第二話 伊賀流蝦夷征討『北面の武士』
天正3(1575)年4月下旬 遠江浜松城
藤林疾風
伊賀新選組は、才蔵と佐助が手塩にかけた孤児院の若者24名と、伊賀の中忍6名で組織している。今回は商人姿ではなく、皆凛々しい若武者姿だ。
伊賀の藤林砦を出る時には、栞母上が一人一人に真新しい着物を与え『絶対に死んではなりませんよっ』と言って抱きしめていた。
俺にとっても年の離れた弟分達だ。絶対に死なせやしない。伊賀を出た時には、緊張で強張っていた者も、旅に馴れるにつれて落ち着きを見せている。
今回の目的地は東国出羽の安東家で、道中で遠江と越後に寄る。遠江の徳川家康殿には田植え後にも訪れる『長篠の戦い』に備えて武器を支援する。
越後の上杉謙信公には、朝廷の意を伝え、関東制圧のために織田家、三好家、浅井家、徳川家の同盟に加わってもらう。
そして俺は、東国出羽の安東家に向かい、そこで東国征伐の狼煙を上げるのだ。
ここ遠江では、そろそろ田植えが始まっている。穏やかな春の陽ざしの中で、秋の豊穣を願うように農民達が田植に勤しんでいる。
しかし、もうすぐ武田軍が攻め寄せて来るのだ。
一昨年に、徳川方から武田方に転じていた奥三河の奥平家が、今年になって秘匿されていた武田信玄公の死を疑い、徳川方へ再属していた。
そして今は、徳川家が武田家から奪還したばかりの長篠城に配されていた。
長篠城を再々奪還すべく、武田勝頼が兵を起こしたのが『長篠の戦い』だ。
「おお、藤阿弥殿、お久しゅうござる。
いつぞやは、藤阿弥殿の叱咤で一向一揆を切り抜けることができ申した。その御恩は、この家康決して忘れ申さん。」
「家康殿、ご健勝で何よりです。此度お訪ね致したのは、東国の平定を進めるためにございます。
武田家との戦況は如何でございますか。」
「昨年、奥三河を奪還し申したが、東美濃の明智城、遠江高天神城を取られ、一進一退でありますよ。
なかなか一筋縄では行きませぬ。」
「徳川家には何丁の鉄砲がありますか。」
「 · · · 、恥ずかしながら、500丁程にございます。」
「分かりました。この田植が終われば、武田家が間違いなく攻勢に出て来るでしょう。
月末までに鉄砲1,000丁を届けますから、すぐにでも鍛錬されてください。」
家康殿に渡す鉄砲は、伊勢に配備していた旧式の青銅製単発火縄銃で、重く持ち運びに適さず、早合は使えるが前詰めである。
もとより、籠城戦のために配備していたものだから。
「なんと。1,500丁あれば500丁の三段撃ちができ申します。何よりの援軍にござる。」
「あと一つ、鉄砲を効果的に使うには、このような
そうして、絵図を差し出す。
「戦の前に、準備なさるが宜しい。」
「藤阿弥殿は、まるで全てを見通すような深謀遠慮でありますなぁ。誠にありがたく。」
「俺は皆様の軍師ですから、策をもたらすのが役目。それを果たしているだけですよ。
徳川殿のご活躍、お祈りしております。」
北陸での一向一揆を上杉謙信公が討伐された後、その時の俺の威しに反発した武田勝頼は、織田との同盟を破棄して徳川家への攻勢を始めたのだ。
武田家にとっては、甲相同盟がある以上、越後か美濃、三河しか領土拡大の道がなかったのだ。
史実どおりなら、この5月に長篠の戦いが起こるはずである。
武田軍1万5千に対して徳川軍8千余。
信長公の後詰め1万2千が既に待機しており史実どおりの結果をもたらしてくれるのではないかと思う。
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天正3(1575)年5月上旬 越後春日山城
藤林疾風
「謙信公、お久しぶりでございます。此度はお願いの儀があり罷り越しました。」
「はははっ、疾風。委細承知、上杉家は朝廷の意に従い織田家一団の同盟に加わるぞ。
既に、関白近衛前久殿からの文で、家中の意思統一はできておる。
上杉家で関東を制圧すれば良いのだな。
織田家と徳川家、それに浅井家までも後詰めするとあらば、長年の宿敵である北条も一蹴であろう。
関東の静謐、上杉家がしかと承ったぞ。」
「あはは、話が早すぎまする。しかし助かります。朝廷のご意向は一刻も早く戦乱の世を静めて、足利幕府に替わる政を行うことに、ございます。
つきましては、織田信長公ほか、織田家と同盟を結ぶ皆様を『北面の武士』に任じるとの仰せであり、謙信殿にも加わっていただきます。
また近く武田家が三河に攻め寄せ、決戦となりましょう。
それを徳川家と後詰めの織田軍で破り、浅井勢が甲斐を制圧する手はずにございます。
それが成りましたら、謙信公の関東出兵に併せ織田徳川連合軍が関東に出兵致します。
上杉家は関東出兵の準備をお願い致します。」
「うむ、疾風はこれからどうするのか。」
「海路で出羽の能代湊へ向かい、檜山城ヘ行きます。
出羽の
東国諸大名を信長公に臣従させるか、それとも、どなたか我らの同盟に加わるのに相応しきお方に、織田信長公に代わり奥羽を制圧していただくのか、見極めるのが今回の俺の役目にございます。」
「そうか、疾風にしかできぬ役目であるな。
東国で何かあれば後詰致すぞ、遠慮なく、申せ。」
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天正3(1575)年5月中旬 出羽国檜山城
藤林疾風
越後の今町湊(直江津)から、海路で出羽の能代湊を経て安東愛季殿の檜山城へとやって来た。
安東家は、鎌倉時代に北条得宗家の被官として、蝦夷討伐の任で津軽に配置された系譜である。
愛季殿は、30代半ばの知勇兼備とされる武将であり、出羽北部(秋田)から津軽の西側一帯を領有しており東国において、陸奥(岩手県)から津軽東部を領有する南部晴政と、対立しており、伊達家、最上家と併せて東国の四大勢力の一つである。
広間には、当主安東愛季殿ほか、十数名の重臣達が控えていた。
「初めてお目に掛かる。織田家の軍師を務めております藤阿弥と申します。」
「安東家当主安東愛季にござる。信長公よりの文には、朝廷のお使者として遣わすとありましたが、此度のご来訪は如何なるご用向きにござるか。」
「 · · · 、愛季殿より信長公には友誼を結ぶとの書状を受けておりますが、東国諸大名と直にお会いした上で、東国の戦乱を静めるために罷り越しました。
東国での戦の理由、民の暮らしぶり、そして東国諸大名の方々が目指しているものが、何であるのか、愛季殿にも伺いたいと存じます。」
「 · · · · 、それを、何故に話さねばならないので、ござるか。」
「愛季殿、貴殿はどこの国の人でありましょうか。生国を聞いているのではありませぬ。
どなたに仕えておられましょうか。そして再びこの国が攻められる『元寇』が迫っていると申さば、如何なされましょうか。」
「それはっ、そんなことがあり得るのですか。」
「既に、天竺は南蛮に征服されつつあり、唐の一部も南蛮の諸国に占有されております。
この日本においても、九州の一部では南蛮の宗教の布教の陰に隠れて、大名が南蛮から武器や火薬を手に入れるために、領民である人を奴隷として売り捌いております。」
「なんとっ、誠にござるかっ。」
「愛季殿。もはや地方の東国などで領地争いをしている時ではないのです。
一向一揆の脅威どころか、下手をすれば、我らの知り得ない新式の武器を持つ、外国の軍勢が攻め寄せるかも知れぬのです。
文永、弘安の役の時には、鎌倉幕府の下、この国の武士が一丸となって戦いました。
しかし今は、足利の幕府は武威もなく、この国に戦乱を撒き散らしたのみ。
それ故、朝廷は足利義昭を征夷大将軍から罷免致しました。
このこと、愛季殿は如何に思われましょうや。」
俺の話を聞いて、しばらく唖然とした安東愛季と重臣達であったが、やがて、愛季殿は俯いていた顔を上げると、言葉を発した。
「藤阿弥殿、我らは『井の中の蛙』(荘子―秋水)で、ござったのですな。
足利幕府なき今、朝廷の武を司るは『北面の武士』たる織田信長公にござる。
織田信長公の命を持って、東国諸大名に『いざ鎌倉』の号令を発してくだされ。
しからば当家はもちろん、東国諸大名こぞって信長公の元へ馳せ参じましょうぞ。」
どうやら、東国第一歩は踏み出せたようである。安東家にも、東国諸大名に送る勅書と俺の文を、手渡した。
『いざ鎌倉、東国の武士もののふたる者は、急遽参集せよ。
陸奥大介鎮守府大将軍
そう、俺は都を立つ間際に、朝廷から従三位に叙せられ、鎮守府大将軍に任じられていたのだ。
【 鎮守府大将軍 】
鎮守府(ちんじゅふ)は、陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所である。その長官である将軍の名が天平元年(729年)にある。長である鎮守府将軍の職位は五位から四位相当である。
建武の新政で有名な。北畠顕家は、後醍醐天皇側近北畠親房の子として、前例のない数え14歳で参議に任じられ、建武の新政では鎮守府大将軍として義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城(宮城県)に下向した。
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