第4話 針の時間と踊りの時間
花園入りの日々は、ふわふわと穏やかに過ぎていく。
毎日二度食事のときに顔を合わせて、あらかじめ組まれている予定に添って生活するうちに、おのずと娘同士の距離は近しくなった。
いまも娘たちは離宮のサロンに集い、ぐるりと輪を描くように並べた椅子に腰かけて、刺繍やレース編みをしている。「針の時間」なのだ。この予定を見たとき、アデリアナはどうして裁縫箱の持参が必須だったのかを知った。
女神はそういった手慰みをすることはなかったというが、古くから針と糸は娘たちのおしゃべりと相性がいいもので。サロンには、くすくすと楽しげな声が絶えない。
「ガートルード様、刺繍がほんとうにお上手ね」
「色遣いも落ち着いているのに華があって、素敵」
アスコット伯爵の三女ガートルードは、誰が一番器用なのか見比べずともはっきりとわかるほどに、飛び抜けて針に優れた娘だった。教本や図案集のまま縫い取ることができたとしても、糸選びや縫い取りの細やかさが生む美しさは、持って生まれた才か丁寧に磨いてきた感性に左右される。ガートルードの手が生み出すものは、その技術もそうだが、見る者の心に訴えかけるような魅力を持っていた。
かわるがわる手元を覗き込まれて、ガートルードは俯きがちに羞じらっている。
いま彼女の手もとに広げられている生地には、女神の愛した花と葉をかたどった精緻な枠が刺繍されている。真ん中でくびれたようにたわんだ枠の中に少しずつ縫い取られようとしているのは、かつて一番はじめに行われたという花園入りの様子だ。ゆたかな金の髪を地まで垂らした女神の姿が、丁寧に刺されている。女神の周りに王配候補を並べるというその図案は、ガートルード自らが考えて線を引いたものだという。
「……わたくし、恩寵があるんですの」
ぽつりと呟かれたガートルードのことばに、まあ、とほかの娘たちは瞬いた。
「とはいえ、わたくしの恩寵はほんとうにささやかなのですけれど……。でも、針子が望んでやまないものだって、羨ましがられてしまったこともあるんです。針と糸があれば、わたくしは何でもできてしまうような気持ちになってしまうんですの」
「塔には行かれたの?」
「はい。塔の方には、特に隠すものではないと伺っています。針と糸の先が見える、そういう恩寵なのですって」
恩寵とは、アーデンフロシアの祖である女神の涙だと伝えられている。
女神が人を憐れんで流したという涙の滴りは、女神と王配から続くの血の濃さに限ったものではなく、無作為に現出する。全ての者がその滴りを受けるわけではないこともあり、人為のほかにある不可思議な力を持つ者は大切に保護されるきまりだった。
王城に立つ研究塔は、世に生まれ出た恩寵を管理研究し、恩寵を持つ者を保護する役目を担う機関だ。王権にも貴族にも妨げられることのない自治機関であり、塔に入る者はいっさいの家のしがらみから解き放たれる。
長年くり返されてきた研究によって恩寵の秘密は少しずつ繙かれているが、神世の名残である恩寵にはいまだに謎が多い。
ガートルードのように、ささやかなものに分類される恩寵は問題とされないが、人の精神に影響を及ぼしたり呪いめいた発露をする恩寵については、硬く守られなくてはならないとされていた。
「ガートルード様。王城の図書館にはシシリア嬢の図案集が所蔵されているのをご存じ?」
アデリアナがそういえば……と口にしたのは、女神の親しい友であったと伝わる刺繍の才長けた娘が書き残した本だ。タペストリーや儀式の際に王冠を包む護符など、シシリア嬢の手によるものと伝わるものは、未だ多く遺っている。だが、女神との親交の深さと信仰への密接な関わりから、その図案集は広く世に流通してはいないのだ。
「いいえ! あの、わたくしにも閲覧できるでしょうか?」
ぱっと顔を上げたガートルードの頬がじんわりと紅潮するのを見て、アーガイン公爵の次女イゼットが微笑ましそうに唇を緩めた。
「持ち出しは禁じられていますけれど、写本を閲覧席で見ることならできますわ。わたしも読んだことがありますもの」
きゃあ、とガートルードが小さく叫ぶと、巻き毛もふわふわと楽しげに揺れる。
「どうしましょう、いますぐ行きたいですわ……! ああでも、わたくし、この後王太子殿下とお散歩の予定があるんですの。あの、お散歩って、どのくらいかかりますか?」
暗黙のうちに王太子との予定が邪魔だと告げているガートルードのことばに、堪えきれず噴き出したのはルドン侯爵の長女ユイシスだ。
「おふたりとも、不敬よ」
一番年長で、かつ常識的なイゼットがやんわりと窘め役を買うのもすっかりお馴染みのこととなっていたが、その顔も笑みを隠せていない。
「……みんなで図書館、行っちゃいます?」
ちらりと壁際に控えた女官たちを窺って、こそっとユイシスが囁いた。さばけた話し方をする彼女らしい提案に、娘たちはふと沈黙した。
「図書館は、夕刻まで開いているんでしたよね……」
「ええ、政務に関わる皆さまが利用されるので、長く開いていますわ」
「でも、夕餉の時間は決まっていますし、あまり遅くの外出はよろしくないですものね」
そろそろと蜂蜜色の瞳を上げて囁いたのは、ディティエ侯爵の二女ティレシアで。
父や兄が遅くまで仕事に勤しんでいればいるほど図書館に入り浸る時間が増えて喜んでいたアデリアナは、その経験からそっと頷き。
慎み深いイゼットが、いましかないかしらねと遠回しに促して。
うんと頷いた娘たちは立ち上がろうとしたところ――彼女たちをよくよく観察していたらしい女官長のサスキア夫人から「姫様方」と声がかかったのに、ひゃっと首をすくめた。
「事前に申し上げましたように、仕上がった作品をご提出いただきますから、あまりお時間に余裕はございませんよ」
三日に一度予定を組まれている針の時間は、仕上がった作品を二つも提出しなければならない。
しかし、図書館行きを止められてしまったガートルードは、花が萎れたようにしょんぼりとしてしまった。べつに今日ではなくてもいいことかもしれないが……娘たちは一様に気の毒がった。とりわけ話の水を向けてしまったアデリアナは可哀想に思った。
「サスキア夫人。確かにいまはお針の時間ですけれど、図書館で図案や意匠の参考になる本を見るのはいい勉強になるのじゃないかしら」
アデリアナの口答えともとれることばに、娘たちはきょとんとして――それから、サスキア夫人を見た。
サスキア夫人はふっくらとした身体を持つ、柔和そうな人物だ。だが、やさしいだけで大勢の女官を管理しながら王族や貴族たちと渡りあえるはずもない。娘たちは花園入りをしてから数日と経たないうちに、この柔和さの中にある厳しさを……逆らわないほうがいい人物であることに、ちゃんと気づいていた。
「姫様のおっしゃる通りだと思いますよ」
アデリアナのことばに目を細めて微笑むサスキア夫人は、表向き異を唱えてはいない。さてどうしますか? と問いかけるような視線を受けて、アデリアナは微笑んだ。
「少し早く切り上げて、わたしたちでガートルード様を王太子殿下のもとへお送りするのがいいと思うの。王太子殿下は王都の視察に出掛けておられるでしょう? 王太子殿下は約束を守られる方ですけれど、多少ガートルード様はお待ちになるはずよ」
どうしてアデリアナがルーファウスとガートルードの予定を知っているのかというと、花園入りから数日も経たないうちに、娘たちがそれぞれに手渡された書き付けを付き合わせたからである。
花園入りの間、ルーファウスはなかなか結構多忙だ。
数日おきに娘たち全員との夕食会に参加する上、一対一でのお茶会が手配されている。おまけに散歩(周りにお膳立てされた散歩が、はたして散歩といえるのかはアデリアナにも疑問だった)やダンスの練習、教師を挟んでの勉強会に、ルーファウス自身の希望だという政務補助……。それらが並ぶ予定表には、ルーファウスの予定が前後しそうな場合についての注記も添えられていたのである。
両の手のひらを合わせたアデリアナの隣で、察しのよいイゼットがああと頷いた。そういうことにするのね、と。
「そうね、私も心配だわ。だって、ガートルード様はこんなにお可愛らしい方なんですもの。もちろん、騎士のことは信頼していますけれど」
「わずかな間とはいえ、お一人になるのはさみしいでしょう。でも、皆で図書館にいれば安心ですわ。ガートルード様、お散歩のお約束は春のお庭でしたわよね?」
王城には、お庭という名で親しまれている小さな庭園がある。庭造りが好きだったという昔の王が、四季ごとに美しい花の色合いを計算して造ったと伝わるそこは、貴族たちの小休憩の場としても人気の場所だった。
「ええ、そうです! その前で待ち合わせとなっています」
「わたし、いいことを知っているんですの。図書館の窓の一つから、春のお庭への道がよく見えるのですわ」
しきりに目を瞬かせていたガートルードの顔に、ゆっくりと笑みが滲んでいく。その手を、隣に座るティレシアがやさしく握った。
静かにこちらを見つめるサスキア夫人に目を合わせ、アデリアナは首を振る。
「ほんとよ、嘘じゃありません。だって、自分で言うのもなんですけれど、わたし以上に図書館に詳しい娘はいませんし……」
そこで、ユイシスが小さく笑った。アデリアナは、女官長の後ろに控えたシェーナがひそやかにため息をついたのを見て取った。シェーナはアデリアナについて、図書館に何度も赴いているのである。
「それに、わたしたちのお勉強にもなりますわ。図案集や編み図を調べてもいいですし……近く、順番に王太子殿下の政務補助をする機会があるでしょう? 議会の記録を見たり、領地経営のお勉強だってできますわ。……いいことずくめだと、お思いになりませんか?」
サスキア夫人は、黙っていた。
しばしして、その整えられた細い眉がきゅっと片方歪んで、思わずといったように結ばれた唇の間から小さな声がこぼれ出た。
「……姫様はほんとうに、図書館のことをよくご存じなのですね」
「はい。何度も通っておりますもの」
「そういうことを言いたいのではありません。……いいでしょう。姫様のご提案のとおりにいたしましょう。そうですね、あと四半刻ばかりは、こちらで縫いものをしてくださいませ」
きゃっと沸き立つ娘たちに、サスキア夫人は苦笑する。
「いつも同じ手が通じるとはお思いにならないでくださいね」
「もちろんよ! ありがとうございます、サスキア夫人」
アデリアナに続いて、娘たちは順繰りにサスキア夫人へ御礼を言った。
そうして、くすくすと笑いながら再び針を手に取って、昼下がりのお針の時間を楽しんだのだった。
その翌日は、「踊りの時間」だった。
離宮の舞踏室には、女神が愛した花の名を戴いた曲の旋律がやわらかく流れている。
舞踏室には飴色のピアノが置かれており、王城に雇われた楽団員がのびやかな音色を奏でている。ルーファウスにダンスを教えたという教師が姿勢良く立って、ふたりを注意深く見つめていた。
週に一度、三人ずつ行われる踊りの時間では、自分の番でない間は大人しく見学する決まりだ。今日はイゼット、ティレシアの順でルーファウスと踊っており、アデリアナは舞踏室に足を踏み入れてから、ほとんどずっと椅子に腰かけて過ごしていた。
よく磨かれた床には花と格子模様が連なって足運びの間隔を教えるが、いま腕を組んで踊っている二人には必要なさそうだった。軽やかに踏まれるステップが揺らすドレスの裾の軌跡を眺めながら、アデリアナはきれいねと思う。ティレシアはダンスが好きなのか、それともルーファウスと踊れて嬉しいのか、くるりと回る度に覗く横顔は楽しそうだった。
広く取られた窓からさし込む陽射しにアデリアナがぼうっとしそうになったとき、隣あった肩がこつんと触れあった。
「昨日は楽しかったですわね」
「ええ、ほんとうに!」
アデリアナの頬に唇を寄せて囁いたのは、イゼットだ。
昨日、突然ぞろぞろと図書館に現れた娘たちの姿に、司書たちや政務の合間に資料を探しに来た貴族たちは驚いていた。とはいえ、王太子の花嫁候補である花園入りの娘たちに積極的に声をかけようとする者はいなかったが。
本の分類法について軽く触れ、目録を使った本の探し方や閲覧席の使い方、貸出方法を説明した後、思い思いに本を探す娘たちの様子を見て、アデリアナは少々うっとりしてしまったものだ。
「図書館に行って、思い出したの。私、そういえば勉学がけっこう好きだったんだわって。この機会に、学び直そうかと思っているの」
「いいわね、素敵だわ。いつだって遅いことなんてないもの」
小声でのお喋りは、いつもよりも距離を親密にさせる。おのずと令嬢らしい話し方は息を潜め、親しい友人のようなことばになる。
そっと息をついたイゼットの伏せた薄い瞼のうつくしさを見つめて、アデリアナは学舎ではじめて彼女と顔を合わせたときのことを思い出した。あのときもいまも、イゼットは控えめな笑みを浮かべて、ほんのりとさみしげな風情を纏っている。
「どうしたの?」
顔の周りに一房垂らした他は輝石と金糸で彩った紺の
「学舎で、はじめてお会いしたときのことを思い出して」
「あなたたち、あんまり気持ち良さそうに寝ていたものだから、びっくりしたわ」
王立の学舎は四年制で、特別な事情がない限り貴族の子女には入学の義務がある。
数年前まで女性の適齢期が短かったことを受け、貴族の娘たちは一年早く入学するという暗黙の了解があった。とりわけイゼットは、ルーファウスの入学に合わせたのだろう。アデリアナより四つ上にあたるルーファウスと三つ上のイゼットは、同級生だった。ルーファウスとイゼットが四回生の年に、アデリアナは新入生として学舎に入ったことになる。
それは、春がそろそろ終わりにさしかかったあたたかい昼下がりのことだった。
入学したばかりのアデリアナは、早々にお気に入りの場所を見つけていた。二つの校舎を繋ぐ回廊に面した庭に置かれたベンチは木影が陽射しをほどよく遮ってくれる場所で、本を読むのにぴったりだったのだ。
いつしかルーファウスがやってくるようになり、一緒に昼食を食べるのが習慣になった。食事を終えると政務で睡眠時間を削っていたルーファウスはお昼寝をしたがり、アデリアナは本が読みたかったので起こす役を買って出ていたのだった。
けれども、その日はあまりに温かくて、微風が揺らす葉擦れの音もやさしくて。アデリアナもつい、うとうととするうちに寝入ってしまった。それで、教室に戻ってこない王太子を心配した教師によってさしむけられたイゼットに起こされるまで、ふたりは午睡を楽しんでいたのだ。
あのお昼寝以来、昼休みの終わりにさしかかると、アデリアナの兄ディクレースが居眠りしていないか見に来るという決まりができてしまった。ディクレースはアデリアナに甘いが、本を読みすぎたせいで寝坊したときなどはきまってこの話を蒸し返す。
「……私、あなたたちがベンチにいるのを見るのがすきだった」
肩を離して、姿勢良く椅子に腰かけ直したイゼットが、視線を前に向けたまま囁いた。
その穏やかな目は、踊りを終えたティレシアとルーファウスが礼を交わすのを見ているようで見ていない。イゼットは、何かを思い出しているような表情をしていた。きっとそれはイゼットの胸に大切に仕舞われている思い出のような気がして、アデリアナの唇を柔らかに閉ざさせた。
「次はアデリアナ様でしてよ! ほらほら、おはやく!」
頬を上気させたティレシアが駆け寄ってきて、アデリアナの手を取って立ち上がらせる。その溌剌とした笑顔の前に、アデリアナとイゼットの間に生まれた柔らかな空気は吹き飛んでしまった。たおやかでいながら内心を窺わせない表情を纏ったイゼットにならい、アデリアナも身体に染みついた笑みを浮かべる。
「ダンスがお好きなの?」
「アデリアナ様ったら! 王太子殿下と踊れる機会なんて、そうそうありませんわ」
弾むように言ったあと、ティレシアはぱちりと瞬いた。
「……アデリアナ様は慣れていらっしゃるんでしたわね」
「畏れ多くも、兄が王太子殿下と親しくさせていただいているだけですわ」
清くただしい王子様であるルーファウスは、節度ある振る舞いとおそろしいまでの平等さで、たとえダンスであっても特定の相手を作ろうとはしなかった。
そんな中で、ディクレースがたびたび「妹と踊ってやってくださいませんか」とルーファウスの前に押し出すせいで、ふたりが踊る機会はそれなりに多かった。アデリアナが夜会に出るのがごくたまにしかでなかったら、もっとやっかまれたに違いない。
「……あの、アデリアナ様は王太子殿下のこと、どう思っていらっしゃるんですの?」
「ティレシア様」
ティレシアを窘めるようにイゼットが声をかけるが、アデリアナは少しだけぼんやりしていたので、思っているそのままを呟くように答えた。視線の先には、果実水を飲んで休んでいるルーファウスの横顔があった。
「完璧な王子様じゃなくていいのに、と思いますわ」
教師に促されて舞踏室の中央に進み出たアデリアナは、背後で期待していたものとは異なる返答にティレシアが苦笑したことに気づかなかった。だから当然、その隣でイゼットが肩をすくめたことにも気づかない。
アデリアナに一歩近づいて、ルーファウスが微笑んだ。王子様らしい顔をして。
「踊っていただけますか?」
「ええ、もちろん」
差し伸べられた白い手袋をはめた手を見つめて、アデリアナは胸に一滴まざったさみしさや苛立ちが合わさった気持ちを、できるだけ奥のほうへと押し込めた。
向かいあって手に手を重ねて、軽く膝を折って礼をする。公爵令嬢という器にすんなりと馴染んだ作法が、考えるよりも先に重ね合わせた手と腰に回された腕を受け入れる。
ふたたび奏でられるピアノの音に合わせて、爪先が床に描かれた花を踏んで軽やかに踊り出す。
今日のアデリアナは、夜会時の正装としてほんのり肩の
シェーナが結い上げてくれた髪は丁寧に編み込まれており、アデリアナにはどうすることもできないくらい複雑な様相をなしている。髪に飾った瞳と同じ色の細いリボンは、背中に垂れた先には真珠がついていて、揺れる度にアデリアナの黒髪にきらきら映えた。
適切な距離で寄り添った身体はあたたかく、アデリアナを柔らかに踊らせる。
慎ましく目を伏せて踊りに身をゆだねていたアデリアナは、教師の指摘を受けてルーファウスと視線を合わせる。ダンスを踊るとき、はじめから顔をまじまじ見つめていればはしたないと言われるし、いつまでも目を見ないままだとそれはそれで無愛想だと言われてしまうのが、アデリアナは昔から不思議でならない。
――だって、まっすぐに見つめられるのがこわいことだって、ある。
ルーファウスは、いつだってアデリアナをそのきららかな瞳でまっすぐと見つめる。
その直截なまなざしは、時々アデリアナをひどく落ち着かなくさせるのだ。
「さっき、イゼット嬢と何を話していたの?」
踊りながらの会話は囁く程度のひそやかなものだから、ルーファウスの声はいつものように親しげだ。だから、アデリアナも声を潜めつつ気取らない話し方を選んだ。
「学舎で、二人してお昼寝してたときのことよ」
「ああ、懐かしいな。あのときはディクに随分絞られた」
くるりと身体を回されながら、アデリアナはルーファウスの小さな笑い声を聞いた。
ふたたび腕の中に引き寄せられたとき、アデリアナはふと、知らない香りがするのに気がついた。甘やかで可愛らしい、春らしい香りだ。さっきまでルーファウスと踊っていた、ティレシアが纏っていた香りだろう。
ただ、踊っただけ。……そんなことは、アデリアナにだってよく分かっている。
ふいに、ふたりにしかそれとわからない程度に、けれども確かな強さで腰を引き寄せられた。あっとこぼれでそうになった声を、アデリアナは懸命に呑み込んだ。
夜会で偶にいる、ちょっと積極的な男性が好む距離感だ。傍目には節度を保っているが、ルーファウスと踊り慣れたアデリアナにとっては、いつにない距離感に思われた。
ドレスの裾が、いつもより密接にルーファウスの足に触れている気がした。互いに取り合った手のひらも、腰を抱く手も、どこか違うように感じる。触れられている、そう強く感じた。
アデリアナは、ふと。花園入りをした日、ルーファウスに「好きになってほしい」と言われたことを思い出した。あれから、ルーファウスはあらかじめ決められていた予定のほかに、たびたびアデリアナの居室を訪れる。適切な距離を保って、リンゼイ夫人やシェーナに見守られながらお喋りをする、ただそれだけだったのに……いま、分かってしまった。
ルーファウスは、ほんとうにアデリアナに好きになってほしくて来ていたのだ。
いままでだって、好かれているとは思っていた。だって、幼馴染みだし友人だと思っていたから。好きになってほしいということばを疑っていたわけではないけれど。たぶん、きちんと受け止めきれていなかったのだ。だって、いままで、そんなふうに思ったことなんてない。
動揺する心を置いてきぼりにして、身体は大人しくくるくると回る。
次に引き寄せられたとき、ふたりの距離はひどく適切ないつものそれに戻っていた。
無意識に、唇からほっと吐息がもれた。だが――伏せた視界の端で、頭ひとつ分高いところにあるルーファウスの唇が、柔らかに微笑んだのがちらりと見えて。
イゼットやティレシア、教師や女官たちを背にしたルーファウスは、アデリアナにだけ顔を向けるようにして囁いた。
「アデリアナ、私はね。あなたが好きだよ。どうか、覚えておいて。たとえあなたが忘れそうになっても、くりかえし思い出させてあげるから」
それは、ひどく甘くて、どうしたらいいのかわからないくらいにわるい声だった。
その声が耳に落ちてことばに理解が追いつくと、瞬間。頬に、かーっと熱がはしる。
きちんと見なくともわかった。いま、ぜったいに、ルーファウスはおそろしい顔をしている。ぜったいに、ただしい王子様の顔をしていない。
(どうして、いまそんなことを言うの……!?)
いつもだったらそう返していたはずのことばは、もう喉をやすやすと通っては出て来ない。ルーファウスの気持ちを、きちんと知ってしまったから。いまは、ふたりきりではないから。……いまはふたりきりではないのに、わざわざそんなことを言うのだ。
真っ赤になって口を開け閉めするアデリアナに、ルーファウスが楽しそうに笑った。アデリアナはそのあまりに軽やかで楽しげな素振りに、なんだか猛烈に腹が立った。
「ねえ、覚えてくれた?」
「……少なくとも、今日は忘れられないわ」
「そう。じゃあ、また明日教えてあげるよ」
アデリアナは、とうとう近くにあるはずのルーファウスの顔をまともに見られなくなってしまった。
明日は、ルーファウスとアデリアナの予定は組まれていない。それでも、ルーファウスはアデリアナを訪ねてやってくるのだろう。これまでのように。ほんとうに、これまでの通りになるのかはわからないけれど。
また何か言おうとしたルーファウスの足をドレスの影で踏み、けれども何ら反応を見せないでいるその様子に、アデリアナは唇をかたく閉ざす。
ようやく、ひどく長いように思われた曲の終わりが近づいてきた。
楽しげなルーファウスの視線を感じながら、はやく頬の熱がひきますようにとアデリアナは願った。
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