第10話 私の小鳥、私の宝石、私の花
王城から離宮へと繋がる回廊を歩くルーファウスの髪を、ひと筋の春風が撫でて通り過ぎてゆく。
ルーファウスの傍には近衛騎士が一人は付くものだが、いまは誰もいなかった。
花園入りの間、王城と離宮の警備はいつになく濃やかに配置されているため、短い時間の移動なら一人で構わないとされていた。
ルーファウスに護衛がついている理由の大半は体面によるものだが、彼自身が何もできないわけではなかった。ことばを交わす余裕があるなら、ルーファウスの恩寵のほうが穏当に事が済む場合が多い。目を合わせて、望みを叶えてほしいと囁けば事足りるからだ。
警備に立つ近衛騎士に微笑みかけながら、ルーファウスは先程まで検討していた街道の補修について考えていた。見積もられている予算と、街道に隣接する領地の負担は適正だったか。以前とは異なる資材と技術を使うことで、周辺の生態系に影響はないか。工事の間に起こるだろう流通の遅延対策は充分か。あとはそう、もう少しでわかったはずの唇の甘さや、もう一度引き寄せてしまえば叶っただろうわずかな距離感をそのままにした、自分のためらいについても――。
ルーファウスは、静かに嘆息する。
頭の隅で余韻に浸るくらいならいいのだが、真面目に考えているときにふいに顔を出す甘やかさは厄介だ。それだけ浮かれているんだな、と思う。
先日、アデリアナの居室で少し休ませてもらうつもりが、長い時間眠ってしまったあと。眠りから醒めたルーファウスは、アデリアナを泣かせてしまった。
そのことを申し訳なく思いながらも、どうしようもないことに、ルーファウスは自分のために好きなひとが泣いてくれているという喜びを感じずにはいられなかった。
ルーファウスのために大粒の涙をこぼすアデリアナは、はじめ、自分が泣いていることに気づいていないようだった。指で涙に触れると、あたたかかった。涙に唇を寄せると、驚いていた。
これ以上はないというほど顔が近づいたとき、瞳が潤んで、揺れているのがよく見えた。
瞼が下ろされて、水気を含んだ睫毛が肌に触れたとき、ああきれいだな、そう思った。とても得難くて、でも、すぐに失われてしまいそうにも思われて、ずっと見つめていたくなった。女神の崇拝者たちはこんな気持ちだったのか、そう思って。永遠にも思われる短い一瞬の間、ルーファウスは見とれていた。
たった一瞬、たった一瞬見とれていたら、せっかく訪れた機会は手のひらからあっという間にこぼれ出てしまった。惜しいことをしたなと思う。
それでも、心が震える一瞬の得難さと余韻はそれだけで充分甘やかで。
その余韻を大切に撫でているだけでしばらく過ごせるのではないかと、馬鹿なことを思った。
あれから二日が過ぎ、イゼットとの散歩やガートルードとのピクニックを経て、ルーファウスはアデリアナと過ごす予定のために花園へと向かっている。この二日の間に行われた娘たち全員との夕食会では、残念なことに、アデリアナは何ら個人的な感情を窺わせなかった。
さて今日はどんな顔を見せてもらえるのだろうかとアデリアナの居室を訪ねたルーファウスは、緊張した面持ちのジェラルドに迎えられる。いつもならすぐに取り次いでくれるのだが、どうやら今日は違うようだ。
「姫様より、ご伝言を預かっております。王太子殿下は昨夜、よくお休みになりましたか? また、お疲れではないですか? とのことです」
「先日は、ジェラルドにも迷惑をかけたね。今日は元気だよ」
「いえ、とんでもない。では、ご案内いたします」
どうやら、別の場所に連れて行かれるらしい。アデリアナの考えそうなことだな、とルーファウスは思った。
「……驚かれないのですね」
先導するジェラルドの声には、想像がついていたけれどやっぱりそうなんですね、という感情が滲んでいた。真面目だが、真面目なところが問題で鍛え方を迷っていると近衛隊長が言っていたこの騎士は、その四角四面な角がとれかけているように思えた。
「彼女は枠や決まりごとの中で大人しくする弁えを持っているけれど、それを使うのが上手いんだ」
花園入りで予め組まれている予定は、それぞれ細かな指定があるわけではない。特に、ルーファウスがそれぞれの部屋を訪れるという予定はそうだ。王太子をどうもてなすのかは娘たちそれぞれに委ねられているということらしいが、その実は一対一のお茶会である。ルーファウスはこの十日ほどで、随分たくさんの種類の紅茶を飲んだ。
ほかの日に散歩や乗馬といった予定が組まれているせいか、娘たちは大人しく居室でルーファウスの訪れを待っている。女官が一人不在がちであったとはいえ、アデリアナがよく十日も大人しく居室の中で待てていたものだと思う。アデリアナは、こうした決まりを拡大して解釈するのが得意だ。いずれ楽しませてくれるのだろうなと思っていたところだったので、ルーファウスは驚かなかった。
「姫様は、今度はわたしが意地悪する番だと仰っていました」
「アデリアナのすることだから、私にとって本当に意地悪なのか怪しいな」
「……楽しそうに準備しておいででしたとだけ申し上げておきます」
ジェラルドは、アデリアナとのやりとりを思い出したのだろう。苦笑まじりに言う。
その様子に、ルーファウスは廊下の先に控える別の近衛騎士に聞こえないよう足を止めた。忠実な騎士の心を持つジェラルドは、すぐに気づいて王太子を待つ姿勢になる。
「ジェラルド。私はあのとき、君の望みを叶えてあげてもよかったと思っている。争いの少ない今において、騎士が武勲を立て、忠誠が報われる機会は決して多いとは言えないだろう。私が君を叱るのをアデリアナは心底嫌がるだろうけれど、それで騎士の心が満たされるなら、王太子としての私は応じても構わなかった」
ルーファウスは、ジェラルドが息を止め――うっすらと微笑む自分をじっと見つめるのを受け入れた。
王子に叱られることで騎士の誇りが慰撫されて、その忠誠心が購われるのであれば、ルーファウスは別に、自分が一方的に利用されてもよかった。アデリアナは、ルーファウスの個を大事にしてくれる。そのことの得難さや嬉しさとは別のところで、ルーファウスは立場上、王族である自分の遣われ方がもたらす利益を心得ていた。
王族とは、崇められる代わりに国民から消費される存在だとルーファウスは認識している。国の危機に命を捧げる存在とは、そういうものだ。
神世の名残深いアーデンフロシアにおいて、ほかよりも女神の涙を幾分多く授かってしまったルーファウスは、幼い頃から祝福された王太子として扱われ、自分という存在を一方的に遣われることに慣れていた。
「いえ、あの時は俺が浅はかでした。姫様の仰る通りだと思います」
「そう? 最初は彼女のこと、ずいぶん納得いってなさそうにしていただろう」
「姫様は、王太子殿下を案じておられました。俺は王太子殿下という存在を、姫様は殿下自身のお気持ちを。その違いは、教えられるまで俺には分かりませんでした」
「アデリアナのほうが珍しいんだ。私は、今までの君がそうしたように私を見るのでも構わないよ。私はそういう身の上にある人間なのだから」
「……はい。でも、今まで通りもなかなか難しいですね。なんといいますか、王太子殿下が姫様をお好きな理由が分かったように思います」
近衛隊長のジリアスは、花園入りの娘たちに付ける騎士を選ぶ際、意図的にアデリアナにジェラルドを付けたのだろう。入れ替わり立ち替わりルーファウスに付いてフィリミティナ公爵家を訪れた近衛騎士たちが、騎士たちの望む淑女の枠を押し広げていくようなところのあるアデリアナに接することで、変化していったことをよく覚えているのだ。途中からは意図的に、アデリアナを騎士の教育に利用していたのをルーファウスは知っている。
ジリアスのもくろみは、今回もうまくいったらしい。ルーファウスとしては、あまりアデリアナを彼女の意思のほかで利用しないでほしかったのだが、いまのところは見逃していた。
いま、また一人アデリアナに接することで変わりつつあるジェラルドを前にして、ルーファウスは微笑んだ。
「それはよかった。でもジェラルド、アデリアナはあげないよ」
「は? そういう意味では……………もしかして、俺は今、からかわれたのですか?」
「そうだよ、よくわかったね」
「……王太子殿下のことも、俺は思い違いをしておりました」
遠慮がちに言われたことばに、ルーファウスは目を細め、うっそりと笑んだ。
それは、たぶん。望まれ、仰がれる王太子にふさわしい表情ではないのだろう。
だが、大変始末のわるいことに、ルーファウスは経験上知っていた。ただしい王子様である自分が見せるそれらしくない一面が、結構な確率で人をたらしこんでしまえることを。
「私はアデリアナと違って、意外と不純なんだ。幻滅したかい」
ジェラルドは喉に小石を詰め込まれたような顔をしたあと、眉を顰めるようにして顔を歪め。ややあって、小さく笑った。恐れながら、好ましく思います。そう、ぎこちなく呟いて。
ルーファウスが案内されたのは、離宮の料理場だった。
二つの作業場が続きになっているそこの、やや小さめの方にアデリアナはいた。
デイドレスの袖をまくって、清潔なエプロンを掛けている。いつもは流している髪も編み込んでまとめているから、そのほっそりとして白い首筋がよく見えた。
足音に気づいていたのだろう、ジェラルドが「王太子殿下をお連れしました」と言う暇もなく、こちらを振り向いたアデリアナが微笑む。ぱっと眩しさが溢れたように、弾けるような笑みだった。
「やあ、アデリアナ。楽しそうだね」
「あなたに意地悪しようと思って、準備しておいたのよ。しっかり眠れた?」
「うん」
そんな笑顔で、意地悪も何もない。
彼女がどうして自分の可愛らしさに自覚がないのか、ルーファウスには不思議でならなかった。
ルーファウスの目には、両手を細い腰にあてて注意深く自分の顔色を見つめるアデリアナが、まるごと砂糖漬けにした果実のようにしか見えないことがある。
好きなだけ検分してもらいながら、ルーファウスはここぞとばかりにアデリアナを見つめ返した。
何度かお願いして櫛で梳かせてもらったことのある、つややかな黒い髪。さらさらとこぼれる髪は、指に絡めるとするりと逃げるのが気まぐれな猫のようでもある。
ルーファウスがお願いをすると困ったように下がるのが可愛い眉、目を伏せたときにほのかな色香を纏う濃い睫毛は柔らかに瞬いて、いつまでも覗き込んでいたい気持ちにさせる瞳をあらわにする。熱の籠もりやすい料理場でうっすらと上気している頬は花の色をして、鼻先のつんとした尖りや、やさしく閉ざした唇のふっくらと柔らかそうな様子をいっそう引き立たせていた。
すんなりと細い肩は薄く、襟元からわずかに覗いている鎖骨はきれいに浮かび上がっている。華奢で、けれどもやわらかな輪郭を描く身体があたたかいことを、ルーファウスは知っている。
こんなに壊れやすいように思える身体の内側に、ときどき思いも寄らぬ強さで燃える意思が込められていることに、ルーファウスは驚いてしまう。
アデリアナは綺麗な娘だが、ルーファウスの目にひたすらきらきらと甘やかでおいしそうに見えるのは、彼女の見た目だけがそうさせるからではなかった。
大事にして、少しだけ嫌がられたり羞じらっているところを見てみたい。でも可愛い顔をしてみせるのは、できたら自分の前にいるときだけにしてほしい。その心が誰からも――それこそルーファウス自身からも妨げられないように、ずっとその柔らかな器の中できらきらと輝いていてほしい。
ルーファウスは、きっとアデリアナが思っている以上に彼女のことが好きだった。
アデリアナはルーファウスがそんなふうに思っているなどとはちっとも気づかないでいる。しばし彼の顔色を見つめて満足したのだろう。アデリアナはエプロンをさしだして、手を洗うようにとしかつめらしい顔で告げたのだった。
「このところあなたに振り回されてばかりだったから、今日はわたしが意地悪してあげる。――ルーファウス、お菓子を作ってちょうだい! わたし、あなたのケーキが食べたいの」
いまこの時のように、どうして彼女をいますぐ抱きしめたいのを我慢しなくてはならないのか分からないことが、ルーファウスにはしばしばあった。ディクレースによれば、ルーファウスには幼い頃に強烈な呪いがかけられてしまっていて、それでアデリアナのなすこと言うことすべてが可愛く思えるのだそうだが、あながち嘘でもないのかもしれない。
「いいよ、久しぶりに一緒に作ろうか。何が食べたいの?」
そう答えながら、ルーファウスはジェラルドがちいさく震えながらそっぽを向くのを横目に見た。
(可愛いだろう、それで意地悪ができると思っているのが)
とジェラルドに囁きたいのを堪えつつ、ルーファウスはアデリアナが「意地悪」という名の「わがまま」という
アデリアナはルーファウスの後ろに回ってエプロンの紐を結んでくれながら、ええとねえ……と用意してもらった材料について説明しはじめる。
「ケーキとパイは両方食べたいと思っているのよね」
「材料的に、サンドイッチケーキとサヴォアのメレンゲパイかな」
「そう! サンドイッチケーキはね、ちょっと多めに作ってね」
「ははあ、あなたが何を考えているのかわかった気がするよ」
「話がはやくて助かるわ」
――実は、ルーファウスはお菓子作りが結構好きだ。
特に隠してもいないがあまり知られてもいないその趣味は、はじめはそう。ふたりが知り合って少し経った頃。今のように、突然アデリアナが本に出てくるお菓子を食べてみたいと言い出したのがきっかけだった。
アデリアナの行動を後押しするのはだいたいが本であったので、ルーファウスは驚かなかった。でもその足で公爵家の料理人を訪ねて、一緒にお菓子を作ってほしいと頼みだしたときは、少しだけびっくりした。その頃のルーファウスにはまだ分からなかったのだが、アデリアナは結構何でも自分でやってみたいたちなのだ。
料理人もアデリアナのそんな振る舞いには慣れていたのか、快くお菓子作りを手ほどきしてくれた。よく分からないままに参加させられたルーファウスは、ほとんど料理人がやってくれたようなものなのに、自分たちで作ったその素朴なお菓子が今までで一番というくらいにおいしく思われたことに驚いた。その鮮やかさは、存外に深くルーファウスを刺し貫いた。
そして、王城の料理長であるジャンにお菓子作りを教わるうちにルーファウスは気づいたのだった。お菓子作りは思いのほか力仕事で、いい鬱憤晴らしになることに。
一通りジャンから教わり終えた頃には、ルーファウスは一人で生地焼きを任されるまでになっていた。そのご身分でなければ後継者にと、半ば冗談で言われたほどには筋がよかったらしい。
気づけば、ルーファウスは疲れが溜まるとアデリアナに膝枕をしてもらいにいくか、ジャンに材料を用意してもらってお菓子作りをする習慣がついていた。
もちろん、そのことをアデリアナも知っている。知っているから、わざわざこうして意地悪の準備を調えてくれたのだ。ルーファウスが思う存分、憂鬱を晴らせるように。
いつから準備していたのかは知らないが、料理人たちの邪魔にならない時間を見計らって離宮の料理場を借りる手筈を整えて、材料の手配を頼んで。たぶん、料理人たちには何かしら御礼の品を渡したのだろう。材料は丁寧に並べられていて、お菓子作りの道具がアデリアナにも使いやすいよう、棚から下ろされている。
「あと、クッキーに卵液塗りたいなって……。それにね、可愛い型を屋敷から持って来てもらったの。ねえ、ケーキにはクリームをお花みたいに絞ってくれる?」
「仰せのままに、お姫様」
「ふふ。ルーファウスとお菓子作りするの、好きよ。力がいるところをぜんぶやってくれるから」
肩がわずかに触れ合った距離でアデリアナがあんまり可愛らしく笑うものだから、ルーファウスは胸がいっぱいになった。ぎゅっと抱きしめて、キスしたい。そう思う。
我ながら、どうかしている。でも、ずっと前からルーファウスはどうかしているのだ。ずっとどうかしていたいとさえ、思っている。
「小さめの口金があるけど、絵付けもしたいの?」
「ええと、それはね……あ、そうだ」
アデリアナが、ぱんと手のひらを合わせた。
「ちゃんと助っ人も呼んでいるのよ。あと、力仕事はジェラルドにもやってもらうから。
……ねえ、ジャン、ジャン! はやくこっちへ来てちょうだい!」
と言って、おそらくアデリアナの「お願い」を聞いて料理場と材料を用意してくれたのだろう料理長のジャンがそろそろと出入り口から顔を覗かせるのを見つけて、駆け寄って行ってしまったので。ルーファウスはアデリアナの「意地悪」が嬉しくてしかたないことを、伝え損ねてしまったのだった。
人が増えた調理場で、ルーファウスはボウルの中に溶いた卵を加えながら、分離しないよう気をつけつつ生地を混ぜる。ジェラルドはその様子を注意深く観察したあと、ぎこちない手つきで自分の手元にあるボウルの生地を混ぜはじめた。
「時折近衛に差し入れられていたお菓子は、もしかしなくとも殿下がお作りになったものだったのですか?」
「そうだよ、息抜きがしたくなると作るんだ。手伝ってもらうのはジェラルドがはじめてだけどね」
「光栄です。俺も殿下のサンドイッチケーキ、好きです」
「さては甘いもの好きだね? じゃあ、また作ろう」
ルーファウスのサンドイッチケーキは、ジャンのレシピそのままではない。
ふんわりとした生地のバターの風味はそのままに、少しだけ優しい味に調えている。そうしたほうが、間にはさんだジャムの味が活きて好きなのだ。
「ええ、ずるい! 最近、わたしには全然くれなかったじゃないの。お菓子作りに飽きたのかと思っていたのよ。でもこの前ジャンに聞いたら、月に一度は作っているっていうじゃない? ねえジャン、ルーファウスったら意地悪だと思わない? 最初にお菓子作りしましょって誘ったのはわたしなのよ」
「まあまあ。姫様、そろそろ灰汁をすくいましょうな」
「もう、ジャンはルーファウスの味方ばかりするんだから。いいわよ」
唇を尖らせたアデリアナは、ことことと甘く煮えるジャムの灰汁をすくう。甘酸っぱい春の果実チェリスカを粗く潰して、ひたすら煮詰めているのだ。アデリアナはごろごろと果実感の残るほうが好きなので、あまり実を潰さないつもりらしい。正直に言えばもう少しくらい潰してほしいのだが、アデリアナが楽しそうなのでルーファウスはいいことにした。
手際よく生地を混ぜ終えたルーファウスは、ケーキの型に粉をふるう。丸い型を使うつもりでいたのだが、アデリアナの希望で四角い型を使うことになった。サンドイッチケーキは上下の生地を別々に焼くので、型も別々だ。ジェラルドの担当分にも、先回りして粉をふるっておく。
ジャンはアデリアナの面倒を見ながら、パイの下拵えをしてくれていた。
パイ生地は事前に作ったものを寝かせてくれていたようだ。パイ生地に細かな穴を空ける作業をアデリアナがやりたがったので、持ち場を交換してやっている。
アデリアナはああ言うが、ジャンはルーファウスよりもよほどアデリアナに甘いと思う。
幼い頃から王城に出入りしていたアデリアナをジャンはすこぶる気に入っていて、隙あらばアデリアナに自分のお菓子を振る舞っていた。そのせいで、アデリアナは王城の図書館でお腹が空くと、こっそり料理場に顔を出して「何かおいしいものをちょうだい」と甘えているのをルーファウスは知っている。ジャンもジャンで、ときどき顔を出すアデリアナのために、わざわざ余分にデザートを作っているのだ。ジャンは料理人たちから慕われつつもそれなりに長として恐れられてもいるのだが、アデリアナの前では孫が可愛い祖父のようにしか見えない。
アデリアナはおいしいものが大好きで舌が肥えており、かつ気に入ったものはしっかり褒めるので、料理人受けがいい。ジャンのお菓子への情熱が加速したのは、アデリアナが本の感想を語るときのようなきらきらとした目で言ってきたせいだとルーファウスは思っている。
ケーキの生地を焼きはじめると、アデリアナは寝かせていたというクッキーの生地を取り出した。
ジェラルドにケーキの見張りを任せ、ルーファウスはジャンの手伝いに回る。酸味のあるサヴォアの実、その皮と果汁を使ったカスタードを作ってパイ生地の上に注ぎ、メレンゲを重ねる。ナイフで角を立てるようにしてメレンゲの形を整えると、ジャンは合格ですと言うように頷いた。ルーファウスのお菓子作りの師匠は、時々こうして抜き打ちで弟子の技量を確認するのだった。
「クッキーの生地はね、はやめに来てジャンと作っておいたのよ。パイ生地はジャンにお任せしたけど。あ、ルーファウス、ちょっと手伝って。最初だけ伸ばしてくれる?」
麺棒をかけて生地をのばしていくのだが、アデリアナはあまり力がない。それでも頑張って自分でしていた頃もあったのだが、ルーファウスがお菓子作りに親しむにつれ、アデリアナは苦手なことは得意な人に任せる方針にあっさり切り替えたのだった。頼られるのはわるくない気がするもので、ルーファウスもそれで満足している。
ルーファウスは種をひろげてやり、麺棒を返した。そうして、真面目な顔でケーキを見守っているジェラルドに声をかけて、焼き加減を見る。もう少しかなと言って作業台に戻って来たルーファウスは、ふと、解けかけていたアデリアナのエプロンの紐を結ぼうと手をのばした。
「アデリアナ、ちょっとじっとして」
「え?」
ころころと麺棒を転がしていたアデリアナは、ルーファウスが何をしようとしているのか見て取ると、ああと頷いて動きを止めた。ちょっとだけ振り返るようにめぐらせた首まで律儀にそのままなのが可愛らしい。
すこし強めにきゅっと紐を結んで、もういいよ、とルーファウスが顔を上げたとき。
思いのほか近いところにお互いの顔があって、一瞬。ルーファウスは、思わずといった感じで、アデリアナを見つめてしまった。少しだけ、熱を込めて。
お互いに何を思いだしたのか、お互いにだけは分かっていた。
どちらともなく、ふたりは静かに距離を離した。
「……あのね、ルーファウス」
「え、うん」
「ほんとうは、ほかの皆さまもお呼びしようかと思ったの。一緒にお菓子を作って、お茶会をしたら楽しいかしらって。ほら、いつもはお食事のときも、当たり障りのない会話しかしないでしょう。いい機会になると思ったの」
「たしかに、楽しそうだ。作業場を二つ使わせてもらえるなら、出来るかもしれない。あなたが思いつきそうなことだね。でも、そうしなかったのはどうして?」
上目遣いでじっと見つめられて、というのは、ただの身長差か、はたまたルーファウスの願望による思い込みがそう見せるのかもしれないが。とにもかくにも、ルーファウスの瞳にアデリアナはものすごく可愛く映った。惚れた弱みは厄介だ。ルーファウスは、たぶん、アデリアナにけっこう翻弄されているという自覚がある。
「だって、いまはわたしとルーファウスの時間だから」
ルーファウスは思った。(……可愛いが過ぎる)と。
これでどうして、まだくちづけてはいけないのだろう。いや、べつに。したっていいはずなのだが。いやでも、ここは料理場だ。厳密には、というかぜんぜんふたりきりではないし。
ルーファウスが内心をねじ伏せて微笑むと、アデリアナは照れくさそうに笑い返してくれる。うまく笑えているのだろうか。たぶん、大丈夫なのだろう。ルーファウスは伊達に二十数年も王太子として生きてきたわけではない。何せ、アデリアナすら、ルーファウスの王太子としての一面を清廉だと信じているのだ。その下では、こんなによこしまなのに。
ルーファウスは、知っている。アデリアナは、ルーファウスが「お願い」すると、ほとんど断らない。たとえ悩んでも、大人しく待っているとゆるゆると仕方なさそうに微笑んで、頷いてくれるようなところがあるのだ。
学舎で一番最初に膝枕を強請ったときもそうだった。アデリアナは、基本的にルーファウスに甘いのだ。ルーファウスはそのことを承知していて、かつ、そこにつけ込んでいると言える。
このとき。ルーファウスは少々、ほんの少しだけ、不埒なことを考えた。
「……あの、殿下。生地が焼き上がったのですが。少し前に」
「ありがとう。すっかり忘れるところだった」
たっぷりと逡巡したあとにかけられたジェラルドの声に踵を返しながら、ルーファウスはしみじみと嘆息した。
アデリアナのほうといえば、様子を伺いに訪れたシェーナに気づいて手招きしている。どうやら、一緒に型を抜こうと誘っているらしい。やがて、アデリアナとシェーナは、一つひとつ抜いたクッキーに卵液を塗りだした。刷毛を手にしたアデリアナは、どうしてもこれがしたかったのだと言って、シェーナを苦笑させている。
「全部に塗らないんですか?」
「塗ってもいいんだけど、ちょっとだけ絵付けをしたくて」
アデリアナが言っているのは、植物で色を付けた砂糖でクッキーの上に模様や絵を描くというものだ。アデリアナは結構これが得意なので、したいのだろう。ルーファウスも、楽しそうなアデリアナを見るのは好きだ。
ケーキが大分冷めてきたのを見て取って、ルーファウスは下にするケーキにジャムを塗って重ねた。上から砂糖をふるって雪のようにかけている間に、ジャンがパイを焼いてくれている。その目がどことなく生温かくこちらを見るのにルーファウスは気づいたが、知らないふりをした。
……そのまま、アデリアナが希望したとおり、サンドイッチケーキにクリームを絞って花のような飾りを乗せていけばできあがりだ。
クッキーとパイが焼き上がるまでの間、皆でひとしきり洗い物をして、簡単に作業台の上を片付ける。いいにおいが漂うのに、誰とはなしに息をついた。
シェーナが淹れた紅茶を飲みながら、アデリアナが砂糖に溶く染料の色について話すのを聞いていたルーファウスは、そういえば……と思い出す。
「アデリアナ、針の課題は終わりそう?」
「五人目の若君のところまでさしかかったから、あとちょっとよ」
アデリアナが針の課題で刺繍しているのは、女神を謳った古詩である。
その詩は、一番はじめに行われたという花園入りで、王配候補として女神に愛を乞うた五人の崇拝者たちの紹介をして締めくくられる。
アデリアナが口にした五人目の若君とは、女神の王配候補として選ばれた青年たちの中でも
ああと頷いたルーファウスは、有名なくだりを口ずさむ。
「――私の小鳥、私の宝石、私の花」
「たとえばそう、私の鳥籠、宝箱、花入れに収めておけるなら、私は何でもいたしましょう」
後をつないで歌い上げたアデリアナは、可愛らしいわよねと言って笑った。
ルーファウスには思うところがあったのだが、その場にふさわしくないので黙っていた。
そのあと、絵付けをしたクッキーは乾くまで別に置いて、ささやかな試食会をした。
お菓子作りに勤しむうちに、ルーファウスは自分の興味が食べるよりも作るに傾いていることに気づいたが、アデリアナが幸せそうに食べる様子を眺めるのは、いい気持ちがするものだった。どうしようもないことだが、最早どうしようもない。
アデリアナはルーファウスにサンドイッチケーキを切らせて、ジャンに料理人たちへの礼だと一際大きなケーキを託し、シェーナへ花園入りの娘たちに付いた女官の分を、ジェラルドへ同じく娘たちの騎士の分を預けた。あとで「王太子殿下からの賜り物」として届けてもらうらしい。
アデリアナを居室まで送っていき、王城の執務室へと戻る道すがら。
ルーファウスは、小声で古詩を口にした。
――私の小鳥、私の宝石、私の花。
――たとえばそう、私の鳥籠、宝箱、花入れに収めておけるなら、私は何でもいたしましょう。
一番若く、幼いところのあったという崇拝者によるものと伝わるこの恋の詩は、もしかすると、広く謂われているような可愛らしい気持ちではなくて。あなたをどうにかして……そう、無理やりにでも閉じ込めて、自分のものにしたいのだと告げているように思われた。
そのほうが、ルーファウスにはよく理解できる。
ルーファウスにも、アデリアナを身勝手に閉じ込めてしまいたいような、そんな凶暴な気持ちがあるからだ。そんなことをしてはいけないし、そうしたらアデリアナは逃げるだろうと分かっているけれど。
五人目の若君の恋詩は、次のようにして締めくくられる。
――私の心の震えを、どうぞ御覧にいれましょう。
ふと、物騒な想像をして。もしその想像が当たっているとするならば、花園入りを終えた後、五番目の若君の消息が伝わっていないのも頷けるなとルーファウスは思う。
アデリアナのことが好きだが、果たしてそこまでできるだろうかとルーファウスは考える。
もしそこまで至ってしまったら、アデリアナはそれこそ怒って怒って、それから泣いてしまうだろう。たくさん詰られるだろうし、それ以上に悲しませてしまうだろう。
そんなことをしては、あまりに無責任というものだ。たとえ、そのくらい自分が彼女の心を震わせたのだという喜びがあったとしてもだ。
女神がどうであったのかは想像できないが、ルーファウスが愛した小鳥や宝石や花は、閉じ込めてしまったらきっと、静かに息絶えてしまうだろう。
本があれば一日中引き籠もってくれるのかもしれないが、世界を身勝手な愛で区切られてしまったなら、きっと気づかぬうちに心を枯らしてしまう。彼女は、そういう生き方をする娘だ。
一度閉ざされてしまったら、たとえ器は手に入っても、欲しいものは永遠に手に入らない。それなら、自分の隣が帰ってくる場所と信じて待つ方がずっといい。
(まったく、崇拝者とは厄介なものだな)
ため息して、ルーファウスは政務に戻るべく足を早めたのだった。
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