第八章 伊賀忍者 藤林疾風 戦国蝦夷征討

第一話 伊賀藤林疾風の戦国征討。

天正2(1574)年4月12日 京都東福寺 

藤林疾風



 ハヤテは今、東福寺の本堂で一人座禅を組んでいる。正確には直堂と呼ばれる警策を携えた監督役の和尚と二人だが。

 これまでのこと、これからのこと。俺が、戦国時代に来て努めて来たこと、目指すべきことを確かめるためだ。

 伴の佐助達は、本堂の庭で警護している。


 今日は戦国の英傑、武田信玄公の一周忌なのだ。もちろん、史実を知る俺しか知らないことだ。

 武田家では病の養生中とその死を秘匿している。

 信玄公の菩提寺は甲斐の恵林寺えりんじ、正確には別流派だが東福寺と同じ臨済宗だ。それでここに来た。

 臨済宗は禅宗の一派であり、禅宗は悟りをひらくことを目的とし、知識ではなく悟りを重んじる。

 悟りとは「生きるもの全てが生来持つ本性である仏性に気付く」ことをいい、 仏性とは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」をいう。

 悟りは、師から弟子へ言葉による伝達ではなく、坐禅などの感覚的、身体的体験で伝承される。


 本堂の仏前に一樽だけできた伊賀の大吟醸酒小分けした小樽と、焼いた伊勢海老、酒蒸しにした牡蠣を供えた。

 住職に『何方どなたかの供養ですか。』と問われたが、『ええ、尊敬する御方です。』とだけ答えた。

 武田信玄 史実では上洛途上で喀血、甲斐へ帰路の信濃国で死亡。享年 53才

 もし、病に倒れなければ、もし、上杉謙信という英傑と争うことがなければ、武威において比類なきお方であり、天下に覇をなせる英傑の一人であった。

 この世界では、上洛を果たしたが足利将軍の意のままになる事を良しとせず、また喀血により甲斐に帰郷している。 


 信玄公の治世ならば、どのような世になっていたであろうか。信玄公は独断専行や上意下達に走らず、家臣達の意見合議を重んじる主君であった。

 それは俺が思い描いている治世のあり方に一番近いのかも知れない。


 辞世の句

『大ていは 地に任せ肌骨好し 紅粉を塗らず  

 自ら風流。』


『 世は、自然の流れ移り変わりに任せるものだ。その中で自分を見出して死んで行く。

 見せ掛けで生きてはならない。生きるのは本音で生きることが一番楽である。』



【 俺の想いの丈〘 戦略 〙】

 俺は戦国の世に転生し、両親に親孝行してただ、平穏な日常を守りたいと思っていた。

 せめて身近な伊賀の忍びが、貧困から忍び働きと言う出稼ぎを余儀なくされる現状を、雀の涙ほどの報酬に命を掛ける現状を、少しでも改善したいと、知る限りの知識を駆使してきた。

 けれど、戦乱の中で民達の悲惨な姿を見るにつれて、見過ごすことができない救える者を救いたいと思い、できる範囲でやれることをやってきたのだ。

 いつの間にか多くの人々と関わり、いつしか戦乱を早く終わらせるためにできることをしようという思いが行動になっていた。

 そして今に至り、信長公や朝廷の九条殿、二条殿或いは三好義継殿や松永久秀殿の協力を得ることで戦乱の早期終決に向けて、踏み出そうとしている。


 武力が物を言う戦国時代にあって、戦の犠牲者が避けられないのは理解しているつもりだが、それでも戦の犠牲者を最小にしたい。

 一向一揆を扇動する狂った僧侶達は、根絶やしにしなければ、いつまでも戦乱の元になるが、扇動された民達は違うと思う。

 それは、自分達の飢餓への無策を他領地への侵略で誤魔化し、責任転嫁する戦国の領主達の下にいる民達も同じだと思う。


『俺は少しでも民達の被害を少なくしたい。

 同時に大名や武士達に、戦に寄らない違う治世があることを教えたい。』



 そして戦略。史実でもこの世界でも天下統一の第一歩は《上洛》とされている。

何故か、それは帝がいる都であり、武家政権を行う征夷大将軍の幕府があるからである。


 《上洛》の意味は、平安時代には江戸時代の参勤交代のように、都から地方の任地へ赴いていた者が任期を終え、継続もしくは新たな役目に就くために帝に拝謁またはその身分にない者は朝廷に出仕することであったが、戦国時代には、地方大名が領国を正式に認めてもらうこと。そして大軍を率いて都を統治することが天下人と認められるからである。

 時には征夷大将軍さえ殺害、追払い、新たな征夷大将軍を生み出せばよいのだから。


 その意味において俺は、信長公に2度目の上洛を成さしめ、朝廷には戦乱を静めて新たな政を目指すことの意義を認めさせることができた。



【 温故知新〘 戦術 〙】

 史実においては、織田信長公が天下統一を図った足取りは、上洛及び畿内の征服の後、東国西国へと覇権を広げて行くのだが、それでは遠方ほど戦乱の終息に時間が掛かる。

 だから俺は、同盟する諸大名が分業して、天下統一へ邁進する道を選ぶことにした。


 そして俺は東国、武士の発祥の地を討伐するのだ。

 古代いにしえの時代には、東国への遠征討伐を行うことを《蝦夷征討えみしせいとう》と言った。

 神代期の日本武尊、大化の改新後の阿部比羅夫、平安前期の坂上田村麻呂の遠征などが歴史上有名だ。

 これらの戦いの歴史が武術や戦術の発展を促し、武士という職能階級を生んだことは、明らかだ。


 ここで、記しておかなけばならないのは、古代独立部族国家を成していた東北の人々にとって、征服者である都の中央集権から《俘囚ふしゅう》と蔑まれ、人格を蔑ろにされた身分制度への反抗の歴史があったことだ。

 しかしてそれは鎌倉幕府の下で、関東東国武士が政治の中心との意識を持ったこと。

 足利幕府時代においても幕府の直接統治下ではなく、関東管領の下に半ば独立地域にあったことが、東国武士達に誇りを取り戻させ中央の介入を拒む土壌となったのだ。

 これらの意識が東国の覇権争いの根底にあり中央からの介入を拒む要因となっている。

 つまり今川家は将軍家の血筋であり、北条家などは中央からの介入者で、関東の諸豪を支援した上杉家は、関東管領の系図を引く者だからである。


 だから俺は真っ先に、将軍足利義昭を罷免して幕府の消滅させ、関東における二重権力すなわち、関東管領と古河公方という権威を亡きものとした。

 次にすべきことは、その権威の消滅を理解しない、凝しこりとなる勢力の排除である。


【 己の敵を知る〘 戦法 〙】 

 畿内だけでなく、遠く関東や奥羽の東国の地に一つの噂が風のように広まっていった。


『都の天子様が戦を止めよとお命じなさったそうな。たとえ、領主様が戦せよ言うても、言うことを聞かんでええのだと。  

 都から来る天子様の軍は、戦かわねぇ民は殺さねぇけんど、武器を向ける武士と、その一族は朝敵だで、一人残らず皆殺しにすると言うだ。

 天子様は戦いを終わらせて、国中の年貢を4公6民に減らしてくださるとか。 

 そしておら達民を豊かな暮らしに変えてくれるそうだ。だから、決して徴兵に出て死んじゃなんねぇと。』


 俺は、伊賀甲賀者の忍び達や伊勢巫女を、東国一帯に放った。

 商人や放下師(大道芸)旅の僧侶などに扮した《七方出》の者達や、伊勢商人や伊勢巫女達を使って、農民達が戦に関わらないようにそんな噂を流した。

 領地と領民を守るためと言いながら、自分達の覇権を成し遂げるために、農民達の命をいたずらに損ねる武士達を討伐しなければならない。


 孫子の兵法の一節に「善く戦う者は、人に致して人に致されず」とある。

 言い換えれば、相手の思惑通りにならず、自分の思惑に引き込むべきだとでも言うか。

「人に致す」とは「自分の思うように動かす」という意味。戦上手は自分が戦いの主導権を握り、相手に主導権を握らせません。

 そして、多くの場合は主導権を握られた側が負けるのです。 

 主導権を握る方法とは、孫子では相手よりも先に戦場に着くことをよしとしている。

先に戦場について、自分たちの有利な場所に兵を配置すれば、おのずと主導権が握れる。

 しかし、それは戦場という場所ばかりを言うのではなく、戦いの環境を指している。

 俺は敵の兵力を減らし、戦意を落とすことこそ、俺の戦法だと考えている。


 深く瞑想に浸っていたせいか、いつの間にか半刻も過ぎたのだろう。後ろに居た和尚が斜め前から声を掛けた。


「もうよろしいでしょう。先程から御仏のような笑みを浮かべておられましたぞ。」


 その言葉にそういうものかと思いながら、和尚に禅問答をしてみることにした。


「そもさん。」


「せっぱ。」


「人は何故に争うのか。」


「御仏は人に五欲があると教えております。眼げん、耳に、鼻び、舌ぜつ、身しんという五つの感官(五根)から得られる五つの刺激(五境)、すなわち、色、声、香、味、触、に対して執著することによって生じる五つの欲望のことでございます。

 なれど人は獣けものにあらずして想うところ在りて世俗には、財欲、性欲、飲食の欲、名誉欲、睡眠欲という五欲、これすなわち、煩悩を持ち得まする。

 その欲望故に、人は競い争うのでございましょうな。」


「御仏はその五欲をどうせよと、教えているのですか。」


「我ら僧侶には煩悩を捨てよと、説かれておりますが、世俗に住む衆人には詮無きこと。

 御仏は己の理想の姿を求めて生きるようにと教えておられます。そして足ることを知り他人を羨まず妬むことなく生きよと説かれております。」


 そうか、足ることを知るか。だがこの戦国は食べるものに窮して、それを得る手立ても機会も与えられていない者達が溢れている。

 公平を期すとしたら、足ることを知らず、奪うことを続ける者達を、力で解らせるしかないのだな。

 俺は改めて決意を固めた。弱い者、女子供や老人を最優先にできるだけ救い、しかし、民を蔑ろにする大名や土豪を、果断に討ち滅ぼすと。


 



【 孫子の兵法 】

「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」孫子の「九地篇」の中にある言葉です。

「まず敵が大切にしているものを奪取すれば敵はこちらの思いどおりできる。」

 この前段には、戦巧者は前後の軍の連絡を断ち、大と小の部隊、身分の上下などの差異で、助け合わぬようにし、兵の分散を図り集中させず、集中しても整わないようにさせるとある。

 その上で、敵が秩序ある大軍で攻め寄せた時はどうするかとして、この言葉がある。

 孫子を書いた孫武は、実際に数倍の敵に攻め寄せられ、逆に敵の首都に侵攻し、引き返してきた敵軍を迎え撃ち、寡兵で破っている。

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