第六話 天正の改元と、信長の再上洛。

元亀4(1573)年7月20日 堺湊 藤林疾風



 二日前に桑名湊から、戦艦5隻と新造船

20隻の艦隊で織田勢2千を乗せ堺に来た。 

 戦艦は着岸できる岸壁がないので、新造船の兵を降船させた後戦艦から移乗させて上陸させた。

 もちろん、堺湊は大騒ぎになったが、堺の会合衆には、1日前に伊勢屋からの先触れで知らせていた。

 堺湊に上陸して二列の隊列で行軍し、石山本願寺の傍らを素通りして京の都に入る。

 まあ、石山本願寺は驚愕だよね。なにせ、長島の一向衆が全滅したとの知らせと、同時くらいに現れたのだから。


 長島の後始末は織田信忠殿がやっている。

 改めて織田領の代官の配置や降伏した領民の帰農それから食料の配給だ。食料は伊勢の備蓄の一部を、伊勢湊から船で運んでいる。


 上洛の兵は柴田勝家殿と佐久間信盛殿に率いらた本隊3万が陸路で京へ向かっている。

 伊賀水軍艦隊は、このあと織田軍の兵糧を運ぶために、伊勢湊までもう一往復しなければならないけどね。


 せっかく堺まで来たので、信長公に堺湊の会合衆を引き合せた。幕府御料所代官を務める堺の商人 今井宗久殿ら10人だ。

 そう言えば会合衆の皆さんは、俺のことを伊勢屋の番頭と思っていたから驚かれてしまった。信長公から織田軍の軍師藤阿弥であると聞かされて。

 で、そのあと伊賀藤林家の御曹司で伊賀の大艦隊を率いていると分かってさ。呆けている会合衆を前に、信長公がひとり高笑いしていたよ。一遍に教えればいいのにさ。


「堺の幕府代官を務めております納屋(今井)宗久にございます。織田様には、初のお目どうりでございますが、以前からご贔屓にしていただき御礼申し上げます。」


「うむ、此度は帝に拝謁のために上洛したのだ。万事、藤阿弥の企みよ。俺は飾りじゃ。ははは。」


「はて、どのような企みにございますかな。この納屋にも、教えていただけませぬか。」


「教えても良いがその方の首が飛ぶかも知れぬぞ。

 それでも構わぬか。どうせ、あとでわかることだ、今は聞かないでおけ。」


「さようなことならば、聞かないでおきましょう。」




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元亀4(1573)年7月24日 京都御所  

藤林疾風



 御所の紫宸殿ししんでんに、関白近衛前久以下、摂関家などの公家衆がずらりと並んでいる。


「織田上総介、直答を許す。」


「は、主上のご尊顔を拝し、恐悦至極であります。」


「上総介、久しいの。壮健で何よりである。

 それに早人もよう来た。待ちわびていたぞ。」


藤景早人ふじひろのはやと、直答を許す。」


 その名を聞いて抑えたどよめきが広がる。それはそうだ。自分達が施しを受けている、人物を初めて目にしたのだから。


「主上にお約束のとおり、まかり越しましてございます。全て予定どおりにございます。」


「では上総介、長島の一揆は鎮めたのか。」


「はっ、長島に一向衆の寺など残っておりませぬ。僧侶も一揆に加わった武士達も、皆、あの者達の望む、極楽浄土へ旅立ちましてございます。」


『『おおっ。』』公家達から、どよめきが漏れる。


「では一同に告げる。朕は、和仁に譲位を行う。」


 三度、どよめきが起きるが、それを制して関白近衛前久が発言した。


「主上、何故に譲位などと。譲位は易々とできることではおじゃりませぬ。」


「関白殿下、失礼ながら申し上げます。主上は嘆いておいでなのです。戦乱の世を放置し公家の暮らしも顧みぬお方を。」


「なんと、じゃが譲位には莫大な費えが。

そうか、その方らが · · · 。」


「主上、既に仙洞御所は用意ができておじゃります。いつでもお移りになれまする。」


「うむ、九条大納言。それはどこか。」


「『天正寺』と称して御所の東に近頃建立してござります。」


『おおっあれが』『なんと院のためとは。』


「では、近くの吉日はいつか。」


「はい、来たる28日にごじゃりまする。」


「忙しいことだが用意せよ。それから摂政を付けねばならん、九条大納言に任す。」


『天正寺』が院の仙洞御所に替わり、その名が消えたのだが、帝が気に入られたのか俺に尋ねた。


「改元の新しき年号であるが『天正』でどうか。」


みかどがものごとを正さんとする。良いめいであるかと思います。」


 当然、そう答えるよ。恵空どのに寺の名をどうするかと相談された時に、どうせ仮の名史実の年号でいいんじゃないかと、安易に答えたが、史実どおりになるものだなあ。




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元亀4(1573)年7月25日 京 二条御所 

足利義昭

 


 一昨日以来、幕府二条御所では激震が走っていた。

 織田信長の再上洛である。幕閣の誰一人、知らぬ間に兵を率いて入京したという。

 慌てて、幕臣を調べに走らせると、信長は船で堺へ来たとのこと。率いて来た兵は2千ほど、軍勢を運んだ船は見たこともない巨大な軍船がいる大船団であるという。

 信長は長島で一向一揆と対峙していたのではなかったか。長島を放置して、軍勢を京に向けることなどできぬはず。

 ともかく関白近衛前久殿が来ておる。話を聞こう。


「義昭殿、大変なことになっておじゃる。   

 織田信長が入京して、昨日、帝に拝謁しておじゃる。 

 信長は長島の一向一揆勢を破り、平らげたそうにおじゃるぞ。

 それを聞いて、帝はこの28日に譲位をなさると思し召された。新たな帝は和仁親王が即位される。そして摂政には九条兼孝殿が就く。儂はお役御免じゃ。」


「なんと改元とな。改元とあらば将軍職であるこの俺に諮って行うはず。何も聞いておらぬぞ。」


「此度のことは、藤景早人ふじひろのはやとと九条兼孝が企み。全ては仕組まれていたのでおじゃる。」


「藤景早人とは何者じゃ。」


「昨年来、公家に施しを成す者が現れての。

 帝が官位を与えられたのじゃが、誰も見たことがなく、それが信長の拝謁に、同行しておったのじゃ。詳しいことはわからぬ。」




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天正元(1573)年7月30日 石山本願寺  二条晴良


 二日前に正親町上皇の譲位、昨日は後陽成天皇の即位、そして天正へ改元と朝廷は儀式続きだった。

 そして儂が、石山本願寺への使者を仰せつかり、参っておる。石山本願寺の本堂に迎え入れられたが顕如を始め坊官達が大勢揃っておるわ。


「お使者お役目ご苦労にございます。後陽成天皇のご即位、並びに改元の慶事を、本願寺一同心より言祝ぎまする。」


「ふむ、その言葉に間違いはないでおじゃるか。

 先頃より武家と争い、各地で民の命をおろそかにしておるやに聞くが、それは仏門の徒にあるまじき行ないではないかと、院は心を痛めておじゃる。」


「なんと、院のお心を痛めたこと、この顕如門主として不徳の致すところでございます。

 なれど、その儀は政を担う将軍家の手助けを、御仏のお心に照らして行なったものにございますれば、なにとぞ心安らかに願い奉りまする。」


「此度の改元の年号『天正』は、戦乱の世を根本から正しき世にとの院の願いにおじゃる。

 仏門に身を置く者が争いを起こすなど言語道断におじゃる。よって本願寺門主に謹慎を申し付ける。

 もし、この命に背くことあらば、本願寺を門跡寺院から除す。しかと申し付けたぞ。」

  



【 天正の年号 】

 元来、年号は勘者(学識者)が中国を含めた過去の年号を調べ、中国の古典をもとに提案される。

『天正』という年号は晋の籍田の儀礼(皇帝自らが祖先を祭る供物を耕作をする儀式)の場面の話と『老子』の「清静なるは、天下の正と為る」に由来している。

  

 その故事は『上に立つ者は民を基盤としている。民は食物を天の恵みと仰ぐ。物事の末を正さんと思えば、その根本を整えることである。』

 また『老子』の清静とは『上からの指示や命令を出来る限り少なくし、積極的に政策を展開しないで民の活力に任せる。』ことだ。


 総じて『民がいてこその国であり、民にとって大事なのは毎日の食べ物を安心して得られることである。

 世を変えるには根本を変えなければならない。良い世にするには、先々のことを考え手を打っておかねばならない。

 そうすれば、国の指導者があれこれ動かなくても民の力で国は平和に治まっていく。』

 そんな意味である。

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