第三話 伊賀流蝦夷征討『東国行脚』

天正3(1575)年5月下旬 出羽角館道中 

藤林疾風



 翌朝には、安東家の檜山城を出て海路南下する。

 連れて来た伊賀新選組には、東国諸大名へ宛てた『6月20日に出羽角館の《雲厳寺》に参集せよ。』

 との勅書を持たせ、一斉に走らせた。

 遠方の津軽領でも海路を使えば《雲厳寺》は、位置的に東国のほぼ中心にあり、東国の四大勢力地に偏らない、戸沢家の領地であることから選んだ。


 参集地とした雲厳寺は、曹洞宗であるが、神仏習合の関係で真言密教の山岳信仰である大威徳山神社の祭典も、雲厳寺の住職が取り仕切っているので、参集させる大名の仏教宗派に偏らず、神道の朝廷使者としては都合が良かった。


 諸大名とは、津軽の大浦為信、陸奥の南部晴政、出羽(山形)の最上義光、陸奥(大崎)の大崎義隆、陸奥(登米郡)の葛西晴信、出羽の(平鹿郡)の小野寺景道、出羽(米沢)の伊達輝宗。出羽(庄内)の大宝寺義氏など。

 安東愛季には手渡し済であり、参集地の戸沢盛重には、これから訪問して手渡すことになる。



【 この頃の主な東国諸大名のお家事情。】

 津軽の大浦為信(津軽為信)は、南部氏の傍系であったが2年前に謀反を起こし、南部家から独立し本家嫡流の陸奥の南部晴政と対峙している。


 その南部晴政は、大浦為信との争いの最中で、実子が生まれたために養子の信直を疎んじ、家中に内紛を抱えている。


 出羽(山形)の最上家は、伊達家の親子内紛である天文の乱(1542年〜1548年)に乗じて半独立した蘆名氏、相馬氏、最上氏などの勢力の一つであるが、完全な独立を目指す義光とそれを嫌う父義守と争いがあり、家臣達の仲裁で2年前に父義守が隠居して、最上義光が家督を相続している。

 当主となった義光は、周辺の国人や豪族に強硬な姿勢を取り、反感を買っている。

 史実では明年、国人豪族達が隠居した父の義守を担ぎ出し、義守は伊達家に援軍を要請して『天正最上の乱』が起きるはずだ。


 大崎義隆の大崎家は、天文の乱で伊達晴宗に味方し互いの代替り後も良好であり、最上義光とは婚姻関係で親密、会津の蘆名盛氏とも親交がある。

 しかし葛西家とは宿敵関係であり紛争が絶えずに続いている。2年前の両家の合戦では大崎家が敗戦今年も秋口に向け双方に戦雲が高まっている。


 葛西晴信の葛西家は、源頼朝の平氏討伐に参加し奥州合戦で武功を立てた。

 奥州藤原氏が滅んだ後、奥州総奉行に任じられ、陸前国に所領を得て石巻を本拠にしたが衰退回復を経て戦国初期に石巻から登米郡寺池に移っている。

 戦国初期に宇都宮家との争いで領地拡大に成功し伊達氏と結び、隣国の大崎家と徹底して対立抗争を繰り返している。


 小野寺景道は平城の乱(1546年)で父稙道を家臣に殺され居城横手城も奪われ、幼少の景道は大宝寺家に保護された。

 その後大宝寺家ら小野寺一門の支援を受け勢力を盛り返し、父の仇である大和田光盛らを討ち横手城を奪還している。

 その後も勢力を拡大し、安東家や戸沢家、最上家などと対立している。


 これから訪れる出羽(角館)の戸沢盛重は、嫡男であるが病弱であるとのことで、史実では3年後に弟の戸沢盛安に家督を譲り出家している。

 戸沢家は家督相続の度に内紛を起こしているが、表立って敵対しているのは小野寺家である。


 伊達輝宗は、戦国の風雲児伊達政宗の父であるが政宗は7才で元服は4年後、家督相続は11年後だ。

 伊達家は鎌倉幕府の御家人として伊達郡を賜り、伊達輝宗は第16代を数える。


 蘆名家とは妹彦姫を嫡男に嫁がせ同盟関係にあり2年前の最上家の家督内紛では父親側に加担して、妻義姫の兄で嫡男の義光を攻めたが兄を守るために、戦場境に輿で居座った義姫の武勇伝もあり兵を引いている。


 安東愛季は長く分裂していた檜山系湊系の安東家を統一、比内地方を傘下に入れ、旧来の蝦夷地など外海貿易に加え河川交易への統制強化を行い国人の統制をしている。

 また、土崎湊を改修し近隣国人衆への支配も強化しようとしたが、2年前に湊安東家の国人豊島玄蕃が反乱『湊騒動』し、同調した大宝寺義氏も由利郡へ進軍、争いは昨年まで続いていた。


 大宝寺義氏の大宝寺家は大泉荘の地頭出身であり、領国を荘内しょうないと呼んでいたことで、現在の山形県日本海沿岸から出羽山地に至る地域を、庄内地方と呼ぶようになった。

 大宝寺義氏は鳥海山を越えた由利郡を欲し由利十二頭の諸将と結び、仙北の小野寺家とも連携して由利郡に介入。

 また、現在の最上家の内乱において最上義守派として介入している。



 東国諸大名に遣した勅書は次のような文である。

『日頃の忠勤を嬉しく思う。朕、想うところ在りて天正と号す。此度東国の静謐のために鎮守府大将軍 藤景疾風を遣わす。

 平将門に倣う者は、朕の臣下にあらず。

それに従う民は、日の本の民にあらず。』


 それに続く俺の文は、以下のとおりである。

『《いざ鎌倉である》東国の武士もののふたる者は、勅命に応じ急遽参集せよ。

 場所は出羽国角館の《雲厳寺》、期日は、天正三年六月二十日正午。

 陸奥大介鎮守府大将軍 藤景 疾風』


 なお、使者の口上にて、参内の伴は2名、護衛は道中に必要な最低限、護衛の雲厳寺境内立ち入りを禁ずると申し渡した。




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天正3(1575)年6月上旬 出羽国角館城 

藤林疾風



 忍者の敵地潜入術には『陽忍』『陰忍』の二種類があるが、今回の俺は鎮守府大将軍として姿を現した陽忍だ。

 東国で名高い北畠顕家公の鎮守府大将軍を名乗り朝廷の権威と共に乗り込む。


『陽忍の術』は『陰忍の術』と比べ、時間をかけ謀略諜報や離間策を行う。

『兵法三十六計』で言えば、《『反間計はんかんのけい』という戦術である。

 だが今回は『陽忍の術』でも短期間のうちに潜入する『近入りの法』であり、『妖者ばけもの術』という区分になる。


『近入りの法』とは敵地潜入の際、入念に準備する基本的なことを省略して、臨機応変に行うものだ。

 さらに『妖者ばけもの術』とは、妖怪変化の意味ではなく変装する(化ける)ことだ。

 通常は非力な者に成りすまし、憐れみから油断を誘う。乞食・不具者・病人・狂人などである。

 今回それとは真逆の権威者を演じることになる。


 俺は今、使者に出した者を除いて、才蔵と佐助ほか10名の伊賀者を率いて、角館城の戸沢盛重の元を訪れている。

 角館城の大広間の上座に座り、左右には才蔵が、《錦の御旗》を、佐助が鎮守府大将軍 北畠顕家公が用いた《風林火山》の軍旗を掲げている。


「盛重殿。此度は勅書にあるとおり、勅命により東国諸大名に静謐を申し付けに参った。

 ついては雲厳寺を使わせてもらうぞ。」


「はっ、心得ましてござります。」


「勘違いせぬよう言っておく。此度は和議にあらず。参内に応ぜぬ者、静謐に異議を唱える者は朝敵として討伐致す。一度ひとたび従わず朝敵とならば降伏など許さぬ、さよう心得よ。」


「はっ、畏まりましてござります。ただ静謐の後はいかがなるのでございましょうか。」


「それは一同が揃った前で申す。贔屓はせぬ。」




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 雲厳寺の境内には《風林火山》ののぼり旗を掲げさせ、一週間後には伊賀から来た信号部隊や500名の新式連発銃を配備した鉄砲隊を配置した。

 また陸奥土崎湊(秋田港)には、戦艦2隻と10隻の新造艦、その他多数の商船に柴田勝家率いる2千の織田軍が待機し、陸奥の気仙沼には戦艦3隻新造艦15隻、織田信忠殿の3千の織田軍が待機している。


 これらは参集を無視したり、勅命に応じない大名の居城を砲撃して破壊、或いは上陸して内陸の城を包囲し迫撃砲で城を破壊するためだ。

 鎮守府大将軍が、口だけだとは言わせぬ。






【 北畠顕家上奏文 】

 『顕家諫奏』とも言われる。内容は後醍醐天皇に建武政権の問題点を大胆にも手厳しく諫言したものだ。

 直後に大軍を相手に戦死した事実もあり、悲壮な決意や憂国の情感を伝えている。

 「地方分権制推進」「租税を下げ贅沢を止めること」「恩賞として官位を与える新政策の停止」「公卿・殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」など、約半分が、後醍醐天皇の人事政策への不満に集中している。

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