第15話 失われていた記憶の欠片
シェーナが、静かな手つきでリゼリカに処方されたお茶を淹れている。
ふわりと立つのは薬草の穏やかな香りで、湯気とともに安眠効果のあるラゼルカの花の香りが一際強い。シェーナが用意してくれた蜂蜜を溶いて落とすと、さっぱりとした中に甘さが混じって、アデリアナはほっとした。
シェーナは居室を出て行くとき、心配そうにこちらを見た。アデリアナが倒れたばかりと聞いて、気が気でないようだった。アデリアナは微笑み、大丈夫だと首を振る。まだ気遣わしげにしながらも、シェーナは一礼して扉の向こうへ消えた。
ルーファウスが話をし始めたのは、アデリアナがお茶を一杯と少し飲んでからのことだった。
「……私の祖父を覚えている?」
「ええ。だって、女神様の次くらいにアーデンフロシアで有名な物語の主役でしょう?」
ルーファウスの祖父にあたる先王ガイディウスの恋物語は、アーデンフロシアに広く流布している。
まだガイディウスが王太子だった頃、リゼリカの生家がある辺境を視察した折りに恋に落ちたところからはじまるロマンスだ。辺境伯の遠縁にあたるとはいえ、庶民として暮らしていた娘に一目惚れをしたのだ。辺境領に滞在中、ガイディウスはその娘と距離を縮めるが、王都に戻ったあとも忘れられず手紙を交わしていた。身分差もあって娘ははじめ王太子の想いを受け止めまいとしていたが、真摯な手紙に心動かされ、やがて想いを返してくれるようになる。
そうして、辺境伯の養女となった娘は花園入りの一人に選ばれたという名目で、はるばる王都までやってくるのだ。形式上行われた花園入りは、主だった家の娘たちと引き合わせる親睦会としての意味合いが強く、また王太子妃教育も兼ねていたと物語は伝える。
熱烈な一目惚れに身分違い、さらに遠距離恋愛という要素が加わり、ガイディウスが王太子妃のために書かせた自らの恋物語は大変受けた。恋物語は流布されて、演劇や歌も作られたのだ。すでに亡くなっているガイディウスと王妃には愛妾がいなかったこともその人気に拍車をかけていて、その深い愛の物語はいまとなっても定番中の定番だ。
アデリアナが本や演劇でくりかえし味わった物語を思い出していると、ルーファウスが頷いた。
「そう、祖父と祖母はとても仲がよかったよ。幼心にもとてもあたたかい関係に思われて、私はお二人に会うのが好きだった。可愛がってくれたしね。
……あなたが十で、私が十四の頃だ。あの頃、お二人は王都の外れにある離宮で生活していた。学舎が休みの間に離宮を訪ねることになったとき、私がわがままを言って、あなたも一緒に連れて行ったんだ。祖父は私に甘かったし、祖母は子供が好きだったからね。お二人の子供は父と叔父だけだったから、ちいさな女の子は喜ばれるだろう、そんなふうに思って。まあ、あなたと十日も離れていたくなかったというのもあるんだけど」
言いさして、ルーファウスはアデリアナを見た。思い出せないものを思い出そうとしているようなアデリアナの表情を。
「……十歳のわたし、そんなに忘れっぽかったかしら」
忘れるようなことではなさそうなのに、よく思い出せない。
そう呟いたアデリアナに、ルーファウスはうんと頷いた。ごめん、と言いながら。
「楽しかったよ。ディクも一緒だったし、いつになくはしゃいだ私の様子に祖父も祖母も嬉しそうだった。祖母はあなたのことがすぐ好きになってね、お人形みたいに着せ替えをしたがった。膝に抱いて宝石を一つ一つあなたの手のひらにのせたり、一緒に本を読んで楽しそうにしていた。祖父は祖母のことが大好きだったから、またあなたを連れてくるよう、すぐに約束させられたっけ」
微笑ましくルーファウスの話を聞きながら、けれどもまったく覚えがないことにアデリアナは戸惑った。それに、いつだってアデリアナを見つめてくる瞳は伏せがちで、思い出をたどるように逸らされたままこちらを見てくれない。
「離宮で過ごして五日ほど経った日、私とディクレースは祖父と一緒に湖に小舟を浮かべてもらって遊んだんだ。あなたは祖母とお菓子を作るんだと言って、焼きたてを届けてくれると約束してくれた。でも、あなたたちは来なかった。祖母が体調を崩したのかと思って早めに戻ったら、あなたたちは泣いていた」
アデリアナは、隣に座るルーファウスの膝に手を伸ばした。触れた手が、ぎこちなく握り返される。
「何があったんだ? そう祖父が訊ねたら、祖母はしばらく呆然と祖父を見つめていたよ。震えて、あなたにすがりつくように触れていた。お菓子が床に散らばっていて、甘いにおいがした」
そうして、ルーファウスは聞いたのだという。祖母が掠れた声で祖父を罵るのを。
「……どうして?」
「私もそのときまで詳しく知らなかったんだけど、祖父は恩寵を授かっていた。後になって、どうしてよく離宮に行かされていたのかわかったよ。塔の研究者たちは、祖父と私の恩寵をよく似ていると判じたんだろう。恩寵の使い方の手ほどきみたいなことをさせたかったんじゃないかな。確かに、祖父からは時折恩寵について話をされた。けっして人の心を軽んじてはいけないと。
……祖父の恩寵はね、人の気持ちや記憶に作用するものだった」
ルーファウスは、静かに語った。
話の続きが分かってしまったような気がして、アデリアナは息を止める。
物語を読んでいて、続きはこうなるんじゃないかしらと分かったときのような、知りたいような知りたくないような気持ちがした。同時に、恐れもあった。
離宮での思い出が記憶にないこと。先の王妃殿下と一緒にアデリアナが泣いていたこと。先王の恩寵が、人の大事なものに働きかける性質をしていること。先王の恩寵が、ルーファウスの恩寵と近しいこと。
何より、ルーファウスがこんなに苦しそうにしていること。
物語の伏線を拾いあげていくように、アデリアナの中で答えが導き出されようとする。
「……わたしね? わたしが、思い出させてしまったのね?」
ぽつりと、けれども確信を持ってアデリアナが呟いたのに、ルーファウスは同意を示しながらも、くりかえし囁いた。
「あなたのせいじゃない。あなたは悪くないんだ、アデリアナ」
握られた手をさするように指が撫でて、アデリアナはルーファウスを見た。
でも、一度気づいてしまえばするすると思考はめぐりだす。
アデリアナとルーファウスの恩寵は、少しだけ似通っている。
それは力の詳細ではなく、瞳を媒介にするという点だ。そして、ふたりの恩寵には不思議な繋がりがあった。アデリアナの瞳はルーファウスから漏れる恩寵の光を見ることができて、ルーファウスの恩寵はアデリアナの心には作用しない。
――では、もっとルーファウスの恩寵と近しくて性質が似ている先王の恩寵との相性は?
「あのときの祖母とあなたの会話を繋ぎあわせると、こういうことだった。お菓子を作りながら、あなたは恩寵で祖母の過去を見たんだ。それは祖母が大切にしていた押し花の栞や、質素だけれど可愛い髪留め、ところどころページが切られた日記帳を見せてもらったときにも現れていたそうだ」
お菓子作りをしながら、アデリアナはなんとはなし言ったのだという。
先の王妃殿下が故郷にいた頃、よく作っていたという菓子の焼き加減を見ながらとりとめのない話をしていて、ふと見えた幻影についてアデリアナが口に出したのだ。
「……あの栗色の髪をした男の人にも、作ってあげたの? わたし、言ったわ。確かにそう言った」
口をついて出たことばに、アデリアナは呆然とルーファウスを見る。
先王ガイディウスの髪は、ルーファウスと同じ金髪だ。
ひとつ欠片を思い出すと、割れていた破片が繋ぎあわされていくようにして色々なことが思い出されていく。静かに押し寄せ来る記憶に、アデリアナは息を呑む。
「祖父は、祖母のことを愛していた。どうにかしてその心を手に入れたいと望んだほどに」
ルーファウスがあとで聞いたことによると、先王の恩寵はルーファウスのそれのように、自分の思うまま自由に使えるものではなかったらしい。それが人一倍冷静だったという先王が激しく心を乱したときに思わぬ強さで作用してしまうものだとわかったのは、恋した娘の感情を塗り替えてしまったあとのことだったという。
女神の恩寵には謎が多く、その滴りは人の手の及ばない領域のことだから、塔の研究も万全ではない。だから、時折そんな不幸がおこるのだった。
先王ははじめ、想い人の心を塗り替えてしまったことに苦悩したという。
恋した娘の隣には、幼なじみの青年がいた。先王に辺境のことをよく教えてくれた、気の好い青年だった。幼なじみの二人は周囲からいずれ結婚されると思われていて、穏やかな関係を築いていたという。
けれども、先王が恋した娘は栗色の髪をした幼なじみの青年を忘れた。
大切にしていた押し花の栞も、可愛い髪留めも青年からの贈り物だった。日記には、いつだって青年のことが書いてあった。なのに、全部忘れてしまった。
青年に向けられていた気持ちをそのまま注がれるようにして、先王は恋した娘を手に入れた。
一生に一度の恋だった。どこまでも身勝手で、愚かしい恋だった。それでも、幸せだった。……先王の恩寵の影響を受けない幼いアデリアナが、そうとは知らないまま透明な綻びを突いてしまうまでは。
青年や周囲の人々が何を言っても、恩寵の力によって恋を忘れた娘は自分の信じた心を大事にしたという。だから先王に嫁いだ。物語のような恋だった。
でもたったひと言で思い出して、物語の魔法は解けた。そして気づかされてしまったのだ。長年傍らにいた夫が、自分の心を奪ったことを。自分の大切な恋を塗り潰して、そのことを知りながらずっと隣にいたことも。
「祖父はたぶん、覚悟だけはしていたのだと思う。女神の恩寵は人の意思が及ぶことではないからね。でもその瞬間、どうしようもなく気持ちが膨れあがってしまったんだと思う。自然なことだと思うよ。でもそれは、幼いあなたに向けていいものではなかった」
「だから、覚えてなかったのね?」
「そう。祖父はあなたが私に近づくのを嫌がった。たぶん、私がいつか恋をして、同じように無理やり人の心を手に入れたら、あなたに覆されると思ったんだろう。そんなことはなかったのにね。私が好きなのはあなただったし、私の恩寵はあなたにだけは効かないのに。だけど私の恩寵のことは、祖父にも詳細には知らされてはいなかった。老いた王が孫の恩寵を利用した先例があったから、最低限の話ししかされていなかったらしい」
――おまえが、おまえがあの子に近づくのは許さない。
アデリアナは、悲しい怒りの声を思い出した。
あの声は、ルーファウスの祖父のものだったのだ。
「祖父はあなたに、呪いをかけた。あなたが私に近づくのも、恋をするのも許さないと」
――だから、ルーファウスへの想いを自覚したら、あんなに胸が苦しかったのだ。
アデリアナは胸元に手を触れる。好きと思っただけで辛くなったこと、好きとはっきり口に出そうとすると喉が塞がれてしまったように何も言えなくなってしまったこと。すべて、附に落ちた。
ルーファウスは嘆息して、絞り出すようにごめんと言った。けれども、アデリアナを見なかった。アデリアナがどんな顔をしているのか知るのを恐れているように。
アデリアナが口を開こうとすると、ルーファウスはその一瞬を奪うように重ねて語る。
「恩寵の相性のせいかな。幸いなことに、あなたは私のことを忘れないでいてくれた。もし忘れてしまったらもう一度一から始めるつもりでいたけれど……あなたが忘れたのは、離宮での思い出と、あなたが恋物語を読んで育てていた淡い憧れだった」
ルーファウスはゆっくりと、静かに数え上げてみせた。
「十のあなたには、まだ恋とははっきり呼べないようなやわらかい気持ちがあったよ。夢に出てくる王子様が憧れだと言っていた。女神の花園入りに憧れて、いつか自分も窓から連れ出してもらいたいって言っていた。私にときどき王子様ごっこをさせて、手のひらにくちづけさせて、いつか素敵な恋をするのだと楽しみにしていた。
……でも、そんなことはまったく言わなくなった」
何も言わないでほしい。そう思われていることが分かって、アデリアナは口を閉ざしたままでいた。
「祖父を愛していたよ。でも、恨んだ。あれだけ人の気持ちを大切にするよう私に厳しく説いた人だったのに、私の一番好きなひとから恋を奪ったから」
ルーファウスはアデリアナの手をそっと持ち上げて、彼女の膝の上に置いてくれる。触れていたあたたかさが離れて、アデリアナはさみしくなった。
「私は、たとえ私に恋をしてくれなくても、あなたに恋をしてほしかった。やわらかくて優しくて、素敵なことだよ。あなたが本当にしたくないのならそれで構わないけれど、祖父がしたのはそういうことじゃなかった、はじめから無くすことだった。あなたは楽しそうに恋の物語を読むけど、自分のこととしては思わなくなっていた」
噛みしめるようにゆっくりとそう言って、ルーファウスは両手で顔を覆った。
泣いているのではなくて、表情を見られたくないと思っているような仕種だった。
「……祖父と祖母はね、あれから長い話し合いをした。時間がかかったけど、最後には幸せそうだったよ。よかったと思っている。でも、祖母を追うように祖父が死んだとき、私は悲しかったけど、少しだけ嬉しかったんだ。もしかしたら、あなたの呪いが薄まるんじゃないかと期待した」
悲しくなって、アデリアナはルーファウスの腕に触れた。
たぶん、幼いアデリアナは軽率だったのだろうと思う。恩寵はいいものばかりを見せるのではなかったから、扱いには慎重にならないといけないのだ。十歳の頃、学舎に入る前に塔での指導が入ったのは、たぶん離宮でのできごとがきっかけなのだろう。
でも、アデリアナはもう先王にも先の王妃殿下にも謝ることができない。
先王が決してアデリアナに謝ってはくれないように、もういない人には何もできない。
自分がかつてしてしまったことについて、思うところがないわけではない。
それでも、もうしてしまったことが取り返せないのなら、目の前の人を大切にしたかった。
「ルー、お願いだから自分をいじめないで。あなた、言ったじゃない。お爺さまと一緒よ、そういう気持ちになるのは自然なことだわ。あなたがわたしに言ったように、あなたは悪くないの」
それでも、ルーファウスはアデリアナを見ない。頑なな両手に触れて、指を一本ずつ剥がすようにしてやると、ルーファウスの傷ついたような顔があらわになる。
「……あなたを」
ぽつりと、かたちのよい唇が呟いた。
透明な表情をたたえた瞳が、アデリアナの顔を撫でるように見つめる。
「あなたを、諦めきれなかった。あなたが私を好きになってくれたならきっと苦しめるとわかっていて、でも、私を好きになってほしかった」
いとおしさと、それからやわらかい痛みがこみ上げて、アデリアナは泣きそうな気持ちになった。
こんな気持ちは、いままでアデリアナが自分のものとしては知らないでいたものだ。本を読んで、素敵な恋物語に心をときめかせる気持ちとよく似ているのに、でもやっぱり少し違う。
好きなひとができる甘やかさとさみしいような切ない気持ち。それは、確かにいままでアデリアナが自分には訪れないと、不思議なほどにかたく信じていたものだった。
それで、アデリアナには決心がついた。
まだ、恐かったけれど。でも、と思う。
「ルーファウス、ねえ聞いて。わたし、恋を知ったわ。あなたが諦めないでくれたから」
アデリアナは囁いた。
ルーファウスの頬を手で挟んで、指の腹であたたかい頬を撫でた。
「――だから、わたしにもっと恋を教えて」
そのとき、遠慮がちに扉が叩かれる音がした。でも、アデリアナは知らない振りをした。
抱きよせられながら顔を近づけて、自分からくちづけた。
やさしく唇が離れて、ルーファウスが照れくさそうに笑う。
ありがとう、そう囁かれて抱きしめられた。ほっとして、アデリアナは広い背中を抱きしめ返す。そうすると、もっと深く腰を抱き寄せられた。包むように身体をすっぽり覆われて、アデリアナは目を閉じる。
ずっとここにいられたのなら幸せなんだろうなと、遠くの方でそう思った。
やわらかくて幸せで、ほんのり切なくて。そんなやさしい気持ちに、アデリアナは息をつく。
「あなたが好きだよ。少しずつでいいから、一緒に呪いを解かせてほしい」
アデリアナは頷いた。そうして身体を離しながら、ルーファウスを見上げる。
もうこの恋を手放さないと決めたから、アデリアナには言わなければならないことがあった。
「……あのね。また別の日に、こんどはわたしの秘密も聞いてくれる?」
「うん。あなたが話したいと思ったときに聞かせて」
アデリアナは微笑んで、扉の外へと声を掛ける。
だが、扉は開かないままだ。首を傾げるアデリアナの髪をルーファウスが撫でる。
「クリスを呼んだんだ。呪いについては、ずっと彼に相談していたから」
「クリス先生を? まあ、そうだったの」
立ち上がったルーファウスについて、アデリアナは扉へと歩み寄る。
ルーファウスが扉を開ける一瞬前、アデリアナは恩寵の力が震えるのを感じた。息を潜めて幻影の訪れを待ったが、けれども何も見えない。
「クリス? 待たせたね」
開いた扉の向こうを見て、アデリアナは瞬いた。
そこには、アデリアナも親しくしているクリスがいた。リゼリカたちが身につける薬衣と似たゆったりとした上衣を身につけたクリスは、その精悍な横顔を強ばらせたようにしている。
硬く唇を引き結んだクリスの視線をたどると、そこにはイゼットがいた。
クリスの後ろでは、ジェラルドが困惑した表情を隠せないでいる。反対に、イゼットの後ろにはシェーナがいて、助けを求めるようにルーファウスを見た。
「クリス、どうかしたかい」
シェーナの視線といやに落ち着いたルーファウスのことばに、アデリアナはうっすらと悟った。
――これは、ルーファウスが仕組んだ出会いなのだ。
そのことがクリスにも分かったのだろう。塔の研究者たちを取り仕切る長である青年は、ルーファウスをいまいましげに睨んだ。ジェラルドが警戒して腰の剣に手を掛けようとするのを、ルーファウスは手を挙げて押しとどめる。
「……クリス? ほんとうに、クリスなの?」
イゼットの震える声がぽつりと落ちて、アデリアナは思い出す。
針の時間に見た幻影で、イゼットは泣いていた。傍にいた人の顔はよく見えなかったが、いまならわかる。あの人物は、塔の研究者が纏うお仕着せを着ていた。あれはたぶん、クリスだったのだ。
イゼットは、いつも落ち着いたその面に静かな驚きを滲ませて、ややあって物憂げな睫毛を揺らすように瞬いた。その目元に光るものがある。
「なぜ? あなた、死んだって……。塔にいたの?」
イゼットのことばに、アデリアナはルーファウスを見る。
ルーファウスは、穏やかにアデリアナを見つめ返した。
「……どなたかとお間違えのようです。私は塔の人間です、俗世に縁を持ちません」
一切の表情を消してことばを返したクリスが、イゼットに丁重に礼をして顔を背けた。
それまで呆然とクリスを見ていたイゼットは、置いてきぼりにされた子供のような表情をした。傷ついた顔だった。そうして、ふとアデリアナとルーファウスに視線を寄せて、ちいさく後ずさる。
「あの、失礼いたしました。私、アデリアナ様に明日のことでお話があったものですから……」
いつもの慎ましい公爵令嬢らしい顔を無理やり作って、イゼットは微笑んだ。けれども、その目尻からは堪えきれなかった涙がこぼれる。
「イゼット様……」
アデリアナが声を掛けると、イゼットは指先で涙を押さえて、ぎこちなく膝を折る。そうして、ぱっと身を翻して隣の部屋へと入っていった。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。ややあって口を切ったのは、ルーファウスだった。
「クリス、追いかけなくていいのかい。私とアデリアナなら待っているけれど」
ルーファウスは薄く笑んだまま、クリスを見ている。
それは、王太子らしい顔だった。清く正しく気遣うようでいて、どこか酷薄な為政者らしい顔だった。
クリスは苦々しそうに顔を歪めて、ルーファウスを見返した。
「ルーファウス、お前のそういうところが俺は嫌いだ」
「だろうね。でも、私はクリスのそういうところが好きだよ」
あっさりと返されたルーファウスのことばに、クリスは長く長く嘆息して首を振る。
「クリス先生、わたしたちはあとでいいのよ。イゼット様、お可哀想だわ」
「いや、いい。俺は家を捨てた。……それに、お前たちの話が先だ。国の今後にかかわる」
そう言って、クリスは鳶色の髪をかき回すように乱しながら居室の中へと入っていく。
ルーファウスは何も言わないが、イゼットとの散歩は塔の庭園だったというし、意図にしたことなのだろうとすぐにわかった。
……もしかすると、花園入りの娘たちへする個人的な御礼のつもりなのかもしれない。あの様子では、御礼になるのかは怪しかったが。
どうやら、イゼットはクリスの消息も知らなかったらしい。そして、イゼットが持つ陰りはおそらく、クリスとの関係が原因なのだ。
今の段階では、ルーファウスを責めるには情報が足りない気もする。アデリアナは事情も知らない部外者だからだ。けれど、イゼットは悲しそうだった。見ていただけでも胸が痛むくらいに。
(たぶん、イゼット様はクリス先生のことがお好きなんだわ)
そう考えると、アデリアナにはひと言も言わないでいるのは難しかった。
アデリアナも、恋を知ってしまったから。
「ルー。イゼット様のこと、もう少し考えてさしあげて」
「考えてるからだよ、アデリアナ。私を叱りたいだろうけれど、もう少し様子を見て」
アデリアナはため息して、シェーナにお茶と何か甘いものを持って来てくれるよう頼んだのだった。
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