第23話 友人たちと過ごす夜

 定時を回っても仕事をしていたルーファウスは、部下たちを帰して誰もいなくなった執務室の扉が叩かれるのに顔を上げた。返事を待たずに開けられた扉から顔を覗かせたのは、フィリミティナ公爵家の長子であるディクレースだ。


「おい、ルー。いつまで仕事してやがるんだ」


 アデリアナと同じ黒髪に若草色の瞳を持つディクレースは、手にしたボトルを肩に担ぐように乗せるという次期公爵とは思えぬざっくばらんな様子でルーファウスの机に歩み寄る。


「ディク、早いな。迎えに来てくれたのか」

「お前が遅いんだっつーの」

「あ、そのワイン、いいやつだ。どうしたの?」


 とん、と机に置かれたボトルのエチケットを見て、ルーファウスは目を瞬かせた。

 雑に扱われていたが、それはアーデンフロシアでも名の知れた醸造所で造られた年代物のワインだった。それも、王城のワインリストにもなかなか載らないほど貴重なものである。

 驚いたルーファウスが手を伸ばすのに、すす、とボトルが遠のいた。見上げると、行儀良く机の上に腰かけたディクレースがにんまりと唇をつり上げる。


「で? うちから持って来たとっておきの酒で祝えそうな進展があったんだろうな?」


 ルーファウスは静かに微笑んだ。やがてくすくすと笑い出し、手にしていたペンを置く。インク瓶に蓋をして、書類に吸い取り紙を押し当てた。書類に決済印を捺し、箱に入れる。


「それでわざわざ迎えに来たのか」

「俺は王太子のご学友で身内だぞ、こっそり教えてくれたっていいだろ」


 あん? と決して上品とは言えない声を出す友人に、ルーファウスは仕方のなさそうに笑った。そうして、からかうような表情のなかに、気遣わしげな色を滲ませている友人に小さく頷いてみせる。


「……アデリアナに求婚して、了承をもらえたよ」


 わしゃわしゃと勢い良く髪をかき乱されて、ルーファウスは声を立てて笑った。

 ルー、と乱暴に、けれども親愛のある温かさで呼んでくれるこの友人が、ルーファウスは好きだった。ディクレースはアデリアナに対するルーファウスの恋心を時に呆れ、時にからかいながらも、さりげなく協力してくれたのだった。もちろん、ルーファウスの気持ちばかりを重んじることはせず、ディクレースはいつだってそれがアデリアナの心を損なわないか気をつけていた。だから、ルーファウスはディクレースを親しい友だと思うのだ。


「ルー、よかったな! ああもう、ほんっと長かったなあ!」

「うん、ありがとう。長かったけど、いまでよかったと思うよ」


 ディクレースはルーファウスの頭を抱き寄せて、満足するまで柔らかい髪を乱していた。

 ややあってひとしきり満足したのか、ディクレースは長い息を吐いて手を離す。

 

「……で? じゃあ花園入りは終わりか?」

「んー、それは……」


 言いよどんだルーファウスの様子を見て、ディクレースは笑った。


「そろそろ行くか。あとは向こうで聞かせろ」


 二人が向かったのは、王城に与えられたディクレースの部屋だ。

 部署や役職に応じて、文官には部屋が与えられる。ディクレースは外務の仕事を担っているため、他国の使者とのやりとりも多く、王城に寝泊まりする機会が多い。

 その部屋で時々飲み会をするのが、ルーファウスたちのささやかな楽しみなのだった。


「あ、来ましたね」

「遅いぞ」


 ルーファウスが頼んで用意させた料理と酒、さらに先に来ていたゼゼウスとクリスが持ち込んだ物も足されていて、小机の上はいっぱいになっている。

 ルーファウスとディクレースの顔を見て、クリスが魔術で氷を作る。丸く削られた大きな氷を入れたグラスに、琥珀色のウィスキーを注ぐ。


「なんだ、クリス飛ばしてるな。何があったんだよ」

「……飲まないとやってられない」


 ルーファウスとディクレースが長椅子に腰かけると、クリスはどん、とウィスキーのボトルを小机に置いてグラスを呷った。その濃密な香りに、ルーファウスはおやおやと眉を上げた。

 長い長いため息をついて、クリスがその鳥の巣のような髪を揺らして首を振る。


「おいルーファウス、お前のせいだからな」

「イゼットはもうクリスを訪ねたのか。なかなかの行動力だね」


 話が見えないという顔をするゼゼウスとディクレースに、ルーファウスは簡潔にクリスとイゼットの関係を説明した。自分がその再会を仕組んだことも。

 はあ、とため息をついているクリスをちらりと見て、ディクレースがなるほどと呟いた。


「はい、ケーキも用意してもらったから。ささやかだけど、これは全部君のだからね」

「……お前はほんとうにそういうやつだよな、ルーファウス」


 ルーファウスがさしだした皿を膝の上に乗せたクリスは、無造作にフォークを差し入れて、綺麗にクリームと果実で飾り付けされたケーキを黙々と崩していく。


「アーガイン公爵令嬢とは私も面識がありますよ。綺麗なお嬢さんですよね。落ち着いた感じで、ちょっと陰りがあるというか……でもそこが守ってあげたくなるというか」


 サラダを独り占めしているゼゼウスが咀嚼の間に言ったことばに、クリスはん? と首をひねる。


「別に、イゼットは暗くはないだろ。俺にいつもわがままばかり言っていた。はじめて会ったときだって、自分が怪我をしてるのに絶対夜会から帰らないって意地張って大変だったんだぞ」


 ゼゼウスはその女神に愛された美貌を緩ませて、実にうるわしい笑みを浮かべて見せた。


「馬鹿ですねえ、クリスは」


 そうすると、その色素の薄さときららかな青の瞳があいまって、端正な顔に少女めいた無垢さが湛えられる。女神の花をかたどった燭台に照らされて、その年齢から解き放たれたごとくに繊細なうつくしさに複雑な陰影が刻まれる。


「いいですか、クリス。あなた、親に殺されてるんですよ。塔に関わりのある人でなければ、死んだと思ったままでしょう。だから、彼女は悲しんでいたんです。あなたを愛していたから。それが、彼女の陰りです。せめてそのことは分かっておあげなさい。でないと、可哀想ですよ」


 その神聖さを纏わせた笑みは輝かしいばかりであったが、その膝に抱えられた一人分にしては多すぎるサラダと優美な手つきで掴まれたフォークに串刺しにされた野菜で見事に台無しになっていた。

 拗ねたように黙り込んだクリスを横目に、カギュエの揚げ物を摘まんでいたディクレースが首を傾けた。


「公爵令嬢が塔を訪ねてきたくらいなら、俺たちを召集しながっただろう。キスでもされたか?」


 その場の視線を集めた塔の長は、本当に珍しいことに、ケーキを食べる手を止めた。あまつさえ、半分ほど食べたケーキの皿を小机の上に押しやるようにして載せる。そうして、長椅子の上で抱えた膝に顔をうずめた。


「……押し倒されて、服を剥ぎ取られそうになった」


 もそもそと吐き出されたことばに、一瞬沈黙が落ち。

 ディクレースが口笛を吹いた。なかなかやるな、の意である。


「ええと、おめでとうでいいんですかね?」

「違う! すぐに逃げたから俺は何もしてない!」

「「?」」


 ルーファウスとディクレースの非常に息が合った突っ込みに、クリスが口をひん曲げる。


「……なんなんだ? 俺が悪いのか? 人が説得しようとしても、イゼットは全部言い返してくる。研究を選んだからアーガインに婿入りもできないし、公爵も頷かないだろうと言えば、では家を出ます、塔の研究者は妻帯できると聞きました。花園入りの娘だろうと言っても、選ばれないことは分かっているでしょう。もうきみに気持ちはないと言ったら、それでもいいです。よくないだろ? って突っ込んだら、押し倒された。では今から好きになればいいの、だそうだ。そういうものか!?」


 ひと息にはきだされたクリスとイゼットのやりとりに、ゼゼウスはおやおやと天を仰いだ。女神、お聞きになりましたか? 貴女様のお好きな恋のお話ですよ、などと虚空へ向けて囁いている。ディクレースはと言えば、けらけらと笑っている。

 その様子にむっとしたのだろう、クリスは空になったグラスにどぼどぼとウィスキーを注いだ。からん、と音をたててグラスの中で氷が揺れる。

 ルーファウスは安堵したように肩をすくめて、それから少しだけ笑った。カガという根菜を細く刻んで揚げたものを酸味のあるソースにつけて、囓るように食べる。


「でも、悪い気はしないんだろう? いいじゃないか。クリス、きみは全てを捨てて塔に入ったつもりだろうけど、大切なものを拾いあげたっていいんだよ」


 ルーファウスのことばに、ふんとクリスが顔を背けて長椅子の上で胡座をかく。

 膝に肘をつき、手のひらに顔を載せてちびちびとウィスキーを口に含むその様子は拗ねた子供のようだが、飲んでいるものは大人の嗜好品である。クリスが飲んでいるのは、今はもう作られていない有名な銘柄で、そんなにぱかぱか飲み干すようなものでは到底ないのだが……まあ、そういう気分だったのだろう。甘党のクリスが贔屓にしているウィスキーの甘い香りに、ルーファウスは微笑んだ。

 その笑みを見て、クリスがグラスの縁を歯でがちりと噛んだ。無作法だが、不思議と可愛げがあるように見えるのが実にクリスらしい。


「……お前の方こそ、どうなんだ。アディの呪いはどうしてこんな短期間で壊れてる? いちゃいちゃしろとは言ったが、早すぎるぞ」

「え、そんなに壊れてた? 私には見えないからな」


 クリスは指でケーキのクリームをすくい取り、宙に白い鎖を作り上げた。

 そうしながら、アデリアナの呪いについて、時に脇道に逸れながらゼゼウスとディクレースに説明してみせる。いちゃいちゃ、ということばに眉を立てていたディクレースは、聞くうちに何とも言えない微妙な顔をした。


「鎖に張った魔術を通しているから、壊れると俺にも知覚できるんだが……喉の辺りはもう鎖がないな。心臓の辺りを取り巻く鎖は三重くらいだったんだが、二重くらいにはなってる。このくらいか?」


 フォークで鎖を突いて変形させたクリスは、そう言ってクリームのついた指を舐めた。

 ん? と眉を寄せたのはディクレースで、ルーファウスをじとっと睨んだ。


「おいまてこら、アディは純朴なんだからな、いきなり舌入れるとかなしだぞ。お兄さんは節度ある関係を望みます」

「お兄さんて。……純朴か? わりと描写がえぐい本を読んでたような」

「純朴な公爵令嬢は発禁本なんて読みませんよ。ディクレース、正気におなりなさい」


 ルーファウスが曖昧に微笑む傍で、クリスとゼゼウスが口々に言った。こそこそといった様子を装ってはいるが、あきらかにディクレースに向けて言っている。


「アデリアナは何でも読みたいんだよ、可愛いよね」

「出た、ルーのアディ可愛い。ほんとうに、お前はもう……」


 ばしんとディクレースに肩を叩かれて、ルーファウスは咳き込んだ。

 アデリアナはあんなに細やかなのに、その兄であるディクレースは外務の仕事や妹を案じる心配り以外のところでは、多分に大雑把で細部を気に掛けないところがある。

 背中をわしわしと撫でられたルーファウスは、ディクレースに差し出された果実水を飲む。


「ディクレース。君はあんまり分かっていないようだけど、君の妹は可愛いよ」

「いや確かにうちの妹は可愛いが、俺はお前ほど目が溶けてるわけじゃないからな」


 そうかなあと呟くルーファウスがまだお酒を飲んでいないことに気づいたのは、ゼゼウスだった。


「ルーファウス、お酒はいいんですか」


 空いたままのグラスを引き寄せて指を彷徨わせ、そうしてディクレースが抱えたボトルに目を留める。それだけで、非常に察しのいいゼゼウスはうっすらと笑みを浮かべてみせた。

 ルーファウスはその笑みに、よく冷やされた果実水で唇を湿らせる。先に聞いていたディクレースがにやにやと笑うのに見守られながら、ゼゼウスとクリスに求婚が受け入れられたことを告げる。二人は、特に驚かなかった。さもありなんといったように頷いて、やはりというべきか、時間がかかったことをしみじみと指摘する。


「では、花園をお閉じになりますか?」


 ゼゼウスの問いに、ルーファウスは首を振った。

 花園入りは、王太子が花嫁を早々に決めてしまった場合、期間半ばであったとしても閉じることができる。現に、ルーファウスの父は学舎の同級生であった王妃を選んで、あっさりと花園を閉じたという。

 これはあまり知られていないことだが、花園入りには人間の恋模様を眺めるのがとりわけ好きな女神を喜ばせるという意味あいもあり、ルーファウスや父王のように予め相手を決めていたような場合も神殿からの申し入れがあって行われている。

 ルーファウスの花園入りが延期されたことには、女神を喜ばせたい神殿側と、アデリアナ個人に求婚するので充分だというルーファウスの要望が押し合ったことも理由の一つだったのだが……そういった事情もあり、花園を閉じる場合はまず神殿に告げて女神にお伺いを立てるのだ。


「もう少しアデリアナといちゃいちゃなさりたい、と」


 分かっておりますよといった顔で頷いたゼゼウスは、女神もお喜びになるでしょうと囁いた。苦笑しつつも、ルーファウスは特に否定はしなかった。正直なところ、そういう気持ちは多分にあったので。


「それで、君たちにお願いがあって」

「求婚成功祝いだ、何だっていいぞ」


 ディクレースのことばに、ルーファウスは眉を下げた。アデリアナもそうだが、ディクレースもルーファウスに甘いところがあって、すぐ何でもいいと言うのだ。

 そんなふうにしていて外交が成り立つのか不思議でならないのだが、ルーファウスのもとに上がってくる話によれば、ディクレースは将来有望らしい。


 ルーファウスがクリスに目配せすると、ぱちんと指が鳴らされた。四枚の書類が現れて、ひらひらとそれぞれの膝に舞い落ちる。


「申し訳ないけれど、いまから話すことを聞いたら、君たちにはこの誓約書に署名をしてもらうことになる。お願いと言ったけれど、これは強制に等しい。アデリアナの恩寵と、未来の王太子妃に関わることだから」


 誓約書を作ったクリスとアデリアナの兄であるディクレースは、当たり前のようにルーファウスの味方になってくれるだろう。だが、柔らかな笑みを湛えたゼゼウスは少し違う。

 三人はそれぞれルーファウスの親しい友人だが、神官長という立場であるゼゼウスは中でも一番己の置かれた立ち位置への自認が強い。塔の長であるクリスはその点ざっとしすぎているが、ゼゼウスのほうが本来あるべき姿だろう。神殿の長として、ただしい有り様だと思う。

 あっさりと伏せられていた誓約書をめくったディクレースと宙に浮かせたペンを魔術で動かしてサインをしているクリスを横目に、ゼゼウスは海の瞳を瞬かせ、神官長として王太子を量るようにルーファウスを見つめた。そのまなざしを受け止めて、ルーファウスは微笑んだ。王太子としてではなく、素のルーファウスとして。そのことに、ゼゼウスは少しだけ驚いたようだった。


「おい、ルー! ……マジか、いや、マジだよな」


 誓約書を読んだディクレースの困惑の滲んだ声に、ゼゼウスが膝の上にあった自分のそれを手に取る。そうして、密やかに息を呑む。

 二人がクリスの力を通されて夜の中に浮かぶ星のような瞬きを浮かべる文字の連なりをくり返し読む間、ルーファウスは果実水を飲んでいた。クリスは黙々とケーキを食べている。


「……そこにあるとおり、アデリアナには恩寵がある。簡単にまとめると、実際に起こるだろうことや、過去に起こったことを夢や幻影で見るという力だ。彼女の意思では扱えない恩寵によって見せられた夢によれば、花園入りの最後に行われる夜会で、アデリアナは私を庇って誰かに殺されるという」


 花園入りの最終日には、離宮で夜会が開かれる習わしだ。

 女神の花園入りに倣って行われるその夜会は、王太子と娘たち、そして娘それぞれの家族が参加する小規模なものだ。その支度は、花園入りの予定をこなす傍らで娘たちが担う決まりである。アデリアナが語った夢を聞いたルーファウスには、その夢の舞台が夜会だとすぐに分かった。


「アデリアナが見る未来は確定したものではなく、現実の行動如何で変化しもする。このまま花園入りを続ける中で、アデリアナが生き延びるための対策を練りたい。……君たちに、力を貸してほしい」


 ため息したのは、ゼゼウスだ。誓約書に手のひらを押し当てながら、ふわふわと宙に浮いていたペンを掴んで署名をする。一足先にサインを終えていたディクレースの背中を鼓舞するようにばしんと叩いて、神官長は長い長いため息をついた。

 手のひらで額を押さえて長らく黙り込んでいたゼゼウスは、ややあって、ゆるゆると首を振った。


「ルーファウス、そんな話を聞いて誰が断ると思うんです? ばかですね。あなたは私を随分誤解しているようだ」

「ゼゼウスに、立場を越えてわがままを聞いて貰おうとは思っていないだけだよ。今回は、その神官服の裾に縋ってでもお願いしたいところだけど」

「やめてくださいよ、女神がお気に召したら困ります」


 ぺちりと頭をはたかれて、ルーファウスは頷いた。

 そのまま髪をやさしく撫でられて、ルーファウスはゼゼウスに神話を教わっていた幼い日のことを思い出した。八つ上のゼゼウスはその頃から神童と評判だったが、神々しい容貌が醸し出す優しげな印象とは裏腹に、時に厳しくルーファウスに接してくれたものだった。


「ルーファウス、私たちを見縊るのは失礼というものですよ。アデリアナの命がかかっていて、どうして協力しないことがありますか? あなたにとってだけでなく、私たちにとっても彼女は大切な人です」


 はい先生、と懐かしい呼び名を言って頷いたルーファウスに、ゼゼウスはしかつめらしくよろしいと頷いた。ケーキを咀嚼しながらその様子を見ていたクリスが、ぼそぼそと言う。


「……個人的に助けるつもりがあるのは勿論だが、ルーファウスはものすごく頑固だからな。協力しなかったら、それはそれで国がひどいことになる」

「あー、そうだな。もちろんうちの妹を死なせるつもりはないが、そうなったらマジでやばいな。ルーは一生結婚しない気がする。欲しくもない娘を寝台に送り込まれたら、出奔する。絶対にそうだろ。賭けなくとも結果は明らかだ」

「恐ろしいことを言わないでくださいよ。神殿としても、大変困ります」


 友人たちの視線を受けて、ルーファウスは微笑むことで返事に代えた。

 やだやだ、とディクレースが首を振り、揚げ物を摘まんで口に放り込む。


「なあ、いっそのこと、夜会自体をなくすのはだめか? 花園入りを終わらせて」

「いや、だめだ。予知の恩寵を持つ者に花園入りの結果や夜会、アディやルーファウスの未来を見させてみたが、何も見えなかったらしい。そういうときは、ある程度恩寵で知った未来の流れに合わせて、細部を少しずつ変えることで未来を変えるのが穏当な方法だという」


 夜までに色々と調べていたというクリスのことばに、ゼゼウスがその形の良い眉を顰める。


「なかなかに難儀ですね。夜会の支度が始まるまでに対策を練りましょう。……しかし、私にはいまいち得心がいかないのですがね」

「うん?」

「女神はあなたとアデリアナのことが、殊の外お気に入りなんです。私にすべてをお話しくださるわけではありませんが、閲覧室の窓から連れ去ったときなどは、それはもう喜んでおいでで……女神はあなたたちの恋を物語のように愉しんでいらっしゃる。それなのに、アデリアナに死をお与えになるでしょうか?」


 女神の思し召しは人知の及ぶところではないとはいえ、ゼゼウスが不思議に思うのなら、女神があえて何もしないでいる事情があるのかもしれない。ルーファウスはそう考え、アデリアナが言いそうなことを思いついた。


「……悲恋がお好きとか?」

「あー、まあ、それは否定できませんね。幸せな結末ばかりではお飽きになるようです。……いまも私を御覧になってはいらっしゃるのですが、お話しくださるおつもりはないようですね」


 目を瞑って己に差し伸ばされた女神の気配をたどるゼゼウスに、ルーファウスは声をかける。


「女神に御礼を伝えてほしい。今日はお庭に入らせていただいたから」

「……あなたみたいなお願いは、はじめてだったそうですよ。良いものを見せてもらえたので満足なさったとのことです」

「そう、女神は私の求婚を見守ってくださっていたのか」


 そう言ったきりルーファウスが口を噤んだので、三人は顔を見合わせる。


「では、三日後くらいに一度集まりましょうか。アデリアナも交えて話をしないといけませんし」

「それがいい。俺は塔で調べを進めるから、ゼゼウスは神殿でよろしく」

「俺は花園入りに関わる人間を洗っておく。集まるのはアディの居室にしようぜ」


 それでいいかと見つめられて、ルーファウスは頷いた。

 

「うん。……アデリアナは、くり返し自分が死ぬ夢を見ていたそうだよ。物心ついた頃からずっと。本当は誰にも言わないまま死ぬつもりだったと言われて、私は悲しかった。彼女は朗らかで優しくて、ぜんぜんそんなことを決めている素振りなんて見せなかった。どれだけつらかっただろう」


 囁くようにそう言って、ルーファウスは手のひらで顔を覆った。


 アデリアナは分かっていないのだ。いつだって、彼女だけがルーファウスの心を震わせて、いつだって彼女だけがそのことを深くは知らない。それでいて、ルーファウスよりもアデリアナのほうがずっとつよいのだ。


 ルーファウスに愛おしいという感情を与えたのも、無理に振る舞ってしまえば彼女を傷つけてしまいそうに貪婪な欲をかきたてるのも。彼女だけが、ルーファウスの心をひどく乱してしまう。どこか憎らしいような気持ちと、けれどもそれ以上に大事にしたい気持ちとで、ルーファウスを揺らがせるのは彼女だけだ。アデリアナにはそんなつもりなどないのだろうに、ルーファウスはいつも勝手に、そう。ひどく身勝手に、アデリアナに恋い焦がれている。


 ルーファウスが気落ちしていると、ディクレースの手が強引に顔から手を外させて、グラスを握らせてくる。顔を上げると、面倒見のいいディクレースがしようがなさそうに笑い、クリスとゼゼウスが肩をすくめるのが見えた。


「おら、王太子殿下。まずはその長年の片思いの成就を喜べよ。親父殿秘蔵のワインを飲もうぜ」

「そうだそうだ、あのアディを口説き落としたんだぞ、なかなか出来ることじゃない」

「そうですよ、ちゃんと助けてあげますから」


 ほら、と促されて、ルーファウスは友人たちと力なく乾杯を交わす。

 グラスに口を付けると、クリスの魔術によって冷やされていたワインのふくよかな果実の甘さが広がって、喉の奥へと流れ落ちる。流石のおいしさに、ルーファウスはほんの少し気分を持ち直した。


「……頼りにしている。ありがとう」


 そう言って、ゆるやかに微笑んだ王太子の様子に神官長と塔の長、そして文官はほっと胸をなで下ろしたのだが。



「ルー、もういい。もう惚気はいらない! うかつに聞いた俺が悪かった! 友達と妹の甘ったるい話をこれ以上聞くと、食べてもいない砂糖が喉から出てきそうで恐い」

「え、何も具体的な話はしていないよね?」

「なんで具体的な話もないのに砂糖吐きそうなのかわかるか? お前がアディを見る目の細かさがやばい。まじでやばい。……両思いになってよかったな、ほんとに」

「ディクレース、君はアデリアナの可愛さをちょっと低く見ていると思うんだよね」

「またそこに戻っちゃうか!?」

「だって、あんなに可愛いんだよ。可愛いすぎる。え、分からない? ……そうか、私の語彙が足りないせいで、彼女の可愛さが伝わらないのか」


 ルーファウスがうーんと悩ましげに首をひねりつつ、空になったグラスを見て、冷やされていたボトルをまた一本開ける。白、赤、白、白と続いて今度は赤だ。

 その手元はしっかりとしていて、なめらかな頬は赤らんですらいない。だが、親しい友人たちには分かっていた。どうしようもなく分かってしまっていた。


 ――ルーファウスは、いつになく酔っている。それはもう、べろっべろに。


 いつも穏やかで清く正しい王太子は、なかなか酒に強い。

 いまも、ぎゃんぎゃんと騒いでいるのは主にディクレースで、顔が酔いに染まって赤いのも彼のほうだ。反対に、ルーファウスは至極淡々としている。淡々とワインを空けながら、幸せそうに微笑んでは惚気ている。そのくり返しである。


「あーあー、王太子殿下は酔っておられる」

「こんなべろんべろんになるのは久しぶりだな」


 ディクレースはこと外交となると、その見た目や若さに似合わぬ老獪さを見せる。諸国との会談に招かれることもあるゼゼウスもクリスもそう承知しているのだが、耳を塞いで王太子から目を逸らしているいまの様子からは、その有能さを推し量ることは難しい。

 ディクレースはざっくばらんな態度で親しみやすい人物だが、自分で自覚している以上にルーファウスに甘く、ゼゼウスやクリスから見れば少々過ぎるくらいに世話焼きだ。

 反対に、なぜ二人が落ち着いているのかというと、それは年の功であると言うべきか。王太子とそのご学友より幾分年嵩のゼゼウスとクリスは、飲み会での引き際をよく心得ていた。


「……ほんと頭沸いてんな。たしかにうちの妹は可愛いが、あれは本狂いだぞ」

「本の話をするときに、目がきらきらするのがいいんじゃないか。何でも読んでしまう濫読なところもいい。可愛い」

「はいはい、分かりました分かりました」


 ぽすんとクッションを押しつけられて、ルーファウスは綿が密に詰まったそれを抱きしめる。もういいだろ、とディクレースに優しくグラスを奪い取られてしまって、ルーファウスはくたりと長椅子に凭れた。持たされた果実水を少しずつ飲みながら、ルーファウスはくすくすと笑い声を立てる。


 適当に相槌を打っていたディクレースは、ふと見たルーファウスの瞳の優しさに顔をしかめた。

 見慣れていたとしても、ルーファウスの笑みはなかなかに威力があるのだ。


「私はね、アデリアナといると、生きているのが楽しいよ。普通に見えている景色が鮮やかになって、風や葉擦れの音さえ愛しくなる。当たり前のようにそこにあった空気に甘さが、陽射しに輝きが、落ちた影の揺らめきに落ち着きがあるように感じる。何気ないことが嬉しくて、なのに自分の記憶がその嬉しさをそのままに閉じ込めておいてくれないことが悔しくなるくらいに。……喪いたくないよ」


 ぽつぽつと、穏やかに語られたルーファウスのことばは、ため息で結ばれた。


 ディクレースたちが何も言えないでいるうちに、ルーファウスはクッションに顔を埋めるようにしてすやすやと寝入ってしまった。


 ゼゼウスが上掛けをかけてやり、クリスが安眠のまじないを囁き、ディクレースが果実水の入ったグラスをそっと取り上げる。そうして、やれやれと肩をすくめて静かに笑った。


 一番最初に眠ってしまった王太子を囲んで、三人は夜が更けていくのを楽しむように、ゆっくりと酒を飲み交わした。時折思い出したように、ようやくのことで長年の恋を実らせた友人のために乾杯しながら。

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