第25話 あなたの影の中
イゼットが去るとルーファウスは立ち上がり、いつもの定位置へと移動した。つまりは、アデリアナの隣にだ。ルーファウスはイゼットの望みを喜んでいるのだろう、満足げな顔をしている。
「あなたが私の隣にいてくれるなら、信頼できる人が欲しいと常々考えていたんだ。イゼットは私の想像していた以上に、その望みを叶えてくれそうだ」
そう言って、ルーファウスの手のひらがアデリアナにさしのばされる。頬を優しく包まれて、アデリアナはあたたかい手に肌を寄せた。
「いま、花園入りに関することで、女官だけが集められているのですって。だから、お茶の用意ができないの」
「いいよ、あなたと一緒にいたいだけだから。……話をしようか」
ルーファウスに手を握られて、アデリアナは頷いた。
アデリアナが見た夢の話をするのだ。
「女官が集められているのは、花園入りの最終日に執り行う夜会についての指示があるからだ。あなたが夢に見た夜会だね。慣例で、最後の七日間で娘たちが準備することになっている。あなたたちに話が降りてくるまでには、もう少し時間がかかるだろうけれど……それまでに、何度か対策を練りたい。まずは明後日、ゼゼウスたちにここに来て貰うよう頼んでいる」
ルーファウスは、ゼゼウスたちが誓約書にサインをしてくれたことや、クリスが予知の恩寵を持つ者から聞いたことをアデリアナに伝える。誓約書があるから、ディクレースはアデリアナ以外の家族にはこのことを話せないことも添えて。
アデリアナがルーファウスの隣に立つならば、そういった線引きを今までにも増してしていかなくてはならないのは当然のことだ。まして恩寵が関わることならば、とりわけそうだ。特に異論もなく、アデリアナは素直に頷いた。
「そこで改めて、夢の話をきちんとするわ。話し合ったことをもとに、未来が変わるようにする働きかけについて相談するということね。明日から私は三日間政務補助をするから……夜にということよね? お夕食を用意してもらいましょうか」
「そうだね。このことについては私からも話を通しておくから、あなたは女官長に話をするだけでいいよ」
「そう? なら助かるけれど」
手を引かれて、アデリアナはルーファウスの足の間に座らされる。お腹に腕を回されるようにして引き寄せられると、背中にルーファウスの体温を感じて、そっと胸の底を撫でられたような心地がした。
正面から抱きしめられるのと何が違うのかと言われればそれまでだが、いままでにない触れ合いに、アデリアナは少しだけうろたえてしまう。
首筋に顔を埋められると、柔らかい髪の毛が肌をくすぐる感触がこそばゆい。
ルーファウスが肩口でくすくす笑うのに、アデリアナは身をよじらせた。それでも離してもらえなくて、もう! と柔らかい金の髪に手を差し入れてくしゃりと乱す。
「アデリアナ、あなたを喪うつもりはないよ。だから、あなたもそのつもりでいて」
「……うん。ありがとう」
ぎゅっと抱きしめられて、身体のこわばりが和らぐのが分かる。
いつも、そうだ。ルーファウスはアデリアナに、ことばを尽くして語りかけてくれる。アデリアナが口に出せないでいた分を取り戻そうとするかのように。
……と、そのとき。アデリアナは、ひゃっと声をあげた。首筋に押し当てられていた唇が離れて、ルーファウスが喉の奥でくつくつと笑いながらアデリアナの肩に額をつける。
「……ほんとうに、あなたはどうしてそんなに可愛いんだろう」
「ルー。あなた、そればっかりね?」
「昨夜気づいたんだけど、あなたの可愛さに追いつくには私の語彙があまりにも足りない」
「ええ? もう、おかしなひとね」
愛おしさにアデリアナが笑うと、ルーファウスが「ほらまた」と長いため息とともに囁いた。深く抱き寄せられると、いつもの香りがした。この頃すっかり近くにあることに慣れてしまったルーファウスの香りに包まれて、アデリアナは肩を寄せるようにしてくすくすと笑った。
「アデリアナ、顔を見せて」
緩められた腕の中、身体をひねるようにして振り向いて――アデリアナは目を伏せた。なぜって、ルーファウスがとびきり甘い表情をしてアデリアナを見つめているからだ。
膝に甘えられることを受け容れた幼い日から、アデリアナはルーファウスに触れられると抗えない。恋を自覚してからは、なおさらだった。そのまなざしに触れられるだけでも、どきどきして大変になってしまう。
唇が触れ合うと、アデリアナの目元はじわりと赤らんだ。胸が切なくなった。頬が熱く、燃えてしまいそうだった。指先や手のひらに、耳朶や首筋に唇で触れられると、ルーファウスの顔をまともに見られなくなった。
始末がわるいのは、そういうアデリアナの羞じらいすらもルーファウスが楽しんでいることで、いまもにこにこしながらこちらを見つめているのが分かる。恥ずかしさに身体をもとに戻すと、腰をやさしく掴まれて膝の上に誘われる。先程イゼットとした会話を思い出して、アデリアナは首を傾げた。
「わたしを膝の上に乗せるの、好きね?」
「うん。こうしていると、俯いていても目を伏せていても、あなたの顔がよく見えるから」
「……!!」
慌てて膝から降りてすぐ横に座り直したアデリアナを見守っていたルーファウスが、それにね、と言いさして長椅子に手をついた。アデリアナに覆い被さるようにして、ほっそりとした身体を淡い暗がりの中に閉じ込める。
くちづけを一つ落とされて、アデリアナは微かに震えた。影の中から見上げたルーファウスには、平生にはないような荒っぽい魅力があって、その身体の大きさやかたちが自分と違うことが否応なしに意識されてしまう。
「こんなふうにすると、あなたを怖がらせるんじゃないかと心配だったから」
無意識に長椅子に背中をこすりつけるようにして、アデリアナは両の手のひらで唇を隠した。
覆い被さられて距離を詰められると、確かに少しだけ恐かった。逃がしてもらえないような、ずっと閉じ込められてしまいそうな……それでいて、そこに安住してしまいそうな恐ろしさだ。
「どっちがいい? 膝の上と、私の影の中」
どっちがいいなんて、そんなの。
アデリアナがおろおろと視線をさまよわせる間も、ルーファウスはアデリアナの髪を手で梳いたり、気まぐれに指へ巻きつけたりしている。
「うん?」
ルーファウスが機嫌のいい猫のように喉を鳴らすのに、アデリアナは目を伏せた。
頬にじわじわと熱が挿すのが、鏡を見なくともわかった。この至近距離では、間違いなくルーファウスには頬が赤らんでいることが伝わってしまっているだろう。すぐそこで、ルーファウスが笑う。
……ほら、だから嫌なのだ。
長椅子に腰かけて話す他愛のないひとときに甘やかさがひと刷毛まじるようになってから、ルーファウスは少しだけ無遠慮で、少しずつ不埒になった。同じだけ、アデリアナは触れられるのに慣れていった。もともとどれだけ淑女らしさがあったかというと、それは最低限の嗜み程度のものではあったが……この場合は、性質ではなく身持ちの話である。淑女向けの礼儀として説かれた貞節によれば、貴族の娘に許されたふしだらは、結婚後に夫から与えられるのものに限られている。
なのに、この頃ルーファウスはどんどん甘くなる。
ルーファウスとは誓いを交わしたけれど、あくまでそれはふたりの間だけのことであって、まだ正式には何でもないのだ。そのことを、アデリアナは分かっているつもりだ。
王太子妃になる存在として扱われることに対して落ち着かない気持ちを覚えるのと一緒で、アデリアナはルーファウスと触れあうたびに、いいのかしらと思ってしまう。ルーファウスを信じていないわけではなくて、あまりにもルーファウスがアデリアナに甘いからだ。たとえるならば、お砂糖をたくさん振りかけられて、その上から蜂蜜をかけられているみたいに。
なんとなく、もう分かっていた。
――この甘さを知ってしまったから、もう手放せなくなってしまっていることに。
胸が切なくなって、アデリアナは自分に苦笑した。なに? と囁かれて、いま思っているのとは違うことを囁き返す。
「ねえ、どうしてわたしばっかり恥ずかしい気持ちになるの?」
「あなたは知らないかもしれないけれど、こうしている間も私は幸せで、でも胸が苦しいよ」
耳朶をくすぐるように囁かれることばの甘さに、アデリアナは肩を寄せて後ずさる。けれども長椅子に背中を押しつけているから、それ以上ルーファウスと距離を空けることはできない。
「もしいやだったら、教えて」
口を覆っていた手に、ルーファウスの指が誘うように触れる。
指で指を絡めとるようにゆっくりと外される、それだけアデリアナの胸は甘く疼いた。胸の奥深くに沈んだ金の鎖が揺らめき、軋むのがわかる。柔らかい痛みに苛まれて、呼気が漏れた。
アデリアナに触れようとするとき、ルーファウスの手はひどく紳士的で、でも触れたら少し不埒で。口づけの前には必ず目を覗き込むようにしてアデリアナが嫌がっていないか確かめる。想いが通じてからも、そうだ。けれども、唇だって、一度触れたらもう、ただ甘いばかりになる。
そのことを、もう充分すぎるほどアデリアナは知っている。
触れられたら、そのきらきらと光を纏わせた瞳で見つめられたら、アデリアナはルーファウスを拒めない。好きだという気持ちがこぼれだして、どんなに恥ずかしくても受け入れてしまう。触れて欲しいと、望んでしまう。好きなひとに触れられる、ただその幸せを欲してしまうのだ。
手が、ふわりと膝の上に落ちる。もう片方の手は、指と指とを絡めるようにして長椅子に縫い止められた。
「アデリアナ、好きだよ。叶うことなら、あなたをずっと腕の中に抱いていたい」
「ルーファウス……」
続けようとしたことばは、唇に優しく遮られた。
角度を変えて、時に食むように触れられて、やさしく吸うように口づけられる。騒がしいほどに揺れる金の鎖が透明な音を立てて崩れていくのに、アデリアナは捕らわれていないほうの手でルーファウスの胸元を握った。
覆い被さられるように身体を寄せられていることが、ほんの少しだけ恐かった。繋いだ手や髪を撫でる指先に宥められるようにして、強ばった肩からゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
はじめて唇が触れたのはついこの間のことなのに、気づけばアデリアナはルーファウスの唇に慣れてしまっていた。好きなひととくちづけを交わす快さや、そっと柔らかさが触れあったときの胸が満たされるような幸せは、何度味わっても素敵で、もっと欲しくなってしまう自分がいた。
昨日女神の庭ではしなかった大人のくちづけは、アデリアナにとっていつも優しく導かれるものだったが、ほんの少しだけ勇気を出して、アデリアナは自分からルーファウスに深く触れてみようとする。
そろそろと唇を割って入り込んできたアデリアナの舌を、ルーファウスは笑って受け入れる。ルーファウスがアデリアナにしたことをなぞるようにして、アデリアナはぎこちなく舌を動かした。拙くルーファウスの上顎を掠めて、たどたどしく歯列をたどろうと試みる。
は、と呼気を求めて顔を離して、アデリアナは囁いた。だめ。
「……うまくできないわ」
「あなたが自分から求めてくれて、嬉しかったよ」
眉を下げるアデリアナに、ルーファウスは微笑んだ。繋いだ手を宥めるように指で優しくさすられる。
ああ、可愛いな。そう呟くルーファウスの唇には、アデリアナの唇に塗られた紅の色が移っていた。その色を繋がれていないほうの指でそっと拭おうとして、指の先を甘噛まれる。
「ルー、紅がついてるわ」
「あなたのここで拭ってくれたらいい」
アデリアナは真っ赤になった。そうして、おずおずと唇を寄せる。
ルーファウスの薄い唇を自分のそれで挟み、ついばむように唇を合わせる。それを何度かくり返した頃、入り込んできたあたたかな舌がアデリアナのそれをゆっくりと吸い、絡めとる。気持ちよさを教え込むように、やさしくくすぐるように口の中で舌を動かされると、身体の奥が甘く震えるような感覚がして、胸が潤むように痛んだ。
「ん、……んっ、ん」
そろそろと舌を動かして拙く応えてみると、甘酸っぱいような快さが背をはしった。大人のキスも何度目かのことになっていたから、息の仕方も少しずつ分かってきて、自分を見つめる瞳にそっと目を合わせることだってできてしまう。
こんな親密な触れ合いなんて、つい数日前までは知らなかったはずなのに、いまはこうして触れ合えることが嬉しくて、はずかしくて。
唇が離れて、また近づく間に、アデリアナはルーファウスの膝に抱き上げられた。
深いくちづけをくり返していきながら、離れていた手が絡んで、また離れる。わずかに唇が離れて、ため息がもれて。そうするうちに手のひらが互いの身体の線をたどるようになるのは、自然なことだった。
ルーファウスの手のひらが頬を覆えば、アデリアナの手のひらも真似をした。耳朶に触れた指が首筋をたどって鎖骨に落ちると、触れられている肌と骨の形が、触れているそれらと違うことがまざまざと分かる。目の前にある身体のうつくしさや、好きなひとに触れられて、触れているという喜びが胸をひそやかに満たしていく。
でも、とアデリアナは思う。
同じだけ、触れないでほしかった。わたしがわたしでなくなってしまいそうだから。でも、それ以上に、もっと深く触れてほしかった。
まるで望みがわかったかのように、ルーファウスの手のひらがアデリアナの胸元に落ちた。
ドレス越しに胸のふくらみを包むように触れられて、どきりとする。
唇が離れて、吐息を肌に感じる距離でルーファウスが囁いた。
「あなたにもう少し、深く触れたい」
うっすらと上気したように色づいたルーファウスの頬に、ほかにはほとんど何もないふたりの僅かな距離でさえ詰めようとするかのように見つめてくる瞳に、アデリアナはどぎまぎする。
ふかく、とアデリアナは呟く。そうと微笑んだルーファウスに頷くと、優しく頬をくすぐられた。
「いいの? 私はわるいから、つけ込んでしまうよ」
いやじゃない? そう囁かれて、アデリアナはおずおずと頷いた。そうして、きゅうに変なことが気になった。
「……へん、じゃない?」
「え?」
「わたしの身体。おおきさとか、かたさ? とか」
虚を突かれたような表情のルーファウスが、小さく噴き出した。
「ええ、どうして笑うの?」
「いや、アデリアナだなあと思って」
「だって、本で読んだわ。男の人はいろいろ好みがあるんでしょう?」
「何を読んでそう思ったかは聞かないけど……私は、あなたの身体だから触れたいんだよ」
アデリアナがじっと見つめると、ルーファウスは一瞬何とも言えないような顔をした。
「……確かに、その。あなたは華奢なのに、胸が豊かだなとは思う」
そのことばに、アデリアナはドレスの採寸のときに母が似たような表情をしてみせることを思い出した。夜会で時折見かけるような、同性でも思わず目を奪われてしまうほどの大きさではないものの、母はよくアデリアナの胸と腰の間で視線を行き来させて、リボンを付けさせたりするのだった。線が細い分、胸に目が行ってしまうわと言って。
「自分の身体がどうなのか、私にはあんまりわからないけれど……あなたにとって好ましかったらいいなと思うのは、おかしなこと?」
率直なアデリアナのことばに、ルーファウスはなぜだか羞じるような、疚しいと思っているような表情を浮かべてみせた。
ルー、とアデリアナが問うように名前を呼ぶと、ルーファウスは頷いた。
「うん。……とても素敵だよ」
すてき、と呟いたアデリアナは、なんだかむしょうに恥ずかしくなった。
淑女向けのロマンス小説ではふんわりぼかされて書かれているものだが、いろいろと淑女らしくないものも読んでいるアデリアナには、もう少し過激な描写のものも嗜んでいた。発禁となった過激な描写のものだって読んだことがある。そのせいで、男女の交わりが具体的に身体のどこを触れあわせてするものなのか、嗜み以上には知っていると思う。発禁本を読んだときもずいぶん扇情的な描写だなとは感じたものだけれど、実際にこうして触れられると、読んで知っていたはずのものよりもずっと甘やかで、それでいて何だか切ないような気持ちがするように思われた。
ルーファウスを見ると、彼もアデリアナを見ていた。
紫の瞳は痛いほどの強さでもって、アデリアナを見つめている。
どうしよう、とアデリアナは思った。
ほんのすこし、こわかった。でも、それ以上に、胸の奥が甘酸っぱくて、痛い。
そんなふうに見ないで。そんなことを、思った。
これ以上そんな瞳で見つめられたら、なんだか、どうにかなってしまいそうで。でも、いやじゃない。いやじゃないから、どんなふうに伝えたらいいのかわからない。
「あなたがいやなら、何もしないよ。無理強いしたくないのは嘘じゃないから。私のために、我慢しようとはしないでほしい」
「あ、あなたは?」
「私? ……それはまあ、許されるのなら触れたいよ。あなたに不埒なことをしたいのは、本当だから」
不埒、と呟くと、ルーファウスは苦笑した。
「アデリアナ、あなたが好きだよ」
そろそろと手を伸ばすと、やさしく抱き寄せられた。アデリアナも、ルーファウスの身体を抱きしめ返す。胸の奥にある金の鎖が揺れたけれど、もうその痛みよりも触れられることの甘さのほうがうんと強く感じられた。
「アデリアナ、私を見て」
こつんと額が合わさって、アデリアナはしばらく逡巡した。けれど、触れるだけの口づけが優しく降るのに、そろそろと瞼を押し開く。
視界がうっすらと潤んで、揺れている。涙越しのルーファウスの瞳は、夢のように綺麗だ。
あ、と思う。
(好き……)
胸の底で、金の鎖が軋みながら音を立てるのがわかる。
「わ、わたし、おかしいの」
「どうして?」
ルーファウスに触れられると気持ちがよくて、きちんと物を考えられなくなる。
淑女向けとしては少し過激で、家によっては下品だと取り上げられてしまうこともあったというロマンス小説に書いてあった通りだ。アデリアナはルーファウスに触れられると、身体の輪郭がほどけてしまいそうになってしまう。
頬に、唇のすぐ横にくちづけられて、アデリアナは瞼を上げた。
そうして、うわごとのように囁いた。
「あなたに触れられるのは、すき。でも、でも。わたし、恥ずかしくて……」
え? とルーファウスが瞬くのに、アデリアナの羞恥心はもう限界になった。でも、口をついて出るのはふわふわと頼りないことばで。頭の奥がぼんやりして、うまく判断がつかない。
でも、と唇が勝手に囁いた。
「それでもわたし、あなたになら、何をされてもいい」
瞬くと、ぽろんと涙がこぼれた。
ぼやけた視界がそっと像を結んで、重なった視線の先でルーファウスが凶悪なまでに甘ったるい顔をするのが、よく見えてしまう。
「あなたは、ほんとうにずるいな。ねえ、そんなことを迂闊に言ったら駄目だよ」
「だって、そうなんだもの。こんなこと、あなたにしか言えないわ」
アデリアナの見つめる先で、ルーファウスは泣きそうにも見えて、けれども笑っているような複雑な表情を浮かべていた。その瞳には、アデリアナを喰らいそうなほどに強い熱がゆらゆらと湛えられている。
「私がどんなに行儀良くしようと必死でいても、あなたは全部許してしまう。そのことがとても恐ろしくてならなくて、でも嬉しい。……アデリアナ、あなたはたぶん、私をもう少し怖がってもいいと思うよ」
「こわがる……? ルーファウスは、わたしにひどいこと、しないもの」
ルーファウスは吐息をついて、それから密やかに笑んだ。
「それはね、私があなたを大事にしたいのと――いい子にして、あなたからご褒美を貰おうとしているからだよ。私はあなたが思っているよりもずっと汚くて、普通の男だから」
唇を塞がれて、アデリアナは瞼を下ろした。
まるで、どろどろに甘い砂糖を注ぎ込まれて、ゆっくりと味わわれているみたいだった。そんなふうに、ルーファウスはアデリアナを苛んだ。
「あなたは可愛いな。どんどん可愛くなるから、困ってしまう」
アデリアナがルーファウスの首を引き寄せるように腕を回すと、力の入らない膝が長椅子の上にすべり落ちる。折り重なるようにして長椅子に倒れ込むと、ルーファウスの身体が作った影の中にアデリアナは呑み込まれてしまう。そのことに安らぎを覚えてしまう自分を見つけて、アデリアナは泣きそうな気持ちになった。
上体を起こして長椅子の上に腕をついたルーファウスの指先が、乱れた髪をかきやった。その優しい仕種を感じながら、アデリアナは内側にほころんだどろりとした甘やかさを吸い上げるように息をした。そうして、とろんと濡れた瞳を長い睫毛の下で涙がちに揺らす。
「ルー……」
はしたないのかもしれない。そう思いながらも、もっと、きちんと触れあいたいという気持ちが抑えきれないでいる。どうすればいいのかは、知っていた。ロマンス小説で、何度も読んできたから。
――寝室へ連れて行って。
唇よりも先に、目が伝えた。
息を呑む微かな音がして、重なり合った身体がぐっと近づく。
見つめ合い、引き寄せあうように唇が触れ合って、とろけてしまいそうだった。舌の先が、誘うようにわずかにルーファウスの唇へ届く。
お互いに何かを言いかけたそのとき、礼儀正しい間隔で扉が叩かれた。
騎士の手によって生まれた音の響きに、アデリアナは我に返った。いまさっき、自分が何をお願いしようとしていたのかに気づいて、アデリアナは唇をわななかせる。そんなアデリアナを、ルーファウスが見つめている。気づいてしまったんだ、とでも言いたげに。
「失礼いたします。王太子殿下、陛下の遣いがおいでです」
扉の向こうから聞こえたジェラルドの声に、ルーファウスは訊ねるようにアデリアナを見た。先程感じた気持ちは嘘ではなかったけれど、さすがに陛下の遣いを無視してすることではない。
首を振ってみせるとルーファウスは名残惜しそうな顔をして、アデリアナの頬にくちづけた。
「……しばし待て」
扉の向こうへとかけられたルーファウスの声は、先程までアデリアナを翻弄していたのが嘘みたいに落ち着いていた。そうして、そっとアデリアナは抱き起こされる。
頬を撫で、あるいは髪を整える指の動きのやさしさに、アデリアナはちいさく笑う。
そうして、ふと。アデリアナは、ルーファウスに随分余裕があることに気がついた。
アデリアナは、こんなに深く自分ではない誰かと近づくのは初めてのことだった。唇でするキスも、膝の上に抱き上げられるのも、大人のキスも。ぜんぶ、ルーファウスが初めてのことだった。だからどきどきして大変なのに、ルーファウスの仕種にはどこか物慣れたような余裕があった。
それはそうだろう、と頭の冷静な部分が囁く。ルーファウスには、たぶん閨の手ほどきがされている。王太子は、国のために血を繋いでいかないといけないからだ。至極当然のことだと思うのに、アデリアナはなんだかもやもやしてしまう。
(前からわたしのことが好きだって言っていたのに、たぶん、わたしではない人に触れたことがあるんだわ)
過去の誠実まで求めるなんて、わがままだ。それに、ルーファウスがまったく何も知らないままならそれはそれで不安で、どうしていいのか分からないだろう。そう思うのに、心は思うようには動いてくれない。
アデリアナが俯いているのを訝って、ルーファウスが顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? やっぱり、さっきは無理をさせていた?」
「ちがうわ。……わたし、どきどきして大変だったのに。でも、ルーファウスは慣れているのねって思ってしまっただけ」
可愛くないことを言ってしまった。なのに何も言われないことを不思議に思って視線を上げると、ルーファウスはぽかんとした顔をしていた。つと顎を引いて、アデリアナはルーファウスを見つめる。
「上目遣いも可愛いね。じゃなかった……もしかして、妬いてるの?」
ややあって、その端正な面に滲んだのは――なんだか、ひどく嬉しそうな表情で。
「しばし」というのがどれくらいの間を指すのか不安になったジェラルドは、まさかまさかなと思いつつおそるおそる開けた扉の向こうで、花園入りの娘がクッションを王太子に投げている場面を目撃する。おまけに、可憐な声が、ばかばかばか! と、王太子に向けられるにはあまりふさわしくなさそうなことばを叫んでいるのも聞いてしまった。
それは、後ろにいる王からの遣いにも当然届いたのだろう。ぐふ、という笑いを堪えるへんな音がした。ジェラルドの視線にいや失敬、と咳払いをしてみせた王の遣いは、クッションを受け止めてはふんわり投げ返してやり、それをまた投げられている王太子の様子をばっちり目撃してしまったので、今更扉を閉じてもどうにもならない。どうでもいいことだが、花園入りの娘は非力な割りにクッションを投げるのがうまかった。クッションは適確な動線を通って王太子の腕のなかに吸い込まれていっている。
「ばか、ばか、ルーのばか!」
そうやって叫んでいるフィリミティナ公爵令嬢は、王太子がいま、見ているこちらが砂糖を吐き出しそうになるくらい甘ったるい表情をしているのには気づかないのだろう。ばかと言われて嬉しいのか、それともばかと言う可愛い罵倒が可愛いのか、ただ公爵令嬢のことが可愛くてならないのか、ジェラルドにはよくわからない。清く正しい王子様だと思っていたが、この公爵令嬢が花園入りしてからというものの、ジェラルドの中で王太子殿下の印象は面白いくらいに変わってしまった。
……まあ、わかるのは、いちゃついてるんだな、ということくらいだ。
「仲がよろしいことで」
「この頃は、こちらが恥ずかしくなるくらいでして……」
ジェラルドは嘆息して、ふたりに聞こえるように、もう一度開けた扉をたたいてやったのだった。
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