第16話 金の鎖

 長椅子に腰かけたクリスは、片方の足首をもう一方の膝に乗せて深く息をつく。

 塔の研究者が纏う上衣は肩から下がゆったりしていて、おまけにきちんと釦を留めていないものだから、その下の細く長い体躯が覗いている。その鳥の巣のように無造作な鳶色のくせ毛とともに、長い脚を持て余しているかのような姿勢はともすれば粗野と受け取れそうなものだが、不思議とそうは見えない。静かな品のあるクリスの、青年らしい落ち着きと頑なさが同居した佇まいがそうさせるのだろう。


 アデリアナの隣に迷いなく座ってみせたルーファウスに片眉を上げて、クリスはとっくりとふたりを眺める。

 そうして、クリスはその深い緑の目をゆっくりと瞬かせる。

 それは、クリスがうつつを見る目を切り替えるときの合図だ。


「……恩寵は本当に厄介な代物だな。女神の涙と言えば聞こえはいいが、ともすればこうして呪いに転ずる。アディの心臓を、金の鎖が雁字搦めに取り巻いている」


 ――金の鎖。

 そう聞いて、アデリアナは胸元に手をあてる。

 四阿でルーファウスにくちづけられたときに感じた、あの不思議な感覚は気のせいではなかったらしい。魔術の才を持つクリスのことばは染みいるようにアデリアナの内側へと入り込んだかと思うと、その暗がりに沈んだ鎖の輪郭をうっすらと浮かび上がらせ、まざまざと知覚させる。


 金色。それは、アデリアナにとってルーファウスの色だ。光に透けるときらきら揺れるように見える目映い髪の色、アデリアナの周りをやさしく飛びまわる恩寵の欠片が灯す色。

 けれど身の内に潜むそれは、もう少し暗くて深い、重みのある色をしているように思われた。ぐるりと渦巻くように心臓を取り巻くそれは、一つひとつが太くて重たげだ。


「クリス先生には、これがずっと見えていたの?」

「いいや。ルーファウスに話を聞いたのは随分前だが、いままで見えなかった。月に一度の面会日も普通だった。遅効性で条件付きとは、器用なことだよ先王陛下は」


 クリスは、八年前からアデリアナの恩寵を見てくれている。クリスがアデリアナのことを愛称で呼ぶのは、そのせいだ。幼い頃からずっと見てくれていた研究者が引退した折りに引き継がれて以来、アデリアナは月に一度塔に赴いて、クリスに恩寵の様子を見て貰っている。


 九つ上にあたるクリスはほかの研究者よりも少しざっくばらんで、でも近しすぎない親しさで接してくれるので、アデリアナにとっても心やすい存在だった。それには、クリスがルーファウスの友人であったことも多分に影響している。ルーファウスと親しいということは、アデリアナにとって安心して接していい存在だと約束されているようなものだった。


 まあでも、というクリスのことばに、アデリアナとルーファウスは彼を見つめる。


「呪いが発現したってことは、アディもルーファウスのことが好きになったってことだろ。長年の片思いが報われてよかったな」


 ルーファウスは嬉しそうに礼を言っているが、アデリアナは黙っていた。じんわりと顔が赤らむのがわかる。

 ルーファウスのことは、ずっと好きだった。隣にいると心地よい幼なじみとして。

 ただ、あまりにもそばにいることが当然だったから、ずっとこのままではいられないのかもしれないな、とは思っていたのだ。ルーファウスには、いずれ絶対に伴侶を迎えるだろうから。そして、それは自分ではないとアデリアナは思っていた。

 でも、たぶん。そういう好きではない「好き」も、もしかしたら持っていたのかもしれない。不思議と、いまはそう感じた。


 シェーナが入ってきて、紅茶を淹れてくれる。アデリアナがお願いしたとおり、テーブルの上にはお菓子が小さな山のように盛られた皿が置かれた。

 クリスの前にお茶を置いたシェーナは、目の前を過った骨張った指が無造作にお菓子を掴み、次から次へと口に入れていくのを見てぴしりと動きを止めた。クリスはそんな様子など気にも留めず、薄皮にカスタードと生クリームを詰めたお菓子を黙々と口に入れては咀嚼している。


 アデリアナとルーファウスが平然としているのを見てとって、シェーナはなぜアデリアナがお菓子をたくさん持ってきてほしいと頼んだのか悟ったようだった。

 皿の上に盛られたお菓子が短い間に順調になくなっていくのを見て、シェーナがちらりとアデリアナを見る。アデリアナは頷いて、お代わりを持ってくるよう目配せした。

 シェーナが出て行くと、クリスは優美な仕種で紅茶を飲む。その表情は、満足気だ。

 気持ちいいほどの勢いでお菓子の減った皿を見て、アデリアナは問うた。


「この鎖を探ろうとすると、そんなに力が要るの?」

「うん、まあ、それだけじゃないんだが。……王城はいいな、菓子がうまい」


 クリスは塔の研究者としては少々特異なことに、研究者としての能力とは別に、いわゆる魔術の才能を併せ持っている。

 恩寵とは違うかたちで女神の滴りを受けた御業の欠片を扱うことを魔術と呼ぶ是非については議論が別れるところだが、神官に比べて格段に少ないといわれる魔術の才を持ちながら、研究者として身を立てることを選んだクリスはなかなかの変わり者だ。王城のお抱え魔術師として生きるほうが、ずっとわかりやすく尊敬される存在だからだ。


 神官と魔術師は、ともに女神から滴る神力を受け取る存在だが、その発露は異なるとされていた。生まれ持った神力の盃から肉体の外へと受け渡すようにして遣う神官とは異なり、魔術師は身体の内で神力を練り上げて別のものに変換して放出するのだという。 

 神官は信仰の深さ故に女神との繋がりが深く、また遣い方が穏やかであるので、生まれ持った盃の大きさに見合ってさえいれば、特に枯渇することはないらしい。ゼゼウスは女神の寵愛が深いため、中でも神力の枯渇に悩まされることはないのだとか。


 だが反対に、魔術師はその発露に神力だけを頼みにしていないせいか、一度力を限界まで使うと回復には代償を必要とする。その代償は人によって異なり、クリスの場合は甘いものなのだった。アデリアナは面会日には必ずお菓子を持参することにしている。

 聞く話によると、王城の守りを司る魔術師は、疲れるとひたすら輝石を食べなくてはいけないらしい。それもそれで大変そうな話ではある。単純に、単価も高い。だからお抱えになっているのだろう。


「それで、どうだろう。この呪いがある限り、アデリアナを苦しめてしまう」

「厳密に言えば、お前を好きでいる限りな。アディがルーファウスを好きにならなかったら、呪いは発現しなかっただろうよ。その代わり、お前は片思いが続いてつらかっただろうが」


 眉を寄せたルーファウスに、クリスはため息する。


「詳細な条件付けができるようなものではないはずだし、おそらくは恩寵同士の相性のせいだろう。鎖はアディの記憶の欠落を代償に、先王の思惑通りには作用しなかった。ルーファウスが相手と限定せず、アディの恋愛感情自体をまるごと封じていたように思う」

「ねえ、じゃあ……わたしはどうしてその、いまになって自覚できたのかしら」


 クリスはしばし沈黙した。ややあって口を開くと、心なしか早口に言い立てる。


「……まあ、それは。想いを直接的に告げるようにして、身体的接触を増やしたからなんじゃないのか。ルーファウスが意識されたいと言うから、古典的な方法を勧めた。

 いままでどんだけ遠回しだったのかという話は置いといて、効果があったようでよかったな」


 しんたいてきせっしょく、とアデリアナは呟いた。

 なぜだか、ルーファウスのほうを向いてはいけないように思われた。


「アディ、いったいどんなふうに痛かった? 鎖の具合からして、心臓が痛いんだろうなとは思うが」

「ええ、心臓をぎゅっと握られるみたいな感じ……。あとは、身体の内側から、鋭い爪で削られているみたいな痛みよ。それに、喉が塞がれるようなこともあるというか……」

「それは辛いな。悪いんだが……できれば、痛みの条件付けが知りたい。ひどいことを言うが、いま、同じような痛みを得られるか?」


 手をさしのべられて、アデリアナはおずおずと笑った。

 クリスは、いつも身の内で練り上げた魔術によってアデリアナの恩寵を観察する。手を重ねると、よりアデリアナの内側に力を注げるのだという。いつものように、そうしたいのだと分かった。


「たぶん、条件は分かってるの」


 アデリアナはそう言って、手のひらを重ねる。目をつむって、隣にある温かな身体にもたれるように寄りかかった。

 痛いんだろうな、と思う。あれだけ、苦しかったのだ。

 二度と味わいたくないような痛みだ。でも、ほかの誰かに恋をするのも嫌だった。

 だってもう、忘れられない。忘れたくない。

 アデリアナは、自分が少しだけ浮かれていると知っていた。でも、そのくらい初めて知った恋は甘やかでやさしくて、その甘酸っぱさをずっと覚えていたかった。

 怯えてしまいそうになる躊躇いを何とか押しのけて、アデリアナは祈るように思う。


(わたしは、ルーファウスが好き)


「……っ、あ、」


 針のような鋭さで、痛みは訪れた。

 アデリアナは、震える肩を手のひらが優しく包んでくれる感触にだけ、意識を集中させようとする。身構えていたせいか、はじめに感じたほどの衝撃はない。でも、痛くて痛くて、目が眩む。


 ――もう起こってしまったことは覆せない。だから、おまえがあの子の恋を奪う未来があるのなら、いまこの手で潰してやる。絶対に、許さない。こんな苦しみは、あの子に訪れていいものではない。


 会ったことさえ忘れてしまっていた、ルーファウスの祖父の声がする。

 悲しい声だった。自分と同じ思いを味わわせたくない祖父の、孫を案じる声だった。


 痛みよりもかなしみが募って、アデリアナは息苦しさに身体を震わせる。

 いつだって誰かを想う気持ちこそが一番厄介なのだと、教えられているかのようだった。厄介で、いとおしくて。理性だけではどうにもならないこともある、人の心。

 アデリアナは切れ切れに声を漏らした。


「ルーファウスのことを、はっきりと好き、……っ、と思ったり、口にしようとすると、痛い」


 遠のきはじめていた痛みが、律儀なまでにアデリアナを訪れて苛んだ。

 喉の内側をひたひたと覆うような感覚が押し寄せて、ほらねとアデリアナは笑った。


(いいわ、ぜったいに負けてあげないから)


 そう、挑むように思った。一度あると認識してしまえば、それははっきりと感じられた。身体の内側に、重たい金の鎖が沈められている。途端、ぱきんと微かな音を立てて、目に見えない鎖がまたひとくさり、割れたのが分かる。


「さっき倒れて、分かったの。たぶん、曖昧で婉曲的な言い回しをすれば、平気なのよ」


 預けていないほうの手で胸元を握り込むアデリアナに、クリスが静かに告げる。やってみて、と。


「……わたしは、たぶんルーファウスのことが好き」

「たしかにそうだな、鎖が反応していない。……もういい、辛かったな」


 クリスの手が離れて、アデリアナはルーファウスに引き寄せられる。

 優しく抱きしめられて背中を撫でられると、ゆっくりと息を整っていくのが分かった。ルーファウスが微かに震えていることも。口にはしないけれど、内心では何度も謝ってくれているのだろうことも。


「ありがとう、だいじょうぶ」


 震える腕をたたいて、そっと身体を離した。

 いやな汗をかいていて、首の後ろに髪が張りついているような感触があった。たぶん、顔は青ざめているのだろう。ルーファウスの目を見れば、すぐにわかった。

 でも、あんまり痛ましそうに見つめられるものだから、アデリアナは少しだけ笑ってしまった。


「アデリアナ、心配しているんだよ」

「うん、そうね。謝らないでいてくれて、ありがとう」


 ルーファウスが息をついて、やりきれないといった様子で首を振る。

 クリスを見ると、彼はその深い色をした瞳を眇めるようにしてアデリアナを見返した。


「おそらく、呪いは直截さと深度で判別しているんだろう。どこまで先王陛下が意識してのことかはわからないが、女性は何にでも好きだと言うからな」

「いまは許してあげるけど、差別的な表現と受け止められてもしかたないわよ、先生」

「悪い。……でも、だから直截なことばが届いたのかもしれないな」


 クリスは寄り添うように座るアデリアナとルーファウスを見て、微笑ましそうな顔をした。幼い頃から知られている人にそんなふうに見られると、なんだか恥ずかしい。身じろぎして、少しだけ離れようとしたアデリアナだが、ルーファウスに手を取られて阻止されてしまった。

 こういうときのルーファウスは、ちっとも譲ってくれない。顔を見ても、にっこりと微笑まれる、それだけだ。


「アディ、いいか。ルーファウスの片思いは、ものすごく長かった。ものすごく重たいだろうが、こうなったからには諦めろ。正直なところ、俺は国の将来を危ぶんだ」

「ええ? でも、あの……重たいとはべつに思わないわ」

「クリス、私の幸せが分かるだろう」

「まじでほんと、まじでお前、重たいのにな。良かったなあ……」


 クリスはしみじみ、本当にしみじみと言った。ルーファウスも、別段否定はしない。アデリアナにはよく分からないのだが、二人はとても感慨深そうだ。


「……それはさておき。アディ。さっき、鎖を壊しただろ。痛いだろうが、それをくり返していくほかないだろうなと思う」


 クリスの指摘に、ルーファウスは首を傾げた。鎖を見ることができるクリスと、その存在を感じ取るアデリアナには通じるのだが、傍で見守っていたルーファウスには「鎖を壊した」ことがよく分からないようだ。


「あれはわたしの意思が壊したの? でも、それだけじゃない気がするわ」


 んん、と唸って、クリスは指先を紅茶に浸したかと思うと、テーブルの上にゆっくりと線を描きだす。

 行儀のわるいお絵かきかと思いそうになるが、そうではない。鎖が連なった絵が描かれて、クリスがひとつため息を落とす。すると、つるりとしたテーブルの上に滲んでいた絵が浮かび上がり、うっすらと透けた鎖に変化する。細かい光の粒がちりちりと舞う鎖は、よくできた飴細工のようだ。

 彼の持つ力の性質がそうさせるのか、クリスの魔術はいつもきらきらと澄んでうつくしい。魔術のことは本で読んだ以上には知らないアデリアナにも、その眩さは分かる。


 紅茶色の鎖はクリスの指につつかれて、ゆるやかに曲線を描いて宙に止まる。

 その噛み合ったつなぎ目の一つを示しながら、クリスはお菓子を摘まんだ。


「よく見たら、発現したばかりにしては鎖が緩んでいた。鎖と鎖のつなぎ目に、ところどころひびが入ってると言えば分かりやすいか?」


 とん、と指先が押し当てられて、鎖のつなぎ目に透明な皹が入る。


「たぶん、アディがむきになって、何度も好きだすきだとくり返し思ったりしたんだろう。喉のあたりに巻き付いた鎖がちょっと切れたのは、その時か。だから、いまはことばに出せたんだな」


 表情を取り繕えなかったアデリアナの様子に、ルーファウスが喜んでいいのか怒ったらいいのかわからないでいるような表情をしたのを、クリスはしっかりと見ていた。

 どことなくむずむずする口を一度引き結んで、クリスは紅茶色の鎖をくるりと回転させる。


「いま鎖がひとつ割れたのは、倒れたときに一度負荷をかけていたからだろう。

 ということはだ、いわゆる金属疲労を起こしてやればいい。……ただ、まあ、その」


 そこで、気まずげにクリスが視線を逸らす。うーん、と言いにくそうにしている。 


「いいか、他意はないぞ。他意は」


 アデリアナとルーファウスは、顔を見合わせた。よく分からなくて。

 だが、クリスが視線を逸らしたまま告げたことばに、そっと互いから目を逸らす。


「さっき、ルーファウスがアディを抱きしめたときにも、鎖が揺れていた。たぶん、ルーファウスとの身体的な接触と同時にアディが気持ちを強く自覚すれば、より効果があるんだと思う。アディが一人で痛みに耐えるよりも、その方が早そうだ。……どうせ、倒れたときも二人でいたんだろう?」


 えっと、とルーファウスがゆっくりと宙で回転する紅茶色の鎖を見ながら、躊躇いがちに言う。


「……つまりは、アデリアナと仲良くすればいいってことだね?」


 ルーファウスとクリスの目は、なんとなく自然に、アデリアナへと吸い寄せられた。ルーファウスはどことなく甘い視線で。クリスは、どことなく気まずげに。アデリアナは、床を見た。


「そういうことだな。アディは痛いだろうが、頑張っていちゃいちゃしろ」

「……!!!」


 アデリアナがじたばたしていると、ルーファウスに取られたままの手もぱしぱし動く。今度は手を離してもらえたので、アデリアナは思う存分クッションをはたいて恥ずかしさを発散することができた。

 そんなアデリアナを生温かい目で見つつ、クリスは皿を空にする勢いでお菓子を摘まんでいる。クリスが受け取ることのできる神力は、王城の魔術師がなぜ塔に行ったのかと泣いて惜しんだほど多いらしいのだが……研究熱心で寝る間も惜しいクリスは、力尽きて倒れる前に甘いものを補給する癖がついている。少し魔術を遣っただけでお菓子をたくさん食べるのだ。


「なあ、ちょっと足りないんだが」


 もぐもぐと咀嚼しながらクリスが言ったとき、ちょうどよく扉が叩かれてシェーナが入ってくる。ジェラルドに扉を支えてもらいながらワゴンを押して近づいてきたシェーナは、クリスが膝の上に抱えた皿が空になっているのを見て息を呑んだ。アデリアナには分かる。太る、身体、太る。きっといま、シェーナの頭の中ではそんなことばが渦巻いているのだ。アデリアナも最初はそうだった。


「ありがとう、シェーナ。あのね、クリス先生は力を使うと、お砂糖が欲しくなる方なの」


 だから大丈夫よと慰めるように言ったアデリアナに、シェーナは小さく頷いた。その目は、宙に浮いた魔術謹製の鎖よりも、甘いものをたくさん平らげるクリスの様子に注がれている。クリスを見るシェーナは、あんなに細いのに……と羨むような恐れるような気持ちがない交ぜになっているようだった。無理もない。体型を気に掛けたことのある者が見たら、卒倒したくなる量である。

 ぞっとする、という思いを何とか飲み下した様子で、恐る恐るシェーナは訊ねた。


「あの、お代わりは……」

「いる。持って来てくれ」

「……かしこまりました」

「シェーナ、まだお菓子があるの?」

「はい。今日のお三時を余らせていたようで、料理人も喜んでおりました。もっと欲しかったらぜひと言われております」


 では、と心なしか足早にシェーナが去るのを見送って、クリスは「いい女官だな」と言った。

 アデリアナは曖昧に微笑んだ。研究者のだいたいがそうであるように、クリスは関心のある対象以外のものについては、大変ざっとしている。もちろん、シェーナはいい女官だが。


「いちゃいちゃしろというだけでは、俺も能なしだからな。アディに魔術をかけよう。……こんなふうに」


 そう言って、なかなかに濃厚なチョコレートで包まれたケーキを手づかみで食べながら、クリスは指を鳴らした。ぱちんと小気味よい音がして、宙に浮いた鎖にとろりとチョコレートの膜がかかる。その下で、紅茶色の鎖がはりはりと柔らかな音をたてる。やがて、宙に浮かんだ鎖はとろけるようにかき消えた。


「俺の力で、金の鎖に疑似膜を張る。アディの呼吸に合わせて、人為的な負荷を与えるんだ。鎖に対象を限定するから、アディに痛みは出ないはずだ。恩寵からの保護を目的に編んだ魔術の応用だ、何度か試しているから安心しろ」


 クリスは丁寧に手を拭いてから、アデリアナに両手をさしだした。アデリアナは大人しく手を預ける。目を閉じて。囁かれるまま、瞼を下ろした。


「大丈夫、お前にはルーファウスがついてる。俺もいるし、ゼゼウスもいる。そういう力はないが、妹馬鹿のディクレースもいるしな。もういない男のかけた呪いなんて、すぐに消せるさ。安心していちゃいちゃすればいい」


 せっかくちょっと感動していたのに、アデリアナは最後で笑ってしまった。

 そんなに何度もいちゃいちゃとくり返さないでほしい。気に入ったのだろうか?


「先生、もう恥ずかしいから。やめてちょうだい」


 ちいさく笑んで、クリスが手を揺らした。

 じわじわと指先から温かさがしみて、皮膚を血管を通って内側へと伸びるものがある。脳裡に蔓を持つ花の模様がひらめいて、アデリアナの内側に蕾が生まれる。ぽつぽつと生まれたそれらはゆっくりと震えながらその身を解かせてゆき、柔らかい花弁を開いて揺れる。ほろほろと散った花びらが喉の内側をひったりと覆い、あふれた残りが胸の深いところにひらひらと舞い落ちてゆく。


 あ、とアデリアナは思う。

 身体の内側に沈んだ金の鎖に、ごく柔くて甘いお砂糖がかけられたのだとわかった。

 繊細なお砂糖の覆いは、アデリアナを傷つけないよう注意深く伸びてゆきながら、金の鎖の上をさらさらとたどる。その優しい感覚に、アデリアナはため息を漏らした。

 よし、と頷く声がして、アデリアナは瞼を押し上げる。


「もういいぞ。たぶん、多少痛みも吸ってやれるはずだ。でも、一気に鎖を外そうとはするな。少しずつ、必ずルーファウスと二人でいるときにしろ。一人で無理をしたら、最悪死ぬ」


 頷くと、やさしく手のひらが離された。鎖の存在を自覚して以来、うっすらと感じていた重たさのようなものが和らいだ気がする。


「クリス先生、ありがとう……」

「二人のためだからな、できるだけのことはする。それに、ルーファウスはアディに振られたら結婚できなくなるからな、国の一大事だ。塔の長としては防ぎたい」


 冗談だと思ってアデリアナはくすくす笑ったが、クリスは大真面目に言っていた。

 ルーファウスは微笑んで、王太子自ら塔の長の口へとケーキを突っ込んでやっている。余計なことを言ってアデリアナに負担をかけるなの意だが、当のアデリアナは仲がいいのねと思うばかりだった。


「……お、菓子が来た。そうか、アディに会いに来れば、好きなだけ食べられるのか」


 シェーナは、今度は二つのワゴンいっぱいにお菓子を載せてきていた。クリスの目が子供のように輝く。見ているだけで胸やけがしそうな量だが、クリスならご機嫌かつ余裕で平らげられるだろう。健康のことが気にならないと言えば嘘になるが、魔術の才を持つ身体なら何かしら違うのだろう。そうであってほしいと、アデリアナは願っている。


「来てもいいけど、わたしはイゼット様と仲がいいのよ。お知り合いなんでしょう?」


 アデリアナがそう言うと、クリスはチェリスカのムースケーキを食べながら眉を寄せた。ルーファウスは紅茶に口をつけて、何も言わない。


「わたしには言いたくないのなら、イゼット様にクリス先生のことを聞かれたらどう言ってほしいのかを教えてちょうだい」


 確かになという表情を浮かべたクリスは、チェリスカのムースケーキの皿を空にするまで、何やら考えていた。それなりに長く考えていたが、ややあって、根負けしたように肩をすくめる。

 もぐもぐと咀嚼を早めたクリスの様子に、アデリアナはどうやら長くなりそうだなと思った。厳密に言おうとするあまり、クリスの話はよく長くなる。研究者によく見られる特長なので、幼い頃から塔に出入りしているアデリアナとルーファウスにとっては、慣れたことだ。

 紅茶で喉を潤して、咳払いをし。クリスは、ゆっくりと話し始める。


「……俺は、五年前に勘当された。正式に塔に入ると言ったからだ。学舎の頃から師に弟子入りしていたし、家を継がないのは明らかだったんだが、ひどく反対されてな。見栄っ張りで爵位に誇りを持っていた両親は、俺を死んだことにすると言った。ちなみに、墓もちゃんとある。塔に入るときは家名も剥奪されるし、戸籍も別に用意される。まあ死ぬのと似たようなことだしな、と自分では納得していたんだが」


 そこで、クリスは息をつく。不思議そうに、困惑しているように。

 アデリアナも人間関係が希薄なほうではあるが、クリスほどではない。あっさりと語られてしまっているが、なかなかに酷い話を聞かされている気がして、反応に困ってしまった。


「あの両親なら、アーガインにも俺は死んだで通しただろう。詫びの手紙を書こうと思ったが、イゼットには恩寵もないから塔に来ないし、社交的でもないから王城に来ることも少ない。このまま一生会わないだろうと思っていた。そう踏んで、何もしないほうがいいと思ったんだ」


 そこで、ルーファウスがリリカのタルトをクリスのほうへ寄せてやりながら口を挟んだ。


「クリス、花園入りの娘たちについては王城から通達しただろう。彼女たちは一時的に家名を剥奪されてしまうから、君個人と塔宛てにきちんと報せたはずだよ」


 手づかみでタルトを一口食べたクリスは、そうだなと頷いた。


「俺の部屋を知っているだろう。本と書類のどこかにまぎれてるに決まってる! 必要なくなったときに見つかるんだ、そういうものだ。……塔の研究者が誰々が来ると教えてくれたような気もするが、どうせルーファウスはアディを選ぶだろうし、別にほかの娘のことは把握しなくてもいいかと思っていた」


 アデリアナは、いつも面会に行くと塔に勤める侍女が気まずそうに案内してくれるクリスの部屋を思い出した。

 クリスの部屋は、いたるところに書類、本、書類、本、書類のサンドイッチがうずたかく積まれている。研究室と続きになっている応接室、それに寝室まで全部似た状態らしい。魔術で埃を払っているそうだから綺麗と言えば綺麗なのだが、とにかくひたすら紙が多い部屋だ。本好きのアデリアナにとっては居心地はいいのだが、まあ物はなくなるだろうなと思う。


「……なのにだ。まさか、今になって会うとは。それにてっきり、とっくのとうに結婚したとばかり思っていた。公爵令嬢だぞ? 二十二でどうして嫁に行ってないんだ?」


 アデリアナは、何とも微妙な気持ちになった。

 研究者は神官とはまた別の意味で世俗とは隔絶した感覚の持ち主だが、クリスにもそういうところがある。その品のある所作やルーファウスに物怖じしないところなど、研究者の中でも少し浮いているような印象はあったが、やっぱりそれなりに塔の人間らしいというか、何というか。


「それで、イゼット様とはどんな……?」


 半ば予想はついていたが、アデリアナは訊ねた。

 クリスから返ってきたのは、予想通りの答えと斜め上の補足だった。


「イゼット・アーガインは、親が決めた婚約者だった。特別仲が良くも悪くもない、ありふれた婚約者同士だったと思う」


 ぜったいに嘘でしょ、とアデリアナは思った。

 そうだったら、イゼットのあの涙はなんなのだ。あれは絶対、かなり引きずっている。めちゃくちゃ引きずっている。そうでないはずがない。

 二十二まで結婚しない公爵令嬢が珍しいことの意味を、クリスは本当の意味で理解していない。花園入りを盾にしたのだろうが、イゼットはたぶん、持ち込まれる縁談を断ってきたに違いない。あのいかにも良家の子女らしく、分別のありそうなイゼットがだ。そのことがどんなに大きいか、クリスは分かっていない。

 もし百歩譲ってクリスのことばが嘘でなかったとしても、それはそれで始末が悪かった。だってそれが本当なら、クリスにとってイゼットはその程度の重さしかしていないことになってしまう。


「……ほんとうに? ほんとうに、そう?」


 アデリアナが縋るように訊ねると、クリスはそこではじめて、静かに苦笑した。

 緑の瞳が柔らかくたわんで、何かを思い出すようにアデリアナを通りすぎる。

 それは、過去を慈しんでいるときのまなざしだ。大切だった何かを指先でそっと撫でているような……。


「アディが優しいのはよく知ってる。でも、もう俺と彼女の間には何もないし、縁が結ばれることもない。イゼットはよく躾けられた家の娘だし、俺は彼女の望むようには生きてやれない。俺は彼女よりも研究を選んだ、そういうことなんだ」


 諦めることを知っていて、きちんと失ってきた大人の笑みだった。

 アデリアナの口を優しく封じる笑い方だ。大人で、ずるい。そんな笑み。


 イゼットは、いまも居室で泣いているだろう。普段泣かない娘が一度涙をこぼしてもらったら、あとはしばらく泣いたままになってしまうことをアデリアナは知っていた。

 たぶん、イゼットは娘たち全員での食事は休んでも、きちんと約束を守ってお茶をしにやってくるだろう。何か素敵なお菓子でも携えて、しとやかな笑みを浮かべて。そうして、何でもない話をする。ほんとうに聞きたいことは分かっているのに。


「何をどう彼女に話すのかは、アディに任せる。いま話したことをそのまま言うのでもいい」


 とても、とても酷いことを言われている。

 悲しくなってしまって、アデリアナは針の時間に見た幻影を思い出した。

 たぶん、イゼットは一度はクリスを訪ねるのだろう。場所は分かっているのだから。それで拒絶されて、あんなふうに泣くのだ。そう思うと、気が塞いでしまいそうになる。

 人の心はどうすることもできないけれど、それなら恩寵の力は幻影を見せないでくれたらよかったのに。つい、そんなことを思ってしまう。


 アデリアナは、隣に座るルーファウスを見つめた。

 穏やかならぬ気持ちでいるアデリアナとは反対に、ルーファウスは落ち着いている。そうして、心配ないよとでも言いたげにやさしい笑みを浮かべたのだった。

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