第26話 割れた茶器と政務補助
「……寝不足でいらっしゃいますか?」
鏡越しにシェーナの視線を受け止めたアデリアナは首を振りかけて、気遣わしげな瞳に行きあって顎を引いた。
シェーナは化粧筆を置いて、アデリアナの目の下にそっと指を伸ばした。指の腹で薄く、たたき込むように色を乗せられると、うっすらと目の下に湛えられていた隈が隠れる。その上から丁寧に粉を重ねてもらいながら、アデリアナはごまかすように囁いた。
「ちょっと、夢見がわるくて。目が覚めてしまったの」
シェーナはそうですかと言って化粧筆に含ませた頬紅の量を手の甲で調節する。
アデリアナの寝衣を手にしたリンゼイ夫人が出て行ったのを見て、シェーナがぽそりと囁く。
「……王太子殿下のせいかと」
「え?」
「昨日、王太子殿下がお帰りになった後、ドレスに皺がついていましたから」
言外にルーファウスとの親密な行為をほのめかされて、アデリアナは赤面した。
頬紅を乗せようとした手を止めて、シェーナはアデリアナの様子を注意深く見ている。
うろたえるアデリアナの頬から熱が引くのを待つことにして、シェーナは先に瞼に色を乗せることにしたようだ。指の腹でやさしく、撫でるように繊細な粒子の粉が乗せられる。
「それは、その。夢見がわるいのとは関係ないのよ。同意の上だし……最後? までは、ぜんぜん……」
もごもごと言いよどむアデリアナに、シェーナは小さく笑った。そこまで教えてくださらなくていいです、と言って。
「……からかったのね?」
「はい。将来の雇用先を知りたいということもありますが」
シェーナのことばに眉を下げたアデリアナは、促されるまま目を閉じる。いいですよ、と言われて目を開けて、鏡の中に控えめに彩られた目元といつもよりしっかりめに描かれた眉を見つけた。頬紅を控えめに乗せられて、唇にわずかに色を挿してもらう。
「今日は政務補助ですので、色数は少なく、でも少しだけ目の印象を強めにしています」
「あなたがいなかったら、絶対毎日同じお化粧だったわ。いままでよく分かってなかったけれど、予定によってお化粧を変えてもいいのね。ありがとう」
今日のアデリアナは、文官たちの間に交じっても浮きすぎないよう、落ち着いた紺のデイドレスだ。白いレースの襟は鎖骨の下まで届く大ぶりなものだが、その繊細さもあって派手な印象はない。腰の切り替えが高く、背中で結んだリボンから下は裾が広がりすぎないよう、ペチコートも薄いものを合わせている。
長い黒髪は、頭の輪郭に添うように一房ずつ編み込んで、ゆったりと垂らしたあとに緩く編んで纏めている。頭頂に飾られたリボンは光沢のある白で、控えめに揺れて可憐だ。
「今日もお綺麗ですよ。……もしお困りの時は、こっそりお手伝いいたしますのでお声がけくださいね。リンゼイ夫人には頼みにくいこともおありでしょうから」
あくまでさりげなく、だが意味深に囁かれて、アデリアナはシェーナが言わんとしていることを悟った。うろたえたアデリアナが断ることもできないでいたところ、顔を出したリンゼイ夫人が時間を知らせてくれたので、そこで話は途絶えた。
アデリアナが拗ねたように見ると、憎らしいことに、シェーナは涼しい顔をしていた。
政務補助は、昼過ぎから始まる。
ジェラルドの案内で王太子の執務室へ向かったアデリアナは、離宮の回廊を抜けて王城を歩きながら、様々に含みのある視線にさらされた。直接話しかけられることはないが、視線が刺すように感じられる。
微笑みを湛えたまま人気のない廊下にさしかかったとき、ジェラルドが足を止めて振り向いた。
「ずいぶんと注目を集めておいでですね」
からかうような色を帯びたその声に、アデリアナは笑った。
当初は好きになってくれなくてもいいとは思っていたが、この頃ジェラルドとは少しずつくだけたやりとりが出来るようになってきた。ジェラルドと打ち解けられたことを、アデリアナは素直に嬉しいと思っている。
「仕方ないわ。噂されているのでしょうし、いま一番の関心事だものね」
「花園入りが終われば、落ち着きますよ」
何かを言いさしたジェラルドが、アデリアナを庇うようにその背で視界を塞ぐ。
ややあって、食器が落ちて割れるような盛大な音がして、アデリアナはジェラルドの背からひょいと顔を出して前を覗いた。
廊下の中ほどで、シェーナと同じお仕着せを着た赤毛の女官が銀製のトレイを手に立ち尽くしている。
その視線は、床に散らばった銀のトレイに載せられていたと思しき茶器に注がれている。アデリアナには到底持てないだろう客数のカップは、そのほとんどが盛大に割れて破片となってしまっていた。
その女官の向こうで廊下の角を駆け去っていく足音が聞こえて、目の前の惨状がこの女官だけの過失ではないことを知らせた。きっと、背後から押されるか何かしたのだろう。意地悪という域を超えた有様に、アデリアナは不憫に思った。
「ジェラルド、手伝ってあげて」
「はい。姫様は私の後ろに。決して手をお出しになりませんよう」
絶対に駄目ですからねと念押しされて、アデリアナは女官のもとへ歩み寄ったジェラルドが膝をつき、割れた茶器を拾いあげるのを手伝うのを少し離れたところから見守る。
遠目にも青ざめた顔の女官は、ジェラルドに礼を言いつつも詳しい事情を話す気はないようで、うつむきがちにしている。そのせいで、アデリアナのいる場所からはあまりよく顔が見えないのだが、整った面立ちをしていることはわかった。急くように破片を拾う女官の指先が傷ついて血を流すのに、ジェラルドがほら見たことかと言わんばかりに清潔なハンカチを押しつけて、手早く割れた破片をトレイに載せてやっている。
誰かを呼ぼうとしてジェラルドは辺りを見回すが、けれどもほかに誰の姿もない。そのことは承知だったのか、ジェラルドに軽く首を振って見せた女官はトレイを手に立ち上がり、綺麗な礼を一つした。
その様子を見ていたアデリアナは、あらと思った。
女官の所作は、シェーナやリンゼイ夫人のように控えめで無駄のない簡潔なものとは異なり、貴族の令嬢が教わる仕種だったのだ。
もちろん、女官に貴族の出の娘がいないわけではない。リンゼイ夫人もそうだ。アデリアナは、女官として働く貴族の娘が例外なく新しい礼の仕方を仕込まれると知っている。いちいちゆったりとして美しく見えることを優先させたような礼をしていては仕事が回らないという効率的な意味もあるというが……その女官の所作はつい身に染みた仕種がでたという感じではなく、自ら進んでそうしたかのように綺麗だったのだ。
女官は何かジェラルドに囁かれ――跳ねる様に顔を上げたかと思うと、アデリアナの方を見た。強く見据えられるような……睨めつけるといったほうが正しいのかも知れない。そんな目だ。
アデリアナは、そのまなざしに何かを思い出しかけた。
だが、それが何なのかはっきりとわかる前に、女官はジェラルドに礼を言うと、足早に去って行ってしまった。
「……ジェラルドは怪我をしなかったわよね? ありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでです」
女官が去ったほうを見ていたジェラルドが振り向いた。その眉間に、深い皺が刻まれている。
行きましょうか、と促されて来た道を戻りながら、アデリアナが黙って大人しくしていると、廊下を幾つか曲がったところでジェラルドが息をついた。すみません、そう囁いて。
「視線が気がかりかと人目の少ない道を選んだのですが、失敗でした」
「どういうこと?」
ジェラルドが、先程まで来た道を引き返すように道を変えたことには気づいていた。そもそも人気のない道を選んでくれた気遣いにも。だが、ジェラルドの口ぶりには、それだけではない含みが感じられた。
「……あの女官はリンゼイ夫人の姪なんですが、勤めはじめて一年は経つのに周囲から浮いていて、有名なんです」
「まあ、リンゼイ夫人の? でも、不思議ね」
リンゼイ夫人の姪というからには、あの赤毛の女官も貴族の娘なのだろう。
ジェラルドが遠回しに告げた「浮いている」というのは、彼女が女官としてではなく貴族の娘としての礼を続けているせいもあるのかもしれなかった。物語においても、身分差のある同僚間のいざこざはよく描かれる。アデリアナにも、一人だけ決まりに馴染まない娘が敬遠されるだろうことは想像がついた。だからといって、何をされてもいいわけではないけれど。
アデリアナが疑問に思ったのは、あの自分にも他人にも厳しそうなリンゼイ夫人が、自分の身内が女官として未熟なまま放置しているとは思えなかったからだ。
ジェラルドが短く教えてくれたことによれば、あの女官はリンゼイ夫人の言うこともなかなか聞かないらしく、しばしば人気のないところで叱られているのを目撃されているのだそうだ。近衛騎士の、それも噂に疎そうなジェラルドの耳にも入っているのだから、そのことは王城で働く者の間で相当有名な話らしかった。
リンゼイ夫人が王妃殿下に請われても正式に御傍に仕えていないことには、身内が至らないままでは受けられないという理由も大きいそうだ。そう話すジェラルドの口ぶりには、リンゼイ夫人を気の毒がるような響きがあった。もしかしたら、ジェラルドとシェーナがリンゼイ夫人の不在に不満を現さなかったことには、そういった事情も関係していたのかもしれなかった。
「俺が気づいたとき、あの女官は姫様を睨み付けていました。そこで出来た隙を突かれて、一緒にいた別の女官に背中を押されたようです。もしかして、姫様のお知り合いですか?」
ジェラルドのことばに、アデリアナはううんと首を捻る。
「なんとなく、見覚えがあるような気はしたわ。でも、はっきり思い出せなくて。貴族の娘みたいだから、学舎で見かけたのかしら……」
「恨まれるほどの関係性はないということですね。そもそも、姫様はあまり人から悪意を買うことはなさそうですが」
表情を和らげたジェラルドのことばに、アデリアナは瞬いた。
何かを言い足そうとしたジェラルドは、アデリアナが小さく笑って続けたことばに口をつぐむ。
「やだ、ジェラルド。ずいぶんわたしを買ってくれてるのね、ありがとう。
でもね、そんなの、いちいち数えてられないほどあるわ。わたし、たぶんそれなりにやっかまれているし、恨まれていてもおかしくないの」
虚を突かれたような表情のジェラルドに、アデリアナは微笑んだ。
「わたしは端から見たら、ただの幸せそうで呑気なお嬢さんだもの。フィリミティナは税収も安定しているし、父も兄も王城で名誉以上の職を得ていて、母は王妃殿下の親しいご友人よ。それに何より、わたしは王太子殿下の幼なじみなの。……ね、恵まれすぎているでしょう? 羨んで当然だわ。わたしが何を考えてどう行動していても、わたしがただ幸せだと思いたい人のほうがずっと多いの」
アデリアナ自身のせいではないことで、羨望や揶揄、ともすれば悪意のようなものを持たれるのは、アデリアナにとって幼い頃から馴染んだことだった。同じくらい、アデリアナは自分が自分であるだけで、誰かの心を刺激してしまうということも分かっているつもりだ。
だから、アデリアナはすべてのひとに好かれようとは思っていない。そんなのは、女神くらいにしか叶わない望みだからだ。
「……それは、そうかもしれませんが」
「だから、わたしがあの女官に何をしたわけでなくとも嫌われていてもおかしくないのよ。ただ単純に、わたしがそのきっかけを忘れているだけかもしれないけれど」
さすがに何かあったら覚えているだろうと言いたげなジェラルドに、アデリアナは首を振る。
「いちいち覚えていてもきりがないから、相手にとっては大事でも、わたしが覚えていることは少ないと思うわ。冷たい話かもしれないけれど」
「まあ、そうですね。俺も貴族の出なので、分かる気がします。……姫様も大変だったのですね。確かに、王太子殿下の御傍にいるとやっかみも凄そうです」
何やら感慨深そうにしてみせるジェラルドに、アデリアナは笑った。
「王太子殿下の幼なじみでいるのは、そういうことよ。かといって、わたしはそのせいで我慢したり苦しんだわけじゃないわ。自分で、王太子殿下の幼なじみでいることを選んだの」
「……お強いのですね」
アデリアナは首を振る。それは、ぜんぜん違う。確かにアデリアナは娘にしては気持ちが強いほうだが、それが何故なのか、自分でもよく分かっていた。
――いずれ死ぬと分かっていて、その運命を受け入れようと思っていたから、いままで特に気にしないできたのだ。
いずれ死ぬから、大切な人だけを大事にしようと思っていた。
そのともすれば過ぎる割り切りが、あまりよくない面を持ち合わせていることも、知っている。アデリアナは、もっと誰かに関心を持たないといけないし、もう少しくらいは自分を好きになってほしいと思える方がいいのだろう。これからルーファウスと生きていくなら、尚更に。
「気に病まないでちょうだいね。たまたま行き会ったのだから、ジェラルドに非はないのよ」
ね、とアデリアナが言うと、ジェラルドはしぶしぶながら「報告はしますからね」と釘を刺してから頷き返してくれた。
回り道をしたせいで少々足早に向かうことになった王太子の執務室には、扉の外にジリアスが控えていた。
アデリアナは、ジリアスに開けて貰った扉から室内に足を踏み入れる。開け放たれた窓から吹き込む春風に頬を撫でられて、アデリアナは目を細めた。
「王太子殿下、花園の姫君をお連れいたしました」
ジェラルドの声が告げるまでもなく、部屋中の視線がアデリアナに寄せられる。
身体に染みついた淡い笑みと流麗な所作で礼をしたアデリアナは、部屋の奥に据えられた一番大きな机からルーファウスが歩み寄ってくるのに、今度は王族に対しての礼をする。
本来ならばこれが普通であるはずだが、さしのべられた手に手を預けて挨拶のくちづけを受けるのは、なんだか新鮮な気持ちがするものだった。そう思ったのはアデリアナだけではなかったらしく、ルーファウスが小さく笑う。
その笑みに、胸がどきどきしたのは秘密だ。このところ、アデリアナの心臓はちっとも思い通りに動いてくれないでいる。
「やあ、アデリアナ。あなたときちんとした挨拶を交わすのは、なんだか久しぶりだね」
こちらを見る文官たちの視線を痛いほどに感じながら、アデリアナはあたたかな手のひらからするりと手を抜き取って、慎ましく目を伏せた。
「王太子殿下、ごきげんよう。本日から三日間、及ばずながら政務補助をさせていただくことになりました」
「いつもみたいに話したら? 誰も気にしないよ」
「……わたしが気にしますわ」
公私を分けた振る舞いをしていないと、どうしたって昨日の親密な行為を思い出してしまう。
それに、まだ公的には何でもないアデリアナが文官たちの前でルーファウスに親しい口をきけば、甘えと取られてしまうだろう。それがたとえ王太子の許したことだとしてもだ。そのことを、ルーファウスが分からないはずもない。
もう、という意を目に薫らせてアデリアナが微笑むと、ルーファウスはふうんと喉の奥で笑って、文官たちを一人ずつ紹介してくれた。
アデリアナの世話役として宛がわれたのは、トビアス・カーンという名の文官だった。
淡い麦の色をした髪をしたトビアスの名を聞いて、アデリアナは瞬いた。それを若い娘らしい困惑と見て取ったのか、トビアスはその柔和な面立ちに笑みを浮かべてみせる。
「まずは、書類の様式と仕分け方についてご説明します。……ああそうだ、マーカス、よろしく頼む」
トビアスが一番扉に近い机についた感じのいい青年に声をかけた理由が分かったのは、半刻も経たないうちのことだった。
アデリアナがトビアスの隣に割り当てられた机に座って、書類の様式に大人しく耳を傾け、時に質問をしながら説明を受けていると、次々と書類を手にした人々がやってくるのだった。彼らは一様に室内に視線をめぐらせたあと、物柔らかに声をかけたマーカスに書類を渡し何事かを話して立ち去っていく。ルーファウスのところにまで案内される者は少なく、そしてマーカスの判断は驚くほど早くて迷いを見せるということがない。しかも、その態度や口ぶりには卒がない。かと思えば、何やら粘っている人に対しても角を立てず追い返すことも心得ているようだ。
王太子の執務室付きの文官たちの中でも若そうなマーカスが、最初に書類を捌く役目を担っているのだ。有能な若手に振り分けられた仕事の一つなのだろう。
来客が落ち着いたとき、ちょうど説明が一段落したので、アデリアナは雑談を振ってみた。
「執務室には、たくさんの方が出入りされるのですね」
トビアスが驚いたように目を瞠り、文官たちが一斉に顔を上げてアデリアナを見る。
一瞬ののち、堪えきれないといったようにそこかしこで笑い声が零された。
「いつもこうではない、ということは分かりましたわ」
「……失礼しました。その、他意はありません。純粋に仕事で来ている者もいないわけではないですが、あのほとんどは姫様のお顔が見たくて来たんですよ」
そこまで言われれば、アデリアナにも察しがついた。
花園にいる間はほとんど意識することがなかったが、執務室まで来る間のことといい、余程花園入りの娘たちは注目を集める存在らしい。確かに、王太子妃がどの娘になるのかということは、国にとっても大きな変化だから、気になってしまうのも分かるのだが。
なるほどと頷いたアデリアナは、トビアスと目が合って首を傾げる。トビアスが何かを言いかけたとき、扉が再び叩かれた。
なんとはなしに室内の視線が集中した先に現れたのは、アデリアナにも見覚えのある人物だった。マーカスよりも先に、顔を上げたルーファウスがああと呟いて招き寄せる。どうやら、きちんとした仕事のようだ。そう検討をつけたのはトビアスも同じであったようで、書類の仕分けをするよう促される。
アデリアナが参考にと渡された半月分の決裁済み書類に目を通していると、机に影が差した。
不思議に思って顔を上げると、目の前に先程の客人が立っていた。アデリアナがきょとんとしていると、客人は咳払いを一つして、失礼、と声を掛けてきた。礼儀に則って立ち上がろうとしたアデリアナは丁重な仕種で制されて、躊躇いがちに浮かした腰を下ろす。
「王太子殿下より、姫様にお声を掛けるお許しをいただきました。御目にかかるのは久しぶりですな」
「ご無沙汰しております。ガートルード様にはとても良くしていただいております。花園入りで初めてお会いしましたが、とてもお可愛らしくて素敵な方ですね」
どこか緊張した面持ちのその人――アスコット伯爵は、アデリアナが口にした娘の名前に厳めしい顔をほころばせた。それだけで、ガートルードが大切に思われていることがよく分かる。つられてアデリアナが微笑むと、アスコット伯爵は机上の書類がはためく勢いで、深く腰を折った。
驚いたアデリアナは書類を手のひらで押さえて、興味深そうにこちらを見つめるトビアスや文官たちの視線を感じながら、慌てて声をかける。
「あの、どうかお顔を上げてくださいませ」
「ああ、すみません。つい思いが先走ってしまって。いけませんな。……姫様、この度は本当にありがとうございます。本日は御礼を言いに来たのです」
「御礼……ですか?」
困惑したアデリアナにアスコット伯爵が瞬いて、それから室内に響く深い声で、は! と短く笑った。それはからりとしていて、何も含むところがない快活な声だった。
「何をおっしゃる。娘に、推薦状をくださったではありませんか!」
ああ、とアデリアナは気づいた。アスコット伯爵は、アデリアナがガートルードを針の乙女に推薦したことを言っているのだ。
「ガートルード様は、迂闊にお上手と申し上げるのが憚られるほどの腕前をお持ちですわ。誰の目にも美しくて、心のこもった針をお刺しになられる方ですもの。わたしは当然のことをしたまでですわ」
アスコット伯爵は、アデリアナのことばを受けてしばし黙っていた。
そうして、ふと自分を見つめる文官たちの視線を受け止めて、実はこういうことがありましてな……と推薦状の経緯を語りはじめたので、アデリアナはぎょっとした。
大変いたたまれないことに、アスコット伯爵は話の合間合間で、何だかとてもアデリアナのことを褒めてくれる。そういうところは、ガートルードとそっくりだ。何度か口を挟もうとしてみるも、よく通る声の持ち主であるアスコット伯爵のことばは礼儀的にも無闇に遮ることができず、もしかしてわざとやっているのではないかと思ってしまう。
立太子の儀の飾り帯から針の乙女の推薦状のことまで、おそらくガートルードに直接聞いたのだろう細やかさで説明されたアデリアナは、恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなってしまう。案の定、後ろで文官たちが「閲覧室での話だよな」「ああ、あの」などと囁く声が聞こえてくる。窓から連れ出された話は、女官だけでなく文官の間にも広く浸透しているようだった。
「……神官長様からも、姫様が王太子殿下とのお約束の時間を破ってまで我が娘に心を砕いてくださったと伺いました。寛大な王太子殿下にも感謝しております」
話の水を向けられたルーファウスがくすくすと笑いながら、どういたしましてと言う。ぜったいに面白がっている。アデリアナがこっそり睨むと、ルーファウスは目を細めて微笑むことで返した。
アスコット伯爵に何度も御礼を言われて、アデリアナはやんわりと首を振る。
「わたしは偶然、幸いにもいただいた推薦の権利を、ただしく針の腕に優れた方にお渡ししただけですわ。わたしが特別何かをしたのではなく、ガートルード様が素晴らしいのです」
「いやはや、なんと慎ましい!」
そろそろ話を止めたかったアデリアナの意に反して、アスコット伯爵の感情はさらに高ぶってしまったようだった。アデリアナは辺りを見回すが、ルーファウスも文官たちも助けてくれないどころか、この状況を楽しんでいる。
「姫様、どうか私から御礼をさせてくださいませんか。私に出来ることなら、何でも構いません」
その気持ちはありがたいと思うし、娘が大事なアスコット伯爵の気持ちもわかるのだが、わかるのだが。アデリアナは、ほとほと困ってしまった。
「推薦の権利は神殿からいただいたものですから、どうかわたしではなく、神殿に……」
「ああもちろん、神殿には祝祭の折りに寄付をいたします。神官長様も、姫様に御礼をしたいと話すと頷いておられました。何がよろしいですかな?」
アスコット伯爵は領間の交易についてやアスコット領の茶葉の栽培の見学や技術者の委託など、アデリアナがフィリミティナ領の経営を手伝っていることを承知の上で、心惹かれる提案をしてくる。
眉を下げたアデリアナは、おずおずと、では……と口にする。
「あの、大変差し出がましいのですが。お聞き下さいますか?」
「はい、何でも」
「ガートルード様はわたしに、父君がご自分の針をあまり良く思っていないのだとお話しくださいました。アスコット伯爵のお話を伺う限りでは、何か思い違いをなさっておいでだったのではないかと思いますけれど……わたしへ下さろうとしたお心は、どうぞガートルード様に向けてくださいませ。わたしは、お伝えいただいたお気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」
いやしかし、と言うアスコット伯爵にアデリアナは微笑んだ。
「先程、何でもと仰いましたわ」
ね? と囁くと、アスコット伯爵は何やらとても感じ入っていた様子で、しみじみとため息をついた。
「上の娘たちと年が離れていることもあり、あれにはつい私も過保護になってしまって……どれだけ好きだろうと針は嗜み程度にしなさいと言ってきたのです。それこそ、寝食を忘れて打ち込むので、いずれ体を壊してしまうと」
アデリアナはそこで、大変耳が痛くなった。アデリアナも、好きなことにかけては寝食を忘れるたちだからだ。たぶん、アスコット伯爵のほうが一般的で、アデリアナの両親のように好きにさせる方針のほうが珍しいのだろう。
「先日花園で面会をしたところ、久しぶりに、娘が私の前で楽しそうに笑ったのです。それが、我が娘ながら輝くような笑顔でして。思えば、あれは昔から気の優しい娘でした。私が強く言えば、内心どう思っていようが表立っては反抗しません。その娘が、姫様に背中を押していただいたから頑張りたいのだと、自分から私に話したのです。伺いを立てるわけでもなく、懇願するでもなく。……まあ、あれはいま寝食を忘れて針に熱中しているようなのですが」
目頭を押さえたアスコット伯爵は、侍女や出入りの針子から遠慮がちに、けれども再三にわたってガートルードの針を認めるよう訴えかけられたこともあって、このところ考えを改めていたのだという。娘とわだかまりなく話ができたことを、本当に嬉しく思っているようだった。
「では、これからたくさんガートルード様を甘やかしてさし上げてくださいませ」
頷いたアスコット伯爵は、ほっとしたアデリアナの表情を見て取って、娘が可愛い父親としてではなく、爵位を預かる者としての笑みを浮かべてみせる。
「失礼ながら、何をお望みになるのかというお答えで、姫様の人物を量ろうという下心もありました。しかし、姫様のほうが上手でしたな。先程の念押しもなかなかお見事でした。いやはや、王太子殿下の想いが深いのも頷ける」
さらりと言われたことばの内容にアデリアナが笑みを浮かべて何も言わないでいると、アスコット伯爵はさらに笑みを深くした。そうすると彫りの深い顔立ちに複雑な影が刻まれて、静かな凄みを帯びる。
アデリアナは、アスコット伯爵が現在は王城での職を辞したが、かつては兄と同じく外交を担う地位に就いていたという話を思い出した。その厳めしい面立ちとそれに反して親しみやすい話ぶり、そして今見せているような見る者が気圧されてしまいそうな凄みは、すべては嘘ではないのだろうが計算されてもいた振る舞いなのだろう。
「……では、姫様。今後姫様が何かをお望みになりましたら、そのときはアスコットの名にかけて約束を果たしましょう。姫様が何をお望みになるか、楽しみにしております」
――もしかしなくとも、大変なことを言われてしまっている。
迂闊なことは言えない状況になってしまい、慎ましく顎を引いて礼をしたアデリアナは、言いたいだけ言ったアスコット伯爵が立ち去り様、「我が家の蔵書から何かお贈りしようとも思ったのですがね。欲のない御方だ」と思い出したように呟いたのに、少しと言わず気を惹かれてしまった。
アスコット家はかつて一世を風靡した作家を輩出しており、伯爵家の蔵書には、遺されたが世には出ていない著作や日記が伝わっていることは読書家の間では有名だ。アスコット伯爵のことばは明らかにそのことを指してのものだったが、アデリアナは湧いた欲求を堪えた。
それでもぐらついたのが多少滲み出てしまったのか、はたまた外交に長けていたというアスコット伯爵にはお見通しだったのか、扉の向こうに消える前に苦笑するように微笑まれてしまったが。
アデリアナが顔に笑みを貼り付けたままため息をつきたいのを堪えていると、トビアスが喉の奥で笑う。
「いやあ、なかなか強烈でしたね。こう言っては何ですが、よいものを見せていただいたというか。……ねえ、殿下」
「そうだね、きみたちも結構楽しんだだろう」
いつの間にかこちらに歩み寄ってきていたルーファウスが、ギルベルトに書類を渡しながらアデリアナを見た。恨みがましい目でその顔を見上げたアデリアナに、ルーファウスは小さく吹き出した。
「もしかして、分かってないの?」
「……気づかないふりをしているんですの」
書類を置いて顔を覆ったアデリアナの頭をぽんと撫でて、ルーファウスは朗らかに笑った。
「アデリアナ、あなたはいま、欲しいと望んでも滅多に手に入れられない約束を得たんだよ」
分かっている。アデリアナは呻いた。
アスコット伯爵の約束は、略式的なものだが家名に誓われたものだ。それも、王太子の前で行われている。家名にかけてアデリアナのお願いを叶えるというその内容は、幅が広すぎることもあって恐ろしい。ほんとうに、何でも叶えられてしまいそうだ。……それこそ、政治的なお願いでさえ。
こんなことなら、素直に本をねだっておけばよかった。王城の図書館に寄付をしてもらうのでもよかったかもしれない。あんな言い方をされてしまったら、約束に見合うお願いをしなくてはならない。重い約束だ。
「私なら、喜んで切り札に取っておくけどな」
「さし上げられたらいいのに、と思いますわ」
「いやだよ、アスコット伯爵に恨まれてしまう。……ねえ、本当に今日はずっとその話し方なの?」
髪を撫でていた手のひらが頬に落ちて、アデリアナはぴくっと肩を震わせた。
失礼に見えないよう、そっと身体を後ろに引くことで手のひらから遠ざかったアデリアナは、ルーファウスが何だかとても拗ねた顔をしたのに笑ってしまった。
「……恥ずかしいのです。どうか分かってくださいませ」
頑なにことばを崩さないでいるアデリアナにルーファウスが苦笑したとき、扉が叩かれてジリアスが顔を出した。
「……殿下、お話が。少しお時間を頂戴できませんか」
「いいよ、何?」
ジリアスの様子に、ルーファウスがトビアスに席を外すと言い置いて扉の外へと出ていく。
小さく息をついたアデリアナは、執務室に満ちた生温かい空気に気づかないまま、せっせと書類を分け始めた。アスコット伯爵の件があったとはいえ、まだ何もしていないことになる。
一旦分け終えると、文官たちの机を見、また半月分の書類を見て何度か書類を入れ替える。それぞれの文官の名前が書かれたカードを書類に重ねて終了だ。
「トビアス様、ご確認をお願いいたします。お時間を頂戴して申し訳ございません」
「アスコット伯爵の来訪は、姫様には予想できなかったことですよ。……拝見します」
トビアスは文官ごとに仕分けられた書類を丁寧に、だが素早く確認する。アデリアナに幾つか問いを重ねながら。
「ほかの姫様や殿下から、政務補助についてお聞き及びだったのですか?」
「いいえ、特にお話はしておりません。政務の内容に触れざるを得ませんから」
「ははあ。どうして書類の仕分けをさせられたとお考えですか?」
「判断力と思考の流れを見るためかと」
「仰る通りです。……いやあ、いやになりますね。姫様方は、私たちの想像の範疇に収まっては下さらない」
ため息をついたトビアスが文官たちに声をかけ、書類を取りに来るよう告げる。
興味深そうに自分に割り振られた書類を見ていた文官たちは、ある者は納得したように席に戻り、ある者は戻ろうとして立ち止まる。
「姫様、なぜ私に福祉の書類をお分けになったのですか? 私は経理を主に専門としていますが」
ギルベルトの問いに、アデリアナは半月分の書類の中から数枚を取り出した。
「半月分しか拝見していませんが、書類を見た限り、福祉については特にご専門の方をおかず、持ち回りで担当しておいでなのかと思って……あとは、その。差し出がましいのですが」
言うべきかどうか逡巡したアデリアナは、トビアスにどうぞと促されてギルベルトを見る。
「……数字が、少し不自然な気がしましたの。ギルベルト様はほかの方の書類に数字的な指摘をしておいででしたし、数字への目配りについて信頼されておいでなのだと感じました。ただ、わたしは孤児院への訪問はしておりませんし、数字については感覚的に見るところがあります。ですから誤りかもしれませんが、それはそれで構いません」
「なるほど、よく分かりました。……貴族のお嬢さんが孤児院訪問をしないというのは、面白いですね」
「貴族の娘にはそれくらいしか出来ないと? わたしは訪問ではなく運営監査と教育支援をする方法を選んだ、それだけですわ」
ギルベルトは短く笑い、そうですねと頷いて席へと戻る。
何度か似たようなやりとりを終えると、アデリアナはトビアスが笑っていることに気づいた。それは、はじめてことばを交わしたときの儀礼的なものよりも幾分気を許したような笑みだった。
アデリアナは苦笑する。やはり、試されていたのだろう。花園入りの課題もあるだろうが、ルーファウスが選んだ娘を量る意図が先にあっただろうことは容易に想像がつく。
ルーファウスは生まれ持った身分のせいだと思っているので自覚が薄いが、近衛騎士や部下に慕われている。王太子の執務室の面々は、親衛隊のようだと評判だ。
「……まずは合格点をいただけました?」
「はい。姫様にお願いしたいことも幾つか考えつきました。そうですね、まずは姫様にしかできないことをお願いしたいのですが」
トビアスはそう言って、あちらをご覧下さいと主のいないルーファウスの机を示してみせたのだった。
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