第七話 藤林 疾風『戦国を生きる』

永禄5(1562)年5月 伊勢国 伊勢屋 

藤林疾風



 戦国という時代は、年貢が6公4民が普通であり、領民の大多数である農民の暮らしは飢餓と戦に怯えながらの生活であった。

 室町時代の荘園制では、7公3民が普通だった。農民と荘園領主との間に荘官や地頭や守護など、土地に権利を持つ者が、重複して存在し、中間搾取をしていた。

 農民達だって黙ってはいない。凶作の時には年貢の軽減や徳政令を求めて土一揆が頻発していた。


『年貢の納め時』という言葉がある。観念して諦めることの意味だが、農民がなんとしても年貢を納めないように足掻いていたことから生まれた言葉だ。


 戦乱で田畑を荒され飢餓に晒された農民達の間でも奪い合いや人攫いが横行し、自衛のために村を囲ったりした。

 下剋上と呼ばれる戦国の実力主義で、荘園を奪い取り領地の民を庇護して成り上がった戦国大名は、他国との攻めぎ合いの傍らで、新田の開発や治水の改善を積極的に行ない、国力を高めていた。


 治水で有名なのは、《信玄堤》だが、甲府盆地を流れる御勅使川と釜無川の合流地点で行なった一連の治水事業で、武田信玄が家督を継いでから、20年にも及ぶ歳月を掛けた大事業であった。

 この時代はコンクリートもなく、城の石垣と同じ技術を使って、石組を用いて堤防工事を行った。



 話を庶民の暮らしに戻すと、武士や裕福な階層の者は、呉服屋で仕立てた新しい着物を、庶民は古着の小袖を40文(約2,000円)程で手に入れていた。

 洗濯も石鹸などなく灰汁で念入りに洗うのだが、染み込んだ汚れや臭いは取れない。


 同様に、裕福な者達は米を食していたが、庶民の普段の食事は米を食べることができず、麦や稗や粟を食べていた。


 貧しい農民達の住居は、地面に直接丸太を立てた掘っ立て小屋で、土間に藁や筵むしろを敷いていた。

 寒村では壁さえなく、屋根の茅葺きを地面まで垂らした家もあり、明かり採り窓も屋根の両端にあるだけで暗がりの中での生活をしていた。



 こんな過酷な戦国時代だが、俺は幸運に恵まれた。

 父と母と妹がいて、慕ってくれる郎党達がいて、伊賀の皆が仲間になってくれた。

 だから、北畠家との戦いに勝利することができたし、豊かな伊勢の領地を得て、伊賀のやり方で統治することができている。



 今日は久しぶりに、伊勢屋七兵衛が訪ねて来ている。新たな商品の売れ行きや商いでの諸国の話を聞かせてもらうのだ。


「疾風様、伊勢湊は日の本一の港町となりましたぞ。

 以前からあった大湊には、伊賀水軍の新造船が着ける岸壁がありませんでしたしなぁ。

 しかし、できた伊勢湊の方が規模も設備もはるかに上ですから大湊の商人達も、こちらに移り住む者が増えておりますぞ。

 それに新造船のおかげで、沖合いの荒海も克服できますでな。

 東は陸奥伊達家から西は九州島津家まで、我らの庭でござりまする。はははっ。」


「志摩の者達が煩いけど、うちの船なら遥か沖合いを高速で抜けて行くからね。手を出せないしね。」


「疾風様に言われて、陸奥まで行った甲斐がありましたよ。堺の独壇場だった昆布を手に入れることができましたからなぁ。」


「商売繁盛で何よりだが、諸国の様子はどう。」


「ご承知かと思いますが、織田家は、美濃を攻めあぐんでおります。武田家や上杉家との婚姻同盟を画策しておるようですが、うまくいってはおらぬ様子。」


「うむ、こちらでもそのように掴んでいる。駿河や相模、甲斐の様子はどうかな。」


「昨年の川中島の戦いの後、上杉家は信濃の防備に徹したようです。武田家は今川義元亡き駿河を狙うておるように見えますなぁ。」


「うん、武田信玄にとっては手詰まりだし、いつ、今川家との同盟を破ってもおかしくないよ。

 ところで、信州の巫女館への鈴の販売は、順調かな。」


「はい、巫女館へは巫女の人数を見ながら、足りない程度に売り、他へ流れないようにしております。また、他へ売る鈴は、大きさは同じでも音色が違うものにしておりますからご安心を。」


 他の諸国も聞いたが、西国の情勢など今は無視スルーだ。

 足利義輝は、将軍家の権威の回復に努めており、大名に『義』の諱を与えて恩を売り、和睦の調停をしている。

 史実では今年9月に、足利政権内で絶対的地位を専有していた政所執事の伊勢貞孝を、三好長慶と組み排斥討伐している。



 今は、戦国大名の勝ち抜きトーナメントの予選が終わり、ベスト32が出揃ったというところだが、あと数年でベスト8まで進む、波乱の時期を迎えることになる。


 果たして、俺は家族を守り伊賀と共に生き残れるのだろうか。





【 昆布談議 】

 昆布は鰹節や椎茸と並んで、和食の出汁だしとつゆの代表的な素材だ。

 出汁だしは素材の味を引き立て、旨味を加えるもの。つゆは素材に味を付けるものだ。

 関西の出汁は昆布味と言われるが、昆布は奈良時代に遠く蝦夷地から朝廷に献上されてたのが始まりで、北前船、つまり日本海経路で調達されている。

 そのため昆布の稀少性から、関東にまでは回らなかったのではないかとも言われる。

 一方、鰹節は古くからあり、漁獲地である太平洋側で広く作られていた。

 

 関東と関西の料理で、違いが顕著なのは、おでんと関東煮かんとだきだ。

 どちらかと言うと、おでんは、つゆが滲みた味。関東煮は出汁が入った素材の味だ。

 おでんの元祖は、豆腐や蒟蒻こんにゃくに味噌を付けて焼いた『(味噌)田楽』だ。そう、名前の由来は平安期に農村で豊作を祈って舞った『田楽舞い』から来ている。

 『田楽舞い』は白袴を履き一本棒に乗って飛び跳ねる踊りがあり、この衣装が串に刺した豆腐に似ているところから名付けられた。

 ちなみに、筆者は子供の頃に母親が平鍋の真ん中に空き缶を置き、中に入れた味噌だれを付けて食べた『味噌おでん』が好きだ。

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