第9話 届ききらないくちづけ
ルーファウスが目を覚ましたのは、アデリアナが淡い花の色をした糸を板紙にぐるぐると巻きつけてタッセルを作っている最中のことだった。
アデリアナは黙々と糸を巻き、輪になった糸の束を板紙から外してその中央をきゅっと結ぶ。半分に折った束の上部を別の糸でくくり、房の頭の部分を作る。輪になったところを鋏で切り、紙でくるくると巻いてはみ出した糸を整える。
ルーファウスの提案で、思っていた以上に手が掛かるものへと仕上がりそうな針の課題に使うため、アデリアナは糸の巻きと長さを揃えたタッセルを作りつづけていた。
あと少し作れば数が足りそうというところで、アデリアナの周りをきらきらと飛びまわっていた光の蝶が頬を撫でて、とろけるように消え失せた。それは、アデリアナにとっては見慣れたルーファウスの目覚めの合図だった。
「起こしちゃった?」
作りかけのタッセルと鋏をテーブルへ置いて、アデリアナは囁いた。
アデリアナの膝の上でぼんやりと瞬いていたルーファウスは、しばしの間、微睡みの名残に遊んでいた。
少しして意識がはっきりとしてきたルーファウスは、ふと首をめぐらせて窓の外を見て驚いた。
「……いいや、ありがとう。ずいぶん長く休ませてもらったみたいだね」
すでに時間は夕方を過ぎており、空には夜の帳が降りている。
ゆっくりと身を起こしたルーファウスが襟元を整えている間、アデリアナは先程シェーナが届けてくれたばかりのお茶を注いだ。まだ、充分あたたかい。ふわりと立つのは、疲労に効く薬草と花を合わせた爽やかな香りだ。
室内には、ふたりのほかには誰もいない。
差し出された紅茶に口をつけたルーファウスは、うーんと伸びをしたアデリアナに苦笑した。
「ずっと同じ姿勢で疲れただろう。目が覚めたときにあなたがいて嬉しかったけど、無理しなくてよかったんだよ」
「クッションにすり替えていたら、あなた拗ねるでしょう? ありがとうだけでいいのよ」
「うん……」
アデリアナは笑って、ルーファウスの髪を指で整えてやる。
夕食の時間を若干過ぎているがあとで温めてもらうことになっているし、お三時をいただいたからあまりお腹は空いていなかった。ルーファウスについても、特に問題はない。ジェラルドには交代時間を遅らせて護衛を続けてもらい、その代わりリックには近衛隊長宛にルーファウスの居場所を伝えに行ってもらっていた。夕食以降もとくに大切な予定はないということだったので、それならと存分に休息を取ってもらったのだった。
花園が開かれてからはほとんど初めてではないかというくらい、懐かしい沈黙がふたりを包んでいる。幼なじみとして長く過ごしたせいか、アデリアナとルーファウスの間に特別ことばは必要なかった。ただ穏やかな沈黙が過ぎる中、アデリアナは作ったタッセルをまとめて裁縫箱にしまい込み、テーブルの上にこぼれていた糸くずをまとめて避けておく。ルーファウスは、その様子を見るともなしに見ていた。
「……私の恩寵は、あなたに何かした?」
「いいえ。いつも通り、わたしの周りを飛んでいただけよ」
「アデリアナ、あなたは私が恐ろしくはない?」
そこでアデリアナは手を止めて、ルーファウスを見た。
静かにさしのべた手のひらでその頬に触れ――誰もいないのをいいことに、力をこめて頬を挟んだ。
「った、」
「ルーファウス、どうして信じてくれないの。何度も言ったわ。知っているでしょう? わたしには、あなたの恩寵は効かない。わたしにとって、あなたのそれはきらきらして素敵な何か、それだけよ」
アデリアナは、噛んで含めるようにゆっくりと囁いた。声の小ささに反して、そのことばには、ひとつひとつ噛みしめるような強さが込められていた。
「あなたの恩寵なんて、わたし、ちっとも恐くない」
アデリアナの脳裡に、先日ルーファウスが言ってくれたことばが蘇る。
ルーファウスは、アデリアナがアデリアナだから好きだと言ってくれた。
じゃあ、どうして。もしルーファウスがルーファウスでなかったら、アデリアナだって傍にいたいとは思わないのだと分かってくれないのだろう。
……分かっている。恩寵のせいだ。アデリアナは唇を噛みしめる。
好きになってほしいと懇願するように言うルーファウスは、恋物語や噂話でよく耳にするような強引さをアデリアナに振る舞おうとはしなかった。
彼は王太子なのだから、その生まれ持った身分で何もかも命じてしまえばいい。強引に、アデリアナを自分のものにしてしまえばいいのだ。それが出来るのだから。だのに、ルーファウスはそれだけはしなかった。少なくともアデリアナにはそうしたくないと思っている理由を、彼女は知っている。
その気になれば何でも、そう、何でも自分の意のままにできてしまえるルーファウスは、そのことに倦いているのだ。
ルーファウスのきららかな瞳は、その輝きを通して見つめられた人の精神に作用する。それが、ルーファウスに与えられた女神の恩寵だった。
その力がどのくらい細かく、あるいは広く働くものなのか。いったい何が出来て、何ができないのかということについて、詳らかなところまではアデリアナも知らない。ただの幼馴染みには知ることを許されなかったからだ。
ただ、いくつか分かっていることはある。
幼い頃、アデリアナと出会うまで、ルーファウスは自分の望みが叶えられないかなしみを知らないでいた。使い方もそれがどういうものかも分からない頃から、ルーファウスの恩寵は小さな身体に収まりきることを知らなくて、絶えず溢れてはきらめいていた。制御されることのなかった恩寵は、ルーファウスの意思のほかで周りに無意識のうちに望みを叶えさせていたという。
ルーファウスの恩寵が人の精神に作用するものだということが分かりはじめると、王家は塔に依頼して彼に恩寵の制御を教え込むと同時に、「王太子のご学友」探しに明け暮れた。まだ自我のはっきりしていない子供には、恩寵の力が届きにくいことがわかったからだ。
アデリアナは、そんなふうにして何度目かに開かれたルーファウスのご学友探しの場に連れていかれたのだった。現実と夢の境目の区別がまだつきづらかった幼いアデリアナは、そこで本を読んでいた。そうして、彼女がひとりぽっちでいることを気にしたルーファウスの申し出を、あっさりと断った。アデリアナがしたのは、それだけだった。
たったそれだけで、アデリアナはルーファウスの恩寵が効かないことを示したのだった。
ルーファウスに見つけられたアデリアナは、塔へと連れていかれた。
はじめはルーファウスの恩寵との相性をひたすら比較研究される毎日だったが、ある日、アデリアナにも恩寵の滴りがあることが明らかになった。兄のディクレースが、アデリアナに次いでルーファウスの恩寵の影響を受けなかったのも、アデリアナの存在が関わっているらしかった。そのため、表向きはルーファウスと同い年のディクレースがご学友となり、アデリアナはその妹としてルーファウスに関わることが決められた。アデリアナがご学友にならなかったのには、王太子の許嫁が早々に決まったという憶測が出るのではと危ぶまれたからだった。
ルーファウスとアデリアナの恩寵は、ほんの少し、わずかに似通っている。
そのわずかな重なりがあるゆえに、アデリアナにはルーファウスの恩寵がうまく作用しないのだと塔の研究者たちは結論づけた。
とはいうものの、アデリアナにはルーファウスのように人の心を動かすような力はない。
彼のように、幼い頃からただしく在ろうと自分を律して、誰もが望むような王太子になろうと努力しなくてはならないと自らを追い詰めてしまうような……そんな、人に多大な影響を及ぼす力はなかった。彼の痛々しいまでの、年齢不相応に己を自律しようとする振る舞いは、傍で見ているアデリアナを密やかに悲しませた。ルーファウスは、その身に余る恩寵を悪意でもって利用するような心根の持ち主であったほうがよかったのかもしれない。そう思ってしまうくらいに。
アデリアナの恩寵は、ただ見つめる力だ。ルーファウスと同じく瞳を介して顕れる恩寵は、彼のそれと比べると何もできないようなものだった。
ただ、アデリアナは様々なものを見る。見せられる、と言った方が正しいかも知れない。アデリアナはふいに目の前に現れるものを、ただ見ているに過ぎない。それはたとえば、本や書類に書かれたことの真偽が何となくわかる感じがすることだったり、夢や幻影であったりする。時には、人には迂闊に言えないものを見ることもあるが、その程度のものだ。
アデリアナにはたったひとつだけ、自分の意思で見つめられるものがあった。
それがたまたま、ルーファウスの恩寵だった。それだけだ。
ルーファウスの恩寵は、先程のように身の内から溢れ出るほどまでに至らなければ、他の人の目に見えることはない。でも、アデリアナにはいつだって、ルーファウスは意図的に、あるいは無意識に恩寵を遣うきらめきがよく見えた。だからたぶん、ルーファウスの恩寵の力が効かないのだろう。
そのことは、確かにルーファウスを救ったのだと思う。
恩寵の力を制御できるようになるまで、ルーファウスは人と話すのを密かに恐れていたという。自分が、相手の意に染まないことを強いてしまうのではないかと警戒していた。まだ幼い子供がだ。
アデリアナは心に適わなければいつだってルーファウスの言うことを拒んだし、王太子殿下だからといって
「はじめてあなたに求婚したときのことを覚えてる?」
「塔でのことよね。懐かしいわ」
そっと囁かれるのに、アデリアナは頷いた。
ルーファウスは、ぽつぽつと懐かしい思い出を語りはじめる。
「私はね、この世に産み落とされたときから恵まれていたよ」
まだ何も分からぬ
祝福された王太子に、周囲の人々はこの世のすべての幸いを降りそそごうとした。
そのことには、女神に愛された王族が生まれると長雨や争いが収まるなどしたかつての出来事が生んだ迷信じみた信仰が影響していた。恩寵を持っていた先王が戦を終わらせた過去が人々の記憶に新しいこともあって、幼いルーファウスには盲目的なまでの期待が寄せられたのだった。
生まれ持った穏やかな気性もあって、ルーファウスの恩寵は周囲に悪影響を及ぼすことはほとんどなかったが、愛らしく賢い上に恩寵を授かった王太子に対する周囲の反応はルーファウスの両親を密かに悩ませた。
陛下と王妃殿下がルーファウスのご学友探しに明け暮れたのは、きっと親心だったのだろう。
ご学友探しが始まる頃には既に、感情のままに振る舞わないよう塔での指導が進められており、ルーファウスには恩寵を抑制する魔術が込められた腕飾りや指輪がつけられていた。
「とはいえ、私はなにも困っていなかったよ。欲しいと思う前からほとんどすべてのものが目の前に並べられていて、取りたててわがままを言わなくとも世界は砂糖菓子より甘かったから」
それが無意識に使っているという恩寵のせいなのか判別がつかないくらいに、ルーファウスは国で一番恵まれた子供だった。だから母が危ぶみ父が心配するように、淋しくなんてなかった。……アデリアナと出会うまでは。
「私の瞳から無意識に溢れ出てしまう恩寵が効かないたった一人は、小さくて可憐で、ちょっとぼんやりした女の子だった」
あなたのことだ。囁いたルーファウスが微笑むのに、アデリアナは「ぼんやり?」と眉を下げてみせる。
「あなたは自分にも恩寵があると知らされたとき、納得していたね。自分は特別な存在なのだと嬉しがるわけでもなく、ただ得心していた」
「そう。物心つく前から、わたしはずっと夢や幻影に取り巻かれていたの。だから、小さな頃は何が現実で何が夢なのか、その境がよくわからなくて……ああ恩寵なんだわって分かってすっきりしたのよ」
アデリアナのことばに、ルーファウスはくすくすと笑った。
「私は小さな頃から特別だ、祝福だと言われ続けていたものだから、あなたの反応に驚いたことをよく覚えているよ」
「だって、わたしにとってはそれが普通だったんだもの。……それに、あなたの恩寵が効かないことを証明するために、実験させられたじゃない? そっちのほうが思い出深いわ」
ルーファウスの恩寵が効かないことを証明するために、アデリアナはひたすらわがままを言われるというという実験をさせられたのだった。幼いルーファウスが一つひとつ上げてみせる「わがまま」は、彼が気の優しい性根であったこともあり、アデリアナにとってもふたりを取り囲む研究者たちにとってもごくごく可愛らしいもので、恩寵がなくたって特に反発する気のおきないものだった。
おかげで、ルーファウスには何度も「もっとわがままに」という指示が出され、アデリアナは自分がどう思うかではなく、ただひたすら「今はだめ」とか「それはしたくない」とくり返さなければならなかった。
「なんだったかな……いっしょにおやつを食べようとか言ったんだっけ。最初に会ったとき、あなたに拒まれたから」
「そう。塔の方たち、途方に暮れてたわ。でも今思えば、あなたはそんな可愛らしいわがまましか言えなかったのよね」
それでもなんとか一通り実験を終えると、ルーファウスを見つめてアデリアナはこんなことを言った。
――ねえ、ずっと思っていたのだけど、その装身具、似合わないわ。重たくて無骨で、きれいじゃない。わたしの前では恩寵のことは心配しなくてもいいのだし、それがなくたってあなたは充分いい子よ。ほら、外して?
自分の感情を抑制する指導を受け、心を平らかにして過ごすことに慣れていたルーファウスは、惰性と戒めとで付け続けていた装身具を遠回しに趣味が悪いと言われて笑ってしまった。少しだけ、泣いてしまいそうな気持ちがしながら。
塔の研究者たちが固唾を呑んで見守る中で、ルーファウスは装身具をひとつずつ外していった。アデリアナはそれらを丁寧に受け取りながら「やっぱり可愛くないわ」と呟いて、膝の上に広げたハンカチの上に落としていった。
「あのとき、私には分かっていたよ。研究者たちが口にしないながらも、私を恐れていると。王太子だからこそ、その身の上にふさわしい分別をつけてほしいと祈るように思われていることも。だから、もう大丈夫だと言われても、装身具を外すのをためらった。何も知らない人々にとってはただの飾りだけど、研究者たちはそれが安全策だと知っていて、できればそのまま着けていて欲しいと望んでいたから」
何せ、ルーファウスの恩寵は目を見て望みを口にすれば、痛みも何も……それこそ、恩寵の光がただ人の目に映るほどに強く顕れなければ、力を使ったことすらわからないものだ。気付かないうちに自分を好きに扱えてしまう力を、危ぶまないほうが無理というものだ。
でも、そのとき。ルーファウスははじめて、周りがどう思うのかではなく、自分がしたいことのほうを優先したという。
ルーファウスがすべての装身具を外し終えると、アデリアナはハンカチをきゅっと結んで研究者の一人に渡した。そうして、振り向いたアデリアナは笑ってこう言った。
――ねえ、もっとすごいわがままを言いたくなった?
その悪戯めいた調子を装ったことばの優しさに、ルーファウスはひどく驚いたそうだ。
ルーファウスにとって、それまで優しさとは当たり前のように差し出されているものだった。でも、アデリアナのそれは知っているものとは少し違っていた。アデリアナの優しさは王太子に降りそそがれるものではなく、ただのルーファウスに向けられたものだった。たぶん、アデリアナの優しさはずっとそういうものだったのだ。ルーファウスが気付かないでいたというだけで。
幼いルーファウスが何も言えないでいるのに、幼いアデリアナは不思議そうに瞬いた。
――あなたがどんなわがままを言ったって、わたしは嫌だったらきいてあげないから大丈夫よ。
――ほんとに?
――だって、効かないもの。さっきさんざん試したじゃない。
きょとんとしたアデリアナを見て、ルーファウスは思った。
この小さな女の子にずっと傍にいてもらうためには、何をしたらいいだろう? どうしたら、ずっと隣にいてくれるだろうかと。
そうして、幼いルーファウスは正解にたどり着いたのだ。
「アデリアナ、結婚してくれる? ……これしかないと思ったのに、あなたはあっさり否定したよね」
ルーファウスが恨みがましそうな表情をするのに、アデリアナは苦笑する。
あのとき、ふたりを囲む研究者たちは悲鳴のようなどよめきのような声を上げて、アデリアナがなんとことばを返すのか固唾を呑んで見守っていた。
「わたしたちは成人してもいないのだし、そういうことは勝手に決めちゃだめなのよ。……わたし、そう言ったわ」
「そう。生まれて初めての求婚を拒まれて、私はびっくりした。そこでようやく、自分の恩寵が効かないということがどういうことかわかったんだと思う。……あなたのことが好きなんだってこともね」
ルーファウスは昔から、アデリアナが彼の申し出を断ると少なからずほっとする。アデリアナが自分の思い通りにならないことに、安堵しているのだ。
アデリアナはもちろん、わざわざ嘘をついてまでルーファウスに歯向かっているわけではない。いやなものはいやだと言うのは、自分で生き方を選びたいアデリアナにとって、欠かせない大切なことだからだ。
でも、とアデリアナは思うのだ。
恩寵がなくたって、アデリアナはルーファウスに何でもしてあげたかった。
そのただしさに包まれた優しい気持ちを、もっとみんなに知ってほしいと思っていた。
やさしくしてあげたいし、悲しそうなときには傍にいてあげたい。年頃になって恥ずかしい気持ちが芽生えても、膝枕だって何だってしてあげたかった。抱きしめて、あなたのことなんて恐くないと何度でも言ってあげたかった。大事に、したかった。
指の腹で目の下をぬぐうように触れられてはじめて、アデリアナは自分が泣いていることに気がついた。
「……あ、あなたが」
うん、とルーファウスが頷く。
その唇が、ごめんと言いたいのを堪えていることがアデリアナには分かった。いまそれを言うと、アデリアナが猛烈に怒るからだ。ルーファウスは、さすがにアデリアナのことをよく分かっている。
アデリアナが瞬くと、目の下の薄い肌には濃い睫毛が影を落とす。
その下に時に隠され、時に潜んでいる灰がかった青の瞳が探るようにルーファウスを覗き込み、やがて――射るように、強くきらめいた。
「もし、あなたがわたしに嫌われることがあるとしたら。それは恩寵のせいじゃないわ。あなたがわたしに、そうさせたときよ。……恩寵なんかで、わたしをどうにかできると思わないで」
ぼろぼろと涙がこぼれて、アデリアナの視界がぼやけて滲んだ。おかげで、ルーファウスがどんな顔をしているのかを見なくて済んだ。頬にあたる涙の粒が、熱くて痛い。
ルーファウスの香りが近づいて、やさしく睫毛に触れたものがある。
それはさっき触れた、あたたかい指ではなくて。
「……あっ、」
アデリアナの睫毛に触れたのは、ルーファウスの唇だった。
いつしか頬を包むように触れられて、アデリアナは自ずと首をもたげるようにして、顔をルーファウスへと差し出しているような格好になっていた。
涙を吸うように、唇が花びらみたいにやさしく落とされる。くり返し、なだめるように。
「あなたを軽んじたかったわけじゃない」
「わかってる」
「でも、ごめん。あなたの矜持とやさしさを傷つけた」
ほんとうよ。アデリアナは大声で叫んでやりたかった。
アデリアナは、自分が大切なものを大切にしてみせるように、大切なもの自身にも同じことを求めたがった。それが、どんなに身勝手なことだとしても。
(ルーファウス。たとえそれをするのがあなたであったとしても、わたしはあなたに、自分を軽んじてほしくない)
――わたしにとってあなたが大事だと、どうか信じていてほしい。そしてあなたにも、あなたを大事にしてほしい。
どうしようもなくわがままで、呆れるくらいめんどうくさい自分の気持ちに、ほとほといやになりそうだった。どうして、もっと賢く、
瞳のそばで震えていた涙がひとしきり溢れてこぼれて、その都度ルーファウスの唇に食べられてしまうと、ふたりの額がこつんとぶつかった。それは、仲直りの合図だった。
「あなたを泣かせてしまったのに嬉しいなんて、どうかしてるな」
「わるいひとね。どうせなら、わたしがあなたを大切に思っていることを自慢に思ってよ」
「わかった、忘れない」
頬に、代わる代わる唇が触れた。親愛のキスだ。同じ親愛を、アデリアナはルーファウスの頬に返した。
睫毛の先にとどまっていた涙が跳ねて、すぐ近いところにある肌に触れた。
潤んだ視界が静かに像を結んで、どこか情けなそうで、でもとても可愛らしいような笑みが滲んでいるのが見えた。それがとても愛しいものであることに、アデリアナはぼんやりと、遠くのほうで気づいた。
「あなたを愛してる。アデリアナ、あなたじゃないと嫌なんだ」
あ……と思う。
ただでさえ近いところにあるのに、うんと近づいてくるものだから。
ルーファウスの瞳もうっすら滲んでいることが、わかってしまう。
見ないで。アデリアナはふいに、そう思った。
もう逃げようもないほど近くにいるのに、どうしようもなく願った。
唇よりも先に吐息が触れた、そう思ったら、アデリアナは瞼を閉じていた。
――その瞬間、遠慮がちに届いた音に、ふたりはぱっと身体を離した。
「………………」
ふたりの間には、妙に居心地の悪い沈黙が横たわっている。
アデリアナは、呆然とルーファウスを見つめる。
いま自分が何をして、何をされようとしていたのか、よく分からなくて。
ルーファウスは、何かひどく硬いものを必死に噛みしめて、どうにか砕こうとしているみたいな顔をしていた。
強い光を浮かべた瞳が、アデリアナを名残惜しそうに見ている。
なんだかそれは、熱っぽい瞳で。情熱的なまなざしで、熱くて。
見つめられた先を、アデリアナは無意識に指でたどる。わずかに触れたようで触れていない、あと一瞬長く近づいていたら、重なっていただろう唇を。
そんなアデリアナの仕種に、ルーファウスは目を眇めて。拗ねたような、お腹を空かせた子供のような表情をした。まったくもって王子様らしくなくて、どこか荒々しさのある表情だった。
アデリアナは、いますぐどこかに隠れたくなるような、でもこのまま見つめていたくなるような気持ちで、ルーファウスを見つめていた。
(こんなルーファウス、知らない)
――どきどきして、胸が痛くて、どうにかなってしまいそう。
しばらく経っても応えがないので静かに扉を開けてみたシェーナは、長椅子の端と端に座っているルーファウスとアデリアナの姿を見つけた。
王太子の顔は、普段の卒の無い王子様らしさはどこへ行ってしまったのか、心なしかいじけているように見えた。反対に、アデリアナは何だか――ほわほわと浮き立っていて頬を赤らめていた。
そうしてどちらも、懸命にこの状況に触れてほしくなさそうな空気を醸し出していたので、シェーナは出来た女官らしく、見ない振りをすることに努めたのだった。
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