、ぼくが弱いからだ。

 大きく息を吸って、吐き出して。学校で貼り付け慣れた笑顔を浮かべて、軽く会釈をする。


「そっちこそ、気を付けて帰ってね」


 彼女との会話に感じ始めていた心地よさから目を背けるように、ぼくはその場を後にした。あとはもう、振り向くこともなく。

 ――だから、気づかなかった。遠ざかっていくぼくの背中を見ながら、ぽんっと乙音が手を叩いたことに。


「あ、あれだ。変な顔」

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