第2話 五人の娘たち

 荷物の立ち会いを終えた後に案内されたのは、庭園に面した小部屋だった。

 普段はどのようになっているのか知らないが、家具はほとんど片付けられており、中央に円卓が据えられていた。その周りに並べられた椅子の一つに、アデリアナは腰を下ろしている。

 いま、室内には、アデリアナのほかには誰もいなかった。ただ円卓に等間隔で置かれた椅子の数が、アデリアナが一人先にこの部屋に通されたことを伝えた。


 つと見上げた半円球のかたちをした天井には淡く色づいた硝子が規則的に嵌め込まれていて、夢のような模様を成している。アーデンフロシアの祖である女神が愛したことで知られる花をかたどったそれは、春の陽射しを繊細に透かして光を届けていた。

 開け放された窓からは、花の香りが風に乗って運ばれてくる。萌ゆる緑の爽やかさと、秘密めいた甘やかさを持つ香りだ。

 お三時にはさしかからないものの、お茶会をするには恰度いい昼下がりだ。いつものアデリアナなら、まだ寝台の上でまどろみながら本を読んでいる時間。もしかすると、夢の淵から出ることさえしていなかったかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、遠くワゴンの上で茶器が立てる音が近づいてくるのが聞こえた。アデリアナは浅く腰かけたまま細い腰を伸ばして、唇に淡い笑みをたたえる。

 さやさやと立ちはじめた人の気配、ドレスをさばく衣擦れの音。帯剣している騎士の重い足音。焼きたての菓子の素敵な匂い。

 近づいてきたそれらを冷静に感じ取っていたアデリアナは、入室の断りを入れる声にゆったりと首をめぐらせてどうぞと小さく頷いた。


 ややあって開かれた扉から入ってきたのは、自分と同じくらいの年嵩の娘たちだ。

 一番初めに入ってきた娘が、そっと立ち上がったアデリアナを見て微笑む。

 まっすぐな紅茶色の髪と落ち着いた緑の瞳が印象的な彼女は、アーガイン公爵令嬢イゼットだ。アデリアナの三つ上にあたる彼女とは、王立の学舎で見知っていた仲だった。友人とも言えないくらいの淡い付き合いではあったが、アデリアナは彼女に好感を持っていた。


「ごきげんよう、アデリアナ様。久しぶりにお会いできて嬉しいわ」

「ごきげんよう、イゼット様。わたしもです」


 そんなふうに順繰りに挨拶をするのをくり返して、ぐるりと円いテーブルを囲むように五人の娘たちが立つと、女官長のサスキア夫人が着席を促した。

 誰ともなしに、娘たちは互いを見つめ合う。

 円卓にかけられた清潔なリネンの白いクロスが際立たせるのは、それぞれ異なる色を宿した髪と瞳を持つ年頃の娘たちの装いだ。傍目にはさぞ華やかに映ることだろう。


「この度は無事の花園入り、おめでとうございます。これから一月の間、姫様方には離宮の居室でお過ごしいただき、王太子殿下と交流していただきます。

 姫様方には、護衛の騎士とお世話をする女官を二名ずつお預けいたします。必要があれば他の者もお手伝いいたしますが、まずはその者達にお申し付けくださいませ」


 サスキア夫人によって語られたのは広く知られた花園入りの決まりであったので、娘たちは揃って頷いた。

 アーデンフロシアには、王族が年頃を迎えると婚約者候補を集めて交流を深める「花園入り」という名の儀式がある。年頃の娘を持つ貴族の家から選ばれた四人の娘たちは、花園――形を変えながら残り続ける王城の離宮で、一月にわたって選ばれた候補者たちと共に過ごすのだ。

 未来の王太子妃に選ばれるのは一人きりだが、才を見込まれて官僚や女官に登用された者、家の事業への利となる契約を取り付ける者など、花園入りを果たした娘には様々な恩恵が与えられる。

 古くは国名のもととなった女神がかつて人間の伴侶を選んだ出来事にまで遡るこの習わしは、代々受け継がれてきたこの国独自のものだ。そのため、特別な事由がない限り王族には長じるまで婚約者が決まることはない。周辺諸国の中でも一際珍しい習わしだ。


 とはいえ、花園入りは必ずしも行わなくてはいけない類いの儀式ではない。

 現に、物語となって流布したほどに熱烈な一目惚れの末に結ばれた先王とその伴侶の場合は、身分の低い出自の妃と主だった家の令嬢を引き合わせるための親睦会といった態で行われた。また、国外から伴侶を娶った場合にも、同じように形式的なものだったと伝わっている。

 

 現王の王太子は今年十九になるアデリアナより四つ上の青年で、特に欠点らしい欠点もないどころか、柔らかな金の髪に眩い紫の瞳が印象的な端正な顔立ちに、学舎に身を置いていた当時から政務に深く関わっていた聡明さで人気高い人物だ。

 兄ディクレースのおまけのような感じではあるが、王太子とは幼馴染みのような気安い関係にあるから、アデリアナもその人物の程を知っている。アデリアナから見ても王太子は好人物であったし、どうしてこんなに長きにわたって花園入りが行われないのか、少々不思議ではあった。だのに、王太子が王立の学舎を卒業した後隣国へ二年ほど留学していたこともあってか、花園入りは一向に行われないままだった。おかげで、適齢期の娘を抱える家は毎年じりじりと互いを牽制しあいながら花園入りの勅を待ち、あるいは年齢的に望みがないと悟ると慌てて婚儀を調えるといったことをしていたのである。

 それでも、花園が開かれるのを待つようにして、ここ数年で貴族の子女の適齢期が暗黙のうちにゆるやかに引き延ばされたのはいいことなのではないかとアデリアナは思っていた。いまどき、たかだか二十に満ちていない年頃で古いなどと言われたくないし、そもそも若さばかりを尊ぶならば、王城で要職に就いている人々は化石ということになってしまう。


 アデリアナはあと数年もすれば婚期を逃したと噂されるであろう微妙な年頃だが、学舎を出てからのんびりと本を読む暮らしを許されていたのも、公爵家の娘として親から花園入りを期待されていたからだ。いつ花園入りの娘として内定していたのかは知らないが、少なくともアデリアナは縁談の話すら一度も聞かされたことがない。

 そろそろ花園が開かれるのではないかという噂が立つたびに、主家のために社交界の噂を気に掛けている使用人たちは「お嬢様、そろそろですよ」と声をかけてきたものだった。けれども噂が立ち消え、また浮上し……といったことがくり返されていくうちに、ほんとうに花園入りが開かれるのかどうかわからない気がしたのも確かだ。

 たまに夜会へ顔を出すと、その度に「何か御存知?」「それで、いったいいつなのですか?」と問われたものだが……実際に王城から花園を開くという勅が届けられたときのアデリアナの気持ちは、きっとほかの誰とも異なるものだっただろう。


「まずは、姫様方でお茶をお楽しみくださいませ」


 サスキア夫人の声かけに、アデリアナはふと思い出から醒めた。

 静かに進み出た女官が紅茶を注いでいくのに、まあ、とちいさく声が挙がる。はっと口を押さえたゆるく波打つ巻き毛の娘に、アデリアナは微笑んだ。


「アスコット領のお茶ですものね。わたしもよくいただきます。爽やかに立つ素敵な香り……こちらは春摘みの茶葉かしら?」

「はい。先頃献上いたしました。……アデリアナ様にもお飲みいただいているとは」

「ガートルード様、アスコット領の茶葉は評判でしてよ」


 弾むように顔を上げた巻き毛の娘――アスコット伯爵の三女ガートルードのことばに、アデリアナはちいさく笑ってしまう。

 微笑ましそうにくすくすと笑ったイゼットが、紅茶を口に含んでいい香り、とため息する。


「茶器はセルフィナ窯のものね。ディティエ侯爵領の」


 イゼットのことばに、その隣に座る蜂蜜色の髪に同色の瞳を持つディティエ侯爵の二女ティレシアがそっと頷く。


「春の新作ですの。ユイシス様、スコーンに添えられたリリカのジャムはあなたのお家のものね」


 ティレシアが苦笑するように見つめた先で、誰よりも先にスコーンを割った燃えるような赤毛の娘、ルドン侯爵の長女ユイシスが元気よく返事をする。


「あっ、はい。王城のスコーン、おいしいですね! ジャムに合います」

「ルドンはリリカがたくさん採れるんですってね。たぶん、スコーンに使われているのはうちの小麦かしら」


 ふむとイゼットが頷くのに、アデリアナは微笑んだ。


「王城のスコーンはアーガインの小麦を使っていると聞いたことがありますわ。料理長のこだわりですとか」


 では、と首を傾げたのはガートルードだ。


「クロスの刺繍はフィリミティナ公爵領のものでしょうか? アデリアナ様のドレスの袖口の飾りと似ていますわ」

「ええ。これから売り出そうと思っているところですの」


 ……といった具合に、お茶会は娘たちの会話の糸口となるよう細やかに、ほどほどにわかりやすく配慮されていた。娘たちもそうと分かっていて、きちんとその配慮に応えた。

 領地の産物の紹介や新しい事業のお披露目、世間話に思える情報交換……親しい間柄でのものはさておき、貴族にとってお茶会とは少なからずそういう役割を担うものだからだ。


 アデリアナは然程交友関係が広くないため、あまりそうした差配する機会は少ないが、どう振る舞えばいいのかは心得ている。

 いま身に纏っているドレスは、アデリアナが管理を任されている街の才能あるお針子が考案した図案の刺繍で彩られており、その糸はその街に隣接する村で栽培している花を染料として染め分けたものだった。爪を染めているのも同じ花だ。貴族の娘は、耳飾り一つ髪留め一つをとっても自分の好みだけを頼みに選ぶことはない。だからこそ、お茶会を楽しめもする。


 アデリアナはティースタンドから手元に置かれた陶磁器のプレートを載せた皿にスコーンを取り分ける。陶磁器のプレートは予め温められており、その上に載せた小菓子やパンは冷めにくい。

 いそいそとスコーンを割り、まずはその焼きたてのやわらかさを残した生地を一口味わう。ああやっぱり、とアデリアナの唇はふわふわと緩んだ。王城のスコーンは普遍的なレシピよりも少々バターの塩気が強めで、そのまま食べてもじゅうぶんおいしいのだ。そこにあっさりめのクリームと、ごろごろと果実感の残るリリカのジャムを半分ずつつければ……罪深くも幸せになれる。


 ふと、アデリアナは自分が娘たちの視線を集めていることに気がついた。


「アデリアナ様は、どうして先にこちらへお着きでしたの?」


 イゼットが呈した疑問に、娘たちがそういえば……と顔を見合わせる。


「もしかして、先に王太子殿下からお声がけがおありだったのでは?」

「アデリアナ様、ガートルード様がおっしゃることは本当ですの?」


 頬を染めて期待を込めた瞳でこちらを見つめる娘たちに、アデリアナは瞬いて首を振る。どうしてそんなふうに言われるのか、分からなかった。


「いいえ、花園入りの娘たちは平等ですもの。わたしだけが特別扱いを受けることはありませんわ。ただ、お恥ずかしいのですけれど、皆さまよりも荷物が少なかったようで……それで一人、先にこちらに案内していただいたのです」

「……? お家の方からたくさん持たされますでしょう?」


 花園入りは、アーデンフロシアの貴族たちにとって、次代の花嫁をめぐるでもある。花園入りの勅が届けられた家は威信をかけて選ばれた娘を着飾り、領地の産物を持たせ、家を挙げて娘を盛り立てようとする。


「もちろん、皆さまとお茶をするときのために、おいしいお菓子や茶葉は用意しておりますけれど……」


 アデリアナは、不可解そうな視線を一身に集めて、ほんの少しばかり悩んだ。

 だが、彼女たちはみんな、アデリアナの淑女らしくない噂を耳にしていることだろう。それならば、言ってしまったほうがいいのではないかと思った。なにせ、一月の間ともに過ごす仲だ。それに、そもそもアデリアナは淑女らしくない娘だ。多少、上っ面を調えるくらいの分別があるだけで。


「その、家に帰ることになるでしょうから、荷物は少なくていいかしらと思いまして……。本は、図書館にありますし。もちろん、持参してもいますけれど」


 その場に、沈黙が落ちた。

 どうせ選ばれないのだから荷物も少ないです、選ばれるために頑張りませんと言っているようなものであったので、アデリアナにはその沈黙の意味がよく理解できた。馬鹿にしているのかと言われてもおかしくはなかったし、娘たちがアデリアナの評判を思い出していることもよくわかったからだ。


 ――フィリミティナ公爵令嬢は、淑女らしからぬほど書痴である。


 そう。アデリアナは、嗜みという程度の手芸や絵画が歓迎される貴族の娘にしては珍しいくらいの本好きとして知られていた。

 せっかくなら、本好きとか本が大好きとかもう少し可愛らしく言ってほしいものだが、書痴と言われるのもまあ、わるい気はしないもので。家族や親戚からは本狂いと呼ばれているが、アデリアナにとってそれは褒め言葉だった。


 そんなアデリアナが花園入りに参加する目的は、王太子に選ばれることではなく、王城の図書館にあった。

 何しろ、アデリアナは自分が選ばれるとは露程も思っていなかった。断ることができる類いのものではないので勅に従い花園入りを果たしたが、アデリアナはこれを幸いに王城の図書館の本を読み漁ろうと思っていたのだった。


 王城の図書館は、アデリアナのお気に入りの場所だ。

 アデリアナが早起きをするときは、王城の図書館へ行きたいときと決まっている。参城する公爵や兄の馬車に同乗して図書館へ入り浸り、挙げ句の果てには二人が仕事を終えても出て来ようとはしないので、家族からはもう諦められている。

 それなりの階級の娘は王城への出入りが認められているが、何かで呼ばれない限りその権利を行使しようとする者はどうもかなり少ないようで、アデリアナはとくに喧伝してまわっているわけでもないのに王城でそれなりに知られた存在だった。おのずと、アデリアナがそれなりに重度の本好きであることも広く知れわたっていた。

 それなりに身分がいいことと害がないから大目に見られているが、さすがのアデリアナにも自分が王太子妃にはあまり相応しくない自覚はあった。


 ……とはいえ。

 あまりにも日がな一日本の世界に耽溺しているせいで家族でさえ忘れがちだが、アデリアナは綺麗な娘だった。よく夜更かしをして目の下に隈をこさえているが、そのことを差し引いたとしても、花びらを透かしたように色づいた肌に母譲りのゆたかな緑の黒髪、父譲りの灰がかった青の瞳が物憂げな令嬢である。

 アデリアナは、自分がそこそこ綺麗なことを知っている。

 同時に、滅多に夜会にも出ようとしない自分が、けれども王城の図書館には頻繁に顔を出すので、そこそこ人々の口の端に上っているのも分かっていた。本の話をしているときが一番うつくしいと皮肉られていることも。


「実は、ずっと王城に泊まれたらと思っていましたの。そうすれば、王城から持ち出すことができない図書館のご本も読めますでしょう? 一月でどれだけ読めるのかはわかりませんけれど……」


 そう明かしたアデリアナは、きらきらと目を輝かせているし頬もつやつやと花の色をして、花園入りの娘たちの目にもうつくしく見えた。


「……あの、でも、皆さまとは仲良くさせていただけると嬉しいですわ」


 ふと我にかえったアデリアナがおずおずと切り出したことばに、娘たちは何とも言えないような表情を浮かべてみせた。


「もう……アデリアナ様が一番仲良くならないといけないのは、王太子殿下でしてよ」


 イゼットが冗談めかして笑ったのを皮切りに娘たちはくすくすと笑いだし、その場の雰囲気が柔らいだ。


 王太子の花嫁の座をめぐって争うという立場にはあるが、アデリアナはできうることなら穏やかに過ごしたかった。いまのところは、誰も互いを牽制したり目の敵にしたりするような素振りを見せない。仲良くなれそうな気がした。


 だが、ほっと息をつくアデリアナは、やはりというべきか、気づかなかった。

 娘たちがそっと顔を見合わせて――ため息したことを。


 すっかり寛いだような雰囲気の中、紅茶を味わうアデリアナを見つめながら、娘たちがひそひそと「前途多難ですわね」「王太子殿下も詰めがお甘いのでは」と囁いていたことにも、何も気づかなかったのだった。 

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