第6話 王妃殿下への手紙と最初のお願い

 翌日のこと。

 娘たちと朝食を取ったあと、アデリアナは書きもの机に便箋を広げて、ううんと小さく唸っていた。何をしているのかというと、王妃殿下に宛てた手紙を書こうとしているのだった。

 ずいぶん悩んだが、やはりジェラルドとシェーナにばかり負担がかかっているのはよくないと思い、昨日のルーファウスとの会話を思い出し、王妃殿下のご機嫌を伺ってみることにしたのだ。


 先程シェーナがお茶を用意すると居室を出て行き、ジェラルドも扉の外に控えているために、いまはアデリアナとリンゼイ夫人のふたりきりだった。もともとそうなることを期待して、シェーナにお茶を頼んだのだ。

 目論み通りふたりきりになったので、アデリアナはリンゼイ夫人にそっと訊ねた。


「王妃殿下の御用はもちろん、わたしよりも優先すべきものだわ。でも、この状況はジェラルドとシェーナに少し負担なのではと思っているの」


 それとなく訊ねるというわけにはいかなかったが、リンゼイ夫人はその瞳を伏せて、ややあってため息をついた。


「本当に申し訳ございません。姫様も、外出を控えてくださっておられますね。あまり図書館にもお出でになっていませんでしょう。二人にも示しがつかないと思っていたところです」


 ジェラルドは王家に対する思い入れが若干強すぎるきらいがあり、シェーナは感情をあまり表にあらわさず、かつ二人とリンゼイ夫人の間に年齢差があるために意外と回ってしまっているが、負担は負担だ。おそらくは若い者のためしとなる立場にあって、かつそのことを自負していて、自分にもしっかり厳しそうなリンゼイ夫人のことだ。そのことを、わかっていないはずがない。


「だからね、王妃殿下に、ご機嫌伺いのお手紙をさしあげようと思うの。リンゼイ夫人に色々教えてもらいたいことがあるから、もう少しわたしにもお貸しくださるようお願いしようと思っていて。さしでがましいかしら? ああもちろん、ちゃんと礼儀に則って迂遠うえんな文章にするわ」


 途中まで表情を心なしか和らげていたリンゼイ夫人は、「迂遠」というあたりでかすかに眉を顰めた。だが、一瞬のちに苦笑する。


「私からもお願い申し上げます。姫様からお話しいただくのが、一番お喜びになるでしょうから」

「よかった。じゃあ、手紙を書くわね。午後から王妃殿下のもとへ行くのでしょう? そのときに預けていいかしら。どうかこっそりお渡ししてね」

「はい。でも、よろしいのですか? ご面会ではなくて」

「だめよ。わたしは個人的にお手紙をさしあげたこともお目にかかったこともあるけれど、いまは花園入りの娘なのよ。王妃殿下とのお茶会だってまだなのに、一人だけ抜け駆けしたような形になってしまうわ。お手紙もじゅうぶん抜け駆けかもしれないけれど、リンゼイ夫人をお貸ししているのだから、そこはお目こぼしいただきたいわね。

 ……ね、合格かしら?」


 アデリアナの囁きに、リンゼイ夫人はうっすらと微笑んだ。

 アデリアナは、この状況について考えてみたときに、花園入りには自分に与えられた騎士や女官をどう扱うのかを見る試しが設けられているのではないかと思いついたのだ。そうでなければ、リンゼイ夫人も王妃殿下の提案を受け入れることはなかったのではないかしら、と。

 アデリアナはリンゼイ夫人は公平な人物だと感じていたので、いくら王妃殿下の御用とはいえシェーナに女官の仕事を一方的に負担させているのが不思議だったのだ。事前に断りがあったものの、リンゼイ夫人の不在は多すぎた。

 でも、アデリアナの人物を量ろうとする試しであったなら、その不自然さも理解できなくはない。ジェラルドとシェーナが表立って不満を出さないでいたのも頷ける。

 

 だから昨日、ルーファウスにも「王妃殿下に何も言わないでいいですからね」と念を押しておいたのだ。王妃殿下のちょっかいを王太子に告げ口して止めてもらうだなんていうのは、この場合、最悪な振る舞いだからだ。アデリアナ個人としても、そういうのは何だかいやだ。

 ただし、ルーファウスにはあっさりと「もとよりそういうつもりだったよ。あなたがどうするのかを楽しみにしている」と返されてしまったが。糸口を示したことは甘さといえば甘さかもしれないが、ルーファウスはアデリアナに何もできない娘でいてほしいと望んでいるわけではなかった。ルーファウスが王太子だからといって、アデリアナが何でもは許さないように。


 そういうわけで、アデリアナは手紙を書こうとしているのだった。

 ただし、相手は何事も美しいものを愛すると言って憚らない王妃殿下だ。

 王妃殿下には、かつて自分と並んで社交界の華と謳われたアデリアナの母が父と結婚することが決まったとき、夜会で「わたくしから美しい友人を奪うのね」と責め立てたという逸話があるほどで……人であれ物であれ、美しいものを心から愛し、見抜く瞳には定評がある方なのだ。便箋とインクの組み合わせにも気を遣う。

 悩み悩み、花園入りの季節に合わせて、定番だが外しもしない女神の花をモチーフにした便箋を選んだ。これはアデリアナが管理を任されている街の活版印刷を生業としている職人に頼んだもので、金型から作らせたものだ。わがままを言って、花と枠ではインクを変えてもらい、罫線は空押しにしてもらったお気に入りの品だ。

 便箋がお気に入りだが定番の路線であるので、インクは少しだけ外した色合いにした。この頃流行っている金粉が入ったインクで、これもまたアデリアナがわがままを言って、色合いの異なる金粉を混ぜてもらった特注品である。ペン先につけて紙に書きつけたときの色合いと、乾いてからの色合いが変化するインクなので、書いているときも気持ちを楽しくしてくれる。はじめは女神の花のように淡い色をしているが、乾くとぐっと深みが増して、おくゆかしい風情が加わる。


 便箋とインクを選ぶのは楽しかったが、書く内容は少し考えなければいけない。

 まずは、折り折りの挨拶で使われる定型文と、花園入りから数日が経っているのにご挨拶が遅れたお詫びからはじめる。その次には、多少は花園入りのことを書いた方がいいだろう。王妃殿下もご自分が主催するお茶会の前だ、娘たちのことを知りたいに違いない。おそらく一人だけ先んじて王妃殿下に手紙を書くという抜け駆けには違いないので、ほかの娘たちのことを公平に紹介する必要がある。その後、最後にそっと書き添えるのが、言いにくい本題だ。


 書くことを順に便箋に書き連ねながら、アデリアナは一人ひとり、娘たちのことを思い浮かべる。

 そういうとき、アデリアナは自分の目を通してではなく、物語を読むように、俯瞰するようなまなざしで物事を考えようとする。


 ――花園入りの娘たちは、それぞれが異なる魅力を持っている。


 アーガイン公爵令嬢のイゼットは、アデリアナよりも余程公爵令嬢らしく落ち着いて分別のある娘だ。思慮深い光を湛えた瞳とほのかに纏った陰りが、そのうつくしさを際立たせているのも魅力だと思う。自分こそがその悩みの種を晴らしてやりたいと思うような、でも触れがたいような……そんな陰りだ。

 学舎では優秀な成績を修めていたと効くし、娘たちの中でも自然と一番上のお姉さんのような立ち位置にあるから、王城での立ち回りにも不安がない。彼女は決まりやしきたりには従順だが、ときどき見て見ぬふりをすることだって、知っている。たぶん、娘たちの中では、一番王妃らしい王妃になるのではないかと思う。


 アスコット伯爵令嬢のガートルードは、ふわふわの巻き毛につぶらな瞳が可憐な娘だが、その見た目の可愛さや表面的な大人しさの下には、針への深い愛が隠れている。物柔らかな振る舞いと、誰もが助けてやりたくなるような雰囲気は持とうと思っても得られるものではない。自分が遣う者にも適切に甘えることができて、同じだけ慕われそうだ。ちょっと、針を愛しすぎていそうなところも可愛らしい。

 きっと愛情深いのだろうなと思うし、彼女の隣でならどんな頑なな人だって安らいでしまうのではないだろうか。


 蜂蜜色の髪と瞳を持つディティエ侯爵令嬢のティレシアは、学舎で仲良くなったというユイシスの前だと、少しお姉さんぶるようなところがある。それはイゼットが娘たちの中で示して見せるようなものではなくて……遅くに出来た娘として愛されてきたことが伝わってくるユイシスの、貴族の娘としてはざっくばらんな快活さを羨むような、愛しむようなティレシアの振る舞いは、年上の者なら微笑ましく見つめて、ときどきからかってみたくなるような可愛げがあるのだ。政務で疲れていても、彼女がいるなら毎日楽しいのではないか、なんて思ってしまう。


 ティレシアと仲のよいルドン侯爵令嬢のユイシスとは、アデリアナはあまり個人的に会話を交わしたことがない。踊りの時間も違ったし、ちょっとだけ、遠慮されているような感じを受けていた。とはいえ、娘たちみんなで集まっている時に、良家の娘としては少し勇気が必要で、でもとびきり楽しい提案をしてくれるのは、いつも彼女だ。みんなで図書館に行こうと言ってくれたのも、そう。さばけた話し方は気安すぎると思う者もいるだろうが、一番下の者に慕われやすいのは、朗らかで自然体な彼女だろう。


 花園入りの娘たちは、年こそ違うが、みんな気の好い娘だった。

 少しだけ、いつまでも彼女たちと仲良く過ごす時間が続けばいいのにと思ってしまうくらいには。


 大変悩みながら、アデリアナは王妃殿下に宛てた手紙を書き上げた。

 気づけばすでにシェーナは戻って来ており、机の隅には紅茶が置かれていた。

 わずかに冷めた紅茶をゆっくりと味わう間、インクを乾かしがてら並べていた手紙を読み返し。問題なさそうねと頷いて、リンゼイ夫人に火を用意してもらう。

 インクの色に合わせて、金粉入りの蝋で封をする。あたためられて溶けた蝋をとろりと垂らして、そっと紋章の印を押し当てる、その感触がアデリアナは結構好きだった。


 ……これは余談だが、あまり筆まめなほうではないアデリアナがルーファウスが留学している間、なんとか手紙を返し続けることができたのも、手紙用品へのこだわりのおかげかもしれなかった。

 ルーファウスはアデリアナと違ってたいへんな筆まめで、返事を送ってきたかと思えば、気まぐれに「そういえば書き損ねたことがあったから」と、返事を書いている間にも重ねて手紙を送ってくるようなところがあって、アデリアナをたいへんひやひやさせた。そのことを見越してか、ルーファウスの手紙にはいつも「返事は遅くなってもいいよ」と書き添えられていたが、さすがに返事がいらないとは書いてなかった。

 つまらないことしか書けないのに……と思いながらも、なんだかんだで楽しみを見出してしまうアデリアナは、ルーファウスの留学の間、自分のための便箋やインクを発注しすぎてしまった。


 蝋が固まるのをしばし待ち。アデリアナは、ふと息をつく。

 そうして、無事にリンゼイ夫人に手紙を託したのだった。

 戻って来たシェーナは満足そうな顔のアデリアナと、どことなく笑みを浮かべているようなリンゼイ夫人を不思議そうに見ていたが、二人が何も言わないので何も問うことはなかった。



 昼食から戻ったアデリアナは、シェーナに着替えたいと告げた。

 

「ああ、これにするわ」

「図書館に行かれるのですか?」


 居間と続きになった寝室で、アデリアナが示したデイドレスを衣装棚から出しながら、シェーナが訊ねる。

 図書館に行くときのアデリアナは、裾の広がりすぎない、丈もやや短めの軽やかなドレスを選ぶ。

 花園入りをして間もない頃、シェーナはそのことに反対したのだが――眉を下げたアデリアナが、それでも大人しく纏ったきちんとした裾の長いドレスで脚立を上り下りしたり、書架の一番下の棚に並ぶ本を見るためにドレスの裾を折り畳むようにしてしゃがんだりしているのを見て以降は、反対することはなかった。「ドレスの裾でお掃除をしていただく必要はありません」と言って。


「そう! 今日はね、夕食まで予定がない日だから。絶好の図書館日和よ」


 微笑んだアデリアナは、正装に近いドレスを脱がせてもらいながら、鏡の中の自分を見るともなしに眺める。

 一口に白い肌といっても様々だが、アデリアナの肢体はほんのり赤みを透かしたような色をしている。コルセットとシュミーズだけの姿になった身体が、昼過ぎの明るい光に浮かび上がっている。

 アデリアナの目が柔らかい曲線を描く自身の輪郭をなぞっているのを見てとったのだろう。シェーナが、そっと囁いた。


「お綺麗ですよ」

「そう?」

「突然体操をお始めになったときは驚きましたけど、意識していらっしゃるのでしょう?」

「母がね、若さに甘えているとあっという間に太るって脅すの。べつに、ものすごく太らなければいいんじゃないかしらって思うのだけど……でも、ドレスを作り直すのはねえ、と思って」


 アデリアナは本に耽溺する生活を許されるかわりに、母から適度な運動を義務づけられている。毎日起きてから軽く身体を伸ばし、お湯を使う前には日替わりで違う内容の体操をしなくてはならないのだ。はじめはいやいやだったが、確かにそうしたほうが疲れも取れるので、花園入りをしてからも続けているのだが……アデリアナがほっそりとして褒めてもらえる機会が多いのは、許されれば一日じゅう寝転んで本を読んでいるだろうアデリアナを危惧した、美容への意識が高い母のおかげだろう。


「姫様は、あまりご自分の見た目に関心がおありではないのですね」

「褒めていただくことはあるわね。装うことも好きよ、楽しいから」


 促されて広げられたドレスの中央に移動しながら、アデリアナは爪先立ちに鏡を覗き込む。

 可愛い、綺麗、お美しい……アデリアナには、幼い頃からそんなやさしいことばが降りそそがれてきた。生まれ持った身分がそうさせるのもあっただろう。

 かといって、ものすごく世辞を言われているわけでもないことを、アデリアナは知っている。

 夜会でルーファウスとダンスを踊ったあとなどに、化粧室で「お兄様が王太子殿下のご学友でよろしかったわね」と当てこすられたことはあれども、「不釣り合いで王太子殿下がお可哀想」といった嫌味を言われたことはないからだ。アデリアナには、もっと物語のような嫌味を言われてみたいという密かな欲望があるのだが、残念ながらそんな機会はあまりなかった。それに、あの審美眼の鋭い王妃殿下に見目はよいと太鼓判をいただいてもいる。

 よって、その程度には自分の見た目は整っているらしい、という評価をアデリアナは下していた。


 ふと気になって、アデリアナはシェーナに訊ねた。


「シェーナは、好きなひとはいるの?」

「いいえ。私は恋をしません」


 鏡の中に映るシェーナは、整った顔立ちに何の表情も浮かべないままアデリアナにドレスを着せ付けていく。


「そうね。べつに恋も結婚もしなくたって、幸せに生きていけるわ」


 ドレスの袖に手を通してもらいながら、アデリアナは頷いた。細い手首から肘より拳ひとつ分ほど手前までを覆うカフスに並ぶのは小粒の真珠で、アデリアナはそのつやつやと光る表面を指先で触れながら、なんとはなしに言ったにすぎない。

 けれども。ふいに、背後でぼたんを留める手が止まった。


「シェーナ?」


 鏡の中を覗いても、アデリアナの背後で床に膝を付いているシェーナは応えない。アデリアナが首をめぐらせると、綺麗にまとめられた淡い色の髪とつむじが見えた。


「姫様は――変わっていらっしゃいますね」

「そう?」


 だって。シェーナは薄い唇を震わせて、いつになく感情の滲む声を漏らした。


「毎日のように、ただ生きているだけでこう言われます。せっかく器量がいいんだから愛想よくしろ、そうすればすぐ結婚できる。はやく女官をやめて結婚しなさいと」

「シェーナ……そんなことないわ。自分の生き方は、自分で決めていいの。だって、どうしても結婚したいわけじゃないんでしょう? いろんな人がいていいの」


 アデリアナは振り向いて、シェーナの前で膝を抱えるようにして座り込む。そうすると、俯いているシェーナの顔がようやく見えた。

 覗き込んだシェーナの面はたしかにつるんとしてなめらかだが、はじめにそう感じたように、人形のようには見えなかった。そんなふうには、思えなかった。


「姫様は、ご自分の生き方をご自身で決めていらっしゃるのですか? その、お家のためや身分ではなくて……。姫様が王太子殿下の想いをただ従順に受け入れないのは、そういうことなのでしょうか? ジェラルドは不満そうですけれど、私はべつに、いいのではないかと思うんです。だって……」


 そこまで口にして、シェーナははっと唇に指先をあてた。


「……出過ぎたことを申しました。どうか、お忘れください」


 アデリアナは微笑んで、ゆっくりと首を振った。いやよ、と。


「だって、なあに? ねえ、教えてシェーナ」


 シェーナは唇を閉ざしていたが、アデリアナが引かないと見て取ると、諦めたように目を閉じた。繊細な睫毛がやわらかく瞬き、遠慮がちにアデリアナと視線が重なる。


「……だって。私も姫様も、心は自由です」


 アデリアナは微笑んだ。弾けるように。


「ええ、そうよ! だから、わたしはわがままな娘でしょう?」

「……はい、それは少し。困るようなわがままは仰いませんけれど。その、自由でいらっしゃいますよね」


 おずおずと、だが正直に頷いたシェーナに、アデリアナは小さく声を立てて笑ってしまった。

 アデリアナは、歯に衣着せない物言いが好きだ。ジェラルドとは相性がわるいなと思っているし向こうからもそう思われているだろうが、彼のわかりやすさには好感を抱いていた。シェーナの、淡々としながらもうっすら感情が伝わってくるような正直さも、好ましいと思っていた。


「ジェラルドなんて、わたしのこと、いかにも認めたくなさそうな顔をしているものね!」

「ジェラルドは、あれで包み隠しているつもりなんです」


 なかなか辛辣な評にひとしきり笑ってしまったあと、アデリアナはシェーナの顔を見つめた。本音で話してしまったせいだろう。シェーナも、今度は正面からアデリアナの視線を受け止めた。


「わたしはね、自分で生き方を選びたいと思っているの。だから、どうするのかははっきりと決め切れていないのだけど……たとえルーファウスが望んでいるような気持ちを持てなかったとしても、彼に選ばれることを自分で選ぶこともあると思うの。……なんだかややこしいわね。伝わる?」

「はい。受け入れることを選ぶ選択肢もある、ということですよね」

「そう。だから、わたしはしたいように生きるわ。生まれ持った身分や義務だって切り離すのは難しいし、わたしとあなたでは、違うことも多いとは思う。それでも、わたしは自分で選んだことを後になって後悔しないと決めてるの。だって、わたしが選んだのよ。わたしの選んだ、わたしの人生だから」


 シェーナは、いつもの無表情をすこしだけ溶かしたように、寄る辺ないような、それでいて少しだけ安堵したような表情を滲ませた。


「ね、心配してくれたの?」

「姫様のそういうところは、ちょっと苦手です」

「ええ、そう? だめ?」

 

 嬉しそうに頬を緩ませるアデリアナに何とも言えなさそうな顔をして、シェーナはそっと手を動かしてアデリアナに立つよう促した。

 すべての釦を留め終えて、ドレスと共布のリボンを胸元で結んでもらうと、アデリアナは鏡の前に座る。髪を軽く整えてもらいながら、アデリアナは鏡越しにシェーナを見つめた。


「あのね? べつに今すぐじゃなくていいし、いつかでいいのだけれど……」

「? はい」

「もしシェーナが女官を辞めたくなって、でも結婚もしたくなくて……周りから干渉されるのが嫌だなと思ったら、フィリミティナにいらっしゃいよ。わたしがお父様から任されている街と村があってね、いいところよ。みんなわたしのわがままをきいてくれるくらいだから、それなりに自由さもあると思うし……。

 シェーナは女官だから作法も身についているし、教師になってもいいんじゃないかしら。商家のお嬢さん方に王城仕込みの礼儀作法を教えるの。需要がありそうだし、なかなか素敵な思いつきだという気がするのだけれど」


 夢中になったときのくせで、ついひと息に喋ってしまったアデリアナは、鏡の中であっけにとられたような顔をするシェーナに、つと首を傾げる。


「ああでも、王都がいいのであれば、もちろんわたしの家で働いてくれるのでもいいわ。こちらのほうがいいかしら? わたしが生きている間ならわたしがなんとかするし、家族にも言っておくから。わたしみたいな娘を育てた家だから、そう口うるさくはないはずよ。たぶんね」


 ぱちぱちと瞬きをくり返していたシェーナは喉の奥から絞り出すようにして、ため息まじりに囁いた。


「……姫様は、やっぱり変な方です。お気持ちはありがたくいただいておきますが、誰彼問わずそんなふうに優しくなさってはいけません。利用されてしまいますよ」


 あら、とアデリアナは用心深いシェーナのことばに微笑んだ。


「もちろん人を見て言っているのよ。だってこれから、わたしはあなたにたくさんお願いをするもの。ねえ、さっそく最初のお願いがあるのだけど、言ってみてもいい?」

「どうぞ、姫様のお思いのままに。でも、お願いをお受けするかどうかは、その都度私が選びます」

「あなたが?」

「はい。私が、自分で決めます」

「ありがとう。どうぞそうしてね。絶対よ?

 あのね、図書館に行くついでに行きたいところがあって……」


 アデリアナの髪をやさしくくしけずりながら「お願い」に耳を傾けていたシェーナは、はじめは不思議そうな顔をして……それから、少し驚いたように瞬いた。

 ややあって、抑え切れないため息をこぼしたあと。シェーナはアデリアナのお願いに、そっと頷いたのだった。


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