第四話 伊賀流蝦夷征討『いざ鎌倉』
天正3(1575)年6月20日 出羽国雲厳寺 藤林疾風
参集の期日、その日正午の刻限までに現れなかったのは、津軽の大浦為信ほか、傘下の小豪族であった。
俺は伊賀の通信部隊に命じ、出羽の土崎湊(秋田港)に待機している柴田勝家殿の部隊に津軽の大浦為信の居城大浦城攻めを開始するよう連絡させた。
また、物資兵員を輸送する商船には、輸送後すみやかに土崎湊へ戻るように指示した。
此度の大浦城攻めにあっては、降伏を糾すことも避難のための時を置くことも不要、と命じてある。
一度、朝敵となれば、降伏も生き残る機会などないのだと知らしめ、見せしめとするためだ。
戦国の世は終りなのだ。これまでのように勝手は許されない、許してはならないのだ。
「刻限である。此度『陸奥大介鎮守府大将軍』に、任じられた
公家の正装である衣冠束帯に、身を包んだ才蔵が厳かに告げた。
雲厳寺の三方を開け放った本堂には、脇差の所持も許さずに、40余名の東国諸大名と重臣達が居並び、境内随所に100名余の伊賀鉄砲隊が警備している。
境内の塀の外には、東国諸大名の兵達が居並び、中の様子が伺えるようにしている。
俺は今一度、帝の勅書を読み上げて話す。
『日頃の忠勤を嬉しく思う。朕、想うところ在りて天正と号す。
此度東国の静謐のために、鎮守府大将軍
嘗て、東国にありて乱を起こした『平将門』に倣う者は朕の臣下にあらず。
それに従う民は、日の本の民にあらず。』
集まった大名達の耳にも、新政の噂は届いているはずだ。
帝が戦を止めるように命じたこと。たとえ領主が戦を命じても従わなくて良いこと。
戦を終わらせ国中の年貢を4公6民にすること。だから戦に出て死んではならぬということ。
その影響が見られるのは、これからだが、領民との軋轢は避けられないだろう。
「皆の者、参集大儀である。此度、勅命を賜り、東国の戦を終わらせに参った。或いは、朝敵として討伐するためであるがな。
諸侯に問う、その方らは、何故なにゆえに戦するのか。
最上義光、遠慮はいらん、誠のことを申してみよ。」
「 · · · 、恐れながら申し上げます。
東国の地は、肥沃とは縁遠い土地で、ございます。収穫の少ない中で、度重なる飢饉に見舞われて、各地では、生きるための食糧の奪い合いが起きまする。
それが領内に留まらず、他国領からの事となれば、領民を護る兵を出すのは、吝かではございません。
国境では水利の利権も民の暮しに直結しており、日照りともなれば、下流と上流の領民で争いが起きまする。」
「南部晴政、その方はどうなのだ。」
「はっ、応仁の乱の頃より主家を下して土地を奪う下剋上が蔓延り、血で血を争う宿年の恨みとなり、最早どちらか滅ぶまで治まりは着かぬかと。」
「戸沢盛重、その方はどうなのか。」
「はっ、我ら弱小大名家は臣従を強要され、従わず攻め寄せられる故に、領地を護り戦っているのでございます。」
「なぜ、臣従を嫌うのだ。」
「臣従すれば、主家に多くの年貢を課されて今まで以上に苦しい暮らしと、なるからにございます。」
「伊達輝宗はどうなのか。」
「応仁の乱よりこの方、将軍家のご威光届かず、最早この上は自力で覇を唱え統べるしかなく、武威を振るっておりまする。」
「武威を振るうは、他の者に従うを良しとせぬためであるか。
(それが帝であってもなのか。)
他に申すべきことのある者はおるか、おれば申し述べよ。」
「 · · · · · 。」
「なければ、その方らに問う。家督争いで民が豊かになるのか。親兄弟親族で争い、手にした家督で、家中を率いてその方らは、民を豊かにしたのか。
東国の民達は、未だ白米を口にしたことがなく、自分達が収穫した赤米ですら、年貢に取られて稗や粟蕎麦などの雑穀しか口にしておらぬではないか。
果たして、その方らには領主としての才があると言えるのであろうか。
応仁の乱が終わり、既に100年に近い時が経つ。その頃、先祖がまだ家臣にすぎない者もあろうが、その方らは既に代を重ねておろう。
その間に何をしておったのか、ただ血縁に胡座をかき先代の行いをなぞるだけで、少しも民の暮しを豊かにしておらぬではないか」
そう言い放つ俺を、睨みつけた男が口を開いた。
「恐れながら。他家でもやられておりましょうが、伊達家では、新田の開墾などを重ねておりまする。」
「伊達輝宗よ、他家もやっているようなことしかできぬとは自慢でなく恥ではないのか。
上杉家では、
南部晴政も口を開いた。
「恐れながら、東国には青苧もなく、売り買いする品も金も領民にはなく、 · · 」
「 · · 、真似をするのは物ではないぞ。そのやり方であるぞ。
その方らの領国に合った作物はないのか。海のある領地ならば湊を作り交易しようとは考えぬのか。
毎年、川が氾濫するのを捨て置くのか。
いつまで領民に稗や粟を喰わせるつもりだ。
その方らがいくら領地を拡げようと、領民の暮しは、一向に豊かにならぬではないか。
帝は無能な大名にいつまでも領地を任せることを廃される。そして全ての土地を召上げて、才ある者を用いて土地を豊かにし、全ての民を豊かにすることを決意された。
その方らは領地を知り得ておるから、新政に励むならば、代官として取り立てよう。
しかし、扶持は禄とし役目に相応のものとなる。
帝のご意向、何者も阻むことならぬ。」
(なんと、領地を召し上げられるとは。それでは、領地を奪い広げ、我らの石高を増やすことができぬではないか。それに大名としての地位も配下の土豪に取って代わられるかも知れぬではないか。)
「 · · · · · 。」
「その儀よりも、皆に教えねばならぬことがある。数年後には、この国へ南蛮が攻め寄せて参る。故に『いざ鎌倉』である。」
「それは、如何ほどの軍勢でございましょうや。」
「南蛮は遠い西の果ての異国の国々よ。船で何ヶ月も掛かって来る。初めは1〜2万程であろうか。」
「そのぐらいであれば、、、。」
「なんとかなると思うておるか。言うておくが今のその方らが束になっても全滅するしかないぞ。
戦のやり方が、武器が違うのだ。あ奴らの戦いは鉄砲を使う。火縄銃の何倍も遠くから連発で撃ち掛けて来る。
近づくまでには全滅しておるわ。あ奴らの鉄砲は雨風の中でも関係なく使えるものだ。
1万の南蛮軍が1刻もあれば、10万のそなたらの軍勢が皆屍に変ろう。城に籠城しても無駄だ。大筒で城ごと破壊されるのだ。
既に天竺は南蛮に占領され、唐の一部も南蛮の湊となっている。そして、この国でも九州の一部大名が南蛮との交易で、鉄砲や硝石を手に入れるために、民を奴隷として売り渡している。
奴隷とされた者は、異国に連れ去られ鎖に繋がれわずかな食事で死ぬまで働かされる。
女は死ぬまであ奴らの慰みものにされる。
南蛮と結ぼうと思う者はおらぬか。
無駄ぞ。我らが南蛮人を獣と見る以上に、あ奴らは我らを猿と同じ下等な者と見ている。
その方ら猿と仲間に成れるか。到底成れまいよ。騙されて利用されて、殺されるのが落ちだ。
さて皆に今一度問おう。これでも戦を続けるか。奴隷となった子孫に呪われ怨まれようとも。」
しばし静まり返った本堂に、境内の池で鯉が跳ねた水音が響く。そんな中で口を開いたのは伊達輝宗だった。
「鎮守府大将軍殿の申されること、誠なれば由々しきことかと存じまする。
しかしながら、我らのご先祖が心血を注いで育んで来た領国を、帝の命だからと召し上げられるのは承服しかねまする。
たとえ、南蛮に征服されたとしても、民を皆殺しにしては統治が立ち行かぬでしょう。
伊達家は、伊達家のやり方で領国を守ってみせまする。」
「 · · · 、さようか、伊達家は守れると申すか。
伊達輝宗、その決意見事。されど今のその方らでは、太刀打ちできぬ南蛮の戦を見せて遣わそう。
ただちに領国に帰るが良い。その方が居城に帰り着き次第、討伐を致す。
輝宗。それで、、、本当に良いのだな。」
「異存ありませぬ。戦で滅ぶは武家の習い、鎮守府大将軍殿の戦ぶり、拝見仕る。
では、これにてごめん仕る。」
「他の者はどうか。帝の命より己の領国に、拘る者はおるか。」
「最上家は、帝の勅に従いまする。」すると、次々に声が上がる。
「「「 安東家も。南部家同じく。大崎家、葛西家、小野寺家、大宝寺家、戸沢家も従いまする。」」」
「 · · · 、しかし大将軍閣下。某どもはこれから如何すればよろしいので。
また、この場におりませぬ大浦家や退出した伊達家はどうなさいますのか。」
「大浦為信には、既に帝の討伐軍が向かっている。
領国を接する安東家と南部家は領国に戻り次第、津軽へ兵500を差し向けよ。大浦領の占領後、帝の討伐軍から統治を引き継ぎ共同で差配せよ。
追って沙汰あるまでは、その方らを現状の各々の領地の代官と致す。くれぐれも、争いや戦を許さず統治せよ。
それから皆には、領国に帰る前に米沢に立ち寄ってもらう。南蛮の戦の片鱗を見てもらおう。」
「我らは、大浦家と伊達家討伐に兵を出さなくても良ろしいのですか。」
「無用。その方らには『井の中の蛙』である意味を知ってもらおう。明日米沢へ向かう。同行せよ。
委細は才蔵から申し渡す、すみやかに準備せよ。
それと、これからのことを話しておく。
先程も申したが、全国の征討がなされるまでは皆に今の領地を代官として治めさせる。
だが、今日よりは領国領境に関係なく開発を行う。俺の命に従いすみやかに事を成すのだ。
具体的には田起こしから田植え収穫までの全てが変わると思っておれ。
畑に植える作物も変える。合間に賦役を行い河川や道を整える。
それに関東との境を除き、東国各所の全ての関と関銭を廃する。
また、寺社の守護不入も公領、荘園も寺社の座も認めぬ。嫌なら東国から出て行かせるまでだ。」
今の時点で心底納得している者はいないだろう。様子見で畏まっているが伊達家や大浦家への討伐如何では、反旗を翻す腹積もりなのが大半だろう。
長年血を流し争って来た者達が、いきなり仲良くできる訳がないのだ。おそらく野望を捨て切れない者もいるだろう。
しかし、行動に出た途端に思い知らせる。
いつまでも民の苦しみを気付かぬ愚か者達に対し俺は容赦しないのだ。
【 元寇 】
10年以上前から数度に渡る臣下への服従を強いた使者を無視した鎌倉幕府に対して、
文永の役(1274年)は、博多湾に元高麗軍3万が襲来し、日本の武士にとってはカルチャーショックだった。個人で名乗を上げ戦う武士を集団で倒してしまう元高麗連合軍の前に散々な目に会ってやっと気付くあり様。
だが、乱戦になってようやく持ちこたえて、元高麗軍が占領でなく脅しの襲来で退却してくれたから、終えることができた。
文永の役に神風などなかった。勝てたのではない。相手が退却していっただけだ。
そうして、弘安の役(1281年)は14万の軍勢で襲来するのである。
この時は流石に学習し、防壁などの備えと敵船への夜襲など果断な戦法で勝利した。
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