第7話 騎士とのささやかな諍い

 アデリアナは図書館へ行くついでに、シェーナに「お願い」してある場所へとついてきてもらい、別の人物に「何度目かわからないお願い」をすることにも成功した。


 図書館では、手持ち無沙汰だろうと傍に控えるシェーナに本をすすめてみたり、閲覧席で熱心にシシリア嬢の本をめくっているガートルードを見かけて挨拶したりした。さらには、ガートルードにほかの刺繍の本の在りかを教えてやったりしていたところ、イゼットが数学の本を探しに来ているのに居合わせたりもした。


 針の課題のために、古詩をまとめた叢書そうしょと研究書をいくつか借りたアデリアナは、まだ王妃殿下のもとからリンゼイ夫人が戻っていないだろうと踏んで、早めに……本狂いのアデリアナとしては早めに居室へと戻ることにした。


 案の定というべきか、アデリアナとシェーナが戻ったとき、ちょうどジェラルドが扉の外で何やら思案しているようだったので、その判断は正しかったようだ。

 顔を上げたジェラルドはアデリアナを見て、安堵したように小さなカードをさしだした。

 政務記録用の色褪せしづらいインクで綴られた文字を一目見て、ルーファウスの筆跡だとアデリアナは気づいた。だてに二年も文通していない。あまりの筆まめぶりに夢にまで見た字だ、忘れようもない。


「あら、今日も来るのね」


 カードには、端的にユイシスとの面会が終わったら顔を出すと書いてあった。

 昨日のアデリアナはルーファウスに色々とお願いをしたのだが、そのひとつは事前に訪問予定を教えてほしいというものだった。

 できるだけ外出は控えていたが、アデリアナがシェーナやジェラルドのどちらかを連れて不在にしたときにルーファウスが突然訪れると、残されたほうはたいへん焦るのだ。王妃殿下への手紙を託したばかりだから、リンゼイ夫人がアデリアナについてくれる時間が増えるのはもう少し先のことになる。

 ちょっとした外出の折に逐一ひやひやしていたのでは、やっていられない。アデリアナにも、王城の図書館の本を満喫するという予定があるのだ。

 頼んでみてよかったと思ったアデリアナは、「今日も」ということばを聞きとがめたジェラルドの、何とも微妙な表情に気づいて曖昧に微笑んだ。


「ユイシス様との面会は、もうすぐ終わるはずだわ」

「早めにお戻りになってよかったですね。では、私はお茶の用意をしてまいります」

「ありがとう、シェーナ」 


 一礼をしたシェーナが廊下の向こうへと歩き出す。

 反対に、居室には硬い表情のジェラルドが一緒に足を踏み入れる。

 長椅子に腰かけたアデリアナは、いつも室内では礼儀をわきまえた距離を置くジェラルドがゆっくりと近づいてくるのを見つめていた。そろそろ頃あいだろうと思っていたのだ。


「どうぞ、掛けて。お話があるのでしょう?」


 まさにお話があるのです、と切りだそうとしていたのだろう。ジェラルドは嫌そうな顔をした。これで隠せていると思っているとしたらよほどおめでたいのではというくらい、内心が透けた表情だった。

 ジェラルドは至極わかりやすい。男として、娘というものを少し軽んじている。貴族の娘は何も出来ないでいるのがふつうだと思っているようなところがあるから、アデリアナが察しがよいのも気に食わないのだろう。騎士にとって、はただ大人しく守られている存在だからだ。


「……姫様は、俺が何をお話ししようとしているのか、まるでご存じのようですね」


 長椅子に腰かけることはせず床に膝をついたジェラルドの頑なぶりに、アデリアナは内心ひどく呆れた。彼にとって、アデリアナの向かいに座るよりも、騎士らしく膝を折るほうが受け入れやすいことなのだ。


「だってあなた、わたしのことがお気に召さないんでしょう。よくわかるわ。ルーファウスのことが大好きな騎士は、はじめわたしをものすごく嫌うか、変に気に入るかのどちらかよ。あなたは前者のほう」


 王太子であるルーファウスの傍には、幼い頃から近衛騎士が付けられていた。フィリミティナ公爵家に来るときも、学舎でもそうだ。

 ルーファウスは幼い頃から女神の愛が降りそそがれたと賞讃されるくらいに可愛らしい少年で、その頃から王族としての品性と賢さを備えていた王太子は、騎士からの敬愛を充分すぎるほどに勝ち得ていた。おかげで、アデリアナは無駄に騎士たちからさんざ「俺たちの王子を」という目で見られることを余儀なくされてきたのだった。アデリアナは代わる代わるルーファウスに付いてやってくる彼らにたびたび自分たちの王子様にふさわしい娘かと品定めされることを甘んじて受け入れなければならなかった。

 そういう事情で、アデリアナはルーファウスの身辺に付く優秀な近衛騎士と面識がある。それほど、ルーファウスはアデリアナと頻繁に会う仲だった。だから、花園入りの娘として付けられたジェラルドを見たときから、経験上これはひと悶着あるなとわかっていた。


「俺は真面目で頑なだと言われますし、融通がきかないからよく嫌われます。姫様も俺をおいといでしょうが、俺は別に姫様のことを嫌ってはおりません」


 心底真面目な表情で告げられて、アデリアナはあらまあ、と思った。

 どうやら、ジェラルドは自覚が芽生えるくらいには周囲からその性格について助言されているらしい。少々難はあるが腕はよく、けれどもその頑なさゆえに、ルーファウスの傍近くには付けられていない。近衛として教育されている最中といったところだろう。


「わたしもべつに、あなたのこと嫌いじゃないわ。はっきりしている人は好きよ」

「は? ……あ、いえ、失礼いたしました」

「でも、相性はよくないのかもしれないわね。くり返すけど、嫌いじゃないわよ」


 ジェラルドは、その端正さにひと刷毛野性味の混じる顔に困惑を滲ませた。本当のほんとうに、嫌われているものと思っていたらしい。寄せた眉に刻まれた皺が深い。よほど訝っているようだった。

 しばしの沈黙ののち、気を取り直したようにジェラルドはアデリアナに問うた。


「……王太子殿下は姫様を愛しておられるのに、どうして応えてさし上げないのですか?」


 ジェラルドは知らないのだろうが、それはアデリアナがルーファウスの近衛騎士たちから何十回となく訊かれてきたことだった。

 いままでやんわりと気持ちを伝えてきたとルーファウスが言っていたからには、たぶん、近衛騎士たちはルーファウスの想いを知っていたのだろう。しかしその想いは肝心のアデリアナには届いていなかったので、どうしてそんなことを言われるのか不思議でならなかった。だから、心底まじめに気のせいだと思うわと答えてきたのだった。


 とはいえ流石のアデリアナにも、いままでとは同じ答え方はできない。

 どうしたものかと考えていると、ここ数日もやもやと抱えていた疑問をことばにしたことで勢いづいたのだろう、ジェラルドが言い募る。

 

「姫様は、王太子殿下を弄んで楽しいのですか?」  


 もてあそぶ? アデリアナは静かに笑った。

 その笑みが近衛騎士としての矜持と王太子への盲目的な敬意を刺激したのか、ジェラルドの眉が顰められる。


「姫様は、御自分がどれだけ心をかけられているのかお分かりでない。そう申し上げているのです」


 硬い表情で言い切ったジェラルドに、アデリアナは首を傾げた。

 その口元にほのかにたたえた笑みは、やさしく瞬かせた瞳は、淑女然として至極たおやかだった。たおやかでうつくしく、それでいて内心を窺わせない――柔らかな花びらで心を包んで覆い隠して、秘めてしまう笑みだった。

 そして、ジェラルドや近衛騎士たちが大好きな騎士に守られる姫君らしさと、それだけには収まりきろうとしない程には頑なだった。


 アデリアナは、その灰がかった青の瞳でジェラルドをひたと見た。

 ジェラルドが、反射的に肩をこわばらせる。いま彼は、少しだけふつうではなくて、淑女としてはやや自由で……なぜか王太子が愛しているらしい可憐な公爵令嬢について、自分が思い違いをしていたのではないかと感じていた。どこか、無意識のところで。

 

 ――アデリアナは、その微笑でジェラルドを圧した。


「臣民として王太子殿下を尊重しろと、騎士あなたわたしに強いてもよいと? 王太子殿下の御為なら、わたしに何をしてもよいと思ってるのね。ひどい心得違いをしているわ」


 細い喉の深いところからこぼれ出た声は、ひどく静かだった。


「……は、その、俺はただ。姫様に、王太子殿下のお気持ちを慮ってほしいと言っているだけです」


 ジェラルドは、微笑みを崩さないアデリアナになぜ自分がうろたえているのか分からないといった戸惑いを滲ませながら、それでもなお譲ろうとはしなかった。


「わたしのことを認めていないのに?」

「そんなことは。王太子殿下がお認めになった方です。俺にはそれだけで充分です」


(ほら、またこうだ。すぐ、わたしはわたしでなくさせられる)


 アデリアナは悲しくなった。

 いますぐ、ルーファウスに名前を呼んでほしかった。

 生まれ持った身分のせいで、アデリアナはすぐ公爵令嬢という記号として扱われてしまう。それは身分による恩恵と引きかえに与えられる義務なのかもしれないが、アデリアナはときどき、むしょうに悲しくなった。期待される役割にふさわしい器としてしか求められていないのだと突きつけられる度に、アデリアナはルーファウスに名前を丁寧に呼ばれるときのやさしい声を欲しがった。

 皮肉なことに、アデリアナをアデリアナとして見てくれるルーファウスこそが、ジェラルドにアデリアナを記号として受け止めさせていることは承知の上で。


「いいえ、あなたはそう言っても信じていないでしょう。どうしてこんな娘を? と思っているはずよ。べつに、そのことについては何も感じないわ。心は自由よ。

 だってわたし、あなたに好きになってほしいなんて思わない。わたしやルーファウスのような身分に生まれるとね、誰にでも好かれるなんて幻想を捨てるよう言い聞かされて育つの。あなたがわたしのことを気に食わなくても、嫌いでも構わないのよ。わたしがあなたの心の動きを指図することはできないのだから」


 そこではじめて、ジェラルドの顔に戸惑いや怒り以外の感情が生まれた。

 よくわからない。頑なで、でもとてもわかりやすいジェラルドの顔には、いま、ありありとそう書いてある。


「あなたの忠誠心は素敵だと思うわ。でも、あなたがそうであるように、わたしは相手が王太子殿下だからというだけでは、すべてをうべなえないというだけ」

「仰る意味が……分かりかねます」


 苦しげな声を絞り出したジェラルドとは反対に、アデリアナは微笑んだままだった。

 わからなくていい。理解してほしいとは思わない。そう口にしたら、きっと傷つけてしまうのだろうなと思った。

 ジェラルドは少々頑なだが、だからといって傷つけたいのではなかった。彼の敬意や忠誠は、大切なものだ。損ないたいわけではなかった。

 アデリアナはこういうとき、自分がある種のつめたさのようなものを発揮してしまうことを承知していた。だから、ゆっくりとことばを選んだ。


「わたしはアーデンフロシアの貴族として王家をお支えする義務を持つ身分であるし、本来ならばあなたが言うように振る舞うべきかもしれないわね。でも、わたしはあの方を王太子殿下というだけの存在として見たくない。見ないことが誠意であると思っているのよ」


 それに、とアデリアナは微笑んだ。


「臣民としてのわたしの従順だけでは、満足なさらないわ」


 ――ただ王太子だからというだけで気持ちを受け入れたなら、きっとわたしのことなんて、すぐにいらなくなるわ。


 アデリアナが囁くように添えたことばに、ジェラルドは絶句した。

 アデリアナはその様子がおかしくて、くすくす笑ってしまった。


「とてもそんなふうには思えませんが……その、あの溺愛ぶりをみるかぎり」


 アデリアナの笑い声に毒気を抜かれたように瞬いたジェラルドは首を振るが、アデリアナは溺愛? と言ってまた笑い出してしまった。


「あの、もしかしなくとも、ご自覚がないのですか? 本当に?」

「ジェラルドにはそんなふうに見えてるの? 困ったわね」

「いえ、困っているのは姫様の鈍さにです。王太子殿下がお可哀想です」

「ええ? ……ああ、いい、いいわ。謝罪も弁解もいりません」


 アデリアナは、何やら大仰な仕種で謝罪の意を示そうとしたジェラルドを制止する。

 ジェラルドは中途半端な姿勢で制止したまま、不服そうにしていた。が、ため息をつき、立ち上がる。その鋭い瞳には、困惑と何か知らない生きものを見ているかのような気持ちが入り交じっている。

 ふと、その瞳が我に返ったように瞬く。扉をちらりと見やって、ふたたびアデリアナを向いた顔は平然として、いつもの騎士らしい表情に戻されてしまった。


「シェーナが戻って来たようです」

「そう。ではこれで終わりにしましょう。あなたの望みをきけるかはわからないけれど、また何かあったら教えてちょうだい。今度は座って、ね」

「善処します」

「まあ、わかりやすく嫌そうな顔だこと」


 一礼して踵を返したジェラルドは、扉が叩かれるのを待ってから静かに開ける。

 シェーナと入れ替わりに扉の外へ出たジェラルドの背を見送って、アデリアナはそっと息をついた。今日のところは終わったらしいわね、と。


 ――そう、思っていたのだが。


「……? 王太子殿下、いまお外にいらっしゃいますよね?」

「そうねえ」


 シェーナがお茶の用意をしながら、外に増えた気配と微かに届く話し声と、けれども一向に叩かれることのない扉を不思議そうに見ている。


 アデリアナにはわかっていた。あの正直で真面目で頑なな近衛騎士は、ルーファウスに詫びているのだ。アデリアナに謝罪を断られたから、ルーファウスに「私の早合点で姫様を怒らせてしまいました」だとかなんとか言っているのだろう。馬鹿正直にもほどがある。


 予想通り、扉が叩かれて顔を出したルーファウスは、面白がっていることがよくよくわかる顔でアデリアナを見つめた。

 面白がるついでに、ルーファウスはジェラルドを室内に招いた。王太子殿下の忠実な近衛騎士であるところのジェラルドは、強ばった顔でアデリアナを見つめた。


 ジェラルドは、アデリアナのかわりにルーファウスに叱ってもらいたいのだろう。騎士の面子や矜持がそうさせるのか、それともジェラルドの個性ゆえのことなのか、アデリアナにはわからなかった。


「アデリアナ、ジェラルドと喧嘩したんだって?」


 お茶を受け取ったルーファウスが楽しそうに告げたのに、シェーナがぱっとジェラルドのほうを向いた。おやとルーファウスが意外そうな声を漏らすのに、アデリアナも開きかけた口を閉ざしてシェーナを見る。何やらじとっとした空気は感じるが、アデリアナのいるところからはその表情は見えなかった。


「で、どうなの?」


 長椅子の隣に座したルーファウスに促されて、アデリアナは微笑んで紅茶に口をつける。今日の紅茶は、アデリアナが生産に関わった茶葉だ。爽やかで果実味のある香りが特徴で、さっぱりと飲みやすくて気に入っている。


「喧嘩じゃないわ。わたしが怒った理由が分からないだろうジェラルドに、わたしが勝手に憤っただけ」

「へえ。ジェラルドの言い分と違うな。どうしてあなたは怒ったの」


 アデリアナは、ルーファウスのこういう公平さがときどき嫌になる。

 ジェラルドの言い分だけを信じられてもそれはそれで癪だが、かと言って自分の言い分を信用されてもだめだ。でも、その公平さが気まずいときだってある。

 だって、いま発揮されている公平さは、先程あった会話を詳らかにしろと暗に告げている。そんなの。ものすごく恥ずかしいことになってしまう。


 む、と口を噤んだアデリアナは、いやに綺麗な姿勢で直立するジェラルドが口を開こうとするのを見て取って、あわてて首を振る。ジェラルドは一から十まで、大変詳細に語り出すに違いなかった。ぜったい、端折らずに言う。端的に概要をまとめるのではなく、はじめからどんな会話をしたのか、丁寧になぞるだろう。絶対に。――そんなのだめだ。また、真っ赤になってしまう。


「アデリアナ?」


 ルーファウスの実に楽しげな声に、ああもう、とアデリアナは叫ぶように言った。


「彼はわたしに、あなたが王太子であるというただそれだけで、すべてを受け容れろと言ったのよ!」


 ルーファウスの視線を受けて、ジェラルドは頷いた。

 なるほどとルーファウスは呟いて、アデリアナに続きを促した。


「なにって、それだけの話よ。わたしは嫌がった、ジェラルドは納得しないまでも理解しようとした。それだけ」

「端的にまとめると、まあそうなりますね」

「でしょう?」


 頷きあうアデリアナとジェラルドを見て、ルーファウスはふうんと呟いた。

 アデリアナは、シェーナがじっとジェラルドを見つめ、やがてジェラルドが気圧されたようにそっぽを向いたのに気づいた。いったい何をしているのだろう。


「アデリアナ、どうして嫌だったの?」


 アデリアナの意識を引き戻すように、ルーファウスが訊ねる。

 どうしてって……何と言っていいものか言いよどむアデリアナに、ルーファウスが身体を寄せる。アデリアナは同じ分だけ遠ざかろうとするが、また手を取られてしまった。立ち上がっておろおろし、気持ち離れたところに座り直したアデリアナは悟った。

 これは、きちんと答えるまで手を離してもらえそうにない。

 昨日、指先に口づけられたときの恥ずかしさがきゅうに蘇って、アデリアナはうろたえた。そうして次に感じたのは、怒りのような気持ちだった。

 どうして、と唇から震えたような声が漏れる。


「どうしてわたしが、あなたをあなたとして見ようともしない人から、あなたを王太子として尊重しろと説かれて素直に頷くと思うの? わたし、ぜったいにいやよ」


 ジェラルドとシェーナの視線と――そして何より、まっすぐ心の奥まで見通そうとするかのようなルーファウスの視線を感じながら、アデリアナは首を振る。幼い子供のように。


「わたし、べつにあなたが王太子だから好きなんじゃないもの」


 え、とその場に小さくこぼれた声に、ルーファウスが首を振る。


「ジェラルド。一応断りを入れておくと、この好きはそういう好きじゃないよ」

「はあ……俺には違いがわかりかねますが」

「そうだろうが、そうなんだよ」

「王太子殿下、ジェラルドは馬鹿なので仕方ありません」

「……馬鹿!? 今、馬鹿って言ったか!?」

「事実です」

「ははあ、なるほど。シェーナもなかなか言うね」

「恐れ入ります」


 疎外感を感じたアデリアナは、むっとしてルーファウスの手をふりほどいた。軽く触れられていただけの手は、あっさりとアデリアナを解放する。


「アデリアナ、拗ねてる?」

「いいえ。……わたし、悪いことは言ってないわ。ジェラルドに謝ってほしくないし、その代わりにあなたにジェラルドを叱ってほしくもないし」


 そこで、アデリアナはふと口を閉じて、シェーナと小声で言い合っているジェラルドを見た。


「……ジェラルド。王太子殿下をお守りすることに自負を持っているのなら、自分の罪悪感を解消するためだけに王太子殿下を利用しようとしないで。それは、忠誠の代わりに与えられるものではありません」


 ジェラルドは目を細め、アデリアナをじっと見た。アデリアナも、ジェラルドを見た。ややあって、ジェラルドはいやに――そう、不思議なほどに晴れやかに微笑んだのだった。


「はっ、姫様の仰せのままに」

「あなた、ほんとうに分かっているんでしょうね……?」


 疑わしげにジェラルドを見るアデリアナは、ルーファウスがくつくつと笑い出したのに、その手の先で揺れる茶器をやんわりと奪い取ってテーブルに置いてやる。

 身体をおりたたむようにして笑うルーファウスは、アデリアナのじっとりとした視線に気づいて、また口を覆った。


「ルー、ルーファウス。わたし、べつにおかしいことなんて言わなかったわ」

「いや、うん、そうなんだけどね……。あなたにつけた騎士と女官は、ずいぶんあなたに馴染んだようだなと思って……っふふ」


 ルーファウスは、ひとしきり声を立てて笑ったあと、はー、と長く息をつく。


「わたしは、自分の大切なものを守りたいだけよ。だから、ジェラルドと喧嘩したの。あれを喧嘩というならね。わたしは、大切なものを守るためならたたかうの。たとえ、どんなに淑女らしくないとしてもそうするわ」

「そうだね、あなたはそういう人だ。……ありがとう」

「勘違いしないで。わたし、あなたのために怒ったんじゃないわ。自分のために怒ったの」

「私の気持ちを、守ってくれたんだろう? わかっているよ。だからありがとうと言ったんだ」


 アデリアナは、ゆるゆるとルーファウスから顔を背けた。

 そうだ。アデリアナは勝手に怒ったのだ。自分なりにルーファウスを大切にするために。それは、決してルーファウスのためではない。

 勝手に、アデリアナが身勝手にそうしたいと思って怒ったのだ。


 「あなたのために」というある種傲慢な身勝手さを振りかざすのではなく、ぜんぶ自分が勝手にそうしたのだから、あなたは気に病まなくていい。気づかなくたっていい。むしろ、本当なら知られたくもなかった。

 アデリアナの身勝手さとは、そういうものだった。アデリアナのひどくわかりづらいこういう頑なさは、たぶん、あまり一般的ではないのかもしれない。

 でも、ルーファウスはアデリアナのそういう頑なさに気づこうとして、受け入れてくれる。


 いやだな、とアデリアナは思った。ルーファウスの、こういうところがいやだった。

 分かってくれなくてもいいと思うようなところまで、彼だけがやすやすとアデリアナの心に手を伸ばしてたどり着いてしまう。そして、そっと受け止めてくれるのだ。いまだって、相手がもしルーファウスでなかったら、アデリアナはもやもやとした気持ちを抱えながら、王太子殿下が騎士にするお叱りを受け入れざるをえなかったかもしれない。


「……わたし、あなたの気持ちを知らないふりをしていたわけじゃないもの」


 唇が甘えるようにぽつりと呟くのを、アデリアナは止められなかった。


「あなたがどうしてそうなのかも、あなたと私の好きが違うことも、ちゃんと知っているよ」

「その、たしかについ最近まで気づかなかったけれど。いまは、違うもの」

「……アデリアナ、こちらを向いてくれないか。あなたの顔が見たい」

「いや。あなた、ぜったいにわたしが恥ずかしくなるような顔をしてるもの。見たいなら、横顔を見てちょうだい」


 ねえ、と両の手をすくいとられて。引っぱられるように揺すられて。

 アデリアナは、ことさらにつんと顔を背けてみせる。背けた先で、ジェラルドが礼儀正しく目を背けるのが見えて、何だか腹が立った。

 両手を解放されて、アデリアナはほっと息をついた。だが、代わりに伸ばされた手が、頬を覆う髪に触れるとは思わなくて、ぴくりと肩を震わせる。

 頬に掛かるアデリアナの髪をやさしく梳いた指先が、かすかに肌に触れる。幾度か梳くような動きをしたあと、指先が一房胸元にこぼれた髪の先をすくいとる。


「アデリアナ。あなたのこの髪も、」


 そこで髪にくちづけられているのがわかる。見えていないけど、感触でわかってしまう。


「あなたの真っ赤になるといっそう可愛い頬も、意志の強い瞳の色も。頑なな唇も、すべて素敵で好ましいと思っている。そうだね、けっこう自由に跳ね回っている爪先も好きだよ。ダンスのときに足を踏まれたのには驚いたけど」


 ルーファウスのまなざしがあまりに強いせいで、その瞳に撫でられた箇所が一つひとつ熱を持ってしまいそうだった。

 さらりとこぼれた髪を耳にかけるようにしながら、ルーファウスは囁いた。


「でも、私はあなたの身体にあなた以外の心が入っていたら、こんなに好きにはならなかったよ。あなたがよく、自らわがままで頑なでと語る心が、何より可愛らしいと思っている。……私はだから、あなたが好きなんだ」


 アデリアナは何だか泣きそうな気持ちがして、顔を見られたくなくて。両手で顔を覆った。何も言えなかった。何か言ってしまったら、涙がこぼれてしまいそうな気がした。


 だから、だからルーファウスはいやだ。

 アデリアナを、ただのわがままで頑なな娘として片付けてはくれないから。


 たぶん、アデリアナは娘だ。

 ディクレースからはよくそう言われるし、自分でもよくわかっている。ほんとうの淑女らしい淑女は、たぶんジェラルドに怒らない。ルーファウスが彼を代わりに叱ろうとしても、受け入れるだろう。

 アデリアナは面倒くさい娘だから、それが嫌なのだ。

 でも、ルーファウスはそんな、ただのアデリアナである部分を、好きだと言ってくれる。そんなの……そんなの、ずるい。泣きそうに嬉しいのに、同じくらいずるい。


「……ルーの、ばか。ばかばか。はずかしいことばかり言うのね。でも、嬉しかった」


 顔を覆ったままむぐむぐとアデリアナが言うのに、ルーファウスは穏やかにうん、と言う。


「ねえ、アデリアナ。顔は見せなくていいから、あなたを抱きしめさせて」


 手のひらを少しだけ下げると、両手を広げるルーファウスが視界の隅に見えた。

 アデリアナは眉を下げ。しばらく、たっぷりと逡巡し。


「ねえ、こんどいまみたいなことを言うときには、事前に教えてくれる? どきどきして困ってしまうから」


 と言いながら、その腕のなかにぽすんと身体を預けた。


 ……当然、そんなことを言われてルーファウスが何もしないままでいられるはずもなく。ぎゅっと痛いほどに抱きしめられてアデリアナは小さく叫んでしまうのだが、ルーファウスはなかなか解放してはくれなかった。


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