第17話 約束のお茶会

 約束したお茶会の時間、アデリアナは予定通り訪れたイゼットを居室に迎え入れた。

 シェーナとイゼットに付けられた女官がお茶の用意を終えて席を外すと、居間には二人きりになる。


 今日のイゼットは淡い緑の縞模様のデイドレスを纏い、紅茶色の髪を優しく肩に流している。髪にはドレスと共布のリボンが結わえられており、その端に施された刺繍と耳飾りの色が揃えられて、至極上品だった。白い肌はなめらかで、うっすらと色を塗った目元が綺麗だった。風にそよぐ花のように慎ましく気品ある公爵令嬢が、そこにいた。

 そういうところが、実にイゼットらしかった。目の前のイゼットには、昨日の涙の名残はどこにもない。


 イゼットの色づいた薄い唇が言い惑うように開いて、閉ざされて。

 しばしの沈黙ののち、イゼットは困ったように眉を下げてアデリアナに微笑みかけた。


「昨日はごめんなさいね。びっくりしたでしょう」


 アデリアナがいいえと答えると、イゼットは紅茶に口を付け、細い指先で持参したクッキーを一枚摘まんだ。


「違う話をしようと思っていたのだけど、そういうわけにもいかないわね。どこから話したものかしら」


 アデリアナの予想に反して、イゼットはまずクリスの話をしてくれるらしい。

 よく躾けられて大人しい、けれどもそれだけではない合理的なところがイゼットにはあるようだ。

 アデリアナも気になっていたことであったので、大人しくイゼットのことばの続きを待つ。イゼットがクリスのことをどう思っているのか、知りたかったのだ。


「あの後、聞いたかしら。クリスとは、婚約者だったの」

「ええ、伺ったわ。わたしが聞いたのは、軽くなのだけれど」


 イゼットは目を和らげて、遠い思い出を懐かしむような顔をした。それは、若い娘には不似合いなほどにさみしさを纏った表情だった。


「私が一方的に好きで、見かねた親が婚約を申し入れてくれたの。彼の家はアーガインより格下だったから、すんなり決まったわ」

「イゼット様が望まれた婚約だったの?」


 驚いた顔をしたアデリアナに、イゼットは小さく笑って肩をすくめてみせた。


「よくそういう風に見ていただくのだけれど、私、ぜんぜん分別なんてないのよ。少なくとも、クリスの婚約者におさまったのは公爵令嬢らしいわがままだった。私の、最大のわがままだったわ。……もともとアーガインの後継は私が婿を取ることになっていたから、好都合だったのよ。それで、反対されなかったの」


 すすめられて、アデリアナはクッキーを食べる。控えめなバターの塩気と、上からかけられたチョコレートがさくりと口の中で割れた。アーガインの良質な小麦を使っているのだろう、香ばしいクッキーとチョコレートの甘さがよく合っている。


「……おいしい。ねえ、聞かせてくださる? わたしも結構わがままだから、イゼット様のお話がわかる気がするわ」


 イゼットは苦笑して、ことばを選びながら少しずつ話し始める。


 二人がはじめて会ったのは、イゼットの親戚が開いた夜会でのことだったこと。

 そして、足をくじいてしまったイゼットにただ一人気がついて、ダンスの輪を抜けて連れ出してくれたのがクリスだったことを。


「その夜会は従姉の婚約披露の場でね。叔父と父はその頃、少し険悪で……。叔父は私のささいな振る舞いを言いがかりに父と揉めるものだから、私は弱味を見せてはいけなかったの。そういうの、どのお家にもあるでしょう? 従姉は素直な娘だったけど、その弟は意地悪でね。わざわざ足をひっかけて私を転ばせてくれたの。でも、ちゃんと平然とした顔ができていたわ。私はそう躾けられていた。私の母は病弱で、夜会で父のために動くのは私の仕事だったから。……誰も、気づかなかった。父でさえ」

「クリス先生は違ったのね。……素敵だわ」


 アデリアナが微笑むと、イゼットは羞じらうように目を伏せた。

 手にしたティーカップを細い指先が戸惑うように撫でる仕種は優しく、娘たちの中で一番大人な彼女をほんの少し幼くも見せた。

 でも、とイゼットは囁く。私はちっとも素敵じゃなかった。


「私は怒ったの。連れ出されたバルコニーで、叔父の手前完璧な淑女として振る舞わないといけないんだからって。クリスは呆れて、私の父は娘を庇えないほど弱いのかと言った。それで、私はもっと怒ったの。あの頃私はようやく正式に夜会に出られるようになったから、父のために頑張らなくてはと気を張っていたのね。父は私に甘いから、自分に厳しくしないとと思っていたの。だから、癪に障ったわ」


 アーデンフロシアでは、周辺諸国にあるような明確な社交界での披露目の機会はない。

 その代わり、貴族の子女は入学して二年が経つと夜会への参加が認められる慣例だった。もちろん、まだ幼い子女に無体を働かないよう目配りをされた上でのことではある。

 ちなみに、アデリアナにはディクレースや父と一緒でなければ夜会に出てはいけないというお達しが出されている。もとより社交的ではなかったから、そんなことを言われずともアデリアナは貴族の子女の火遊びや不良なお遊びとは無縁だったのだが。


「クリス先生、そういうの分かってくれなさそうね」

「ほんとうにそうなの」


 くすくすとイゼットが笑うものだから、アデリアナも一緒に笑った。


「私があんまり怒るから、クリスは困った顔をして……魔術をかけてくれたの。夜会の間だけ痛みを忘れる魔術だった。その上、もし困ったら自分が助けてやるとまで言ってくれた。

 ……そんなの、好きになっちゃうに決まっているでしょう?」


 いたずらっぽくイゼットが笑うのに、アデリアナは頷いた。それはずるい。

 クリスは、控えめに言って顔がいい。もともとが貴族だと聞けば得心がいく品の良さと、けれども貴族のしきたりには無頓着で、でも不思議と粗野にはならない魅力がある。そして、周りがつい面倒をみてやりたくなるようなところもある。クリスがイゼットと出会ったとき、彼には下心などまったくなく、人として親切にしてくれたのだろう。

 でも、そんなクリスだからこそ、イゼットは惹かれずにはいられなかったのだ。


「たちが悪いわね。他意がなさそうなのがとくに」

「ほんとうにね! それに、夜会の帰りに馬車までやってきて、湿布をくれたのよ。父は最初不審がっていたけれど、私の足を見て絶句していたわ。ものすごく腫れていたから。私も御礼の手紙を書いたし、アーガインからも礼状を出したわ。でもクリスの手紙はそっけなくて、当然のことをしたまでですとしか書いてなかった。屈辱だったわ。少しでも私のことが気に掛かったから助けてくれたのだと、そう思いたかったから」


 以来、イゼットはクリスに会おうとして様々な夜会に顔を出したという。十五のイゼットと二十一のクリスは年が離れていたから、学舎で会うこともできなかったから。

 イゼットは、クリスとあまりに遭遇できなくて、却ってむきになったのだという。クリスはもともとあまり夜会に出ることはなく、従姉の婚約者と縁戚関係にあったことから義理で出席していたのだと後々わかったが、会うことができなければ何も進まない。

 あの時の御礼をと言って無理やり屋敷におしかけようかと思っていたとき、見かねた父親が婚約を申し入れてくれたのだそうだ。


「はじめて好きになった人と結婚できるなんて、国で一番幸せな娘だと思ったわ。

 ……でも、クリスはいつも困っていた。今思えば、あの頃すでに塔に入ると決めていたのね。私はクリスが好きだから、彼が困っているのに気づいていて、知らないふりをしたの」


 幸いなことに、クリスの両親は婚約に乗り気だった。

 顔を合わせるうちに、イゼットはどんどんクリスに惹かれていったのだという。クリスはいつもぼんやりしているような捉えどころのない青年だったが、でもイゼットには優しかった。


 イゼットは、やさしい思い出をなぞるような目をして笑った。


「私、クリスのご両親に言ったの。週に一度は会いたいって。ご両親に言えば、クリスは逆らわないと知ってたの。まったく、賢しいわよね。

 クリスは、ご両親の言いつけのままに私を訪ねてくれた。魔術で花を作ってくれたり、数学の話をしてくれたわ。それにね、クリスは私に数学の才能があるって褒めてくれたの。魔術や研究にも数学は大事なんだって。そういう話ならずっと付き合ってくれたから、私、頑張ったわ。学舎でも数学の成績がよくなって、先生に褒めていただいたくらい。そのくらい……少しでも長く、クリスといたかったの」


 聞いているだけで、アデリアナの胸も痛んだ。

 今よりも幼くて陰りのない笑みを浮かべたイゼットは、きっと目を輝かせるようにしてクリスを見つめていたのだろう。ただ一心に。

 クリスは、いったいどう思っただろう。そんなに真っ直ぐに想われて、嬉しくなかったはずはない。

 かいつまんで話しているだけで、イゼットの胸にはもっとたくさんの思い出が眠っているはずだ。柔らかくて優しい思い出は、きっといまもまだ、イゼットの中でひそやかに息づいているのだろう。何度も取り出してはそっと撫で、静かに包んでは大切にしまってきた思い出が。


「……婚約して二年も経たないでいた頃、突然クリスが死んだと聞かされたわ。あちらのお家のご希望で、お葬式にも行かせてもらえなかったの。

 悲しくて混乱してたから冷静になれなかったけど、おかしいと気づくべきだったわ。ずっと、こっそりお墓参りに行ってたのよ。誰にもいないお墓に。……なんだか、笑っちゃうわね」


 そうしてイゼットは目を伏せて、紅茶を静かに飲み干した。まるで、心を呑み込もうとしているかのように。

 ゆっくりとティーカップを置いたイゼットは、アデリアナに目を合わせて微笑んだ。


「私、嬉しかったの。もう二度と会えないと思ってたから。あれから五年も経ったから、私もクリスも変わっているはずなのに、ああやっぱり好きだなって思ったわ」


 アデリアナは、シェーナ伝手にこっそりジャンへ「お願い」しておいた、春の果実をたっぷりと載せたタルトを一切れ取り分けて、イゼットにさしだした。

 しばらく二人、無言でタルトを味わう。甘酸っぱい果実と甘いカスタード、しっかりと火が通されて香ばしいタルト生地が口の中でほろほろと崩れる。


 おいしいわ、と頬を緩ませるイゼットに、アデリアナはしばし思案して。

 昨日のことを思い出しながら、ゆっくりと囁いた。


「イゼット様とクリス先生がもう一度会うことができて、よかったと思っているの。勝手な感想に聞こえるかもしれないけれど……」

「いいえ、そんなことない。アデリアナ様にそう言ってもらえて、嬉しいもの」


 首を振るイゼットに、アデリアナはほっとして微笑んだ。


「イゼット様も、気になっているでしょう? どうして昨日、クリス先生がわたしの居室を訪ねたのか」

「聞いてもいいの?」

「ええ。といっても、べつにたいした事情はなくて……。ルーファウスとクリス先生が仲がよくて、わたしもときどき仲間に入れてもらっていたの。それで、ルーファウスが呼んでくれたみたい。どこか品のある方だとは思っていたけれど、わたしもクリス先生が貴族だったとは知らなかったわ」


 塔の長であるクリスとの関わりについて説明しようとすると、アデリアナが恩寵を授かっていることに触れなくてはならない。アデリアナの恩寵はルーファウスの恩寵と並んで厳密に秘されていることであるから、アデリアナは自分の一存で家族や友人に恩寵のことを話すことはできない。

 だから、アデリアナは嘘にならない範囲で婉曲的に告げることにしたのだ。

 イゼットも、ルーファウスが恩寵を授かっていることは知っている。だからアデリアナが詳細を伏せているのは王太子に関わりがあるからだと気づいただろう。そして、公爵令嬢らしく礼儀正しく気づかないふりをしてくれた。


 イゼットは頷いて、ちらりと上目遣いにアデリアナを見る。

 その視線にアデリアナが首を傾げると、イゼットはふふ、と可笑しそうに声を立てた。


「……ようやく王太子殿下と親しいと認めたわね? いま、お名前で呼んでいたわ」


 あ、とアデリアナは己の迂闊さに口を噤んだ。

 王太子とフィリミティナ公爵令嬢が幼なじみであることは知れ渡っているので今さら隠しようもないことだが、アデリアナはそれでも、公には自分がルーファウスと親しい関係だと進んで口にすることはしないでいた。

 それはアデリアナにとって当たり前のように馴染んだふるまいであったが、気が緩んでいたのだろう。つい、いつものようにルーファウスと呼んでしまっていた。


 ぱちぱちとくり返し瞬くアデリアナにイゼットは楽しそうに笑って、自分のティーカップにおかわりの紅茶を注いだ。


「アデリアナ様がちっともそんな素振りを見せないでいたものだから、私たち、ずいぶんやきもきしたのよ。早くきちんと想いを告げてくださいって、面会やお散歩の度に代わる代わる王太子殿下を急かしたの」


 くすくす笑いながら、ねえ、とイゼットが言う。

 アデリアナは、何とも言えない気恥ずかしさを抱きながら紅茶を口にする。


「王太子殿下のこと、好きになったんでしょう?」


 こくんと頷くと、イゼットは花が咲いたように笑った。

 自分ではない誰かの恋を祝って、そんなふうに笑ってくれるのだと思うと、胸が切なくなるような表情だった。


「聞いたわ。皆さまが、自分が選ばれないと知っていて花園入りをしてくださったって」

「そうよ。知らないのはアデリアナ様だけだった。私たち、みんなやきもきしながらあなたたちを見ていたんだから。でも、アデリアナ様は気にしなくていいのよ。私たちは納得して決めたのだし、王太子殿下からご褒美をもらうもの……」


 そこで、イゼットはふと口を噤んだ。何か、記憶にひっかかった棘を思い出すかのように。


「イゼット様?」

「いいえ……その、花園入りの勅の後、私たちには王太子殿下からお召しがあったの。そのときに、アデリアナ様しか選ぶつもりはないと伝えられて……そのときのことを思いだしたものだから」


 アデリアナは、なるほどと頷いた。花園入りが始まってからではなく、事前に話を通しておくのは実にルーファウスらしい振る舞いだった。

 そんなアデリアナの反応に小さく笑って、イゼットは面会のときのことを教えてくれる。


「王太子殿下は私に、自分のわがままを聞いてもらう代わりに何が欲しいのかとお訊ねになったの。でも、私は何も欲しくなかった。公爵家の娘として育った娘に、王太子殿下に望むほど欲しいものなんてあるかしら? そう戸惑ったのを覚えているわ」


 イゼットは、不思議なことを言うのだなと思ったという。褒美など用意せずとも、ただ自分の恋を応援するよう命じてしまえばいいのに、と。王太子はそれができる身分だ。

 でしたらアーガイン領の馬をお買いくださいとイゼットが言うと、却下されてしまった。


「あなた自身の望みだ。……王太子殿下は、そう仰ったわ」


 イゼットはそれ以上詳細に語ることをしなかったが、その時。ルーファウスは、礼儀正しさをほんの少しだけ崩して笑った。そうすると、いつも完璧で卒のない王太子の顔の下に、わずかに人間らしさが覗いた。そのなまなましさに、イゼットは静かに怯えた。イゼットは臣民として王太子に敬意を、同級生として好感を抱いているが、そのなめらかな肌の下に浮かんだのは、生まれつき人を従えることを知っている生きものの業に思えたから。


「嘘だよ、イゼット。あなたには欲しいものがある。私がそれをあげよう。私は自分だけ幸せになろうとは思わない。王太子殿下はそう仰って……今思えば、どうしてだか私の事情を御存知だったのね。だから花園入りのご褒美に、クリスと再会させてくださったんだわ」


 得心したように頷いたイゼットに、アデリアナは唇を噛む。

 ご褒美というには、ルーファウスのやり方は少々強引だったのではないだろうかと思ってしまうからだ。涙していたイゼットの気持ちを思うと、そうねと頷きがたかった。

 アデリアナの表情から察してか、イゼットが微笑んで首を振る。


「いいのよ。王太子殿下のなさりようは、実に為政者らしいと思うから。それに、事前に話を通したならクリスは絶対に私に会おうとしなかったと分かるもの。王太子殿下はクリスと本当に親しいのね。よくわかっていらっしゃるわ」

「そう? イゼット様がいいなら、いいけれど……」


 アデリアナはしばし考え込んでいたが、おずおずとイゼットに訊ねる。


「……あのね、聞いて下さる?」

「ええ、もちろん」

「わたし、恋を知って嬉しかった。そのことと同じくらい、イゼット様たちとご一緒できて嬉しいの。ずっと、この時間が続いてほしいと思ってしまうくらい。……これからも、わたしと仲良くしてくださる?」


 アデリアナのことばに、イゼットはふんわりと笑んだ。そこには、いつも彼女を物憂げにしていた陰りも何もない。ただ、明るくて優しい笑みだった。

 アデリアナも嬉しくなって、唇が自然と上向くのがわかる。


「もちろん! だって私、ずっとあなたたちが一緒にいるのを見ていたかったんだもの」


 そのとき、アデリアナはふと気づいた。

 話の内容からすると、イゼットが恋を失ったのは、おそらくアデリアナが学舎に入学した前後だということに。たぶん、アデリアナがルーファウスと過ごす様子をイゼットが微笑ましく思ってくれていたのは、自分の思い出に重ねてのことだったのだろう。なくした恋の痛みを撫でるように、そっと見守ってくれていたのだ。不思議と、そんな気がした。


 アデリアナは、イゼットへ両手をさしのべた。

 イゼットは戸惑いながらも、手を重ねてくれる。そのよく手入れされたすべらかでやわらかい手を握って、アデリアナは囁いた。


「イゼット様、塔にはお菓子を持って行かれるといいわ。あとで手紙を書くから、塔にいるエステルという侍女に渡して。クリス先生がどう出られるかは分からないけれど、一度は入れると思う」


 イゼットは、静かに目を見開いた。そうして、ゆっくりと呟くように言う。


「……私、そんなつもりはなかったのよ」

「ええ、わかっているわ」


 イゼットは、ルーファウスとの縁を繋いでほしいという下心をもってアデリアナに近づいてくる人たちとは違う。そんなことは、分かっていた。

 アデリアナがあまり友人を増やしてこなかったのは、自分を介してルーファウスと親しくなり、何らかの利益を得たいという思いを捨てない人が少なくないからだ。ルーファウスは自分がどういう存在か理解しているから、アデリアナを立てて人の紹介に快く応じてくれるだろう。でも、少なくともアデリアナにとっては、それはしてはいけないことだった。


 イゼットは、アデリアナが王太子の幼馴染みとして貴族社会の中でどういう役割を求められがちなのか理解しているのだろう。貴族の子女ならば、大なり小なり似たようなことを経験する。だから、利益を求めてあなたと親しくしているのではないと示してくれたのだろう。

 でも。いま、アデリアナがイゼットに申し出たのは、そうしたいと心から思ったからだ。


「ええ。ただ、わたしはクリス先生にもお世話になってるから、イゼット様のためだけに何かをしすぎてしまうことはできないわ。でも、せめて、このくらいはさせてちょうだい。ね?」


 イゼットはゆるゆると微笑んで、静かにアデリアナの手を握り返してくれた。


「ありがとう。私、頑張ってみるわ。もしだめだったとしても、話を聞いてね。そうしたら、きっと何があっても耐えられると思うから」


 もちろんとアデリアナは頷いた。

 恩寵が見せたあの幻影が、いったいどんな結末をさしてのことかは分からなかったけれど。人の心は、周囲が無理やりに動かせるものではないけれど。

 それでも、イゼットが少しでも納得できる恋になったらいいなと思った。突然断ち切れてしまった恋がイゼットに少しでもやさしく在るようにと、アデリアナは願った。

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