12話 ミシン
びしょ濡れの三人に、マリアンヌは気絶しそうになったが、風呂に入りなさいと命令を下した。特に年頃の令嬢が殿様と海水浴だなんてと、ユーリは着替えた後でしこたま怒られた。
公爵はユーリや息子達が、戦争の影を感じて刹那的な行動をとったのではと案じた。
ユーリもお祖父様からイリスがお前は100才まで図太く生きると言っていると聞いて、何となく吹っ切れる。
ローラン王国と戦争が始まるのではないかという危機を感じているイルバニア王国の国民は、不安を吹き飛ばす為に明るくはしゃいでいた。
ユーリも前世の事をグズグズ悩んだり、前向きに努力しようと頑張り過ぎたり、思春期独特の精神的な不安定な時期を迎えていた。
その上、考えたくも無かったが、ルドルフ皇太子と結婚すれば一時的ではあるが、戦争を回避できるのではという馬鹿げた考えも浮かんで来たりと、ユーリ自身も不安な政情の影響を受けて危なっかしい。
リュミエールは夕食後、ユーリと話し合う。
「ユーリ、万が一なんて言わないでくれ。まだ若いのに、そんな不吉な事を考えてはいけないよ」
ユーリは可愛がってくれている叔父様に前世のことを打ち明けられないのが辛かったが、余りに荒唐無稽な話なので言い出せなかった。
「ごめんなさい、近頃は何だか不安な情勢だから、変な事を考えたの。イリスは私が図太く100才まで生きるなんて言うし、お祖母様も笑い飛ばしていらっしゃるし、馬鹿馬鹿しい考えなのはわかっているの時々、不毛な考えに落ち込んでしまうのは良くないわね。今日は本当に馬鹿な考えに捕らわれて、お祖父様にも怒られたわ」
ユーリが落ち着いている様子に、公爵は一応安心したが、不安定な精神状態に気づいた。
「書類は預かっておくが、ユーリが余裕が出来たらすれば良いんだよ」
ユーリは今手がけている算盤と、足踏みミシンの開発の手助けを公爵に依頼する。
「算盤は財務室で先ずは利便性を売り込みたいの。今は1台10クローネもかかっているけど、大量生産して5クローネ、いえ3クローネ位にしたいの。全国の小学校で算盤を教えたいわ」
公爵は算盤を一度見てみたいとユーリに頼む。アンリから利便性を聞いていたので、大量生産で安価な算盤を生産するのを快諾する。
「足踏みミシンの開発は、途中まで出来ているし、一応は縫える状態のよ。でも、まだ少し改良が必要なの。私は技術的な専門知識がないから、職人と毎回ケンカだわ。叔父様に技術師を紹介して貰いたいし、私に代わって開発を指揮して貰いたいわ。これから財務室は繁雑期になるし、エドアルド皇太子殿下の社交に付き合わなくちゃいけないから、時間が取れそうに無いのですもの」
足踏みミシンの機械作りに、詳しい技術師を探そうと約束する。
「確かにミシンが出来れば、世界中に輸出できるな。
ユーリが株式会社を設立したいと考えているのはわかるよ。パーラーの出資者に恩返ししたいんだね」
「それもありますけど、ミシンの開発を急ぐのは、女性の職業訓練所のメインに考えているからなの。算盤と経理も職業訓練所で教えたいけど、はなから苦手という女の子が多すぎて」
ユーリはパーラーで実際に試したことを、叔父様に話す。
「ローズとマリーに算盤はどうにか受け入れさせたけど、帳簿は無茶苦茶なの。売り上げと、支払いを書くだけなのに、欄を間違えるから酷い数字だわ。小学生の時に算盤を習得して、簡単な簿記を覚えたら女性も事務員として働けると思うのよ。それに比べると、ミシンには抵抗感が無いみたい。まだ縫い目が雑だけど、直ぐに飛びついて簡単なドレスを作ってるわ」
ユーリはパーラーで働いている女の子達に、算盤を教えるのに苦労したが、ミシンは使い方を説明するやいなや給料で布を買ってきて服を縫い始めた。
「1日でドレスが出来るなんて凄いわ!」寮でミシンは引っ張りだこだ。
布を買って自分で手縫いで服を仕上げるのに慣れている女の子達は、真っ直ぐな箇所が一瞬で縫えるのに驚き喜んだ。
「時々、糸が絡んで切れるのと、縫い目が飛ぶのは困るわね。でも凄い発明だわ! 女中のマーサはよその子の服を頼まれているわ。仕事が終わってから、ミシンを使っているもの」
ユーリはまだ試作品だからと、改良点を皆から聞いたが、算盤と経理の時と違い積極的な意見が聞けた。
「針仕事はもともと女性の仕事だから、早く縫えるミシンは受け入れやすいのだろう。算盤はそのうち普及するだろうが、簿記は難しいかもしれないな」
ユーリの悩みに、公爵は冷静に答える。
「ニューパロマでは、ユングフラウのドレスは憧れなの。マダム・ルシアンのドレスは高価で、一般の女の子達には手が出ないけど、パターンをおこして貰って、ミシンで安価な既製服を作れば世界中に輸出できるわ。もちろん、手縫いほどはフィットしないでしょうから、何かアイデアも必要ね。ミシンが大量生産出来るようになるまでには、竜騎士になって女性の職業訓練所を作りたいわ」
ユーリは叔父様にミシンの開発と生産を任せるとお願いする。
「ミシンが試作品まで出来ているなら、改良点は技術師に任せても良いだろう。お前は見習い竜騎士の実習だけで、くたくたじゃないか。パーラーの経理も負担なら、家の会計士に任せれば良い。エドアルド皇太子の社交まで付き合っていたら、身体を壊してしまうぞ。身体が疲れているから、精神的にも不安定になるのじゃないか?」
何もかも背負っているユーリの負担を少しでも軽くしてやろうと、公爵は手助けを申し出た。
「叔父様、ありがとう。パーラーの経理位は大丈夫よ。と言うか、パーラーで皆と話すのがストレス解消になっているの。少しは役に立てているなんて、偽善的だけど実感できるもの。今日は馬鹿げた事を考えて、皆に心配をおかけしたわ。私ったら、フォン・アリストの祖父様に結婚相手を決めて欲しいなんて言ったのよ。拒否して下さって良かったわ。竜騎士隊の見込みのある軍人と結婚をしろと言われてたかも知れないんですもの」
公爵はユーリがそんな馬鹿なことを言ったのかと驚愕したが、普通の貴族の令嬢なら当たり前なのだと気づいて二度びっくりした。
「お前の気性をアリスト卿も承知しておられるから、拒否されたのだろうよ」
ふ~ッと深い溜め息をユーリはついた。
「馬鹿げた事を言ったせいで、皇太子殿下にプロポーズされてしまったわ。速攻で断ったのに、返事は受け取らないと拒否されるし。私が他の人と恋して、結婚するまで諦めないだなんて、迷惑よ! どこに目が付いているのかと怒っても、聞いてくれないし。誰かと恋をすれば、諦めてくれるかしら?」
公爵はグレゴリウスのプロポーズと、速攻でのお断りに、不敬な事だが大爆笑してしまう。
「それは皇太子殿下にお気の毒だな。もう少しやんわりとお断りするのが、令嬢の慎みだよ」
「あの皇太子殿下に、やんわりと断って通じるものですか! 勝手にプロポーズして、断りを受け付けないなんて、余りに身勝手だと腹がたって、海に頭から投げ飛ばしたのに、目が覚めないのよ。諦めて、他の相手を探すべきだわ。あちらが諦めないなら、私が恋人を見つけるしか無いのね。この方面は自信が無いわ~」
皇太子を海に投げ飛ばしたと聞いて、公爵は頭が痛くなった。
「ユーリ、少しはお淑やかにしないと、恋人はできないよ。来週にはお前の舞踏会もあるのだから、招待しているグレゴリウス皇太子殿下を投げ飛ばしたりしないように。それと、エドアルド皇太子殿下の御一行も招待してあるが、お二方がケンカをなさらないように公平に接待しなさい」
迷惑なプロポーズをしたグレゴリウスと、政略結婚の相手のエドアルドが舞踏会でかち合わせると聞いて、ユーリは逃げ出したくなる。
「そんな顔をしないでおくれ。エドアルド皇太子殿下の招待は外務相からの依頼だし、同盟国の御遊学中の皇太子殿下を招待するのは礼儀だろ。お前には一つ嬉しいプレゼントがあるよ。フォン・フォレストのモガーナ様が舞踏会の招待を受けて下さったのだ。父の謝罪は受け入れて下さったが、マウリッツ公爵家でのお前の舞踏会には来て下さるか不安だったから、秘密にしていたのだよ」
ユーリは夕食の席でお祖父様にお祖母様と和解して下さってありがとうと抱きついて感謝した時、何か言いかけられたのはこの件だったのだと喜んだ。
「まあ、叔父様! とても嬉しいわ。お祖母様にも私の舞踏会に来て頂きたかったの。秋の忙しい時期だけど、エミリア先生の結婚式でユングフラウに来られる予定があると聞いてから、来て下されば嬉しいなと思っていたのよ」
抱きついて頬にキスをすると書斎を飛び出して、サロンにいたユージーンやフランツにお祖母様が舞踏会に来られるの! と騒いでいるユーリに、公爵はもう少し落ち着かないと恋は無理ではと溜め息をつく。
「リュミエール、モガーナ様の件はサプライズにする予定でしたのに。バラしてしまわれるなんて、酷いわ」
マリアンヌの苦情に、すまない口が滑ったと謝りながら、ユーリの不安を少しでも解消してやりたかったリュミエールは反省はしていない。
奥方を交えて子息達も、モガーナ様について興味津々での質問にユーリは楽しそうに答える。サロンでの賑やかな話し声に、公爵はいつまでこの幸せな日々が続けば良いと切実に願う。
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