第14話 彼女の秘密
――色とりどりの花で飾られた場所で、娘たちが笑いあっている。
ああ、また……。
ぽつりとそう思って、アデリアナは気づいた。夢だと自覚しながらこの夢を見るのははじめてだわ、と。
はじめてこの夢を見たとき、アデリアナはまだうんと幼かった。
まだ自分にも恩寵があるとは知らず、物語を読み聞かせてもらった日に見た夢だったから、もしかしたら作家の才能があるのかもしれないだなんて他愛のないことを思っていた。
――花園入りも、もう終わりですわね。さみしいこと。
――わたくし、もっと続けていたかった。
さやさやと立つお喋りは、この春までは誰の声なのかわからなかった。でも、いまは知っている。毎日顔を合わせている娘たちの声だった。どきりとして、アデリアナは暗がりが光に照らされるようにして静かに広がりゆく視界に目を走らせる。
いつになく詳細に目に入る夢の中の光景に、アデリアナはため息をついた。
透明な石を削り出して造られた燭台が、光を吸い込んできらきらと壁に揺らめく影を落としている。その壁に飾られたタペストリーに織られた模様と白い柱に刻まれた蔦の意匠、それからつややかに磨かれた石の床に描かれた花模様で、いまのアデリアナにはそこが離宮の大広間だとわかった。
清潔な白のクロスに大人びた花の色をした細いランナーを重ねた円卓には、それぞれにみずみずしい花がたっぷりと生けられた花瓶が置かれている。花瓶には精緻な刺繍で彩られたリボンが巻かれており、ナフキンにもお揃いのリボンで飾り結びがなされていた。
ふと意識が吸い寄せられた先に誰がいるのかは、もう何度も見た夢だからわかっていた。
肩から胸元にかけて金糸を編んだ
はじめてこの夢を見たときの幼いアデリアナは、まだルーファウスと出会っていなかった。彼とは知らないままに、その端正な面立ちや気品ある立ち姿に見とれたものだった。
もし恋をするなら、こんな人がいい。幼いアデリアナがそう思ったのも、無理はない。だって、ルーファウスはこんなに素敵な人なのだから。
今思えば、その頃のアデリアナには、まだやわらかな恋への憧れがあったのだと思う。気づけばそれは彼女の中から溶けるようになくなってしまったのだけど、たぶん、アデリアナの初恋は夢の中の王子様だった。いつか女神のように、自分にとってのたった一人を見つける。そんなほのかな憧れを、夢の中にいる王子様に抱いていた。
ルーファウスは、こちらを――夢の中のアデリアナを見て、何か言っているようだった。
囁くように落とされることばをこそばゆく聞きながら、夢の中のアデリアナはグラスを置こうとして、それに気づくのだ。
あ、と声を挙げることもできなくて。
夢の中のアデリアナは、ただ、隣にある身体を庇うように抱きつくことしかできなかった。
でも、それでよかった。
お腹のあたりに、どん、と重たくぶつかるものがある。まず熱さを、その次に痛みを感じた。身体が傾いで、夢の中のアデリアナはあたたかい腕に抱き留められる。霞む視界に、白い礼装が血で汚れているのが見えた。
怪我をしてない? 夢の中のアデリアナは、そう訊ねる。いつも。そしてすぐ、ああなんだ、わたしの血が付いただけなのだと気づいて安堵するのだ。いつも、そう。
そこで死ぬのがいつかの自分だとわかったのは、ルーファウスと知り合ってしばらく経った後のことだった。悲しくなかったと言えば、嘘になる。アデリアナだって、死ぬのは恐い。進んで死にたいとは思わない。
夢を見たあと、何度泣いたことだろう。恩寵のことは誰にもうち明けることはできなかったから、家族にも言えなかった。ただ一人、冷えた寝台の上で縮こまって自分を抱きしめて、まだその時は遠いはずだとくり返し念じていた。
少しずつ時が過ぎて、ルーファウスが夢の中の王子様へと近づいていくにつれ、アデリアナは眩しさとともに切なさを感じるようになった。同時に、やがて訪れるだろう未来に納得してもいた。
なぜって。くり返し見る夢の中で、アデリアナはこの時、いつも泣きそうに安らいだ気持ちになるからだ。
(いいの。わかっていたから。……あなたが無事なら、それでいい)
そう強く、祈るように願って、いつも夢は終わるのだ。
――だが、今回は違った。
夢の中のアデリアナから、ぬるりと引き剥がされるようにして意識が切り離される。
まだ夢が続いていることに気づいて、アデリアナは床に横たえられた自分の青ざめた頬を見つめた。ルーファウスに名前を呼ばれてやんわりと瞬いた瞳が、つとこちらを見る。
それは、人形のように虚ろな瞳だった。そこにわずかに残っていた光が、アデリアナを見つめた。
青ざめた肌の中で、そこだけ色づいているかのような唇が微かに動く。
――ほんとうにいいの? あなた、死ぬのに。
暗闇に突き落とされたような感覚に襲われて、アデリアナの意識は目覚めた。
ふわふわと揺られているような浮遊感とぼやけた視界が恐ろしくて、無意識に彷徨わせた腕があたたかいものを探り当てる。縋りつくように抱きつくと、宥めるように名前を呼ばれた。
「え? あっ、きゃっ」
小さく叫んで、アデリアナは身じろぎする。足元が心許ないのは、浮いているせいだ。
アデリアナは、ルーファウスに横抱きにされていた。アデリアナの腕が巻き付いているのはルーファウスの首筋だ。ルーファウスの腕が抱きかかえるように背中と膝の下に通されている。
そこまで認識したところで、アデリアナは自分が意識を失ったのだろうことに思い至る。
きっと、どこかに運んでくれようとしているところなのだろう。慌てて腕を胸元に引き寄せると、アデリアナの様子を注意深く窺っていたルーファウスが噛んで含めるようにゆっくりと声をかけた。
「あなたが倒れてから、まだそんなに経っていないよ。いまから診察してもらおうと思っていた。大丈夫? 苦しいところはない?」
ぬるく汗ばんだ頬を風にやさしく撫でられて、アデリアナはまだ王族の庭園にいるのだと気づいた。視線を彷徨わせると、鳥籠の四阿が遠くに見えた。ルーファウスが呼んだのだろう、すぐ傍に気遣わしげにこちらを窺うジリアスがいる。
首をめぐらせると、庭園に面したサロンへと続く扉が開け放たれていて、その向こうには白い薬衣を纏った王城の医師が控えている。
「……大丈夫、もう苦しくないみたい。下ろして、自分で歩けるわ」
「だめだよ、大人しく揺られておいで」
ルーファウスはアデリアナを抱きかかえたまま数段階段を上り、サロンへと足を踏み入れる。見覚えのある長椅子の上にゆっくりと身体を下ろされて、ああ、とアデリアナは思い出す。
ここは、王族の私的なサロンだ。ルーファウスと王族の庭園で遊んだあとは、ここで彼の乳母が用意してくれるおやつを食べるのが楽しみだった。
「ご無沙汰しております、姫様。図書館でお会いして以来ですね。この頃医学の書架でお見かけしなかったので、さみしく思っておりました」
アデリアナの前に膝を付いたのは、まだ少ない女性医師の中でも一番名を知られた医師長のリゼリカだ。
辺境伯の長女であるリゼリカは、先王の時代にあった戦の名残で薬学が発展した土地に育ったことで、医学を志したと聞く。顎の下で涼やかに切りそろえた褐色の髪に、裾の長い薬衣の下に腰の位置が高い細身のキュロットを穿いたその出で立ちは進歩的で、王城で働く女性の憧れの的だ。リゼリカの髪が短いのは単純に衛生面を考慮しての合理的な判断だそうだが、女官や侍女の中には彼女に倣って髪を切った者もちらほらいると聞く。
アデリアナとリゼリカは、王城の図書館で出会って以来、時折顔を合わせれば会話を交わす仲だった。リゼリカははじめ、真剣な面持ちで解剖学の本を開いていたアデリアナを医学生と思って声をかけてくれたのだ。アデリアナが医学生でもなんでもなく、推理小説に出てきたやけに詳細な描写が気になって手を伸ばしたのだと知ると苦笑していたが。
「リゼリカ様、わたしもお会いできて嬉しいですわ。……あの、でも、たいしたことでは」
「それを見極めるのが私の仕事ですので」
ジリアスが繊細な木の彫刻と磨り硝子を組み合わせた衝立を広げて、長椅子の横に立てる。そうして、すみやかにその後ろに消えた。
リゼリカはふと笑みを消すと、切れ長の目でアデリアナの隣を見据えた。
「王太子殿下もですよ。ご心配なのはわかりますが、衝立の向こうへどうぞ」
アデリアナの手のひらを握っていたルーファウスは、見間違いでなければ嫌そうな顔をした。だが、若くして王城の医師を取り仕切るリゼリカは、王太子に阿ることはしない。
「淑女の肌を御覧になりたいと?」
ルーファウスは、そんなつもりではないと言ってため息する。そうして、アデリアナのこめかみに唇を寄せてから衝立の向こうへと消えた。その気配をたどるように視線で追ったアデリアナの様子を見て、リゼリカがくすりと笑みを漏らす。
「お顔の色が少しよくなりましたね」
アデリアナは、じわりと顔を赤らめた。
リゼリカはおそらくルーファウスによって緩められていた襟元のリボンを解き、アデリアナのドレスを静かに脱がしてくれる。痛みは消えていたものの、コルセットを緩めてもらうと身体のこわばりがほどけるのが分かった。
「念のためにお訊ねしますが、不埒なことをされたわけではないのですよね? 王城で貴族のお嬢さんが倒れるのは、だいたいそのせいなのですが」
率直なリゼリカの物言いに、衝立の向こうでジリアスが「殿下?」と疑う声が聞こえてしまい、アデリアナは大変いたたまれなくなった。慌てて、リゼリカに首を振る。それで、肌の上を検分するように見られていた理由がわかった。
衝立の向こうでルーファウスは至極冷静に否定していたが、アデリアナとしてはまったく不埒でないと言われるのもなんだか違うように思われた。だって……あんなにたくさん、キスをしたのだ。
「違います。その、少し胸が痛くなったというか……。あの、そんな不埒なことがありますの? 王城ですのに」
「ご安心を。婚約者や恋人との間のことで、主に恥じらいが原因です。もちろん同意がない場合は、厳重に処罰されます」
リゼリカは薄い笑みを崩さないまま、しばしアデリアナを観察するように見つめていた。
アデリアナはどぎまぎする。ややあって、リゼリカはアデリアナの目の下をひっぱるようにして眼球を見、喉を覆うように触れた。胸に聴診器をあててしばらくして、いいでしょうと頷いた。
コルセットを緩めたままドレスを着るのを手伝ってもらいながら、アデリアナはリゼリカに気持ちが落ち着くお茶を処方すること、お湯に浸かってもいいがぬるめにするようにと言われて、それから頭痛がしたときに飲む薬について説明を受ける。
「今日のところは、ひとまずそれでよろしいでしょう。もしご不調が続くようであったり、少しでもご不安でしたら必ずお知らせください。……あと、余計なお世話かもしれませんがこちらもどうぞ」
さらさらと目の前で書きつけられた紙片とともに小さな瓶をさしだされて、アデリアナは首を傾げる。受け取ってそこに綴られた文字を読んで固まったアデリアナに、ご不要ですか? とリゼリカが笑った。
無言で首を振ったアデリアナが小瓶を隠しにしまいこむ間、リゼリカは薬箱を開いて茶葉を調合していた。ジリアスに声を掛けて衝立を畳ませたリゼリカは、処方したお茶と頭痛薬をアデリアナに手渡して、ではと軽やかに礼をして去った。
近づいてきたルーファウスが膝をついて視線を合わせてくれるのに、アデリアナは少しだけぎくしゃくしてしまう。その様子に瞬きながらも、ルーファウスはアデリアナの髪をかきやって顔色を確かめるように肌の上を見つめた。
「もう少し、ここで休んでいこうか。今日はこの上で
この上とは、王族の私室がある階のことを指している。
何とも言えない微妙な顔をしているジリアスが反対する前に、アデリアナは首を振った。この上に客間があるとは知っていたし、ルーファウスが親切心で言ってくれていると分かってはいたけれど、今日は図書館の窓から連れ出されたのだ。もし、その後すぐ王族の客間に泊まったことが知れ渡れば、外聞がわるいどころではなく大変な騒ぎになってしまう。
「ありがとう。でも、大丈夫。花園に戻るわ。送ってくれる?」
ルーファウスはそれでもまだ心配そうな顔をしていたが、アデリアナが引かないのを見て取ると、しぶしぶといったように頷いた。
そこでルーファウスがふたたびアデリアナを抱きかかえようとしたのでひと悶着あり、サロンを出るまでにはもうしばらく時間がかかってしまったが。
サロンでの抱いて運ぶ、いいです、いややっぱりという言い合いは、庭園を通って離宮へと戻る道すがらも続いた。
小声で「できないわ」「できる」と囁きながら、アデリアナはどんどん早足になってしまう。心情的なものもあるが、いまは胸の痛みもないし、王城から離宮までは人を抱きかかえたまま歩けるほどの近さはしていないと思うのだが。
少し離れてついてきているジリアスがどんな顔をしているのかは謎だったが、いまのところ笑い声は聞こえてこなかった。
「あなたが思っているほど私は柔ではないし、王城と離宮はそう離れてないよ」
「んもう、あなたが力もちなのはわかったわよ。心配してくれてることも。ね?」
「じゃあ、せめて手をつないで」
離宮へと続く回廊にさしかかってまで手を繋がなくともいいと思うのだが、ルーファウスは手をさしだしたまま立ち止まって動かない。
あとちょっとよ、と言ってみたが、ルーファウスは機嫌を損ねた犬のように頑なだ。間隔を空けて並ぶ近衛騎士たちの視線が集まるのを感じて、アデリアナはさしだされた手に自分のそれを重ねようとして――ため息する。
「手をつないだら、あなたが知っていることを話してくれる?」
アデリアナには、あの四阿で感じた痛みについてルーファウスが何かを知っているという予感があった。あの痛みに苛まれていた短い間、ルーファウスが謝っていたことをアデリアナは忘れていない。だから、ふたりきりになったらその話を聞くつもりでいた。
でも、きっと居室に着いたら、ルーファウスはアデリアナの身体を気遣ってよく眠るようにと言うに違いなかった。だから、こうして条件をつけたのだ。
その予想は正しかったようで、ルーファウスは少し困ったような表情をする。
「あなたに話をするのは、明日のほうがいいかと思っていた。身体に負担だろう」
「気遣ってくれるのは嬉しいけれど……わたしはいやよ、このまま眠るなんて。気になって眠れるわけがないでしょう」
ルーファウスは、アデリアナの瞳や頬を丹念に見つめて、心配そうな顔をする。
倒れてもいいから先に話を聞きたいと言ったら、どうなるだろう。アデリアナがそんなことを考えていると、ルーファウスは静かに訊ねる。
「ちなみに、いま手をつながなくていいと言ったらどうするの?」
「三日はわたしに触れないでって言うわ。手をつなぐのも膝枕もダンスも、ぜんぶだめ。仲良くお喋りするだけよ」
「そんなのいやだよ。絶対に嫌だ。辛すぎて耐えられない」
即答だった。
はー、とため息して、ルーファウスが「……いや、あなたが嫌なら触れないけど」などと呟く。近くにいた知った顔の近衛騎士が、そんな王太子から礼儀正しく顔を背けたのをアデリアナは見てしまった。その口元がむずむずと緩んでいることも。
「……ただ、あなたのことが心配なんだよ」
「わかっているわ」
そうしてふたりはしばらく見つめあっていたが、先に折れたのはルーファウスだった。小さく頷いて、無理をしたら強制的に寝かせるからと囁かれる。
頷いたアデリアナはおもむろにルーファウスの手を掴んで、ぎゅっと握った。そのまま先導するように歩き出しながら、アデリアナは自分の頬がほのかに熱いことを自覚する。
自分からルーファウスの手を握るのは、ひどく久しぶりのような気がした。昔はそんなに意識されるようなことではなかったはずのに、少し緊張してしまう自分がいた。
ちらりと振り返ると、ルーファウスが応えるように微笑みかけてくる。
(……どきどきしているのは、わたしだけみたい)
そんな拗ねるような気持ちとともに、アデリアナの胸にはもう一つ見逃せない思いがあった。それは、どこか後ろめたいような気持ちだ。
ルーファウスに好きだよと優しく心を伝えられて、触れられて。自分の中にあった気持ちに気づいて、好きだと告げてしまった。……キスだって、たくさんした。
なのに、アデリアナはルーファウスを悲しませるとわかっている秘密を持っている。このまま黙っているのは、ずるいことだ。誠実ではないと思う。だから、アデリアナもうち明けなければと思う。でも……。でも、アデリアナはどうしようもなく恐かった。
後ろでルーファウスがジリアスに小声で何かを言いつけているのが聞こえたが、思い悩むアデリアナにはその内容を気にする余裕はなかった。
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