第20話 女神の庭

 ――いつだって、ルーファウスを陽だまりの下へ連れて行ってくれたのは彼女だった。


 アデリアナとの乗馬のためにルーファウスが早めに馬場へ着くと、すでに愛馬のアシュリーは厩舎から出されて彼を待っていた。

 ルーファウスの愛馬は、つややかな黒毛に青い瞳のうつくしい、賢い馬だ。ルーファウスを見つけて、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。その足運びのささやかな所作でさえ優美なために、ルーファウスはいつも彼女をこう呼んでいる。


「やあ、私の気高い女王様。今朝ぶりだね」


 今朝はいつもより早起きして、アシュリーの世話をしてから執務室に向かったのだ。

 そのことばに眉を顰めたのは、ルーファウスの傍に控えた近衛隊長のジリウスだ。愛馬の鹿毛を撫でてやりながら、殿下、としかつめらしい声で言う。


「お願いですから、しっかりお休みになってください。御自分の馬が可愛いのは分かりますが、身体はしっかり休めるべきです。ここのところ、姫様にお会いになりたいからと休憩を潰して政務にあてておられるでしょう。まだお若いから何とかなっているだけですよ」


 事実であったので、ルーファウスはうんと言った。そうだね、という意である。

 だが、その恬淡とした声音にジリアスはため息する。幼いころからルーファウスを傍で見てきた近衛隊長は、よくよく知っているのだ。ルーファウスは聞く耳を持たないわけではないし進んで目下の声を聞きたがるが、かといって何にでも頷く性分はしていないのだと。

 そして、ジリアスがそう分かっていることをルーファウスもまた承知しているのだ。

 アシュリーを撫でてやりながら、ルーファウスはジリアスに告げる。


「私は凡庸だから、努力しないといけない。みんなは私を褒めてくれるけれどね」


 ルーファウスは、自分が持つもっとも優れた才能は、見た目でも女神の恩寵でもなく、こつこつと長い時間をかけて行動を積み上げていけることだと考えている。そう言ったら、ディクレースには「うちの妹を口説くのに時間をかけすぎだろう」と窘められてしまったが。

 ともあれ、ルーファウスは自分が特別優れた人間であるとは思っていなかったし、生まれ持った身分は特に優れていなくとも彼に賞讃や追従や媚びのことばを贈らせるものだと理解していた。

 どちらかというと凡庸な人間だから、努力しているのだ。そう口にするたびに何故だか部下たちは遠い目をするが、彼らの方が余程優秀だとルーファウスは考えている。自分はただ王族に生まれた、恵まれただけの人間であると。


「殿下はもう少し、努力しなくてもいいと思いますがね」


 呆れたようなジリアスの声に、ルーファウスは微笑んだ。

 そうすると、昔から見慣れているはずのジリアスでさえ少々ぼうっとするようなのがルーファウスには少しおかしかった。母譲りの顔立ちに父譲りの色彩を持つルーファウスは、うっすらと微笑んだときが一番映える……というのが近衛騎士たちの共通した認識だそうで、ルーファウスは近しい騎士や文官たちからよく顔がいいと褒められる。


 ルーファウスは、幼い頃から自分の見目の使いどころをよくよく知っていた。

 それはたまたま生まれ持ったもので自分の手で得たものではなかったが、王族にとって見目は大事だ。臣下の士気に関わるからだ。優れた容貌は、能力とは別のところで分かりやすく人の心に作用する。少し微笑む、それだけで給与や名誉以外の何か――人が実利以外に欲している、ともすれば分かりやすい報酬よりも得難いものを欲する心を多少なりとも埋められるのであれば、ルーファウスはいくらでも笑う。

 けれど、もし彼がほんとうに凡庸な人間だったら、容色が同じであったとしても、その笑みはもっと違うものになっていただろうことは、ルーファウス自身も分かっていなかったのだが。


「……ご結婚された暁には、姫様からも注意してもらいますからね」


 ジリアスがそう言うと、ルーファウスは驚いたように目を瞬いて、それから静かに破顔した。そうすると、いつも淡く笑みを湛えている出来た王太子の表情に、素の感情が鮮やかに滲む。

 これはルーファウスも知らないことだが、その眩さは、近衛騎士たちがフィリミティナ公爵令嬢のことを受け入れざるをえなかった理由の一つでもあった。王太子に一番生き生きとした表情をさせるのは、王太子の恋をなかなか叶えてやらない公爵令嬢だけだったからだ。

 ジリアスが王太子の笑みを見て、ああ自分も最初は公爵令嬢に反感を抱いていたなと思い出していることなどつゆ知らず、ルーファウスはなるほどと頷く。


「それは確かにいいかもしれないな。アデリアナに叱ってもらうのは楽しそうだ」


 ルーファウスは思い浮かべた想像に楽しくなってしまって、顔を寄せてくるアシュリーに額を押し当てるようにしてくすくすと笑う。


「殿下がお幸せなら、俺たちはそれでいいんですよ。でも、出来る限り長くお幸せな姿を俺たちに見せてください。それが殿下のお務めです」

「ありがとう、ジリアス。……そうだな、もう少ししたら無理をするのはやめるよ。いまはアデリアナを口説くのに必死なんだ」

「はいはい。……噂をすれば、いらっしゃいましたよ」


 やれやれとでも言いたげなジリアスに示された先を見て、ルーファウスはこちらへと歩いてくるアデリアナの姿をそのきららかな瞳に映した。

 乗馬用のブーツで軽やかに歩いてくるアデリアナは、女官に持たされたのだろう、日傘をさして、バスケットを持ったジェラルドを連れている。

 ルーファウスの視線に気づいて、アデリアナが日傘をさしていないほうの手を優雅にひらめかせた。王太子としてのルーファウスに対して公爵令嬢としてのアデリアナがするのに、ぎりぎり許されるくらいの親密な仕種だ。ルーファウスは、そんなふうに体面とルーファウスの両方を慮るときのアデリアナの様子も好きだった。アデリアナは昔からおおやけのところではルーファウスに甘えてはくれないのだが、それはそれで可愛いし、ふたりきりではないときとはまた違った良さがある。


 アーデンフロシアでは、貴族の女性も積極的に乗馬を嗜む。ルーファウスが留学した先の隣国では女性が馬に跨がるのははしたないとされており、女性用の鞍は横座りのものしか作られていないという徹底ぶりであったが、アーデンフロシアでは早駆けを好んだ女神に倣って、基礎教養の一つとして考えられている。そのため、女性用の乗馬服も多様に作られている。

 今日のアデリアナはルーファウスと同じように前が短く後ろが長い乗馬用の上衣を纏い、その下にゆったりとした筒型のキュロットを重ねている。ドレスよりも素っ気ない意匠ではあるが、背の高い襟や折り返した袖口から覗く繊細なフリルや、キュロットの裾にぐるりと刺繍された蔦の模様が清楚な出で立ちだ。直接身体の線が出すぎてはいるわけではないが、不思議とドレスの時よりも、アデリアナの細さと身体のまろやかな線が引き立って見える。

 まあ、ルーファウスの瞳には、いつだってアデリアナは誰より可憐でうつくしく見えるのだが。


「おはよう、アデリアナ。はじめて見る乗馬服だね。よく似合ってる」

「ありがとう、ルーファウス。あなたの乗馬服も知らないものだわ。そういえば、一緒に馬を走らせるのは随分久しぶりね」


 アデリアナは微笑んで日傘を閉じ、ジェラルドに手渡した。ジェラルドは日焼けしてもいいのだろうか? という思いを一瞬目に滲ませたが、大人しく日傘を受け取っている。

 その様子をひそかに面白がっているルーファウスの傍に歩み寄り、アデリアナはアシュリーの鼻先にそっと手のひらを差し出すようにして囁いた。


「ごきげんよう、ルーの気高い女王様。久しぶりね、アデリアナよ。覚えてる?」


 手のひらをつん、とつつくように鼻先を押し当てられて、アデリアナがアシュリーの青い瞳を見つめる。アシュリー、とアデリアナが呼びかけると、鼻先から顔を擦りつけるようにされている。いつもより親密な仕種に、ルーファウスはおやと思う。


「なあに、今日は懐っこいのね? 可愛いって言ったら怒る?」


 アデリアナはくすくすと笑って、アシュリーの顔をやわらかく両手で挟むように撫ぜてやっている。

 そうすると、頭の上から首の後ろまで丁寧に編み込まれた髪の下、ほのかに色づいた耳朶に付けられた耳飾りがよく見えた。それは、ルーファウスが留学のお土産にと贈ったものだった。

 その耳飾りは、昨日アデリアナがお茶会のために決めた装いで、ルーファウスが外してもらうようお願いしたものでもある。だから、たぶん今日付け直してくれたのだろう。そんなささやかなことが、ルーファウスには嬉しくてならない。彼にとっては、ちっともささやかなことではなかったから。アデリアナのやることなすことすべてが、ルーファウスにとっては大事だった。それが自分を気遣ってくれてのことなら尚更に。


 好きな女の子と愛馬が戯れる様子は、いつまでも見ていられそうに幸せな光景だ。

 だが、ジェラルドが小さく咳払いをするのに、ルーファウスは馬丁が連れてきた馬に目を向ける。


「殿下、こちらが姫様がお乗りになる馬です」


 ジリアスのことばに、アシュリーと戯れていたアデリアナが顔を上げる。

 連れてこられたのは、アデリアナが乗りやすいように選ばれたのだろう、体格の良いアシュリーに比べ小ぶりな白馬だ。アデリアナをしげしげと見つめる瞳は優しげだ。

 アシュリーの頬をやさしく撫でたアデリアナは、自分のために用意された白馬に挨拶をしようとして――急に、猛然と飛び出したの勢いにびくりと動きを止める。


 ルーファウスには、何が起こったのかよく見えていた。

 一瞬遅れて、アデリアナにも分かったのだろう。理解せざるをえない。目の前で繰り広げられている馬同士のやりとりを見れば、分かろうというものだ。


 ――アシュリーがアデリアナのために用意された白馬に突進し、厩舎へと追い立てるように鼻先でその身体を突くように激しく押している。はやくもどれと言わんばかりの動きだ。

 馬丁が驚いたように慌てて白馬の手綱を操って二頭を離そうとするものの、アシュリーの猛攻は緩まない。待機していた厩舎長が駆け寄ってアシュリーを宥めようとするが、白馬が馬丁の手を振り切るようにして厩舎へ駆けるように戻っていくほうが早かった。


 ふん、と満足気に鼻を鳴らしたアシュリーは、打って変わってゆっくりとした足取りで戻って来たかと思うと、アデリアナをその鼻先でつんつんと優しくつつきはじめる。


「まあ……アシュリー、どうしたの?」


 つつかれるままになっているアデリアナをアシュリーがとことこと追いかけるようにして、やがて一人と一頭はくるくるとその場で回り始めた。困惑しながらアシュリーにつつかれているアデリアナと、引っ込みがつかなくなったようにその後ろを追いかけ回すアシュリーの姿に堪えきれず、ルーファウスは声を立てて笑い出した。


 いつにない状況に厩舎からはわらわらと馬丁たちが出てきて、花園入りの娘と王太子の愛馬の追いかけっこを見学している。王太子とその意中の娘の様子を見ようと近くで訓練していた近衛騎士たちも、何だなんだと遠巻きにこちらを見つめているのがわかる。ジリアスは爆笑し、ジェラルドは笑ってもいいのか決めかねているような微妙な表情をして、追いかけっこを眺めている。


「ルーファウス! ねえ、わたしたち、いつまで追いかけっこしていればいいの?」

「っはは、ごめん、おかしくて……アシュリー、おいで。あなたの言いたいことが分かったよ」


 ルーファウスが語りかけると、アシュリーはぴたりと動きを止めた。うっすらと頬を上気させたアデリアナも立ち止まり、胸に手をあてて息を整えている。

 ゆったりとした足取りで歩み寄ってきたアシュリーの手綱を取って、ルーファウスはアデリアナを招き寄せる。大人しく待っているアシュリーの左側に立たされて、アデリアナは不思議そうな顔をしてルーファウスを見上げた。


「アデリアナ、乗って」

「……アシュリーは、あなたしか乗せないでしょう?」

「どうやら、気が変わったらしいよ」


 アデリアナはなかなか信じられない様子だったが、ややあって躊躇いがちに鐙に足をかける。その左足を押し上げるようにルーファウスが補助してやると、乗馬に慣れたアデリアナは軽やかにアシュリーに跨がった。


「アシュリー、わたし乗っちゃったわよ。いいの? あなたの上は気持ちがいいけれど、ほんとにいいの? やっぱりだめって言わない?」


 アシュリーに話しかけているアデリアナは気づかないようだったが、日頃さんざアシュリーに手を焼かされている馬丁たちは唖然とした様子を隠せないでいた。

 ルーファウスには一度もそんなそぶりを見せたことがないのだが、アシュリーは恐ろしく気位が高い馬だ。たまにいる、いくら躾けられても気に入らない相手の言うことは聞かないし、気に入る人間の方がうんと少ない馬なのだ。アシュリーは祖父の愛馬で国一の軍馬であったと名高い馬の血を引いているため、王立騎士団のために厳しく調教されるはずだったのだが、あまりにもえり好みが激しく、ルーファウスのもとに来るまで彼女と「お見合い」させられた騎士たちはかなりの数に上ったという。

 ルーファウスが聞き知ったその様子と比べれば、アデリアナはかなり気に入られていたほうだが……今日はルーファウスの心情を汲んでのことか、はたまた気まぐれか、いつもより積極的に主人の恋路を応援してくれるらしかった。


 やわらかく嘶く声に促されて、ルーファウスはアデリアナの後ろに跨がる。首をめぐらせてこちらを見るきょとんとした顔のアデリアナと目が合って、ルーファウスは笑った。ああ、今日も可愛いな。そんなふうなことを思って。


「あなたも一緒に乗るの?」

「それこそ、アシュリーは私がほかの馬に乗ったら怒るよ」


 ルーファウスの返しに、アデリアナはそれもそうねと納得したようだった。

 こういうとき、ルーファウスはいつも、少しだけアデリアナに意地悪を言ってみたくなる。


(いつまでもそんなふうだと、私は調子に乗ってあなたに不埒なことをしてしまうよ)


 ……まあ、ここ数日でルーファウスは随分アデリアナに不埒を働いているのだが。


 アデリアナは素直な性質の娘で、ルーファウスのことばを疑うということをしない。アデリアナがあまりにもあっさりとルーファウスの言うことを信じるので、ルーファウスは嬉しさとは別のところで少々不安になるほどだった。学舎で膝枕を恥ずかしがったときも、何だかんだで色んな触れ合いを許してくれるときも、アデリアナはルーファウスに対して恐ろしいくらいに無防備だ。

 アデリアナはルーファウスの「お願い」は断らないし、迷いながらも許してくれる。そこに、ルーファウスがつけ込んでいるとは知らないで。

 そんなところも可愛いけれど、と思いながらルーファウスは手綱を握る。気をつけていなければ、もっと、もっとと望んでしまいそうになる。どうしようもないことに。


「姫様、お持ちになれそうでしたらこちらを」


 ジェラルドが差し出したバスケットを受け取ったアデリアナは、片手で鞍を、片手でバスケットを抱えるようにして頷く。馬に馴れていない娘なら不安なところだったが、アデリアナはルーファウスの遠駆けに付き合える程度には乗馬に長けているので大丈夫だろう。


「では、どうぞお出かけ下さい。我らは少し離れて参りますので」


 散歩のときは人払いがされてふたりきりだったが、花園入りの娘を連れた乗馬は近衛騎士が随行する。

 ジリアスの声に頷いて、ルーファウスはアシュリーを走らせはじめた。


 手綱を持つ自分の腕の間に、アデリアナの身体がある。そのことに、ルーファウスはひそやかに浮かれた。幼い頃は危ないからとさせてもらえなかったし、アシュリーはいままでルーファウス以外の人間を乗せようとしなかったので、こんなことができるとは思っていなかったのだ。

 時折、風に揺られた髪からかすかにやわらかい花の香りがした。昔からアデリアナが好んでいる洗髪用の石鹸の香りだ。馬に乗ると分かっていたから、香水はつけなかったのだろう。その分、その淡い香りにルーファウスは胸のやわらかいところを撫でられるような気持ちになる。


 触れあった身体の温かさを感じながら、ルーファウスは楽しげに辺りを眺めるアデリアナの様子を見守った。

 昔から、ルーファウスはアデリアナとはべつに何も話さなくても一緒にいられた。

 前を向いていて見えないけれど、いまはきっと、きらきらと瞳を輝かせているのだとわかる。わずかに首を反らすようにして気持ち良さそうに春風を受け止めるアデリアナの髪の間から、白い肌がわずかに覗いていた。

 高い襟に包まれてほんの少ししか見えない首筋の、だからこそ危うい無防備さに、ルーファウスは自分が清廉ではないことを思い知る。

 許されるなら、そこに唇を押し当てたい。アデリアナもアシュリーも驚かせてしまってはいけないから、いまはしないけれど。


 あのね、とアデリアナが言うのに、ルーファウスはうんと頷いた。


「昨日のお茶会について、王妃様は何かあなたにおっしゃった?」

「いいや、特に何も。昨夜はあなたたちがそれぞれ何を母に贈ったのか、丁寧に教えてもらったりはしたけれど。何かあったのなら、教えてほしいな」


 ルーファウスの言葉尻に被せるようにして、アデリアナはだめ、と囁いた。ぜったいにだめ。

 ははあ、とルーファウスは思った。お茶会では、何かアデリアナにとって恥ずかしいことが起こったらしい。

 昨夜、母はいたくご機嫌であったので、耳飾りを替えさせたことがうまく作用したようだとは思っていたのだが……アデリアナにとって恥ずかしいことは、ルーファウスにとっては嬉しいことである場合がほとんどだ。ルーファウスが笑うと、アデリアナがだめよと念を押すように囁いた。


 馬場から王城の裏側へと回って進んでいく道すがら、日頃から近衛騎士が守っているいくつかの小さな門を抜けながら、アデリアナが訊ねる。


「もしかして、女神のお庭に行くの?」

「そうだよ。ひさしぶりに、あなたとお邪魔しようと思って」


 この先にあるのは、平生は深く閉ざされている小さな森だ。

 女神が一番はじめにアーデンフロシアへ降り立ち、また王配とその子を見送ったあとに微睡む場所として選んだそこは、女神の庭や原初の森と呼ばれる、神世の名残が色濃く残る場所として知られている。一番最初の花園入りとして伝わる物語も、まずはその森で女神が退屈に厭いて目覚めるところから始まるのだ。

 一年を通して春の花と女神の花しか咲かず、ほかに季節知らない森は、女神とその王配の子によって作られた門をくぐるだけでは、自由に出入りすることができない。森に一番近い最後の門――物語で「緑の扉」と呼ばれる門は、女神に許された者だけが入ることを許される。


「わたしたち、どうしてあんなところに迷い込めたのだと思う?」

「さあ、どうしてだろう。前の神官長は怒るばかりで、教えてくれなかったな」


 かつて、幼いルーファウスとアデリアナはそこへ向かおうとしていたつもりもないのに、王族の庭で遊んでいたら、気づけば女神の庭に迷い込んでしまったことがあったのだ。

 白い春の花が風に揺れる森は穏やかで、さらさらと小川が流れていた。よくわからないままに、けれども不思議と穏やかな気持ちになって、幼い二人は楽しく遊んだものだった。


 ……とはいえ、女神の庭の外ではなかなかの大騒ぎになってしまっていた。どこかへ行ったまま帰ってこない王太子と公爵令嬢を探して大規模な捜索隊が組まれてしまい、先の神官長は王城から女神にふたりの行方をお伺いするようきつく要求されたという。

 先の神官長はその頃すでに女神の寵愛を喪っており、その滴りはまだ幼いゼゼウスへと降りそそがれていた。だからだろうか、女神はふたりをたっぷりと自分の膝元で遊ばせて、花と蔓草で編んだ緑の寝台に寝かせてから、ゼゼウスに声をかけたのだという。

 そのときゼゼウスの先導で森の中へ入ることを許されたのは、ジリアスとフィリミティナ公爵だけだった。二人は遊び疲れてすやすやと眠るルーファウスとアデリアナを見つけて、心底ほっとしたという。神世の頃、女神はしばしば気に入った子供を森に招いて帰さないことがあったと伝わっていたので、もしものことを心配されていたのだと聞いている。


「今日は入れるの?」

「たぶんね。ゼゼウスを通して女神にお願いしておいたから」


 やがて、アシュリーは緑の扉の前へと二人を連れていった。

 緑の扉は、女神の庭へと繋がる最後の門だ。ぐるりと森を覆うようにして絡まり合う棘を持つ花が、扉のかたちを描くように連なって咲いている。互いに交差する茎と葉が緑色の模様を織り上げるように入り口を閉ざしているこの扉は、アーデンフロシアが戦乱に荒れたときに火を付けられても、女神とは違う神を戴く国に伝わる神剣に切りつけられてもその侵入を許さなかったと伝わっている。


 だが、ルーファウスがこちらを向くように咲いた、一つだけ大ぶりの花を見つめると――複雑だが規則的に編み込まれるようにして絡まり合っていた緑がするすると解けるように身を揺らめかせて、森の中へと誘うように道を空ける。アシュリーに乗ったふたりを通すために、扉のかたちを大きくしてみせるという計らいまでしてみせた扉の変化を、アデリアナは目を瞬かせながら見つめている。


 そうして、ルーファウスはアデリアナがかすかに身体を震わせたのに気づいた。

 名前を呼ぼうとすると、ひらひらと舞い落ちてきた花びらに唇を塞がれる。

 ルーファウスがむっとしたのが分かったのだろう、耳元でくすくすと笑う声がやわらかに香って、風にまぎれるようにして消える。その間も、アシュリーは何かに導かれているように歩みを止めない。風や木々の葉擦れが誘うようにして、進む先を報せているのだ。

 アシュリーが足を進める先で、ぽつりぽつと花が生まれては咲き、またとろけるように消えてゆく。


 女神が案内しようとしている先に、何があるのかルーファウスは知っていた。

 そうして、いま、女神が恩寵を通じてアデリアナに何かを見せていることも。


 こんなに近くにいなくては分からなかったくらい、わずかに強ばっていた細い肩から力が抜ける。

 少しして、アデリアナの身体が少しだけ後ろに倒されて、遠慮がちにルーファウスの胸にもたれかかった。そうされると、やわらかい肌の香りがするような気がした。つややかな黒髪が風にそよいで、ルーファウスの身体を掠める。


「……ルーファウス?」


 ほっと息をついたアデリアナは俯いていて、ルーファウスには彼女の可愛いつむじがよく見えた。

 アデリアナのつむじは二つあって、それぞれ逆の方向を向いているのだ。ディクレースいわくルーファウスは大変な病にかかっているので、そんなひとつひとつが可愛らしく思えてならない。たしかに、我ながら少々偏執的だと思う。


「なに?」

「わたしね……」


 言いさして、アデリアナは口を閉ざした。何かを言おうとして、でもやめてしまったようだった。

 けれども、その声が悲しげなものではなかったので、ルーファウスは安堵した。


 花園入りの終わりで、ルーファウスの代わりに自分が死ぬつもりでいたアデリアナのことを、悲しく思わなかったといえば嘘になる。そうと決め込んで、ほんとうに最近になるまで黙っていた彼女の苦しみを思うと、ルーファウスは悲しくて悲しくて、それから腹立たしくなった。誰よりも大切な女の子が自分の代わりに死のうと決めて生きてきたことのつらさに対しても、恩寵が見せたという夢の中でそれをのうのうと許してしまった自分についても。


 でも、いまは違うとわかる。

 いま女神が何を彼女に見せたのかは分からないが、それが大事なことなら、いますぐでなくともアデリアナはルーファウスにきちんと話してくれるだろう。


 そうして、ルーファウスはアデリアナの頭に唇を寄せた。ひゃ、とアデリアナが声を上げる。

 ルーファウスは笑って、アデリアナに手綱を握った手で前方を指し示した。


「アデリアナ、ついたよ。どうやら女神は、私たちを再びここへお連れくださったらしい」


 まあ、とアデリアナが小さく声をあげる。

 アシュリーがぴたりと歩みを止めた先には、幼い頃にふたりが遊んだ小川がさらさらと流れている。

 先にアシュリーから降りたルーファウスが両手を差し出すと、アデリアナは眉をきゅっと寄せた。その細い腰を掴むようにして下ろそうとしたのがわかったのか、ぺしんとはたかれるように手を退けられる。バスケットを託されたルーファウスは、軽やかに鞍から降りるアデリアナを大人しく見守ったのだった。

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