閑話 最上義光が見た天正鎮守府大将軍。2

天正3(1575)年6月24日 陸奥国愛宕山 最上義光



 雲厳寺で参集の翌日、我らは土崎湊(秋田港)へ出た。津軽攻めに十三湊へ行った船の帰りを待ち、その日は土崎湊泊まりとなる。

 翌日昼過ぎに、船が到着したが日没までに目的地に着けぬということでもう一泊した。 

 翌朝、船に乗り海路で蒲原津(阿賀野川河口港)へ行き一泊後、川舟と陸路で伊達家の米沢城を見通せる愛宕山へ連れて来られた。

 そこは愛宕山の中腹で、山麓には布陣した織田軍が見渡せた。明日には米沢城攻めを見せるとのことであった。


 そこで野営したのであるが、その野営とは思えぬ豪華さに驚かされた。

 我らのために用意された布小屋テントは、麻布だが雨露を弾くのだという。夜具は屑藁を仕込んであるという寝袋で、肌着だけでも温かい。

 夕餉は、焚き火を囲んで焼き肉や汁料理スープが出されたが、その豪華さに驚かされた。

 翌朝の朝餉も白米に猪汁とんじる、焼いた鯵の干物、野菜の煮しめで、戦の前だから豪華なのかと尋ねたが、日頃からこのような食事が出されており、兵達も同じ食事だという。



 翌日已の刻(午前10時)に、城外に布陣した織田軍から凄まじい轟音が鳴り響くと、米沢城は瞬く間に崩れ出し、見る間もなく城の輪郭を無くして行く。

 火災で焼けるのも間に合わぬほど、米沢城は跡形もなく灰燼に帰した。その間わずか四半刻ばかり。

 伊達輝宗殿は、一振りの刃を振るうこともなく、この世に別れを告げさせられた。

 これでは、雲厳寺で手打ちにされたのと、変らぬではないか。鎮守府大将軍の武威は、想像を遥かに超えていた。

 周囲の東国の諸大名達も、只々、唖然としているばかりで、誰一人として口を利く者はなかった。



 翌日、我が居城の山形城から急使が届いた。

 伊達輝宗に嫁いだ妹の義姫が、嫡男の梵天丸ぼんてんまる達を連れて、俺を頼り落ちて来たとの知らせである。

 諦めかけていた義姫らの無事に安堵すると同時に大将軍殿に如何様に取りなすべきかと悩みながら、すぐにお伝えせねば、最上家も朝敵とされるやも知れぬと大将軍殿の前に参上した。


「最上殿、如何した。顔色が悪いようだが。」


「はっ、急ぎお伝えすべきことありまして罷り越しました。山形の居城より知らせが参りまして、某の妹義姫が、伊達家の嫡男 梵天丸を連れて落ち延びて参りました。大将軍殿のご判断をいただきたく。」


「最上殿。義姫殿は離縁されたのであろう。なれば義姫殿もその子らも最上家の者。

 さすれば朝敵とはならぬし、咎める謂れもない。

 お二人は、夫と父親を亡くし、さぞかし気を落としていることであろう。

 最上殿が労ってやるが良い。父親は朝敵ゆえ家の再興はならぬが、最上の分家とするのは構わぬ。

 面倒ごとが起きれば俺に申せ。対処致す。」


 驚くべきことだ。東国諸大名一同の前で、即座に朝敵となった伊達家の正室と嫡男をお許しになり、手出しはならぬと釘を刺してくだされた。

 このご恩、最上義光は生涯忘れまいぞ。




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 そんな俺の驚きは、ほんの端緒に過ぎなかった。

 米沢から領国に帰り着くと、間を置かず東国各地の湊を経由して、続々と新政の差配をする者達と、第一陣だという大量の物資や農具と各種種芋、救援食糧の麦や蕎麦が各地へ送られて来た。


 村々に、蕎麦打ちうどん打ちが広められ、安価な麺料理の店が立ち並んだ。

 作柄が良くない畑には大豆や小豆が作付され、各地で食事が出され賃金が支給される棒道(直線道路)や堤防の普請がなされた。

 普請の食事の賄いには女衆が雇われ、子供らは鯉や鮒の稚魚集めの小遣い稼ぎが、老人や不具者にも各種内職などが宛がわれた。


 主な城下には伊賀市場という市ができ、便利な農具や大工道具、調理や裁縫道具、狩猟道具などが手に入れることができるようになった。

 農村では、芋類や野菜の作付けが行われただけでなく、漁村では新漁法や魚介の加工が広められた。

 山村でも炭焼や茸の栽培、茶畑や果樹栽培などが始められ、民達は日に日に豊かになって行くことを実感し、喜びに湧いている。


 とにかく朝目覚めると、昨日とは違ったものを、目にするし話に聞くのだ。

 家臣や下働きの者達の『驚き申した。』とか、『おったまげたですじゃ。』は日常茶飯事のことでありふれた会話になった。

 伊勢から来た差配の者達は、謄写版というもので告知書を大量に作り村々に貼り出して、新たに始まったことを周知している。

 文字だけでなく絵が書き添えてあり、文字の読めぬ者にも判るようになっておるから大したものだ。


 俺の驚きは、止むことを知らぬ。各領地の資金を得るために、鉱山の普請が始まった。

 鎮守府大将軍殿の指示の山を発掘すると、必ずと言っていいほど、金銀銅錫などが産出するのだ。

 家中の者など『戦などしとる場合ではないわい。金銀を掘っておるだけで皆の生活が立ち行くぞ。』と申しておる。



 その一方で武士の誇りを捨てぬ者達を米沢に集め軍事調練を行っている。

 秋には東国の連合軍で関東に攻め入るためだ。

 彼らにも誇りと活躍の場が与えられ、他家と合同の調練をすることで、東国武士の親和を図られるのだとか。



 俺は、二ヵ月余も、自領での新政のあり様を見届けると、いても立ってもいられず、大将軍殿のいる米沢へと向かった。

 傍らでその叡智、才覚が成すことを、自分の目で見届けるためだ。


 米沢城下の屋敷に来て驚いた。多勢の東国各地の古老達が集められ、茶と菓子を供して、土地の古い言い伝えや様々なでき事を聞き取り、記録しているのだ。

 それを自らなさっている。もちろん祐筆の者が、書き取っているが。そして金銀鉱山の場所を、その古老達の話から探り当てたことを知った。

 古いにしえに砂金が取れたという川の場所を聞き、その上流の地形を調べさせ、既にある金銀鉱山の地形や土壌の特徴と合せて、確実な場所を見つけ出しているのだ。神のお告げなどではない、鎮守府大将軍殿の叡智がなせる技なのだと知った。


 大将軍殿は言った。『人には得手不得手、成せること成せないことがあるが、皆の得手や成せることを集め、力を合わせていくことが大事なのだ。それを導くのが上に立つ者の務めだ。』

 俺は目から鱗が落ちた思いだ。俺の施策を理解せぬ家臣を馬鹿にし、理解させようとはせなんだ。

 そればかりか、家臣の長所を見つけようともせなんだのだ。愚か者は自分であったのだ。


 


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天正3(1575)年10月中旬 陸奥国米沢 

最上義光  



 米沢城下に東国の連合軍2万の軍勢が集結した。

 長槍足軽兵1万2千、騎馬の将2千、弓兵2千、火縄銃兵3千、そして伊賀伊勢から増援として来た大筒30門300人、同じく馬車の兵糧部隊700人。

 ここで初めて俺は、鎮守府大将軍殿が伊賀藤林家の御曹司であることを知った。

 伊賀のお方とは。近侍のお二人からは那智のお山で修行をされ、文殊菩薩の智慧を会得なされたと、聞いた。

 まさに、役行者様の係累ではないか。


 困窮する都の公家を密かに援助し、それを知った上皇陛下が謁見を望まれ、殿上人に召されたとか。

 織田の信長公とは、旧来の知己があって家臣ではなく客将として織田家の軍師を努め、桶狭間の合戦も間近で見守ったとか。

 そして今では、上皇様を囲む北面の武士の軍師を務めるお方の立場にあられるとは。

 俺はまさに今、この国を動かしているお方の傍らにいるのだ。


 だが大将軍殿は、お立場の時以外は俺にも周りの者にも、飾らずに親しげに接してくださる。 

 俺は30才、大将軍殿は4才年上で、何でも知っていて俺を鍛えてくださり、頼りなるまさに本当の兄のようなお方だ。



 米沢に集められた東国の諸将と兵は、夏から各種陣形や集団戦法の訓練を重ねて来た。

 率いる将は、安東愛季、南部晴政、小野寺景道、大宝寺義氏、そして俺(最上義光)と、ほぼ揃い踏みである。

 皆、この戦に出ることで朝廷に対する忠誠を示したいと思っているのだ。戸沢盛重、大崎義隆、葛西晴信達も参戦したいと言ったが新政を根付かせよと退けられた。長年の禍根を気にされたようだ。

 諸将を集め軍議が開かれた。大将軍殿は皆に問い考えさせる。


「南部殿、蘆名盛氏は籠城と野戦のいずれを選ぶであろうか。」


「御曹司も人が悪うございますな。伊達家の米沢城攻めを見て籠城などできる訳がございませぬ。」


 南部晴政殿も、大将軍殿を藤林家の御曹司と呼び単なる朝廷の臣下としてではなく、大将軍殿の配下としての振る舞いを見せる。誠に抜け目がないが、我らが信頼するのは大将軍殿だから正しくもある。


「うむ、それが狙いだった。なにせ城を建てる費用が馬鹿にならぬ。そんな金があるなら、雪国の民に着物の一枚も施したい。なあ、安東殿。」


「なんとまあ、御曹司らしい余人には決して思い付かぬ、面倒ごとの選び方でありますな。」


「義光殿。それは褒め言葉と解して良いのか。」


「はあ、もちろんにございまする。御曹司に敵う智慧者など、おりませぬ故。」


「「「ははははっ。」」」


「冗談てんごうはさておき、義光殿、戦場いくさばはどこか。」


 ふふ、俺だけ親しげに名呼びだ。えっ、誰も羨ましそうにしてないぞ。単に年下だからかな。


「はっ、蘆名家は我ら東国連合軍の進路を見極めてからの出陣となりますれば、蘆名領の然るべき平野を選ぶものかと。」


「孫子の兵法に『善く戦う者は、人に致して 人に致されず』とある。相手の思惑通りにならず自分の思惑に引き込むべきだとでも言うのかな。

『人に致す』とは、『自分の思うように動かす』という意味だ。

 義光殿、我らの進路をどこに選び、蘆名にどこを戦場に選ばせれば良いのだ。」


「それなれば中通りを進み、磐梯山の裾野の摺上原辺りが、大軍での合戦場に相応しいかと思案致しまする。」


「うむ。これが摺上原の地図だ。囲むように書いてある線は、等高線と言って高さを示している。

 線の間隔が狭いほど急な斜面だ。川も最深の深さを膝、腰、背丈と記してある。」


「御曹司、いつの間にこのような準備を。」


「俺は軍師という立場もあるが、昔からこのような調べ物が好きなのだよ、小野寺殿。」


「単に好きなだけで、このように時間の掛かるものなど作れませぬが。」


「義光殿、蘆名盛氏の得意な陣形はなにか。」


「はっ、余程のことがない限り、魚鱗の陣形にて、攻めて来るかと。」


「ならば、魚鱗には鶴翼か。」


「しかし、鶴翼で包囲する前に蘆名は中央から攻め切るのでは。」


「鶴翼は鶴翼でも、いろいろ応用がある。今回は、釣り野伏で隠れ鶴翼かな。それは、· · · 。」



 出陣に際して、俺達にも兵が身に付けている眼鎧ゴーグルという厚硝子の眼鏡と、軍靴、軍手などの軍事品が渡された。なんでも、戦場の摺上原は強風で砂塵が舞う土地らしい。

 我らが予定の進路で出陣すると、蘆名は案の定、摺上原に布陣した。一部参陣の遅れている城兵が、いるとの情報で休憩を増やし、進撃速度を緩めて、蘆名勢が皆揃うように調整したりしたが。


 我らの第二列は、砲兵と兵糧部隊で戦場の1km手前で隊列を離れ、長槍足軽が運んで来た逆茂木の防御柵を並べ簡易陣地を築いて行く。

 いつの間にか、騎馬隊と足軽別動隊の姿が消え、本隊は長槍足軽隊2組と鉄砲隊だけになっていた。



 蘆名勢は我らの陣形を見極めていたのだろう、我らが横一線に並ぶ陣形を取ると、徐に魚鱗の陣形を取り攻め寄せて来た。

 我らは作戦どおり長槍足軽隊2組が交代しながら合間に鉄砲隊が迎撃して、砲兵隊の陣地へと徐々に後退していく。


 そして後退すること三度、蘆名勢の最終組が繰り出すと、後方の砲兵から砲撃が一斉に始まり、敵を大混乱に落とし入れた。

 砲撃が止むのを合図に、引き込んだ敵の右翼から騎馬隊が、左翼からは足軽の別動隊が襲い掛かり、さらに、蘆名盛氏の本陣に砲撃がなされ、それで、決着が着いた。


 蘆名勢の前衛部隊も、我が長槍足軽隊に阻まれ、鉄砲隊に削られ我が本陣に辿り着けずに壊滅した。

 常に多数で対戦した長槍足軽隊の被害はわずかであって、しかも死者が出なかったという。


 完勝であった。だが、大将軍殿は蘆名勢の足軽達の死を悲痛な想いで受け留めておられた。彼らも日の本の国の民であるからと。

 俺は、否、戦国大名の誰もがそんなことを考えたことはないだろう。

 だが、俺は知った。敵勢の彼らも外国そとこくに対して、守るべき日の本の民なのだと。





【 戦国時代の言葉2 】

 織田信長に謀反を起した明智光秀が急激に出世をなした一因に、コミュニケーション能力があったようです。

 前職は幕臣であり、公家言葉を解し折衝ができて重宝されたに違いありません。

 さらには、地方大名豪族の調略にも有益だったことでしょう。

 明智光秀が謀反を起した理由は謎とされていますが、織田家の最高幹部佐久間信盛が、石山本願寺攻めの長期化、不首尾を理由に高野山へ追いやられる事件があり、信長の幼少期から仕えた老臣・林秀貞や美濃併合に活躍した安藤守就などが、それこそ取るに足らないような理由で責を負わされたのを見て、羽柴秀吉の中国攻めの次に、九州攻めを命じられれば些細な失敗も咎められると恐怖したのかも知れません。

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