第18話 あなたの膝の上

 イゼットとのお茶会を終えたアデリアナは、シェーナにすすめられて足湯を楽しむことにした。

 昨日アデリアナが倒れたのを気遣ってのことだろう。何くれとなくこまやかに世話を焼いてくれるシェーナに、けれどもアデリアナは金の鎖のことを話せない。だから、素直に甘えることで気持ちを返そうとした。


「……あの、姫様」


 長椅子に腰かけたアデリアナの足を女神の花のかたちをした白い器にそっと下ろすように入れて、シェーナが囁いた。アデリアナがなあにと答えるのに、温かいお湯を注ぎながらシェーナは訊ねた。


「王太子殿下に、その、何か無体を働かれたのではないのですよね?」


 とくとくと注がれる温かさを感じながらたくしあげたドレスの裾を長椅子の上で整えていたアデリアナは、咳き込みそうになった。リゼリカといいシェーナといい、なんだか二日続けて似たようなことを訊かれている。

 うろたえたアデリアナの様子に、シェーナが眉を顰める。心配そうなまなざしに見上げられて、アデリアナは慌てて首を振った。


「違うわ。ルーファウスは、わたしに無理やり何かをしようとはしないもの。……ねえ、どうして疑わしそうにするの?」


 シェーナは花の香りのするオイルをアデリアナの肌に塗りながら、やさしくもみほぐしてくれる。


「それは……窓からお連れになったものですから。あの後、図書館はたいへんな騒ぎでした」


 アデリアナは呻いた。やっぱりそうなんだわ、と思って。

 昨日は色々ありすぎたのですっかり忘れていたが、ルーファウスがその身分のせいで無頓着なだけであって、アデリアナはやはり普通の感覚を持っていたのだ。


「やっぱり、しばらく図書館に行けないわ……」

「そのほうがよろしいかと。あのとき居合わせたもうお一方の姫様が、たいへん興奮しておられて……姫様と王太子殿下のご様子を刺繍にすると言って、その、たいへん身悶えしていらっしゃいました」


 アデリアナは絶句した。

 ガートルードは、昨夜の夕食にも今日の昼食にも顔を出さなかった。アデリアナも恥ずかしかったので、体調のことは心配しつつ、どこかでほっとしてもいたのだが。そんなことになっていようとは思ってもみなかった。


「うそでしょう……?」

「残念ながら。……同僚の話によれば、本日のあの姫様の体調不良は、昨日から一睡もせず針を手放さないでおられたために、無理やり女官が寝室に引きずり込んだからだということです。止めても力尽きるまで止めてくださらないのだと、嘆いておりました」


 恥ずかしさに顔を覆うアデリアナの様子に、シェーナはくすりと笑んだ。


「でもそのご様子では、よかったですね。王太子殿下のお気持ちを受け入れるとお決めになったのでしょう?」


 アデリアナはしばらくの間、何も言わなかった。

 シェーナの指や手のひらは、その沈黙の間もやさしく動いている。ほんのりとお湯が温んだ頃に、とくとくと差し湯が注がれる。


「……そうなの。わたし、いつの間にか好きだったみたい」


 誰のことを、なんて言わなくてもわかっただろう。

 そろそろと外された手の下で、アデリアナが羞じらっているのをシェーナは見つめた。そうして、なるほどと頷き、礼儀正しく顔を背けてくれた。ようございましたね、優しくそう囁いて。


「明日に備えて、爪を塗りましょうか」


 シェーナの提案に、アデリアナは頷いた。明日は、王妃殿下のお茶会がある。

 家とは異なり、アデリアナにつけられた女官は二人だ。明日の昼食は居室で取ることが許されているとはいえ、午前は針の時間だ。王妃殿下に拝謁するための身支度をするには、時間も手も少々足りない。先に爪を塗っておこうということだろう。


「どのお色にいたしましょうか。明日のドレスは淡い紫でしたね」

「そうねえ……でも、無難な色がいいかしらね」


 シェーナが並べてみせてくれた小瓶を見ながら、二人であれこれと思案する。

 髪飾りに真珠を使うので、爪の色は控えめにして、小さな真珠と七色に光沢する貝を薄く薄く切ったもので飾ることに決める。

 化粧が得意なシェーナは、アデリアナが冷えないよう差し湯をしながら、器用に爪を整えてくれる。爪を傷つけないよう丁寧に手入れをし、その後に繊細な光沢を持つ花の色を薄く重ねていく。爪先にいくにつれてうっすらと濃くなっていくように重ねられた色は、花びらのように繊細な奥行きを持つ。

 乾ききらないうちに、真珠とごく薄い貝の欠片をそっと鑷子せっしで摘まむようにして乗せてくれる。その手つきは迷いがないのにこまやかで、眺めているだけのアデリアナにも、シェーナの腕の程が知れる。


「上手ね。シェーナ、あなた随分引く手あまたなのじゃない?」


 爪を見つめてほう、と息をついたアデリアナが言うと、シェーナはその手を優しく小さなクッションの上に置いて休ませてくれる。


「そうですね。みんな私ほどうまく出来ませんから、重宝されています」


 その淡々とした言い方がおかしくて、アデリアナは肩を寄せるようにしてくすくす笑った。アデリアナは、シェーナのこういうところにも好感を持っている。ガートルードのような羞じらいも可愛らしいが、素敵なひとには自信を持っていてほしいとも思うのだ。


「姫様、私はこうやって示しているんですよ。私は使える女官ですと」

「? ええ、もちろん。あなたの有能さも、優しいところも分かっているつもりよ」


 シェーナは仕上げに塗る透明な液を、丁寧な手つきでアデリアナの爪の上に重ねていく。飾りの真珠や貝が取れないよう、時には多めに重ねながら、ため息するように囁いた。


「では、私をいずれ姫様付きにしてください。……それが王太子妃付きであっても、フィリミティナ公爵令嬢付きであっても構いませんから」


 アデリアナの目は、シェーナの耳の先がほんのりと赤いのを見逃さなかった。少しだけ、その頬が緊張したように強ばっていることも。

 そうして、少しだけどきりとした。あの夢の通りになるのなら、安請け合いをしてはいけないのだと思うから。

 ……でも、今は少しだけ、前とは違う。違う未来を選びたいと思うようになった。


 笑みをこぼしたアデリアナに気づいてか、シェーナが小瓶の蓋をきつく閉めながら唇を引き結ぶ。その少しだけ拗ねているように見える淡い表情に、アデリアナは微笑んだ。


「いいわ。あなたが望んでくれるなら、喜んで。でもわたし、わがままよ」


 シェーナはそっと顔を背けて、知っていますと頷いた。そっぽを向いたその顔は、きっといつもより少しだけ緩んでいるのだろう。


 アデリアナが何度も嬉しいと言うものだから、シェーナはいつもの淡い表情を保てなくなってしまったのか、困ってしまったようだった。

 そうして、差し湯を持って来ますと言って、あわてて出ていってしまった。


 

 テーブルの上に乗せた小さなクッションの上で、丁寧に塗って貰った爪が光を受けてきらきらと輝くのを眺めて愉しんでいたアデリアナは、扉が叩かれる音にどうぞと声をかける。シェーナが戻って来たと思ったのだが、開けられた扉の向こうにいたのはルーファウスだった。

 シェーナに声を掛けようとするつもりで口を開いたアデリアナは、いまの自分の状況に思い至る。

 いま、アデリアナはドレスの裾を長椅子に広げて、靴下を脱いだ足をお湯に浸している。おまけに両手の爪は塗り立てて、乾くまでに時間がかかるから、動かしてはいけない。

 誰との約束もなかったし予定もなかったから、アデリアナはひどく無防備な状態だった。

 シェーナがいたら通さずにいてくれたのだろうが、ジェラルドにそんな機微は期待できない。それに、どうぞと言ったのはアデリアナ自身だ。


 固まっているアデリアナを頭の天辺から器に浸した爪先まで眺めて、ルーファウスは素早く扉を閉めさせた。まるで、ジェラルドには見せたくないとでも言いたげに。

 ついでに出ていってくれたらいいのだが、ルーファウスはあっという間に歩み寄ってきてしまった。


「やあ、アデリアナ」

「え、ええ……ごきげんよう、ルーファウス」


 満面の笑みと共に声を掛けられて、アデリアナはしどろもどろに返事をしながら身じろぎする。深さのある器の中で温くなってきたお湯が小さく跳ねる音が、いやに大きく響いた。

 その音に、顔に注がれていたルーファウスの視線が下を向く。――アデリアナの素足へと。


「や、やだ! 見ないでったら」


 いつもは、ドレスや絹の靴下で隠れている部分だ。恥ずかしさが募って、アデリアナは濡れているのもおかまいなしに爪先をドレスの裾に隠すようにして引き上げた。ドレスの影で、器を足でそろそろと脇にずらすのも忘れない。床の上をひきずるような音がして、まったくもって密やかではなかったが、そんなことはどうでもいいのだ。ひとまず、隠れたらそれで。

 アデリアナは足をもぞもぞと動かして、ドレスの裾を長椅子の上から降ろして足を隠す。ペチコートに濡れた足がまとわりついて、ああシェーナに叱られる、そんなことを思った。

 ほっとひと息ついたアデリアナは、ルーファウスが床に膝をつくのに瞬いた。そこはちょうど、先程シェーナが跪いていた場所だ。


「身体を冷やすよ、足を拭いたほうがいい」


 そう言って、シェーナが置いていった毛足の長いふかふかの布を広げて差し出す。

 アデリアナはうろたえた。

 どう見ても明らかに、拭いてあげるから足を出してごらん。そう言われている。


「じ、自分で拭けるわ」

「その手で?」

「~~~っ」


 アデリアナはまだ乾ききっていない自分の爪をにらんだ。しかしそんなことをしても、急速に乾いてくれるはずもなく。

 ね、と微笑むルーファウスは、何故だかものすごく楽しそうだった。アデリアナの大好きな瞳が、きらきらと輝いている。それはもう。


「やだ、恥ずかしい……」


 じんわりと顔が熱くなっていくのがわかる。アデリアナは、くり返し首を振った。

 昨日、あんな話をしたばかりだ。クリスがくり返しいちゃいちゃしろと言うものだから。はじめて、ルーファウスとくちづけたものだから。いま、アデリアナはルーファウスに対して、羞じらいの気持ちを強くしていた。


(だって、ルーファウスのことが好きだと自覚したばかりなのに……)


 胸の奥が鈍く痛んで、図らずしもクリスの魔術がうまく働いていることを教える。昨日の気を失ってしまうほどの痛みに比べると、ほとんど痛くない。それはいいのだが、ぜんぜんいまはよろしくない。

 アデリアナが眉を下げて困っているというのに、ルーファウスはひどく甘ったるい顔をしている。アデリアナには分かる。あれは、アデリアナが根負けするのを待っている顔だ。


「川遊びをしたときは拭かせてくれただろう?」

「それはだって、小さな頃の話だもの」


 アデリアナは、必死に首を振った。

 でも、ルーファウスは譲ってくれないようだった。

 困ったように、悲しげに。上目遣いに、懇願するように見つめられてしまうと、アデリアナはどうしようもなく胸がときめいてしまうのを抑えられなかった。


「だめ? 私にあなたをお世話させてほしい」


 とうしようもないことに。アデリアナは、ルーファウスのお願いに大変弱かった。

 アデリアナは黙ったまま、恥ずかしさを噛み殺す。そうして、そろそろとドレスの裾から爪先をルーファウスのほうへとさしのべた。

 ぽすん、とやさしく包まれるように濡れた肌を拭われながら、アデリアナはルーファウスのつむじを眺める。


 ふと、アデリアナは視線を感じた。薄く開いた扉からこちらを覗いていたシェーナは、生温かい目をして「わかっていますよ」と言いたげに頷いて、そっと消える。

 恥ずかしさに身悶るような気持ちで、アデリアナは頬を赤らめたまま大人しく足を拭かれていた。

 ドレスの下から差し入れられた布が、包むように膨ら脛を覆う。布越しにルーファウスの体温を感じるのが、気恥ずかしい。けれども、直接ドレスの下に隠れた肌に触れられるわけではなかったので、そこについては安心した。

 はいと促されて、もう片方の足も同じように拭いてもらう。

 アデリアナの足は、ルーファウスの立てた膝の上に乗せられている。踵に触れていた手のひらがつとすべり、小さな指の爪に触れる。


 どうしてそんなに、じっと視線を注がれているのかわからない。

 足の手入れを充分にしてもらっていたのかはっきりとした記憶がなく、またほかの人の爪先をまじまじと見つめたことがなかったものだから、アデリアナは何だか急に戸惑ってしまう。

 そうして、温かな手のひらの中からそっと足を引き抜こうとした。


「ルーファウス、あの、ありがとう。もう充分よ」


 だが、爪先を握るように止められて。かつ、ルーファウスの目が小机に載せられたままの色とりどりの小瓶を見つけたことに、アデリアナは気づいた。……どうにも、恥ずかしい予感しかしない。


 ――結局、アデリアナはルーファウスのお願いを断り切れなかった。

 いま、アデリアナは長椅子の端に腰かけて、反対の端に座ったルーファウスの膝に踵を預けるようにして乗せている。あたたかくて大きな手のひらに踵を包むように触れられながら、足の爪に色を塗られているのだった。


「ずっとやってみたかったんだ。これは内緒だけど、母が父にさせているんだよね」


 それは聞いてもよかったことなのかしら、と思いながら、アデリアナはとても初めてとは思えない手つきで色を乗せていくルーファウスを見つめる。塗り始めはものすごく恥ずかしかったが、もともと距離の近い幼なじみだ。やさしく触れられる心地よさに、ついまあいいかしらと思ってしまうと、もう許してしまう自分がいた。


「……でも、あなたの忠実な騎士たちに見られたら、卒倒されちゃうわ」


 ルーファウスが小さく笑って、爪先に呼気がわずかに触れる。こそばゆさにアデリアナが身じろぎすると、だめだよと優しく膝の上に爪先を置き直された。


「騎士だって、好きな人の世話を焼きたいものさ。きっと分かってくれる」

「そういうもの?」

「うん。……あなたの爪はちいさいな。ちいさくて、可愛い」


 ためつすがめつしながら二度塗りを終えたルーファウスは、うんと頷いた。

 そうして、塗り立ての爪先に触れないよう気をつけながら、おもむろに足の甲に唇を押し当てる。微かに立った音と柔らかい唇の感触に、アデリアナはびくりと身体を震わせた。

 肩を震わせるアデリアナを見て、ルーファウスは愛おしげに目を細めた。


「アデリアナ、どうか約束して。あなたがあんまり私にたやすく許してしまうものだから、嬉しいけれど心配になる。可愛いのは、私の前だけにしてくれないか」


 そんな、可愛いなんて。べつに、意識してそう振る舞っているわけでもないのに。

 これ以上はないというほどに、顔が赤くなっているのがわかる。そうでなかったら、こんなに熱いはずがない。茹だってしまいそうに顔が熱かった。


「わたしに可愛いなんて言うのは、あなたか家族くらいのものだもの……」


 アデリアナが絞り出したことばを聞いて、ふうん、と喉の奥で転がすようにルーファウスが笑う。ルーファウスのまなざしに込められた熱は、アデリアナを溶かしてしまいそうなほどだった。


「あなたは知らないんだな。あなたのことを可愛いと思う人は、あなたが思っているよりも多いんだよ。もちろん、私が一番可愛いと思っているはずだけれど」

「思い過ごしだと思うわ……」


 ルーファウスは仕上げの液を爪に重ねていきながら、ぜったいに違うね、といやに自信のある声で囁いた。


「留学する前、私があなたと婚約を結ばなかったのを知って、わざわざ言いに来た奴がいる。口説いてもよろしいんですね、とね。余裕ぶってどうぞと言ったけど、内心では気が気じゃなかったよ。有能な男だったし、私は二年も傍にいない。留学をとりやめようかと思ったよ。さすがにそれはできなかったけどね」


 そんな人がいたとはなかなか信じられそうもないアデリアナだが、一つ思い当たることがあった。


「だからあんなに手紙をくれたの?」


 ルーファウスは、至極あっさりと頷いた。


「そう。あなたは真面目だから、社交の余裕がなくなるくらいに手紙責めにしようと思ったんだ。父に、手紙にかかる費用は自費で持てと叱られたよ。あとはディクに虫よけを頼んで、フィリミティナ公爵にはあなたを積極的に領地へ行かせるようお願いもしたな。ちょうどあの頃あなたは領地経営を任されはじめて夢中だったから、学舎が休みのときは進んで王都を空けてくれたのはよかったな」


 言いさして、拗ねたように紫の瞳がアデリアナを見る。


「……私がいない間、誰かに想いを告げられた?」


 ルーファウスが留学していたのはまだアデリアナが学舎に通っていた頃のことだから、数年も前のことになる。なのに、どうやらずっと気がかりだったらしい。

 アデリアナは驚いて、それから首を振った。


「ほんとうに? べつに暗殺とかしないから、聞かせて」

「物騒な冗談を言わないでちょうだい、もう。……いないわよ。わたし、本狂いって有名だもの。縁談の申込みだって一度もなかったし、わたしに好きだと言ってくれたのはあなただけよ」


 ルーファウスはしようのなさそうに、けれども愛しそうにアデリアナを見つめて、しばしの間何も言わなかった。


「アデリアナ、あなたは魅力的だよ。優しくて可愛くて、本が好きすぎるところだって素敵だ。私だけがあなたの良さに気づいているわけじゃない。……まあ確かに、ものすごく牽制はしたけど」


 最後のほうはもごもごとしていたのでよく聞こえなかったが、アデリアナはいいことにした。

 だって、自分の魅力は好きな人が分かっていてくれたならそれで充分なのだ。ルーファウスがアデリアナを可愛いと思ってくれているのなら、他の人はどうだっていい。アデリアナが恋をしているのは、ルーファウスひとりなのだから。


 そう思った瞬間、胸の奥で金の鎖が締め付けるようにぎしりと歪む。

 顔が歪んだのが分かったのだろう。ルーファウスが小瓶を置いて、気遣わしげにアデリアナを見た。


「……痛い?」

「ん、平気」


 アデリアナは、綺麗に塗って貰った手の爪を見た。

 指の腹で、そっと小指の爪を触る。控えめに輝く貝の欠片は、ルーファウスの恩寵の欠片にほんの少しだけ似たきらめきをしている。


「あのね、聞いてくれる?」

「うん」


 アデリアナは、目を伏せた。恥ずかしかったから。

 でも、すこしだけ瞼を押し上げて、アデリアナのことばを待つルーファウスを見た。


「わたし、痛みはこわくない。こわいけど、こわくないの。だから、わたしに痛くないことを選んで、恋を捨ててもいいとは言わないで。わたしだって、浮かれてるの。だって、初恋なのよ。……ねえ、抱きしめて」


 囁いて、アデリアナは腕を伸ばした。

 まだ乾ききっていない足の爪を気に掛けながらも、ルーファウスはそっとアデリアナに近づいた。アデリアナがルーファウスの首に手を回すと、腰と膝の下に腕を通して抱き上げる。ドレスの裾が、さらさらと音を立てて長椅子の下に流れた。

 膝の上に抱き上げられて、アデリアナはルーファウスより頭ひとつ分高くなる。そのまま抱きしめられると、どきどきした。優しくてあたたかくて、嬉しい。

 気持ちを抑えられるはずもなくて、アデリアナの胸の奥で鎖が鳴る。


「ルーファウス、好きよ……」


 金の鎖に苛まれながら、アデリアナは囁いた。密やかに、甘く。

 少しだけ身体が離れて、ルーファウスがアデリアナの顔を覗き込んだ。

 その表情は、畏れのような躊躇いのような色を纏いながら、けれどもアデリアナの気持ちを手に入れたいと願っているような、どうしようもない渇きを持っていた。


 手に入れて。そうアデリアナは思う。

 アデリアナはアデリアナのものだし、ルーファウスはルーファウスのものだ。

 でも、心を分け与えることはできる。


 苦しげに微笑むアデリアナを気遣わしそうにしながらも、ルーファウスは微笑んだ。


「アデリアナ、愛してる」


 言おうとしたことばは、唇に甘く塞がれて溶けてしまった。

 角度を変えながら、ルーファウスは幾度となくアデリアナにくちづけた。

 アデリアナは拙く、時折痛みに眉を顰めながら、唇に応えた。

 やがて、唇で唇を挟むように触れられて、抱き寄せられ、抱きしめるようにルーファウスの背に腕を回した。わずかに、唇に舌が触れたような気がした。


 瞼を押し上げたアデリアナは、すぐそこにある瞳の甘さに息を止めた。

 ふわふわと夢見心地に瞬くアデリアナの顎をすくって、ルーファウスが囁いた。


「アデリアナ。もっと、深いキスをしてもいい?」

「どうしていつも、ちゃんと訊いてくれるの?」


 ルーファウスはくすんと笑って、いたずらっぽい目をした。物語ではなんとなくそういう雰囲気になる? そう囁かれて、アデリアナは頬を染めて頷いた。


「たとえ好意があったとしても、あなたはあなただけのものだからだよ。それに、私は絶対にあなたに嫌われたくないから。もちろん、その場の雰囲気ですることもあると思うけれど」


 頬をくすぐるように撫でられて、アデリアナはどこを見つめたらいいのかわからなくなる。そんなこと、ないのに。呟くようにそう言った唇を噛んで、アデリアナは視線を彷徨わせた。


「あなたが言っているのは、大人のキスのことよね? 物語ではたくさん読んできたけれど、どうしたらいいのかはわからないの。……教えてくれる?」


 息を呑む音が聞こえて、薄く開いた唇をやさしく、けれども有無を言わさぬ強さで奪われる。

 もし嫌だったら教えて。そう囁かれても、アデリアナの頭はうまく働かなかった。なぜって、呼気の合間を縫うように唇を割った舌がすべりこんできて、遊ぶようにゆっくりとアデリアナのそれをからめとったから。

 肩を震わせたアデリアナの様子を注意深く見つめながら、ルーファウスの指が喉の下をくすぐった。自分を見つめるルーファウスのどこか恐いような瞳を見ていられなくて、アデリアナは目を閉じる。口の中に自分のものではない舌があって、あたたかくて、熱いくらいで。縋りつくように、ルーファウスの胸元を握った。

 歯をなぞるように舌が動いて、胸の底をそっと撫で上げられたような快さがはしる。アデリアナを宥めるように頬を包んでいた手のひらが首筋をたどって、指の腹が鎖骨を撫でる。


「んっ、ん、……っ」


 喉の奥から、砂糖漬けになったみたいな声がこぼれでてしまう。こらえようと思うのに、甘えるような声は切れ切れに、でもとまらない。

 ゆっくりと、そして時折性急に、ルーファウスはその唇と舌でアデリアナを翻弄した。

 うまく息が出来なくて、瞳にじわりと涙がにじんだ。どきどきして、気持ちがよくて。でも、よくわからない。


「可愛いよ。……息をして」


 囁かれるのに、呼吸の仕方を忘れそうになっていたことを思い出した。

 唇が離れる。ぼんやりと見つめた先で、紫の瞳がゆらゆら揺れている。

 こぼれた呼気に唇が震えて、つっと透明な糸が消える。唇と唇とをつないでいた糸だ。

 唇が、熱かった。少しだけ、ひりついている。息を吸い込むと、深い森の香りがした。ルーファウスの香りだ。口の中に満ちた唾液を呑み込むと、かすかに喉が鳴る。

 頼りなく息をするアデリアナとは反対に、ルーファウスはひどく嬉しそうだった。


「……嫌じゃなかった?」


 心配そうに見つめられて、アデリアナはこくんと頷いてじんわりと熱い目を瞬かせる。たぶん、酸欠なのだろう。くらくらして、頭がぼうっとした。

 その見え隠れする涙がちに潤んだ瞳を、痛々しいほどに色づいた頬を、紅の剥げ落ちた濡れた唇のふくらみをルーファウスに熱く見つめられながら、アデリアナはただ、ひたすらにどきどきしていた。ルーファウスは踏みとどまっているだけで、余裕なんてとうに置き忘れてしまっていることなんて、アデリアナには分からない。


「ルーファウス。わたし……」


 髪の毛をやさしく梳くように動いた指先に引き寄せられるようにして、ふたたび唇が重なった。ちゅ、と微かな音がして、触れるだけの唇はそっと離れた。


(……好き。この人が、好き)


 震えるようにこぼれた想いが、滲むように内側へととろける。

 金の鎖が震えて、ふたつ、みっつばかりさらさらと形を喪うのが分かった。


 衝動のままに、アデリアナはルーファウスの頬を両の手のひらで包む。

 そうして、かぼそい声で囁いた。


「ルー、聞いて。わたし、ずっと同じ夢を見ていたの。花園入りの最後で、わたしが……」


 ルーファウスは静かに、けれども熱をたたえた瞳でアデリアナを待っていた。

 その頬に、ぽたぽたと涙が落ちる。熱い雫を消そうとするかのように、アデリアナは指の腹を押し当てた。


「わたし、あなたを庇って死ぬみたい。でもわたし、それでいいって思ってた」


 アデリアナ、とルーファウスが名前を呼ぶ。驚いたように。それから、宥めるように。

 くり返し名前を呼ばれて、アデリアナは熱い目をゆっくりと閉じて、また開く。


「……いや。でも、いや。わたし、いやになっちゃった。あなたを助けられるなら、それでいいと思ってたのに、わたし、どんどんわがままになる。……あなたと、生きたい」


 しゃくりあげるように泣き始めたアデリアナは、ルーファウスの肩口に額を押し当てた。顔を見るのが、恐かった。すがりつくように、あたたかい胸にぎゅっと身体を寄せる。涙は後からあとから、どんどん流れてくる。


「アデリアナ、大丈夫だから。大丈夫。泣かないで」


 深く深く抱き締められて、アデリアナは泣きながら安堵した。

 もし拒まれてしまったら、どうしようかと思っていた。

 ほんとうは、何度かくり返し予防線を張ってから告げるつもりだった。秘密を告げても怒らない? 嫌いにならないでくれる? そんなふうに、ずるく確認してから言うつもりだった。

 だってもう、ルーファウスに嫌われてしまったら、アデリアナはどうしたらいいか分からない。


「ルーファウス、嫌いにならないで……」


 アデリアナは知っていた。そう言えばルーファウスが優しくしてくれると分かっていて、願うようにそう言ったのだ。アデリアナは、ルーファウスが思ってくれているほど純粋な娘ではない。もっと欲張りで、可愛くなくて、わがままだ。


 ぐい、と身体が引き剥がされて、アデリアナはあっと声を漏らす。

 心細くなったアデリアナは、額と額が重なる近さでぼろぼろと涙を流しながらルーファウスを見つめる。

 ルーファウスは、静かに怒っていた。怒って、アデリアナを睨むように見つめている。

 獣のような低い声が、唸り立てるように囁いた。


「あなたを嫌う? 馬鹿にしないでくれ。どれだけ長い間あなたに片思いしていたと思っているんだ」


 ひくり、震えた細い喉を手のひらが覆う。

 だって、とアデリアナは呟いた。子供のように、寄る辺なく。


「わたし、あなたが大事、だった。だから、それでいいと思ってた……」


 ルーファウスは、しかたのなさそうに眉を歪めて。少しだけ目見を和らげた。

 そうして、噛んで含めるようにアデリアナに囁く。


「私があなたを見捨てるわけないだろう。あなただって、私にとって大事だよ。分かるだろう? 分かってくれないと困る。何度だって言うけど、あなたを愛してるんだよ、アデリアナ」


 肩を揺さぶられて、アデリアナは少しだけ笑った。そうして、うんと頷く。

 ルーファウスは、ほっとしたようだった。分からないと言われたら、このまま教え込むまで離さないつもりだった。そう呟いて。

 

「大丈夫、恩寵が見せる夢は絶対じゃないんだろう? 一つひとつ、可能性を潰していこう。助かるよ。呪いだってどうにかなりそうなんだ。……私を好きでいてくれるのなら、一緒に生きる道を探そう」


 ルーファウスは、いつだってアデリアナに希望をくれる。

 どうしようもなく心が緩んで、幼い頃からの強ばりがほどけていくような気がした。

 ああもう、顔がぐしゃぐしゃだわ。ぼんやりと、そんなことを思った。

 そうして、また涙が溢れてくるのを感じた。


「どうしてちょっと自信なさそうなの? 好きよ」


 アデリアナは涙がちに笑って、またひとつ、ぱきりと音を立てて消えた鎖の名残をたどって胸元を指で押さえる。ルーファウスが痛いのかと訊くのに、首を振る。


「ルーファウス、ありがとう。……一緒に、探して」


 ルーファウスはもちろんだと頷いて、やさしく涙をぬぐってくれた。


「さっき、ずっとと言ったね。そんなに長い間あなたが苦しんでいたなんて、知らなかった。あなたがほかに何を秘密にしてもいいけど、これからは、私の代わりにあなたが苦しむようなことだけは隠さず教えてほしい。……教えてくれて、よかった」

 

 誰よりも優しくて甘やかしてくれるから、甘えてばかりではいけないと思っていた。

 でも、この腕には甘えていいのだ。ルーファウスは、アデリアナが押し隠していた苦しみをも見つけてくれる人なのだから。


 アデリアナは頷いて、くちづけを受け入れた。

 指と指の間を埋めるように手を絡めて、背中を包むように抱き寄せられるのにそっと身を委ねる。アデリアナの涙がとまるまで、ふたりはそのままずっと寄り添っていた。

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