第21話 ふたりだけの誓い
バスケットを手に小川へと駆けてゆくアデリアナの背を見つめながら、ルーファウスはアシュリーの手綱を木の幹に繋いだ。後ろを着いてきていたジリアスとジェラルドは、ルーファウスたちの話し声が届かないところで馬を降り、それぞれ馬に草を食ませてやっている。それ以上こちらに近づくつもりはないのだろう。
アデリアナに名前を呼ばれるのに、ルーファウスはゆっくりとした足取りで木陰から出る。
はやくはやく、とアデリアナがはしゃいだように急かすので、ルーファウスは笑った。
駆け寄ると、アデリアナが目を細めた。そうすると、彼女が自分で思っているよりもうんと雄弁な灰がかった青の瞳が、ルーファウスを大事そうに見つめてくれているのがよく分かった。
そんなまなざしの中に捕らわれるたびに、ルーファウスはたまらない気持ちになる。彼女のことが好きだなという気持ちで、胸が押しつぶされそうになるのだ。
バスケットの中に入れられていた敷き布をふたりで広げて、川のほとりに敷いた。
風に飛ばされてしまわないよう、腰に佩いた剣とバスケットで敷き布を押さえたルーファウスは、アデリアナがいそいそと片方の
ルーファウスは器用にも片足で立つアデリアナの手を取って、こけないように支えてやる。ぱちんとキュロットの下で靴下留めが外される音がして、するりと現れた白い素足が光に濡れた。
ルーファウスは、その傷一つないその爪先が自分の手のひらに収まってしまうくらいに小さくて、指の腹や踵が柔らかく、足首がほっそりとしていることを知っている。
先日あんなに羞じらっていたというのに、小川を前にしたアデリアナはあっさりとルーファウスに白い足を晒してしまっていた。ちいさな貝殻のような爪には、まだルーファウスが塗らせてもらった色がつやつやと残っている。
ルーファウスは脱ぎ捨てられた長靴と靴下を受け取って、繋いだ手を押しだすように離してアデリアナを小川へと送りだした。アデリアナはキュロットの裾を持ち上げるようにしているので、草を踏み水面へと差し入れられる足の白さや、細い足首からなめらかな線を描くふくらはぎがよく見えた。ひどく無防備で、可愛らしかった。
ちいさな水音が立ち、アデリアナがルーファウスを振り向いた。
「ルー、見て! 水が綺麗よ。春の光にきらきらしてる!」
ルーファウスは、眩しさに目を細める。
綺麗なのは水などではなくて、アデリアナだ。春の光に照らされて、そのやわらかな輪郭の縁が淡く滲んで見える。ルーファウスを見つめるアデリアナの瞳は揺らめくように輝き、つややかな黒髪が風に揺れている。白い頬の上に滲んだ花びらの色、ご機嫌そうに綻んだ唇。水と遊ぶ爪先、踊るようにちいさく揺れる身体。すべてが目映くて、綺麗だった。
(私の好きなひとは、なんて可愛いんだろう)
ルーファウスは、アデリアナに見とれた。
その一瞬の得難さを、いったいどう言い表せばいいだろう。
一瞬のまばゆさや愛おしさを胸の内から切り取って、何か綺麗な小箱に閉じ込めておければいいのに。もし一瞬の鮮やかさや彩りをそのままやさしく布でくるむようにして一つひとつ小箱に詰めていけるなら、ルーファウスの小箱はあっという間に埋まってしまうだろうけれど。
ルーファウスにとって、アデリアナのどんなところが好きなのかを数え上げるのはたやすいことだ。けれども、ルーファウスは彼女が優しいから、何かをしてくれたから好きなのではなかった。
ルーファウスの恩寵を知る人は、ルーファウスがただ一人ばかりを見ていることを様々に危ぶみ、時にこう忠告した。
――あなたは自分の思い通りにならない相手が物珍しいだけで、それは恋ではないですよ。
たしかに、ルーファウスの恋は彼女だけには恩寵が効かないことから始まったものだ。でも、ルーファウスはアデリアナが自分の意のままにならないから好きなのではなかった。
もしほんとうにそうだったなら、ルーファウスはアデリアナに対してもっと苛立ったり、無理やり身体を封じ込めるなりして言うことを聞かせようとして、とっくのとうに彼女の世界から弾き出されていたはずだ。アデリアナは分別のある娘だが、そういう意味ではほんとうに手強い娘だ。こころを不当に傷つけられたなら、もう二度と目を見て話してはもらえないだろう。
ルーファウスは、実際にそうなった
ルーファウスはただ、アデリアナがアデリアナだから好きなのだ。ただのルーファウスとして、ただのアデリアナが好きだった。どうしようもなく。
ルーファウスには、女神とその王配の子孫に与えられた責務がある。国と血に根ざした女神の加護を繋いでゆくために、血を繋いでゆかねばならない。王太子としてのルーファウスは父王の弟である叔父に即位してもらうのでも構わなかったが、それはほとんど誰からも望まれていないことだった。
女神が選んだ王配と同じ色彩を受け継ぎ、また、女神の恩寵の滴りを受けたルーファウスは、現王の唯一の子供であるという意味を越えて玉座にと望まれる王太子だ。神世の名残深く女神の庇護下にあるアーデンフロシアでは、玉座は女神の滴りを受けるすべての人々の象徴だ。そこに、ルーファウスの個としての感情や性質はさほど重要視されていない。ただ女神に愛された王太子が国を継ぐことが重んじられていた。
そのことについて、ルーファウスとしては特に異存はない。生まれ持った身分に与えられた義務として、ルーファウスは自分が象徴として存在を消費されることを受け入れ、忠実にこなしてきた。もちろん、これから先も死ぬまでそう在ろうとするだろう。それは、ルーファウスにとって至極当然のことだった。
けれど、王族でも何でもないただのルーファウスとしては、一緒に生きるのはアデリアナでなければ嫌だった。どうしても、嫌だったのだ。
「……ルーファウス、どうしたの?」
アデリアナに声をかけられて、ルーファウスは物思いから醒めた。
なんでもないよと首を振って、長靴を脱ぐ。裾を折り返して小川へ入ると、ぱしゃんと軽やかな音が立つ。春の小川は澄んだ冷たさをしていて、さらさらと流れながら肌を撫でた。
「疲れた? わたし、ついはしゃいじゃったけど……」
「いいや。ちょっとあなたに見とれてただけ」
気遣わしげに眉を寄せたアデリアナは、ルーファウスのことばにもう、と唇をとがらせる。そんなこと言ったってだめよ、の意だ。
その可愛さに微笑みながら、ルーファウスはくちづけたいなと思った。唇を重ねて、ほのかに色づいた頬にじんわりと羞じらいの赤が挿すのを見ていたい。そうして、いつも優しくルーファウスを見る瞳が、とろんと甘く揺れるのを待つのだ。
ルーファウスもふつうの恋する男であったから、ついそんなことを考える。何でもない顔をしながら、好きな女の子に心配そうに見つめられて不埒なことを思いもするのだ。
そんなことなど知らないアデリアナは、注意深くルーファウスの肌の上に視線をはしらせて、本当に元気かどうか確かめている。その間、大変よこしまなルーファウスは、もし疲れたと言ったら膝に甘えさせてくれるのだろうな、などと考えていた。
しばしして納得したのか、アデリアナは頷いてルーファウスの手を取ってゆっくりと引っぱるようにして歩き出す。小石と砂が足の裏をくすぐる感触に、こそばゆそうに笑いながら。
ルーファウスは、アデリアナに手を引かれるのが好きだ。
アデリアナはいつだって、ルーファウスに素敵なものを教えてくれる。木陰の中が気持ちよいこと、ベンチで風を感じる快さ、陽の光の下を歩くときの穏やかな幸せ。数え上げればきりがないそれらは、みんなアデリアナが手を引いて連れだしてくれたことで知った愉しみだった。
「あなたといると、世界がきらきらして見えるよ」
ルーファウスが囁くと、アデリアナはつと振り向いてふふと笑った。その声は、甘く窘めるようなその表情は、ルーファウスの胸の深いところを息苦しく、けれどもとびきり幸せに締め付ける。
ルーファウスはアデリアナが思っているよりもうんと彼女に惚れ込んでいて、彼女に伝えている以上に彼女のことが好きだ。どれだけことばを尽くしたら分かってもらえるのだろう、そう思ってしまうくらいに。
「懐かしいわね。ここで川遊びをしたのが、うんと昔のことみたい」
「あなたが花冠を編んで、私の戴冠式をしてくれたね」
アーデンフロシアの王太子は、立太子の儀と正式に王位を継ぐ即位の儀の二度、女神の名代である神殿の神官長から冠を載せられる。けれどもルーファウスの最初の戴冠は、立太子の数年前、アデリアナと女神の庭でしたお遊びでのことだった。
「戴冠式ごっこね! そう、わたしが神官長様の役をしたんだったわ」
「あれが私の最初の戴冠式だよ」
幼いアデリアナは本で読んだ儀式や物語の場面を再現したがって、ルーファウスをしばしばごっこ遊びに付き合わせた。その一つひとつにあまりにもルーファウスが丁寧に付き合うので、ディクレースは呆れていたものだった。けれど、ルーファウスは心底楽しかったのだ。アデリアナの心の動きはルーファウスにとって新鮮で、眩しくて。いつまでも傍で見ていられたから。
「足の裏を怪我しないように気をつけて」
「うん。……あなた、もうすぐ王様になるのね」
ルーファウスは、そうだねと頷いた。
アーデンフロシアでは、特別な事由がない限り、花園入りを終えて婚儀を挙げた王太子は数年のうちに即位する慣例だ。遅くとも三年から五年先には、ルーファウスの頭には立太子の儀で与えられたものよりもずっと重たさを増した冠が載せられるだろう。国を挙げての一大儀式のため、すでにその準備は始められている。
ルーファウスは、繋いだ手を握り直す。自分を見上げるアデリアナの瞳と視線を重ねて、囁くようにして訊ねた。少しだけ、緊張しながら。
「そのときには、あなたが隣にいてくれる?」
ルーファウスはこれまで何回も、恩寵の力に振り回されるたびにそんなことを言っては、アデリアナにやんわりと断られてきた。だから、ルーファウスはいつものようにアデリアナから軽やかに、けれども優しく退けられるつもりでいた。
けれども、いまアデリアナの顔に浮かんでいたのは、ルーファウスを気遣うような表情ではなかった。その表情は、ルーファウスが意識していなかった重たさでアデリアナにことばが届いたことを知らせた。
ひそかに息を呑み込んだルーファウスの見つめた先で、黒い睫毛がゆるやかに瞬く。アデリアナの瞳がきらきらと揺れていた。その中に自分が映っていることが信じられないくらいに、うつくしい瞳だった。
灰がかった青の瞳がたわんで、ルーファウスの好きな笑みが滲んだ。いつの間にか並んでいた肩の先が、こつんと触れあう。たったそれだけのことなのに、胸が痛いほどに高鳴った。
「わがままなお願いだけど、きちんと言ってほしいわ」
はじめは何を言われたのかわからなくて、わかってしまってからも疑り深くなってしまう自分がいた。けれども、やさしくルーファウスを見つめる瞳はどうやら本当で、夢ではなく現実のようだった。
「ルー。ねえ、そんな顔をしないで」
囁かれるのに、ルーファウスは繋いでいないほうの手で目元を覆う。どんな顔? と小声で訊ねると、夢から醒めたくないと思っているような表情をしてる、とアデリアナが囁きかえした。
「わたし、あなたのことが可愛い。格好良くて賢くて、理想の王子様だし……わたしよりうんと大人だけど、やっぱりあなたのことが可愛いの。こんなふうに思ってはいや?」
「いやじゃない。いやでなんかあるものか」
胸がいっぱいになってしまって、ルーファウスはため息した。顔が熱くなっているのがわかる。
そんなルーファウスに微笑んで、アデリアナは静かに待っていた。
向かい合うようにして立って、ルーファウスはアデリアナの両手を握る。そうして、ルーファウスはアデリアナの顔を覗き込んだ。
「アデリアナ、あなたを愛してる。どうか、私と結婚してほしい」
少しだけ、緊張に声が掠れた。
それは、何度も断られた求婚だった。恩寵の力を危ぶむルーファウスの不安を取り除くためであったり、アデリアナが単純にルーファウスの気持ちに気づいていなかったりして、いつも求婚は何度もやさしく断られてきた。
「……はい。喜んで」
はじめて求婚のことばが受け入れられたその瞬間、はにかむように微笑んだアデリアナの顔を、ルーファウスはこの先一生忘れることはないだろう。
ふたりは互いに引き寄せられるようにして、そっと唇を重ねた。
ここは女神の庭にある小川で、足元にはさらさらと清涼な水が流れていて、神殿でも王城の大広間でもなかったし、王族の婚姻を祝福する神官長もいない場だった。けれどもこれはふたりにとって、ささやかで大切な、ふたりだけの誓いのくちづけだった。
触れただけの唇と手が静かに離れて、ルーファウスは滲んだ涙を指で押さえた。
ちらりと見たアデリアナも、少し涙ぐんでいた。目が合って、互いに照れくさくなって笑い合う。
気恥ずかしさが消えると、どうしようもなく嬉しさだけが募りに募って、ルーファウスはアデリアナの膝をすくいあげるようにして抱きかかえた。
「ルー! あなた最近、わたしのことすぐそうやって抱えるんだから」
「うん。あなたを抱き上げるのが癖になりつつあるんだと思う」
もう、とアデリアナの腕が首に回されて、安心しきったように身体を寄せられるのに、ルーファウスはため息した。幸せすぎて、こわかった。夢ではないかと疑ってしまうくらいに。
川から上がって、敷き布の上にゆっくりとアデリアナの身体を下ろす。
ルーファウスが並んで腰を下ろすと、アデリアナがそっと背後を窺っているのが分かった。
アデリアナの視線を追うと、遠くの方で控えているジリアスとジェラルドは礼儀正しく顔を背けていた。常に傍に誰かがいるルーファウスからはそういう羞じらいはすっかり喪われているので気にならないのだが、アデリアナは近衛騎士がこちらを見ていないことに安堵したようだった。
たぶん見られていたと思うよ、とは口にしなかった。その代わり、ルーファウスはアデリアナの頬を指でくすぐるように撫ぜる。
ルーファウスの仕種の意図がわかったのだろう。アデリアナは目を伏せて、それからまたちらりと近衛騎士のほうを見た。
「ねえ。私がすぐ傍にいるのに、あんまりよそ見をしないで」
我ながら、たいへん狭量で甘ったるいことばだった。アデリアナもそう感じたのだろう。苦笑と羞じらいとが混ざったような表情をして、それからルーファウスを上目遣いに見つめた。
長い睫毛の下でじっとこちらを見る瞳の揺らめきも、頬の丸みもふくらんだ蕾のような唇も、その表情のすべてがルーファウスの胸を柔らかに苛んだ。胸の奥が苦しくて、甘酸っぱく疼く。
「……あなたが可愛すぎて、胸が苦しい」
あ、と思うまでもなく、心の声が漏れていた。
アデリアナは眉を下げて、もう、と呟く。そうして、つと身体を伸ばして唇を重ねてくれた。
離れかけた唇をふたたび捕らえて、ルーファウスはそのふっくりとした柔らかさを味わうように、触れるだけのくちづけを重ねた。
アデリアナにくちづけるたびに、ルーファウスは幸せでどうにかなってしまいそうな気持ちになる。求婚を受け入れられたばかりのいまとなっては尚更で、ルーファウスははじめて恋を知ったときの鮮やかさを思い出した。
花園入りから半月が経ち、ルーファウスは初恋を実らせた。
時間がかかりすぎだとほかの娘たちにはせっつかれたし、似たようなことはこれまでにもたくさん言われてきた。けれども、片思いの時期があんまり長かったせいだろうか。ルーファウスは、想いを通わせられたのがいまでよかったと思っている。お互いにもう少し若かったなら、アデリアナはルーファウスに秘密を打ち明けてはくれなかった気がするのだ。
……それに、大人だからできることもある。
はじめて唇を許されてからまだそう日が経っていないというのに、ルーファウスはここ数日の間で、ずいぶんアデリアナにくちづけている。気づいたら、そうしていたのだ。そうしたかった。アデリアナの口に挿された紅の色が移って、移ったそれもとろけてどこかへ消えていってしまうと、ルーファウスはただの幸せな男になった。そんな深いくちづけは、たとえばアデリアナが学舎にいた頃にはできなかったと思う。たとえ想いが通って、許されていたとしても。
四つ下のアデリアナは精神面では早熟な娘だったが、恋心が奪われてしまっていたこともあって、思春期の彼女はルーファウスの目にはひどく危うく映った。彼女の一番近いところにいる分、彼女を傷つけてしまわないか恐かったのだ。
唇を離すと、柔らかに瞑られていたアデリアナの瞼が震えて、夢を見るように瞬いて瞳を覗かせる。
その甘やかな瞳に、ルーファウスの内側で、愛おしさとともにひどく
けれど、ルーファウスはそれ以上のことをしようとは思わなかった。
だのに、アデリアナはこんなことを言うのだった。
「大人のキスは、しないの?」
ルーファウスは、喉の奥でくつくつと笑った。
「あなたが恥ずかしがるから、外ではしないよ」
あなたがいいなら、いいけど。囁くと、アデリアナは目を伏せて、顔を真っ赤にしてみせる。これはしてもよかったんだろうなと思いながら、ルーファウスはアデリアナの腰を引き寄せた。
「……いじわる」
そう言って、アデリアナの小さな頭がことんと肩に乗せられた。
その凶悪なまでの可愛らしさに、ルーファウスは一瞬、ほんの一瞬我を忘れてしまいそうになった。
(あなたを曝いて、私だけのものにしてしまえたならいいのに)
たぶん、ルーファウスが求めたなら、アデリアナは肌を許してくれるだろう。不安になってしまうほどやすやすと。でも、もう少しだけアデリアナから求められたいという気持ちがルーファウスにはあった。どんどん欲深になる自分に、ルーファウスは自嘲する。
アデリアナの身体はどこまでも華奢なのに、けれども端々が優しいまろみを帯びて柔らかい。
アデリアナに触れると、ルーファウスはいつもその細さと、ふわふわとした感触に驚いてしまう。ちょっと力を込めたら折れてしまいそうに儚げで、人の身体はそこまで壊れやすくはないはずだと分かっているのに、少しだけ躊躇ってしまう。
そのすんなりとした四肢の細さに反してふっくらと生地を押し上げる胸元、柔らかな肌のにおい。そうした彼女の身体が無防備なまでに自分にさしだされていることに、ルーファウスは畏れとともに喜びを感じてしまう。どうしようもないことに。
もし花園入りよりも前にフィリミティナ公爵家に縁談を申し入れていたのなら、アデリアナは素直に嫁いできただろう。きっと幼なじみのよしみで、夫婦になるために少しずつ距離を近づけてくれようとしただろう。でもそうすると、彼女の心に無理を強いてしまうのではないかと思った。まだ気持ちも通いきらないうちに、生まれ持った器に満たされた義務で身体を繋げてしまえば、ルーファウスの欲しいものは一生手に入らないのではないかと思った。世の中には結婚してからはじまる愛情だってあふれているのに、それでもルーファウスは臆病に怯えたのだ。
だから、花園入りの間をかけて口説こうと思ったのだ。もしそれで心を分け与えてもらえなかったとしても、彼女を手に入れてしまうのだと分かっていて。
「アデリアナ、好きだよ。あなたが可愛い。あなたが欲しい。あなたに、ずっと傍にいてほしい」
ルーファウスはアデリアナの手のひらを取って、その内側に唇を押し当てた。懇願するように。
「……だから、あなたが見た夢のことを詳しく教えてほしい」
アデリアナは頷いて、唇を開けて――閉ざした。
きゅう、と子猫が鳴くような音がして、ルーファウスは瞬く。もしかしなくとも、それはアデリアナの薄いお腹から聞こえたようだった。たしかに、お腹が空いてくる頃合いだ。
微妙な表情をしているアデリアナの肩を宥めるようにたたいて、ルーファウスは静かに身体を離した。
バスケットの中を覗くと、携帯用の小瓶に詰められた果実水と、薄紙に包まれたサンドウィッチが入っている。一緒に納められていた布を小川に浸して絞ってルーファウスが戻ってくると、アデリアナは拗ねたような顔をしていた。幼なじみとして過ごして長いから、ふたりは今さらお腹の音に羞じらうようなことはなかったのだが、アデリアナには何やら思うところがあったらしい。つい笑うと、アデリアナが上目遣いにルーファウスを見つめた。
「……ごめんなさい。真面目な話をしようとしたところだったのに」
「可愛すぎてどうにかなってしまいそうだから、いまはそんなふうに見ないでほしいな」
「もう。あなたちょっと、おかしいわ」
「求婚を受け入れてもらった男が浮かれるのは、当然のことだよ」
ルーファウスが促すと、アデリアナの白い手がさしのばされる。やわらかい手のひらを包むように拭いてやり、ルーファウスはバスケットからサンドウィッチを取り出した。
一つをアデリアナに手渡して、もう一つの薄紙を剥がす。薄紙の下から現れた細長いバゲットに挟まれた具が異なったので、互いに見せ合って、どちらともなく半分に割った。とはいえ、あまり手の力が強くないアデリアナはバゲットに苦戦していたので、ほとんどルーファウスがしたのだが。
ルーファウスはまず、野菜とマリネした魚を挟んだほうを食べることにした。アデリアナは、野菜とカギュエの肉を挟んだほうを選んだようだ。
ルーファウスは、アデリアナがものを食べる様子が好きだ。小さな口で、おいしそうに食べるアデリアナは可愛らしい。果実水の入った小瓶の蓋を開けてやり、アデリアナの口元に寄せる。そう、食べさせたり飲ませたりするのも好きだった。ルーファウスには、アデリアナにかかわることで好きなものがたくさんある。両の手では足りないくらいに。
いつまでもふたりで、こうしていられたらいいと思う。何でもない時間を重ねていって、ときどき呆れられるくらいに好きだと囁いて、ふたりで寄り添って生きていきたい。
だから、ルーファウスはサンドウィッチをひとつ食べ終えると、もぐもぐと咀嚼しているアデリアナの髪を撫でた。
「誰があなたの見た夢に関わっているのかはわからないけれど、クリスとゼゼウス、それからディクレースには相談したいと思っている。そうすると、もしあなたが不安に思うのならやめるけれど」
ルーファウスの申し出に、アデリアナは微笑んだ。
やや硬めのバゲットを時間を掛けて噛み、ようやくのことで嚥下して、果実水を口に含む。
「いいえ。わたしもそれがいいと思う。お兄様はさておき、クリス先生とゼゼウス様には助けていただきたいわ。あなたの恩寵に関わることだから、少なくともクリス先生には誓約書を作ってもらうことになるだろうし……わたしも、自分の恩寵についてぜんぶ分かっているとは到底思えないもの」
長い睫毛を伏せたアデリアナに、ルーファウスは囁いた。大丈夫だよ、とくり返し。
「……あなたを信じていないわけじゃないのよ。分かって」
「うん、分かってる。だって、私と結婚してくれるんだろう?」
アデリアナはまた、ルーファウスの胸を騒がせる上目遣いをしてみせた。
目が合うと、ちいさく笑って頷く。
「そうよ。あなたと生きたいから、頷いたのよ。……あのね」
そうして、アデリアナはぽつぽつと夢の話をしはじめた。
ルーファウスはその手を握ったり、滲んだ涙を拭ってやったりしながら時折質問を挟み、アデリアナの話に静かに耳を傾けていた。
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