第7話 ただ、お前が居れば

 薄暗い寒さで目が覚めた。

 起き抜けの頭で辺りを見ると泥塗れの裏路地だった。

 どうやら、死に場所を探しているうちに歩き疲れて眠ってしまったらしい。

 三日間、この見慣れない街を徘徊したが結局どこの国なのかさっぱりだった。

 白い石畳が敷かれた通りには、石造りの建物と柱に布を括りつけただけの簡素な露店が立ち並び、若干坂道になっている通りを登れば城のような建物もあった。

 王様でもいるのだろうか。

 店の看板や商品の名札に書いてある文字は全く読めず、辺りの人を見ても日本とは大きく懸け離れていた。

 中には武器を持った人や鎧を着込んだ人もいるし、まるで夢の国に迷い込んだ気分になる。

 しかし光があれば影がある様に、華美な通りを一歩外れれば誰の目にも触れないような薄暗い裏路地が広がっていた。

 そんな場所で俺は死にかけていた。


「かひゅー……かひゅー……」


 喉は乾ききって、雨に降られたせいで体温を奪われ、立ち上がる体力すら無くて、裏路地の壁にもたれかかって死を待つのみの体。

 本当はもっと人目に付かないところに行きたかった。

 けれど、街の外に出ようにも出入り口には衛兵らしき人影が二つもあった。

 明らかに浮いた格好の俺があそこを通れば確実に捕まるだろう。

 それは避けたかった。


「仕方ねぇか……」


 このまま此処に居ても死ねるだろうが、またクロと出会ってしまうかもしれない。

 折角この三日間会わなかったんだ。このままひっそりと死んだほうが良い。

 ポケットにしまっていたナイフを取り出す。

 三日前に拾ったナイフは血が乾いて黒く変色していた。

 切れ味は落ちているだろうが、それでも死ぬには充分だった。

 今度は心臓を刺そう。

 そう思って、壁に背を預けたまま切っ先を胸元に向ける。

 なに、今度は両手だ。今度こそ大丈夫だ。

 しかし束の間、誰かの足音が聞こえた気がした。

 足跡は俺に近づき、正面で立ち止まった。


「誰、だ……」


 直ぐに刺せばいいのに、正体が気になって顔を上げた。


「よぉ——」


 随分と懐かしい、けれどさっきまで聞いていた気がする声だった。

 消えかけていた意識が一気に覚醒する。

 日本人離れした白い髪に白い肌。鋭い目つきにどこか憂いを帯びた青い瞳。

 一年前に亡くなった筈の親友——


「——タケル」


 ——不二がそこに立っていた。


「な、んで……」

「おいおい、また爺さんみたいなこと言う気か? 正真正銘、お前の親友だよ」

「いや、でも、お前は……」

「あぁ、もう死んでる」


 訳が分からなかった。

 なんで、一年前に死んでいる筈の不二が此処に居るのか。

 それに、もう死んでるってどういう……。


「俺はお前の未練みたいなもんだよ」

「未練……?」

「あぁ、平たく言うなら『死にたくないと思ってるお前』だ」

「死にたくないと思ってる、俺……」


 オウム返しにしか答えられない。

 だって、おかしい。俺が死にたくないと思ってるだって?


「あぁ、お前はまだ心のどこかで死にたくないと思ってるんだ。その心を殺さなきゃお前は何時まで経っても死ねないんだよ」

「はは、何だよそれ。心を殺す? 訳分かんねぇよ。一体どうすりゃその心を殺せるってんだ?」

「簡単さ、俺を殺せばいい」


 一瞬、確かに俺の呼吸は死んだ。

 不二の言葉を上手く理解できない。

 不二を、殺す? 俺が?

 呆然とする俺をよそに、不二はナイフが握られた俺の手を自分の胸元に添えた。

 押し込めばナイフは不二の肉を切り裂き、心臓を突き破るだろう。

 俺は自分の手を引き寄せた。


「ま、待てよ。何してんだ!」

「なにって、死にたいんだろ? 健気な親友の為に俺も協力してやろうと思ってな」

「やめろ! 何でお前を殺さなきゃいけないんだ。俺はただ、自分を殺したくて——」


 自分を殺す。

 その言葉を口にした時、不二の言いたいことが理解できた気がした。

 俺を殺すってことは、不二との約束を反故にすること。

 それはつまり、親友に託されたモノを殺すこと。

 俺の中にある不二を殺すことだって初めて解った。

 ——不二の力が一層強まった。

 俺は両手でナイフを引き寄せる。


「やめろ、やめてくれ! お前を殺すなんてそんなこと、できる訳ねぇだろ!」

「ならなんで、死のうとする。死ぬと決めたなら最後までそれを貫けよ。死ぬのが嫌なら生きればいいじゃねぇか」

「それは……」

「お前は結局、自分が可愛いだけなのさ。自分が可愛いから辛い現実から逃げようとしてるだけだ。俺が死んだっていう現実から自分が死んで逃げようとしただけだ」

「っ、それの何が悪いって言うんだ! 辛い現実に立ち向かう事だけが正義かよ! 辛い現実から目を背けて逃げることだって、自分を守る手段じゃねぇか!」

「あぁ、そうだ。自分を守るために人は辛い現実に立ち向かえるし、逃げられる。でもな、今のお前はどっちも選べてない。自分の力で生きること、俺を殺して死ぬ事も選べずに中途半端なまま境界の上で綱渡りだ。俺は、お前にそんな生き方をして欲しくてあんな言葉を言った訳じゃねぇ」


 力比べに負けて、ナイフを奪われる。

 不二の胸に吸い込まれるであろうナイフは、しかしそのまま宙を舞った。

 軽い金属音を立ててナイフが裏路地に転がる。


「これはお前の人生だ。生き方はお前が決めろ。俺の言葉になんか縛られる必要はない。このまま裏路地で中途半端に死ぬか、ナイフを拾って俺を殺すのか好きに選べ」


 不二の言葉に、俺は動けなかった。

 ただ黙って涙を流すことしかできなかった。


「……俺は、お前に生きててほしかった。俺の隣に居てほしかったんだ」

「あぁ……」

「お前と一緒に居られればそれでよかったんだ」

「あぁ……」

「お前と一緒に笑えれば、よかったんだ」

「……あぁ」


 歯を食いしばった。

 不二の服を掴む。

 爪が食い込むほど握りしめた。


「何で、死んだんだよ。馬鹿野郎ッ!!」


 情けなく、嗚咽が漏れる。

 溢れた涙は頬を伝い泥の中に落ちた。

 責めるように漏れた言葉とは裏腹に、俺の心は後悔と懺悔が混ざり合っていた。

 あの時、お前の言う事を全部無視して助けていればこんなことにはならなかった。

 俺は怖かったんだ。


 血で真っ赤に染まっていくお前が怖かった。


 冷たくなっていくお前が恐かった。


 怖くて、恐くて何もできなかったんだ。

 ——助けられなくて、ごめん。

 ——弱くて、ごめん。

 固く握られた両手を不二は優しく包んだ。


「わりぃな。あの時も言ったけど、お前が俺に生きててほしかったように俺もお前に生きててほしかった。俺の痛みを理解してくれたお前に、誰よりも優しいお前に生きててほしかったんだ。お前は、俺を正面から受け入れてくれたただ一人の親友だから」


 両手を包んでいた手は肩に置かれた。


「でも、俺の言葉でお前を縛っちまった。俺の分まで生きろだなんて言って、お前を生きながらに殺しちまった。だから——」


 不二は大通りを指さした。


「今度は、お前の為に生きてほしい。俺の分までなんて生きなくていい。俺の分まで幸せにならなくていい。ただ、お前の為に生きてお前の為に死んでくれ!」


 不二が指さした方を見ると、小さな人影が見えた。

 逆光で顔は見えない。けれど、不思議と見覚えがあった。

 人影がこちらに歩いてくる。

 徐々にその姿が露わになる。

 黒絹のように綺麗な腰まである髪。

 人懐っこそうな、どこか懐かしい淡い紫の瞳。


「此処に居たんですね……」


 魔法使い、クロが朗らかに微笑んでいた。

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