第5話 されど死にたがりはまだ死なない

 喉が焼けそうになるほど走った。

 心臓の鼓動は未だに早く、呼吸をすれば肺が痛い。

 気づけば、どこかの裏路地に居た。

 人目に付かないような、薄暗い日陰に支配された冷たい路地。

 その壁に背中を預けて呼吸を整える。


「何やってんだ、俺……」


 自分勝手な持論を押し付けて、恩人を押し倒して感情任せに喚いて。

 クズもここまで極まればいっそ清々しい。

 思わず空を仰ぐと快晴だった空には雲が立ち込めていた。

 その光景は何処か不気味だった。

 それが何故かと考えてみると、光が見えなくなるからだと解った。

 何を今更、俺の光は一年前に亡くなっているっていうのに。


「このスラムのゴミが!」

「ぐッ!」


 怒号が聞こえたのは、そんな思考が終わるのとほぼ同時だった。

 大通りの方から聞こえた声に視線を向けるとボロ布を着た少年が大人の男に殴られていた。

 少年は俺の目から見てもわかる程、明らかにやせ細っている。充分に食事が出来ていないのだろう。

 少年を殴っている男は太り気味の中年で酒瓶を片手に少年を踏んでいた。

 白昼の大通り。

 そんな目に着く場所で子供が殴られているというのに、誰もそれを止めようとはしない。

 皆が皆、自分が目を付けられない様に俯いて速足であの場を往来していた。


「このゴミが! 酒盗んでこいって言ったろうが、誰のおかげメシが食えてると思ってんだ? あぁ!?」


 襟首を捕まれ何度も何度も酒瓶で殴られる少年。

 このまま何もしなければあの少年は確実に死ぬ。

 二度と家族と会う事もなく、何も願うことのないまま、ただの理不尽で道端に転がる動物の死骸みたく死ぬのだろう。

 男は少年を離すと酒瓶を捨て、ポケットからナイフを取り出した。


「あー、ムカつくぜ。スラムのゴミなんかと同じ空気を吸ってると思うと余計にムカついて仕方ねぇ。ぶっ殺してやる!」

「ぐぅ……」

「なんだァ! その生意気な目は!」

「ぎぁ……く……くたばれ、クソ野郎…」

「ハハハハ!! くたばるのてめぇの方だこのゴミが!」


 ——それは、駄目だ。

 気づけば体が動いていた。

 少年を庇うように男の前に立っていた。


「あ? んだぁてめぇは! 部外者はすっこんでろ!」

「うるせぇぞクソ野郎。ただの理不尽でガキが殺されるところなんて見てられる筈がねぇだろ」


 少年の容態を確認するとかなり酷い状態だった。

 歯が何本か折れていて顔は痣と血でグチャグチャだ。

 少年に上着を掛けて男と向き合う。


「ハッ! てめぇもスラムの住民か? てめぇらゴミ共が俺に逆らうとどうなるか教えてやるよォ!」

「てめぇのことも、この世界のことも知ったこっちゃねぇ。ただ、死にたくもねぇ奴が殺されるのが我慢ならねぇだけだ!」

「無能のゴミは大人しく俺の言うことを聞いてりゃいいのさ! それくらいでしかてめぇらゴミ共は役に立たねぇんだからなぁ!」


 男はナイフを片手に走ってくる。

 何故か、この光景には見覚えがあった。

 ——あぁ、吐き気がする。

 俺は無造作に左手を出した。

 ナイフが刺さって激痛が走る。

 だが、そのまま左手で男の手を掴んだ。


「なっ!?」

「これはガキの分だ」


 右手で男の顔面を思い切り殴る。

 男は吹き飛び、ナイフは俺の手を貫通したままになる。

 まだだ、この程度じゃ俺は死ねない。

 男は鼻を押さえながら血走った目で俺を見る。

 どうやら鼻が折れたらしい。


「てめぇ……! てめぇら二人共、ぶっ殺してやる! 俺に歯向かってタダで済むと思ってんじゃねえぞぉ!」

「いいえ、そこまでですよ」


 男が走るより早く、一発の銃声が響く。

 放たれた弾丸は的確に男の膝を撃ち抜いて、男は悲鳴を上げてその場に転がった。

 銃声が聞こえた方へ目をやると、見覚えのある少女が銃を構えていた。

 俺を助けてくれた少女、クロだ。


「お前……」

「私が助けたのはそこの子供です。貴方を助けたわけじゃありません」


 クロがもう一発男に打ち込むと、今度こそ男は沈黙した。

 でも、死んでいるわけではないようだ。


「殺してませんよ、睡眠弾です」

「そうか……。ガキの方を頼む」


 クロは銃をしまうと流れるように少年のもとへ走った。

 俺はその場に座り込む。

 ナイフが刺さった左手はずっと激痛が続いている。

 ナイフを右手で掴んで、引き抜いた。

 痛い。

 けれどこの程度では人は死なない。

 暫くすると彼女が俺の方に来た。


「……ガキの方はもういいのか?」

「魔法で治しましたよ。すぐにでも動けますよ」

「魔法? まぁ、助かったならいい」

「……貴方のそれは、治してもいいんですか?」

「どっちでもいいよ」

「…………治すので、手を出してください」


 言われるがまま左手を差し出すとクロが優しく手を包む。

 淡く、優しい光が怪我を覆うと傷が嘘のように消えていった。

 ほんと、魔法みたいだな。


「これで大丈夫ですよ」

「あぁ、分かった」

「……今度は怒らないんですね」

「あれは、悪かったよ。色々あって混乱してたんだ。」


 傷の手当ても終わり、この場を立ち去るために立ち上がる。

 さっきの騒動で辺りに野次馬が群がってきているし、早々にこの場から離れた方が良さそうだ。

 

「じゃあな、クロ」

「あ、待ってください。どこか行くあてとかあるんですか?」

「ねぇよ。別に要らねぇ」


 それだけ言って人混みのないほうへ歩き出すと、裾を引かれる感覚があった。

 振り返るとさっきまでボロボロだった少年が裾を掴んでいた。

 俺がかけた上着を持ってオロオロしている。

 そういえば、上着の事を忘れていた。

 片膝をついて子供の目線に合わせる。


「どうした?」

「ありがとう、ございました。これ……」

「どういたしまして」


 上着を受け取り子供の頭を撫でる。

 子供は恥ずかしかったのか直ぐに走って何処かへ行ってしまった。


「ふふ……」

「なんだよ」

「いえ、なんでもありません」

「なんだよったく。じゃあな」

「あ、ちょっと!」


 クロの返事を待たず、俺はまた見知らぬ街を歩き始めた。

 陽はまだ高く、鬱陶しい。

 どうやら、俺はまだ死ねないらしい。

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