第8話 彼の恩寵
ルーファウスがアデリアナを抱きしめてしばらく離さないでいた、翌々日のこと。
リンゼイ夫人の手を介して届けられた王妃殿下の手紙を読んだアデリアナは、長椅子の上で何やら思案に耽っていた。その花膨らんだ膨らんだ袖口には、ちらほらと糸くずがついている。先程まで針の時間だったことと、サロンから戻ったあとも黙々と針を刺し続けていたせいだ。
「姫様、何かお困りでしょうか? 王妃様は楽しそうに手紙をお書きになっておいででしたが……」
「ああ、いいえ。あなたをお貸しいただくことについては快いお返事をいただいたわ。ただ、その……王妃殿下主催のお茶会のために、屋敷からドレスを持ってきてもらうか悩んでいるところ」
「それはもう楽しみにしておいででしたよ。王妃様はああいう御方でいらっしゃいますので」
リンゼイ夫人がやや苦笑ぎみに言うのに、アデリアナは眉を下げる。
美しいものが大好きでいらっしゃる王妃殿下のお茶会での装いは、目下のところ花園入りの娘たちが一番思い悩み、日々相談しあっている一番の話題だった。ちなみに二番目は、順繰りにはじまった政務補助についてである。
サスキア夫人は娘たち話題の中心が王太子殿下ではないことを嘆いているようだが、娘たちの関心が集中してしまうのも無理はない。
花園入りにおいて慣例として行われる王妃殿下のお茶会は、社交界での流行を生む一人である御方に家の威信をかけた品々を直接御覧いただける貴重な機会だ。王妃殿下のお眼鏡に適うか否かが、家の利益に直結する。
アデリアナもそのことは承知していたので、お茶会のためのドレスは事前に吟味を重ねた上で持参している。荷物が少ないとはいえ、お茶会と正餐用のドレスの支度にはかなり気を配ったつもりだ。
花園入りの間、王城では夜会が行われないきまりだが、貴族たちの屋敷では通常通り夜会が開かれている。春先にかけての流行は抑えているし、ただ流行に倣っただけでもない。おそらくはだが、王妃殿下のご興味を引けそうだと思っていた。
王妃殿下の手紙からは、お茶会でのアデリアナの装いへの期待がかけられていることが窺えた。それは、わたくしの美しい友人に似て可憐なあなたの装いを楽しみにしてますよ、といった一文に凝縮されていた。社交辞令に多少色が付いた程度に受け取れなくもない。しかし、アデリアナは知っている。王妃殿下はアデリアナの母のことが本当に大好きで、「わたくしの美しい友人」という枕詞はかけがえのない本音から発されたものなのだと。
落ち着かない気持ちで居室の中を行ったり来たりしていると、寝室からシェーナが出てくる。
今日は午前でリンゼイ夫人が王妃殿下のもとから戻ってくれたので、シェーナもアデリアナにつきっきりでいる必要がなくなり、ゆったりと仕事が出来ている。ドレスの生地にブラシをかけおえたというシェーナは、どことなく満足そうだった。
「姫様、ご休憩なさいますか? お三時をご用意しましょうか」
「そうねえ、お願いしようかしら……甘いもの、ほしいわね」
花園では、娘たちのために日々たくさんのお三時が用意されている。予め希望しておくか、決められた時間帯に食堂へ行けば、王城の料理人による甘いお菓子が日替わりで楽しめるのだ。
もちろん、シェーナが申し出てくれたように女官が取りに行くのでも構わないのだが、娘同士の交流の場として設けられているのだった。アデリアナは気が向いたときにしか利用しないが、先日出掛けた折りには、ほぼ毎日お菓子を味わいに来ているというユイシスと初めてじっくり話すことができたのは嬉しいことだった。
「今日はチェリスカのパイとチョコレートムース、季節の果実のゼリーがあるそうです」
「んー、パイが食べたいわ。王城のパイ生地、層がしっかりしているのよね」
「はい、ではお持ちいたしますね」
シェーナが扉の向こうへと消えたあとも、アデリアナはゆっくりとした足取りで居室の中を行き来する。その頭の中は、装身具とドレスの組み合わせのことでいっぱいだ。そして、お茶会での手土産と称した王妃殿下への贈り物についても。
扉が叩かれる音がして、アデリアナは立ち止まる。
「はい、どうぞ」
思いのほかアデリアナが近くにいたことに驚いたのだろう、取り次ぎをしようと薄く扉を開けたジェラルドが瞬きする。だが、一瞬ののち、扉が大きく開けられた。
取り次ぎのために音もなく近づいてきていたリンゼイ夫人が、小言を言いたそうな目でこちらを見るのが分かったが、アデリアナは扉の向こうに佇んでいた人物に目を丸くする。
「……王太子殿下?」
そこにいたのは、ルーファウスだった。
アデリアナがその名を呼ばなかったのは、扉が開いたままだからだ。
なんとなくそうすることが憚られて、アデリアナは娘たちの前でルーファウスと親しい素振りは見せていなかった。だって、もし自分がほかの娘だったなら、きっと嬉しくないだる。それに、もしたまたま廊下で誰かが王太子を親しく呼ぶ声がしたら、アデリアナもたぶん、少なからずもやもやしてしまうだろう。
ルーファウスはアデリアナと目が合うと、静かに微笑んだ。
それは平生の、ただしい王子様然とした笑みだったのだが――その顔色の悪さに、アデリアナは眉を顰める。だがその気づきをことばにする前に、ルーファウスがすいと室内に足を踏み入れて、おもむろにアデリアナの身体を抱き寄せた。
「……!」
突然、腕の中に閉じ込められるように深く抱き込まれて、アデリアナはことばを失った。
身体がすっぽりとあたたさに包まれて、いくつかの柑橘と、花の甘さがわずかに尖りを帯びた複雑な香りを感じる。ルーファウスの香りだ。時間が過ぎて行くにつれて森のような香りが加わるその香水は、ルーファウスが留学先で作らせたという香りのひとつだ。
それまでのルーファウスが好んでいた香りに、どこか知らないでいた気のするルーファウスの好みが合わさったようなこの香水は、アデリアナをしばしば戸惑わせる。ずっと親しくしていた幼なじみの知らない一面を覗いているかのような……心地がいいはずなのに、なんだか落ち着かないような気持ちをかきたてる香りなのだった。
「王太子殿下、あの……」
「ねえ、アデリアナ」
どうしようもないことに、耳元で落とされた声を聞いただけで、アデリアナにはいま自分に望まれていることがわかってしまった。
その身分を持っていながら、ルーファウスがアデリアナに何かを強制することはない。ルーファウスはただしく、アデリアナにほとんど何も強いたくないのだ。ごくわずかな例外があるとすれば、いまのように、殿下と呼ばないでほしいと願うくらいのもので。
「……ルー、どうしたの?」
アデリアナが自分を抱きしめる腕に触れると、ゆるやかに身体が離される。抱きしめられてはいないが、腕の中に捕らわれているような体勢だ。抱きしめられるのは幼馴染みの間ではよくあることであったので、今更アデリアナは何にも思わないのだけれど……。
ルーファウスは、眉を下げてアデリアナを見下ろしたまま何も言わない。
ややあって、ゆっくり顔が近づいてきて、肩口に額を押し当てられる。
疲れた、という囁きとともにずいぶん長いため息が吐き出されるのに、アデリアナはその重い頭を撫でてやった。
ジェラルドがふたりから目を逸らしながら、そろそろと扉を閉めようとする。ジェラルドはここ数日で慣れてしまったようだが、不在がちだったリンゼイ夫人が信じられないものを見るかのような顔でこちらを見ているのにアデリアナは気がついた。それがルーファウスの振る舞いへの驚きなのか、それを受け入れているアデリアナへの窘めなのかは判別がつかない。たぶん、その両方ということだろう。
「アデリアナ、どうか私を慰めてほしい」
王太子の唇から零れたことばに、ジェラルドがいやに素早く扉を閉ざした。リンゼイ夫人の眉が跳ね上がり、さすがのアデリアナにも、何か猛烈な勘違いが渦巻いているのが分かった。
「あの、違うの。違います。リンゼイ夫人、どうか出ていかないで」
よろしいので? というリンゼイ夫人の目配せに大真面目に頷き、アデリアナはルーファウスを長椅子へと促した。先に長椅子の端に腰を下ろして、ドレスの膝をぽんと叩く。
「ルー、あなた無理をしすぎよ」
「加減していたつもりだったんだけどね」
長椅子に坐したアデリアナの膝に頭を預けたルーファウスの、決してお行儀よいとは言えない足が優美な線を描く肘置きの上に置かれる。
アデリアナは、ちらりとリンゼイ夫人を窺った。眉を顰めたまま、何と言ってよいか決めかねているような彼女の目と視線を合わせ、そっと指で唇に戸を立てる。夫人が微かに頷いたのを見、アデリアナはルーファウスの頭がちょうどいいところにくるよう身じろぎする。そうして、やわらかい金の髪に指先をさし入れた。
「今日はあなた、花園での予定がない日じゃなかった? ゆっくり休んでいるのだとばかり思っていたわ。疲れているでしょうに。お昼過ぎまで寝ていたとしても、誰も文句は言わないわ」
さすがの過密ぶりを配慮してのことだろう。花園入りには、十日に一度ほどの間隔で、王太子が離宮を訪れることのない日が設けられていた。だから今日は、娘たちも針の時間を終えたら自由に過ごせる予定になっていたのだ。だからアデリアナも、さすがに今日はルーファウスの訪問はないだろうと踏んでいた。そうでなければ、身体の安まる時間がないと思ったから。
「昼過ぎまで寝ていたら、さすがにジリアスに怒られてしまうよ」
「まあ、そう。あなたの近衛隊長さまを今度説得しておくわね」
アデリアナが髪を撫でるのに気持ち良さそうに目を細めて、ルーファウスは静かに笑った。
「時間ができたから、探しものをしていたんだ。それで、つい遣いすぎてしまった。あなたにも休息が必要だから、本当は寄るつもりはなかった。でも、近かったから……」
ため息のように囁かれたことばに、アデリアナは息をつく。
そうして、膝の上に乗っているルーファウスの顔――その眉間に寄った皺を伸ばすように指の腹で撫ぜてやる。
「あなたが何を探しているのかは聞かないわ。あなたにも秘密があるでしょう。でも……」
「そう言うからには、あなたにも秘密があるんだね?」
金の睫毛が瞬いて、その下にやわらかに潜んでいた紫の瞳がアデリアナを捉える。
ええ、とアデリアナは頷いた。
「わたしがあなたに言っていないことなんて、たくさんあるわ。ルーファウスだって、わたしに秘密にしていることがたくさんあるでしょう?」
ルーファウスの指が、アデリアナの髪の先に触れた。遊ぶようにくるくると巻きつけ、やんわりとほどけた髪を引き寄せて、ゆっくりと梳る。
「そうだね。私はあなたにもっと色々なことを打ち明けても構わないと思っているけれど、すべてを分かち合うことが愛情の証明ではないとも思っている」
「ほんとうにそう。気が合うわね」
アデリアナが笑うと、触れ合ったところから伝わるやさしい振動にルーファウスは唇を緩めた。
「あなたの膝に甘えるのは、久しぶりだな」
淡々と、だがしみじみとした響きを帯びたルーファウスのことばに、アデリアナは頷きかけて首を捻った。久しぶりということばが果たして適当なのか、疑問に感じたのだ。
「あなた、一月くらい前にうちの屋敷に来なかった? たしかにあなたにしては間が空いているとは思うけれど」
「一月もだ、アデリアナ。学舎の頃は、毎日のようにこうしてもらっていたよ」
「そうだけど……」
なんとなく釈然としない気持ちを覚えつつも、アデリアナは髪をルーファウスに遊ばれるままになっていた。
こんなふうにアデリアナの膝にルーファウスが頭を預けて休むのは、幼い頃からずっと続いている、ふたりにとっては慣れ親しんだ触れ合いだった。
どういうきっかけからこの膝枕が始まったのか、アデリアナにははっきりと覚えがないのだが――いっとき、知り合ったばかりのルーファウスはひどくアデリアナに構いたがるようなところがあって、でもアデリアナは本が読みたくて、少しだけ子供らしい衝突をした。とはいえ、アデリアナは、ルーファウスに何か心が傷つくようなできごとがあったのも、何となく分かっていた。それを、自分に打ち明けるつもりがないことも。
だから、幼いアデリアナは本で読んだ膝枕を提案したのだと思う。もしかすると、ルーファウスからだったかもしれない。膝枕ならルーファウスはアデリアナに構ってもらえているような気持ちになったし、アデリアナは時々そのやわらかい髪を撫でながら、存分に本が読めるからだ。
……とはいえ、学舎に入りたての頃は、アデリアナにも膝枕を乞われて「屋敷の外ではだめってお兄様が言ってたわ」というくらいの慎みと分別があったのだ。はじめから、何でも受け入れていたわけではない。アデリアナも、多少の外聞は気になる。
けれども、いかにも寝不足そうな顔で悲しげに見つめられると、アデリアナには断りきれず……そのままずるずると、幼なじみの習慣は続けられたのだった。
はじめは周囲の目が気になったものの、ルーファウスの身分がそうさせるのか、不思議なことにアデリアナは誰からも何も言われることはなかった。だから、アデリアナも何となくいいかと思ってしまったところがある。
ルーファウスとアデリアナが共に学舎に通っていたのはわずか一年の間だったが、ふたりはあたたかい季節には庭のベンチで、寒い季節には小部屋で、幼い頃から変わらないその習慣を続けたのだった。
「ねえ、留学していたときはどうしていたの? あなた、すぐ無理をするでしょう」
「そういうときは、いつもあなたのことを思い出していたな」
「まあ、ほんとう? ねえ、ルーファウス。わたしはいつもあなたの傍にいるわけではないのよ」
柔らかい金の髪を撫でるアデリアナの手を、静かに伸ばされた手が縋るように握った。こんなときでも、ルーファウスの手のひらはそれ以上力を込めようとしなかった。
「あなたがいいんだよ、アデリアナ。どうか、傍にいてほしい」
「ええ。でもね、もう少し自分を大切にしてちょうだい」
「うん。……あなたの傍なら、私は安らげるんだ」
懇願するように、手のひらの内側へと口づけられる。
アデリアナは、もうひとつの手のひらで、ルーファウスのまばゆい光を湛えた瞳を隠すように覆った。その内側で、ルーファウスの目元がじわじわと熱を帯びていくのを感じながら、アデリアナはさみしく思った。
呼気のような密やかな気配がして、ややあって、ちらちらと光の粒が生まれる。
大小の綾なす光の粒が瞬き、あるいは弾けるように浮かんでは消える。
その鮮やかなうつくしさが気ままに飛びまわるさまは、まるで光でできた蝶が花園に遊んでいるかのようだ。
「私の恩寵は、あなたの傍だと楽しそうに飛びまわる」
「綺麗よ。まるで、夢の中にいるみたい」
ひとつ、二つと増えて、溶けて、また再び分かたれるのをくり返す光の欠片は、ルーファウスの恩寵の不思議なあらわれだった。
ルーファウスの恩寵の欠片はきらきらと弾けては散り、生まれては踊る。玻璃をもっと薄く薄くのばして、うんと透明にして虹の欠片で磨いたみたいな彩りをした光の蝶は、いつだってアデリアナを夢見心地にさせる。
それは、夢のように素敵な光景だった。
シェーナがお三時を運んで来たのだろう、静かに扉が開くのが分かった。
その後ろからこちらを伺い、迷いながら入ってきたジェラルドも、茶器の音を立てないようそっとワゴンを押すシェーナも、恩寵の欠片を目にして息を呑む。
そうした気配を感じながらも、アデリアナは黙って膝の上のルーファウスを見ていた。
お茶の香りが届いてか、ルーファウスが身じろぎする。手のひらが伸ばされて、アデリアナはルーファウスの目元を覆っていた手を外した。
ふに、両の頬をあたたかな手のひらがやさしく包んだ。
アデリアナの身体がつくる淡い影の中、ゆっくりと押し上げられた瞼の下に潜んでいた瞳が、眠りから醒めたときのような柔らかさで瞬く。光の下できららかな鮮やかさを見せる瞳は、いまは淡い暗がりで恩寵の欠片を纏わせてアデリアナを見つめている。
何でもしてあげたくなってしまう瞳だ。何でも許したくなってしまうような……。
「アデリアナ、私と結婚してほしい」
けれども、いつものようにアデリアナは首を振る。
「いいえ、ルー。でも、いまは一緒にいてあげる」
ルーファウスは求婚を断られたにもかかわらず、その瞳をわずかに潤むように細めて、幸せそうな笑みを浮かべてみせた。アデリアナは、ただその笑みを見つめていた。
「……ありがとう」
触れられていたアデリアナだけがわかるくらい、わずかに震えていた手のひらが落ちる。
穏やかな寝息がたちはじめるまで、アデリアナはルーファウスの髪を撫でてやっていた。その間も、恩寵の欠片はひらひらと室内を飛びまわり、アデリアナの頬や髪を掠めてはひらめいていた。
やがて膝の上の重みがぐっと増したのを感じて、アデリアナは息をつく。
シェーナが差し出した上掛けを受け取り、ルーファウスにかけてやる。そうして、襟の高い首元を慣れた手つきで緩めた。
その様子を困惑とともに見守っていた騎士と女官を小さく手招きして、アデリアナは囁いた。
「見ての通り、王太子殿下は女神の恩寵を授かっておいでです」
一際大きな光の蝶がすいと飛んできて、アデリアナの肩に触れた。
アデリアナが指先をさしのべると蝶はひらひらと踊るようにそこに触れ、気まぐれに離れたかと思えば、アデリアナの周りをくるくると飛びまわる。
皆、ルーファウスが恩寵を持っていることについては特に驚いた様子はなかった。ルーファウスが恩寵を持っていること自体は、王城で特に秘密にはされていないからだ。清く正しい王太子が恩寵を授かっていることが、王家への敬意を深めさせている。
だが、ルーファウスに授けられた恩寵がどんなものなのかは、堅く秘されていた。次代の王であるルーファウスの恩寵は、政治的な意味でも信仰的な意味合いでも公にされることはない。
それに、ルーファウスの恩寵は秘められるべき類いのものなのだ。
ジェラルドは近衛騎士とはいっても、ルーファウスの身辺警護を預かるほど王太子に近くない。リンゼイ夫人は王妃殿下から何かしら聞き知っているかもしれないが、恩寵の話はたとえ血を分けた家族であっても隠されるものだ。王族の傍近くに仕えていないシェーナは、尚更何も知らないだろう。
「わたしは王太子殿下の恩寵について知ることを許されていますが、それ以上を明かす自由を持ちません。知っていることだとは思いますが、いま見た光景については決して口にしないように。たとえ家族にも、恋人にも言ってはいけません」
「王城に勤める者は、みな誓約書を交わしております。ご安心ください」
リンゼイ夫人の囁きに、ジェラルドとシェーナも頷いた。
王族に授けられる女神の恩寵には、とりわけ細心を持って扱われなくてはならない決まりだ。
すべての者に発現するわけでも、血を分けた親子であっても同じように授かるわけではない恩寵は、けれどもとりわけ女神の涙が多く滴ってきた王族に目覚めたときに、ほかとは比べるべくもない強さで
当人の意志のほかで与えられる恩寵には、ガートルードのように微笑ましいものであればよいが、その心根や扱い方を間違えると周囲に多大な影響を及ぼす類いのものがある。
歴史を繙けば、かつて強力な恩寵を持つ王族が、その身に余る女神の滴りに翻弄されて起こした事件が散見される。そのため、王城は王族の恩寵の扱いにとりわけ慎重だった。
その一つが、誓約書である。王族の恩寵をはじめとする様々な事柄について秘密を守ることを誓わせるそれは、騎士や女官はもちろん、門番や洗濯をする者といった末端の者まで、署名することなしには王城へ足を踏み入れることは適わない。もちろん、アデリアナも例外ではない。
恩寵とは違うかたちで女神の滴りを受けて
ルーファウスの恩寵は、平生ならその発現はほとんど誰にも見えることがないのだが、力を遣いすぎたり疲労が積もるなどしたときにきらきらとした光となって顕れて、誰の目にも明らかになってしまう。塔の調べによれば、ただ身体から恩寵が溢れそうになるとそういう形を取るだけで、光の欠片自体は何か影響を及ぼすものではないらしい。
だから、光の蝶はルーファウスの恩寵の本質に深く関わるものではない。誓約書の内容も、変更する必要はないだろう。アデリアナもそのことは承知の上で、念押ししたのだった。
アデリアナは少し迷って、ルーファウスの髪を一房、すくうように撫でた。
「さしでがましいようだけれど。王太子殿下には、どうかこれまで通り接してさしあげてね。恩寵があるというだけで過剰に尊ぶ人も多いけれど、ただでさえ特別扱いをされるご身分だから、そういうのはお嫌だと思うの」
ジェラルドたちはもちろんですと頷いて、アデリアナとその膝で眠るルーファウスを見つめる。
「一度こうなると、しばらくこのままなのよ。ジェラルド、今日はどなたからも取り次がないで。リンゼイ夫人、書き物机の上の本を持って来てくれる? あと、小机を少しこちらに寄せてほしいわ。そう、このくらいで充分よ、ありがとう」
「お夕食はいかがいたしましょう?」
「そうね……そのときまでにお目覚めになるか分からないから、こちらでいただくわ。皆さまとご一緒する決まりだけれど、体調が悪いときはその限りではないのよね?」
「姫様はお疲れが溜まっていらっしゃいますから、お休みになるべきです。では、私はそのように手配してまいります」
心得たようなリンゼイ夫人のことばに、アデリアナは頷いた。それからシェーナが運んできたワゴンを見る。
「シェーナ、わたし、お腹が空いちゃったわ。ああ、紅茶は淹れ直さなくていいから」
「はい。ではもう少し後に、お代わりをご用意いたします」
言外にしばらく席を外すと告げるリンゼイ夫人とシェーナに、アデリアナは微笑んだ。
そうして、冷めたお茶とパイで少し遅いお三時を静かに楽しむことにしたのだった。
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