第19話 王妃殿下のお茶会といつかの贈り物
それぞれ異なるドレスを身に纏い、華やかに装った娘たちが騎士に伴われながら歩いている。
王妃殿下のお茶会に招かれた娘たちが離宮から王族のための庭園へと向かう様子は、花園入りの密やかな名物だ。花園入りの慣例に王妃殿下のお茶会が加わってからというものの、それはすっかりお馴染みのこととなっていたから、王城の人々は直接、あるいは伝え聞いていったいどこが娘たちの見物にふさわしい場所なのかを承知している。少し離れた回廊や窓の向こうから、娘たちには絶えず人々の視線が寄せられていた。貴族も文官も女官も騎士も、この時ばかりはあまり遠慮をしない。
そうした視線を感じながらもしずしずと歩きながらそ知らぬ顔で微笑み、大人しく見られてやることも娘たちの役目である。
女神由来の儀式ということもあり、誰が王太子妃に選ばれるのかを賭けることは固く禁じられている。だが、それなりに品定めはされるもので、アデリアナは卒の無い笑みを浮かべながら考えごとをすることで注がれる視線をやり過ごす。
心なしか視線を強く感じるようなのは、もしかしなくともルーファウスのせいだろう。図書館の窓連れ出し事件と手つなぎ事件のせいだ。そう思うだに、アデリアナはルーファウスをちょっぴり恨んだ。
そんなことを考えながら歩くうちに、おのずと昨日のことを思い出した。
あの後、ルーファウスはアデリアナが泣き止むと、ゆっくりと教えこむように大人のキスをした。
ルーファウスの舌や指先はアデリアナの口腔や肌を丁寧にたどって、優しく甘やかす。膝の上に抱かれてやさしく髪を梳いてもらい、頬を包まれながら唇を合わせるうちに、アデリアナは少しだけ積極的になることと、触れられた手のひらに素直になることを知った。
でも、恩寵の欠片を揺らめかせながら見つめてくる瞳の甘さには、まだまだ慣れそうもない。この先ずっと慣れることなどないのかもしれない。そんなことを思った。
はじめてのくちづけからそう時間が経っていないはずなのに、アデリアナは随分ルーファウスと唇を重ねている気がする。しかも、自分ばかり動揺しているようなのがずるい。
ただ、「どうしてそんなに余裕なの?」と訊ねると、ルーファウスがひどくわるい顔をしたので、そういうことは黙っておいたほうがいいのだとアデリアナにもわかった。さんざん息を乱されてしまったので、流石にわかろうというものだ。
あんまり泣いてしまったものだから、結局昨夜はアデリアナは娘たちとの夕食に出られなかった。
ルーファウスを見送ったあと、アデリアナの泣きはらした目を見てシェーナが「明日は王妃殿下のお茶会ですよ!」と卒倒しそうになっていたことについては、申し訳なかったと思う。
あれから目を冷やし、湯浴みをして念入りに身体を手入れしてもらい、アデリアナはとろけるように眠りに落ちたのだった。
先程、身支度を終えて寝室を出たとき、アデリアナは居間の長椅子にルーファウスが腰かけているのに驚いた。どうしているのかと訊ねたら、お茶会のために装ったアデリアナの姿を見るためにわざわざやってきたということだった。シェーナとリンゼイ夫人に生温かく見守られながら、アデリアナはルーファウスに恥ずかしくなるくらいにたくさんの褒め言葉を贈られて、指先や髪にくちづけられた。
恥ずかしさの余り「あなたはわたしのこと、いつだって可愛いと言うでしょ」と憎まれ口をたたいたら、「あなたの可愛さは見る度に違うから、きちんとことばにしておきたい」と返されてしまい、アデリアナは何も言えなくなってしまった。
直截的に気持ちを伝えてくれるのは嬉しいけれど、嬉しいはずなのだけれど……そんなルーファウスに、アデリアナは逐一どきどきして、動揺してしまう。
そうしてアデリアナを沈黙させたルーファウスは、ひとつだけと「お願い」して、アデリアナの装いを変えさせたのだった。悪いようにはならないはずだから、と言い添えて。
……うっかりしていて、アデリアナは好きという気持ちを抑えきれなかった。
胸の痛みは、心なしか一人きりのときだとずっと痛く感じられる。隣にルーファウスがいて、手を握ってくれたり抱きしめてくれていたなら、あんなにやすやすと耐えられるような気がするのに。
アデリアナは静かに息を吐き、痛みをやり過ごす。
アデリアナが金の鎖に苛まれているうちにも、騎士たちは娘たちを王族のための庭園へと連れて行く。庭園の入り口には王妃殿下付きの女官が控えており、そこで騎士と別れると聞いている。
イゼットに続いて庭園へと足を踏み入れようとしたアデリアナは、ふと呼び止められて足を止める。
「……ご気分が優れませんか?」
振り向いた先に立っていたジェラルドに小声で訊ねられ、アデリアナは夢から醒めたように睫毛を揺らして瞬いた。そのうっすらと血の気の引いた顔を、ジェラルドがとっくりと眺める。
真面目で頑なで融通のきかない騎士が、心配してくれている。
シェーナと同様に、ジェラルドもアデリアナが倒れたことを気に掛けてくれていたのだ。ジェラルドは、先程アデリアナが痛みを堪えていたのにも気づいていたのかもしれない。
「平気よ。心配してくれてありがとう」
アデリアナは微笑んで、こちらを見つめる女官のほうへと歩き出した。
先日訪れたばかりの王族のための庭園は、春の光と穏やかな静けさで満ちている。
娘たちが女官の案内で向かったのは、鳥籠の四阿とは反対の方向だったので、アデリアナは安堵する。あの四阿は娘たち全員と王妃殿下が集うには手狭だが、娘心をかきたてる場所ではあったので、もしかすると……と思っていたのだった。いまはまだ、あの場所で平然としていられる自信はない。
王族の庭園で丹精された色とりどりの花を浮かべた人工の池の傍、女神の花で作られた垣根の向こうに、白い円卓と椅子が並べられている。円卓には春らしい模様が描かれた茶器が配されて、静かに娘たちを待っていた。
アデリアナたちはそれぞれ、女神の花をかたどった彫刻が繊細に施された椅子に腰かける。紅茶の香りや用意されていくお菓子の甘いにおいを楽しみながら娘たちが春風に吹かれていると、少しして、王妃殿下が女官たちを引き連れて現れた。娘たちは静かに立ち上がり、王妃殿下を迎える。
アデリアナは、相変わらず隙のない、完璧な王妃殿下の出で立ちにため息しそうになるのを堪えた。
風に揺れる様子すら艶めいて見える、上品だがほんのりと整った身体の線を香らせるドレスは、アーデンフロシアでは春先にはあまり着られることのない深い臙脂だ。けれどもその抑えた光沢のある生地の軽やかさと、自分に一番合う赤を知っている目配りは、違和感など抱かせない。
小さな輝石を縫いつけた銀糸とともに複雑に編み込んだ銀の髪、瞼に乗せた複雑なきらめきを持つ彩り、薄い笑みを湛えた唇に塗られた紅の色まで、全てが美しく調和している。わずかに覗いた靴の爪先に飾られた輝石まで、髪に飾られたものと揃えられているという徹底ぶりだ。
ほっそりと長い首筋を見せつけるように浅く、けれども広めに開いた襟元は、鎖骨の真ん中ほどに大ぶりの輝石が触れるよう緻密に計算された首飾りが白い肌を彩ってあでやかだ。首飾りと揃いの耳飾りは、陛下の瞳の色と同じ輝石が使われているから、贈り物なのかもしれなかった。
ごく薄く織り上げた布に繊細な刺繍を施した扇を手にした王妃殿下は、年を重ねていっそう薫り高く咲いたと評判の美貌をゆるりと和らげて、どこか娘めいた仕種で小首をかしげた。
「わたくしの息子も果報者だこと。此度の花園に咲く花もとりどりに可憐ね」
ほんのり青みの混じったチェリスカ色の紅を塗った薄い唇がゆっくりとつり上げられて、娘たちに王妃殿下のご機嫌がよろしいことを教える。銀の髪に銀の瞳というめずらかな色彩を持つ王妃殿下は、気さくに娘たちに座るよう促した。
紅茶が注がれお菓子が取り分けられていく中、娘たちは微笑んだ王妃殿下が思う存分花を愛でるのを受け入れた。
女官長のサスキア夫人が、この時ばかりは娘たちの名を呼びながら王妃殿下に一人ずつ紹介していく。アデリアナは、イゼットと王妃殿下を挟むようなかたちで座る。まずはイゼットから、次はその隣のガートルードといった順に紹介されていったので、アデリアナの番が来るのはどうやら最後のようだ。
王妃殿下は娘たちが慎ましく礼をするのに鷹揚に頷いて、一人ひとりの顔つきや装いをとっくりと眺めた。そうして、それぞれに声をかける。ドレスや髪型、化粧に装飾品へのお褒めのひと言だ。娘たちは今日まで懸命に悩みながら考えた装いへの褒め言葉に、ほっと胸をなで下ろす。
アデリアナは最後だったので、王妃殿下と同じように娘たちの装いを楽しんだ。輝石の産地や織りだけでなく、鋳造にも詳しい王妃殿下の解説つきという贅沢さだ。大変勉強になる。
イゼットは慎ましく落ち着いた雰囲気で纏めているが、アーガイン領でしか採れない染料で染めた深い緑のドレスと、王妃殿下も贔屓だという編み手による繊細なレースを使った髪留めが上品で洒落ている。耳の横から編み込んだ髪をまとめるように飾られた髪留めは、控えめな銀で作られたバレッタで蔦草模様をかたどったものだ。その下側から垂らされたレースが風に揺られると、その透け感もあいまって一際優美だった。
イゼットの装いが一目で上質と分かる品のあるものだとすれば、ガートルードの若草色のドレスは彼女の溌剌とした魅力をよく引き立てている。単純な染めではなく、何色もの糸で織り上げることによって奥行きのある色を成している生地は特注で、王妃殿下も関心を寄せる工房の品だ。また、針が得意な彼女らしく、ドレスは針子とともに型紙から特別に起こしたもので、刺繍もみずから手掛けたという。
一方、淡いピンクのドレスを身につけたティレシアは、誰もが思い浮かべる年頃の令嬢らしい可憐さを体現しているかのようだった。膨らんだ袖が特徴的なドレスは花模様を織り込んだ生地で作られており、光があたるとほんのりときらめいて控えめに主張する。蜂蜜色の髪はところどころ細く編み込まれており、樹脂で時を止めさせた花を挿しているのが可愛らしい。爪先まで可憐のひと言で、王妃殿下と並んで娘たちの中では一番隙のない出で立ちだ。
一番飾りがなく、また細身のドレスを纏ったユイシスは、王妃殿下に乞われて立ち上がり、ゆっくりと回転してみせる。そのドレスは淑女らしさはありながらも、騎士の制服に見られる要素を取り入れた斬新な意匠になっていて、片方のドレスの裾には深くスリットが入っている。そこから覗くのは細かく襞を寄せた別の布で、淑女にしては無骨な、剣帯を模した装飾品が細い腰を飾っているのが特徴的だ。少し大ぶりな耳飾りが映えた、また武家の出らしいことがわかる装いに仕上がっている。
にっこりと微笑んだユイシスと目が合い、アデリアナは素敵よという思いを込めて笑みを返した。
今日のアデリアナは、白い肌に合う淡い紫のドレスを選んだ。アデリアナが管理を任されている村で採れる薬草で染めたその色は、はっきりと鮮やかな色ではないが、ほかにはない独特な繊細さを醸し出す。鎖骨を見せる慎ましい深さの襟には、肌を飾るように小ぶりの真珠が連ねられ、ところどころ深みの異なる輝石を散りばめている。切り替えの位置を高くしたドレスはアデリアナの線の細さと身体の丸みを上品に見せており、腰に太めに巻いた紺のリボンがその華奢さを際立たせていた。
髪はリンゼイ夫人の手によって丁寧に編み込まれ、ドレスと共布のリボンを飾った。シェーナが時間をかけて丁寧に、薄くうすく重ねて仕上げてくれた化粧と黒髪が淡い色のドレスに映えて、やわらかな清楚さをもたらしていた。
ほんのりと緊張しながら王妃殿下のまなざしにとっくりと見つめられていたアデリアナは、いつまで経っても声をかけられないことに瞬いた。そうすると、王妃殿下の銀の瞳と視線が重なる。その淡い光彩をした瞳に、アデリアナは緊張を忘れて、ただ綺麗だなと思った。
色彩こそ異なれど、王妃殿下とルーファウスはよく似ている。
眉のあたりから鼻筋にかけての通った線や、目元に落ちる淡い影のさし方、薄い唇のかたちが特に。王妃殿下の美しさは艶やかな華だが、ルーファウスは静謐な華といったところだろう。どちらも、人の心や目をやすやすと奪ってしまうという点では共通している。
ふと笑んで、王妃殿下はアデリアナから視線を外して微笑んだ。
「まずはお茶をいただきましょう。冷めないうちにね。ケーキもどうぞ」
何も言われなかったわねと思いながら、アデリアナは促されるままに紅茶に口を付ける。
サスキア夫人は流石に平然としているが、王妃殿下付きの女官たちは気の毒そうにアデリアナを見ていた。娘たちも、ちらちらとアデリアナと王妃殿下を見比べている。
うっすらと戸惑いの気配を香らせながら、娘たちはアデリアナを気遣うように窺いつつ、取り分けられたお菓子を食べ始めた。
アデリアナも、ふんわりと柔らかいクリームの上に、ごく薄く切った果実を花のように巻いた繊細な飾りが乗ったケーキにフォークを差し入れた。クリームは二層になっており、下はバタークリームとチョコレートが混ぜられていて、ところどころにころんとした果実の食感があって楽しい。一番下の塩気が効いたさくりと固い生地は薄くパイを重ねて焼き上げたような感触で、クリームの部分を重たくしすぎず引き締めている。
――王妃殿下からのお声がけがなかったということは、アデリアナにはこの場で口を利くお許しが与えられなかったことを意味する。
何か粗相をしたとは思わないし、装いに変な点があったとも思えない。あれだけシェーナとリンゼイ夫人に相談して仕上げてもらったのだ、そのことについては疑問の余地はない。
それに、王妃殿下とは年に何度か個人的なやりとりをする程度の親交はある。先日出した手紙だって、特に不快にさせる内容ではなかったと思う。リンゼイ夫人が持って来てくれた返事も、いつもの王妃殿下らしいものだった。
そこまで考えて、アデリアナは思考を閉ざした。深く考えてもしかたのないことだと思ったのだ。
ひとまず、いまのアデリアナにできるのは、慎ましくお三時を楽しむことだった。
アデリアナはふてぶしく見えないように気をつけながら、王妃殿下の手配らしく完璧に用意されたお菓子をゆっくりと堪能する。
スコーンに添えられたジャムはシェリカとアゼイラという果実で作られたもので、深い甘みの中に清涼な酸味があっておいしい。
王妃殿下は一通り娘たちに声をかけて、花園入りの様子を訊ねている。
娘たちが控えめに王太子殿下を立てながら語る花園入りの話を聞いて、王妃殿下は満足気だった。ユイシスがルーファウスとの乗馬で、馬を選ばせてくれなかったことを冗談めかして語るのにも、ティレシアがようやくルーファウスと花合わせで互角に戦えたときがあったと告げたのにも、微笑ましそうに耳を傾けている。
アデリアナを気に掛けたユイシスとティレシアが、程々にルーファウスを立てない話しぶりで王妃殿下の勘気を誘ってみたことが娘たちにはそれとなく分かったが、王妃殿下はそうやすやすと思惑通りの反応は見せてくれない。
イゼットは注意深く王妃殿下の様子を窺い、ガートルードはあからさまにはらはらし始めている。アデリアナはガートルードに目配せして、いいのよと微かに首を振る。
――なぜかといえば、どういう御意図があってのことかは分からなかったが、アデリアナはいま、ひそかに楽しんでいたからだ。
こんな、物語に出てくるような分かりやすい嫌がらせに遭うのは久しぶりだった。しかも、好きな人の母君からの嫌がらせだ。これは、ロマンス小説によくある困難の場面だ。
すごいわ、とアデリアナは思った。こんな機会は、なかなかない。欲を言えば、そう。嫌味を言ってくださったなら、より完璧なのに。つい、そんなちょっと品のないことを思ってしまう。もちろん、自分に非がないと分かっているからこの状況を楽しめるのだけれど……。
アデリアナは、久しぶりに訪れた「物語にあるような嫌がらせをされる」機会にどきどきと胸を高まらせていた。
それはその場にいた誰もが予想しえなかった方向性の反応だったが、表面上は公爵令嬢らしい笑みを浮かべているので、誰にも伝わることはなかった。ただし、その瞳が少しだけ輝くようだったので、見る者に不思議な居心地の悪さを感じさせた。なんだかこの反応はおかしいのでは、という据わりの悪さを。
けれども、そんなアデリアナのやや斜め上のどきどきは、王妃殿下のひと言によって、思わぬ形で裏切られることとなる。
「それで? わたくし、面白い噂を聞いてよ。何でも、わたくしの息子は随分とあるご令嬢に執心しているらしいのですって。わたくしに、貴女たちが知っていることを聞かせてくれるでしょう?」
アデリアナは紅茶に口を付けたまま、ぴしりと動きを止めた。
ふんわりと広げた扇の影で、王妃殿下がうふふと笑う。その猫のようにたわんだ瞳が、アデリアナをいたぶるようにちろりと舐めた。
アデリアナの胸に高まっていたときめきは急速に鳴りを潜め、代わりに胸にはじわじわと羞恥が滲んでいく。
――これはたしかに、嫌がらせではあるかもしれないけれど。
アデリアナは悟った。
王妃殿下は、娘たちからルーファウスがアデリアナにご執心だという様子をたっぷりと聞くために、わざとアデリアナの口を封じたままにしておいたのだ。アデリアナがやんわりと話を逸らすだろうことを見越して、先手を打って喋れないようにした。ただひたすら大人しく、自分とルーファウスの話を聞いていることしかできないようにするために。
噂と言いつつ、王妃殿下はしっかりとふたりの仲を把握しているに違いない。
分かっていて、あえて娘たちから直接聞こうとしているのだ。なぜなら、そのほうが楽しくて、面白いから。
王妃殿下の御意図を理解した娘たちは、なるほどと言った顔をしてアデリアナを見た。少しだけ気の毒そうにしてはいるが、その様子はどこか楽しそうでもある。
娘たちの反応を見ていた王妃殿下は、満を持してと言わんばかりに扇をはたはたと揺らめかした。
はじめに指名されたのは、学舎時代を知るイゼットだった。
彼女が語るのは、やはりというべきか昼休みの膝枕のことで、ルーファウスと在学期間が重なっていないほかの娘たちは「膝枕……?」と小声で呟いたり、抑えた悲鳴を漏らしたりする。
それではじめて、アデリアナはやっぱり膝枕は普通ではなかったのかと今さらのように思った。学舎で最初に膝枕をねだられたとき、「仲の良い幼なじみならみんなしていることだよ」と当然のように言われたのは、やはり信じてはいけないことだったらしい。
周囲の生徒たちの反応を交えて丁寧に語られた膝枕の話を聞いて、王妃殿下はあらまあ! と笑った。
次に水を向けられたのは、ティレシアだ。ティレシアは静かに肩を震わせるアデリアナをつと見て、たまにユイシスに向けているような、親しみとからかいの混じった笑みを浮かべてみせる。
「踊りの時間でご一緒したとき、王太子殿下はアデリアナ様がお相手だと距離が近くて、見ているだけでどきどきしましたわ。それに何回目かに踊られたとき、わざとアデリアナ様を御自分の足の上に下ろしてらして、自分から足を踏まれにいっておいででした。……お気づきではなかったんですの?」
アデリアナは瞬いた。
確かに、やけに足を踏むなと思うことはあった。その度に教師に止められ、ステップの踏み方を確認されて、不思議そうな顔をされた覚えがある。
気のせいでは……というアデリアナの念が伝わったか、ティレシアと同じく踊りの時間で一緒のイゼットが我慢できないといったようにくすりと笑った。どうやら、気づいていなかったのはアデリアナだけだったらしい。
「私、あとできちんと訊きましたもの。……アデリアナ様はあまり夜会にお出にならないし、久しぶりだったから少しでも長く踊りたかったんですって。王太子殿下があんまり堂々とおっしゃるものだから、私、おかしくて。笑いを堪えるのが大変でした」
アデリアナは、もう平然とした顔ではいられなくなってしまった。
目を伏せて、なんとか恥ずかしさをやり過ごそうとする。
次に生き生きと話し出したのは、ユイシスだ。
ユイシスは今日の装いや家の事業についてアデリアナが助言をしてくれたことを丁寧に説明し、それから、何かを思い出したように小さく笑った。
「私、最初はアデリアナ様のことがよく分からなくて。王太子殿下に想われてるなら、はやくくっつけばいいのにと思ってました。でも、アデリアナ様は私たちの前では王太子殿下と親しいなんて素振りは一切お見せにならなくて……ちょっと、不思議だったんですよね。だから、騎士団を見学したりしながら色々聞いてしまいました。そうしたら、」
そこでことばを止めてくすくすと笑ったユイシスを、王妃殿下が急かすように扇を揺らして促した。
「……そうしたら、王太子殿下がすごくのろけておいでで。
私がお三時でご一緒したと言ったら、彼女は甘いものが好きで、料理長に可愛がられているんだよ。アデリアナ様に耳飾りを誉められた話をしたら、彼女は人の美点を見つけるのがうまいんだ。私が家の事業について助言をいただいたと話したら、彼女は何かしら思いついたら言わずにはいられないんだよ、可愛いね。始終そんな調子で、こっちが恥ずかしくなってしまって」
アデリアナはもう、深く俯くことしかできない。
あっと小さく叫んで、ユイシスはその曇りのない瞳でアデリアナに向かって言った。
「アデリアナ様、王太子殿下とお菓子を作ったと聞きました。とても自慢げなご様子だったんですよね、王太子殿下。きみたちとはそんなことしないだろう、って。私がみんな仲よしなんですよって話した後だったせいか、なんだか随分得意げになさっておいでで……だから、今度はみんなでお菓子作りをしましょうよ。王太子殿下は抜きでもいいですから」
ね、とユイシスに念を押され、ティレシアが「お菓子作りっていう提案もありなのね……」と呟くのに、アデリアナは唇を噛みしめた。
お菓子作りはべつに変なことでも不思議なことでもないが、なぜだか猛烈に恥ずかしい。
恥ずかしいのは、間違いなくルーファウスが予想していた以上に明け透けだったせいだ。花園入りの前に話を通していたとはいえ、そんなにアデリアナへの想いを普通に話していたとは思ってもみなかった。
最後に指名されたのは、張り切って順番を待っていたガートルードだった。
その順番に、アデリアナは深く考えるまでもなく嫌な予感しかしない。
はたして、その予感は正しかった。
王妃殿下は、扇を揺らしてこう言ったのだ。
「ガートルード、貴女は図書館での話をしてくれるわね?」
ガートルードはもちろんです、と力強く頷いた。指を組んだ手を胸元に引き寄せて、頬を初々しい花の色に染めて。それはまるで、夢を見る乙女の正しき姿勢だった。
「……もう、もう、大変だったんですの!!!」
その興奮ぶりに何事かと目を瞠っていた娘たちは、針の乙女と神官長についての
だが、それが窓の外からだとは予想できなかったらしい。閲覧席の窓から、女神が二番目の若君にそうされたように連れ出されたというところにさしかかると、きゃあと声を挙げる。傍に控えていた王妃殿下付きの女官にも、その噂は届いていたのだろう。噂は本当だったのですね、王太子殿下も大胆ですこと、という囁きがさやさやと立つ。
「ほんとうに、夢のようなできごとでした……わたくし、決めましたの。おふたりの御姿を刺繍にしようと! わたくし、針の乙女に選ばれてみせますわ。もう、あのときのことを思い出すと針が進んで進んで。アデリアナ様、ありがとうございます。とっても素敵でしたわ!!」
アデリアナはとうとう顔を覆ってしまった。恥ずかしい。もう顔を上げたくない。
娘たちにはガートルードを通していずれ伝わると思っていたが、こんなふうに王妃殿下や女官たちにも知れ渡るとは思わなかった。いや、すでに噂は耳に届いていたのだろうが、直接その場に立ち会ったガートルードから話を聞く場に居合わせるとは思わなかったのだ。
ガートルードには悪気もなければ善意と乙女心のときめきしかなく、べつに他意があるわけでもないことも、分かってはいる。だけれども。
ばかばかばかばかばか、とアデリアナは内心でルーファウスを責め立てた。
恥ずかしいのは、ぜんぶルーファウスのせいだ。
たしかに、くちづけや抱きしめるといったことは、人目に多く触れる場では遠慮してくれている。けれども、手を握ったり抱き上げて窓から連れ出すのだって、もう少し憚ってほしかった。
嬉しかったのは嬉しかったけれど、そういう問題ではない。アデリアナにだって羞恥心はある。
声も出せず震えて羞恥に耐えているアデリアナの様子を満足気に眺め、しばし堪能したあと。王妃殿下はようやくのことで、アデリアナに声を掛けたのだった。
「楽しいお話だったこと! ねえ、アデリアナ。わたくしの息子は随分貴女に気があるのねえ。でもね、わたくしには分かっていましたよ。あの子はずっと貴女を追いかけ回していたもの」
王妃殿下のお声掛かりとあっては仕方なく、アデリアナは顔を覆っていた手のひらを外した。
アデリアナは自分の顔がひどく熱いことは分かっていたものの、視線を彷徨わせるその目元や頬が羞恥に赤らんで、そっと噛みしめた唇の様子が言外にルーファウスとの仲を示していることには気づかない。
何と言ったらいいのか分からなくて、アデリアナは困ったように、頬にかかった髪を耳にかける。そうすると、その赤く染まった耳朶に付けられた耳飾りがよく見えた。
小ぶりの花を四つ連ねた銀製のそれは、繊細な手仕事が窺える品で、花弁の一枚一枚まで手の込んだものだ。朝露を模した輝石が埋め込まれている耳飾りを目に留めて、王妃殿下はぐっと呼気を呑み込んだ。
だが、アデリアナは目を伏せていたので気づかない。そうして、息を吸う。
「その、王妃殿下の御前で恐縮ですが……王太子殿下をお慕いしております」
それは、いささか早口に、逃げるように言われたことばだった。
だが、アデリアナはそう答えなければ王妃殿下が見逃してくれないと分かっていた。もしかしたら、もっと深い話を望まれるかもしれないとどきどきしながら。
だが、王妃殿下はそれでよしとしてくれたようだった。
ぱちりと扇を閉じて、女官にお茶のお代わりを命じる。その頬がうっすらと上気しているのは明らかだったが、アデリアナも娘たちも、女官たちもみんな、それは王太子殿下と花園入りの娘のロマンスに満足したゆえのものだと思った。
……実のところ、アデリアナの耳飾りは、王妃殿下が以前「貴女にはこういうものが似合ってよ!」と突然贈ったものだった。そして、そうした幾つかの物においても、これまでは王妃殿下の前ではたまたま身につける機会がなかったものでもある。
これはアデリアナも王妃殿下も知らないことではあるが……ルーファウスがそれとなく耳飾りを付け替えさせたのは、王妃殿下が何かの折りにその耳飾りのことを思い出しては「あれは気に入らなかったのかしら」と気に病んでいたのを知っていたからだった。
ほかの娘たちの手前、自分だけ王妃殿下から贈られたものを身につけるのは抜け駆けのように思われて、ルーファウスに言われなければアデリアナはその耳飾りは選ばなかった。ルーファウスは、アデリアナと自身の母親の考え方をよく分かっていたので、水面下で双方にとってよいと思われる働きかけをしたのだった。
そういうことで、王妃殿下は「大好きな親友の可愛い娘」が自分の贈った耳飾りをわざわざお茶会に付けてくれたことにたいへん満足して、それ以上ロマンスの詳細を追及するのはよしたのだった。
ようやく王妃殿下の矛先を逃れたアデリアナは、娘たちの微笑ましそうな視線を受け止めて、眉を下げて笑った。
確かに恥ずかしかったけれど、知らないところでずっと気に掛けてくれていた娘たちに、きちんと恋をしたのだと伝えられたことは嬉しかったから。
「姫様、王太子殿下から贈り物が届いております」
王妃殿下のお茶会から戻り、いろいろな疲労から長椅子にくったりと腰かけたアデリアナにシェーナが差し出したのは、手紙と小箱、それから小さな花束だった。
広げた手紙には、今日のアデリアナが綺麗だったということ、お茶会の話をまた聞かせてほしいこと、明日の乗馬を楽しみにしていることが簡潔に書かれていた。
六角形の小箱には、砂糖を煮詰めて固まらせて色をつけた、ほんのりと透ける宝石のような砂糖菓子がぎゅっと詰められていた。素朴だが女神が愛したと伝わるそのお菓子は恋人たちの贈り物の定番で、女神の花園入りでは崇拝者の若君たちが揃って捧げてしまうというおかしみのある場面でも知られている。
空の色と花の色がまじった欠片を一つ、口の中で溶かして。
アデリアナは、ぽつりと涙がにじんだように、小さな記憶を拾いあげる。
――わたしもいつか、女神様みたいに砂糖菓子を捧げてもらうの!
耳に蘇ったのは幼い自分の声だった。
まだアデリアナに、恋への憧れがあった頃の記憶だ。たぶん、先王の恩寵によって忘れていた間の。
アデリアナがルーファウスの手を引いて、フィリミティナ公爵家の庭へ連れ出すのは、幼いふたりにとってよくあることだった。父がディクレースとアデリアナのために作らせたベンチへと案内しながらルーファウスを振り返るのも、そうだった。そのことは今までにも覚えていた。
首をめぐらせて見つめた先にいた幼いルーファウスは、初夏の光に眩しそうに目を細めた。
アデリアナがあんまり急かすものだから、何度か「転んじゃうよ」と言って笑っていた。そうして、こんなことを言った。
――いつかでいいの? いつかじゃなくても、叶えてあげるよ。
幼いアデリアナは、そのことばにころころと笑った。そうして、何かを言った気がする。
けれども、拾いあげた記憶はそこでぼやけたように終わってしまった。
アデリアナは、ひとつ、ふたつ砂糖菓子を食べる。
そのしゃりりとした食感とほのかな甘さが舌の上で溶けていく感触に、切ないような嬉しいような気持ちが胸に滲んだ。
(……ルー、ばかね)
ルーファウスはたぶん、アデリアナが幼い頃に言った他愛のないことを覚えていたのだ。
女神のように窓から連れ去られてみたいと言ったこと。砂糖菓子を捧げてもらいたいと言ったこと。
それはすぐに叶えることができたのに、「いつか」とアデリアナが言ったから、いつかのために覚えてくれていたのだ。もしかしたらアデリアナが覚えていないだけで、ほかにももっと色々とあるのかもしれなかった。
そんなふうに、アデリアナが気づいていないところで、これまでにもルーファウスは優しく心を砕いてきてくれたのだろう。そう思う。
優しく心を掛けられているということが嬉しくて、同時に当たり前のように静かに注がれていることがとても得難いことのように思われて、アデリアナはため息する。
ルーファウスに大切に想われていることが、嬉しかった。
アデリアナは、シェーナが用意してくれた花瓶に花を差し入れる。
贈られたのは、あの日鳥籠の四阿の傍で咲いていた花だった。王城では、あそこでしか咲いていない花だ。昨日あれだけしたのに、まるでくちづけたいと言われているかのように思われて、アデリアナは無意識に唇を指で撫でる。
王族と親交があるということで、時にアデリアナはルーファウスからどんな贈り物をされたのかと訊ねられることがある。幼なじみですもの、お祝いをいただいたでしょう? と。いらぬ噂を招いてしまうので素直に答えることはないのだが、年を重ねるにつれ、宝石箱にはルーファウスから贈られたものがゆっくりと増えていった。
ルーファウスは、自分の振るまいが己の意思の外で人々を動かしてしまうことを知っている。だから、あからさまな贈り物はされたことがなかったと思う。ルーファウスは最低限の機会――たとえば生誕の日と女神を奉じる祝祭、それと節目のたびに、ささやかで心のこもった品を贈ってくれる。
アデリアナが今日、はじめに身につけていた耳飾りは、ルーファウスが留学のお土産にとくれたものだった。本当なら領地の職人に作らせたものを纏うべきところだったのを、何となくそうしたくなって、ルーファウスが隣国で気に入ったという宝石職人の手掛けた耳飾りを選んだのだ。
ルーファウスははじめアデリアナの耳元を見て驚いて、それから嬉しそうに微笑んだ。何度も彼の前で付けたことがあるのに、ルーファウスはいつだってそんなふうに喜ぶのだ。
だから耳飾りを替えてと言われたとき、心なしかアデリアナはさみしかった。でも、それ以上にルーファウスが惜しそうにしていたので、それだけでもう充分だと思ったのも確かで。
――あなたがいま、ここにいてくれたらいいのに。
アデリアナはルーファウスのことが恋しくなって、同じ王城の敷地内にいるのにうんと離れているように感じてしまう自分の身勝手さに苦笑した。これだけ頻繁に顔を合わせるのは学舎にいたとき以来なのに、アデリアナはどんどんわがままになる。どんどん、ルーファウスの隣にいたいと望んでしまう。
アデリアは、ルーファウスの愛情だけを頼みに生きようとは思わない。それは、アデリアナの思う自分の生き方ではないからだ。だけど、自分の意思で彼の隣に寄り添って生きていたい。いまはそう思える自分がいることが、素直に嬉しい。
アデリアナは迷って、時計を見た。もうすぐ、ジェラルドとリックが交替する時間だ。
書きもの机に歩み寄り、手短にインクとカードを選ぶ。そうして、透明なガラスで作られたペンをインク瓶につと浸し、さりさりと文字を走らせる。
アデリアナはルーファウスと違って、簡潔で、でも想いの伝わる手紙を書くのはあまり得意ではない。だから、幼い子供の書き取りのような手紙になる。
贈り物が嬉しかったこと、正装した姿を見に来てくれて恥ずかしくて、でも見てもらえてよかったと思っていること。少し、幼い日のことを思い出したこと。そんなことを、拙く書いた。最後におやすみなさい、また明日ねと添えて。
大人のキスだってしているのに、恋の入り口に立っているみたいな微笑ましいことをしている。
そのことがこそばゆくて、でも嬉しくもあって。なくした恋への憧れを、一つひとつ手のひらに拾いあげていっているみたいだった。
アデリアナが封筒に入れたカードを差し出すと、ジェラルドは微笑んで快く引き受けてくれた。
そうして神妙な顔をして、ややあって、苦笑して肩をすくめる。
不思議に思っていると、ジェラルドは遠目にこちらへと向かってくるリックの姿を見止めて、小声でアデリアナに告げる。告げられたことばに、アデリアナは少しだけ目を見開いて、それから笑った。
「姫様が俺にお願いをしてくださるのは、初めてですね」
「そうね。……でも、どうして?」
まるで、お願いされたいと望んでいたみたいなことを言う。
ジェラルドは、苦々しく呟いた。
「……シェーナが、私はたくさんお願いをしていただきますと自慢してくるんです」
「まあ、そうなの?」
アデリアナにはシェーナとジェラルドの関係はよく分からないが、なんとなく微笑ましいやり取りのように思われた。ジェラルドはそんなアデリアナの様子を見て、分かってないなという顔をした。
「ジェラルド、あなたを信用していないわけじゃないのよ。もしそうだったなら、手紙なんて託さない」
ジェラルドは目を瞬かせて、何とも複雑そうな顔をする。そうして、丁寧な手つきで封筒を懐におさめて、近衛騎士らしい流麗な仕種でアデリアナに一礼する。
確かに承りました。きっとお喜びになりますよ、そう囁いて。
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