第五話 将軍家の使者と志摩の内乱
永禄4(1561)年3月 伊賀藤林砦 藤林疾風
京の都から面倒事がやって来た。将軍家の使者である。
先触れの知らせがあったので、藤林砦の外に天幕を張り使者を迎えた。もちろん上座などではない。
使者は
迎える我らは、父上と俺に家老達である。
「将軍家の使者を迎えるというに、このような場所とはどういうことだっ。」
「言葉遣いを間違えなさるな。無体なことを申さば、生きては帰れませぬぞ。」
「なんだとっ。儂は将軍家の使者なるぞ。」
「我らは、武士に敵対する一揆勢の者なれば将軍にも守護にも仕えてはおらぬ。そのような者に、此度は何用で来られたのか。」
「 · · 北畠を滅ぼし伊勢を治めるともなれば、無官と言えども大名であろう。将軍家に忠誠を示し上洛せよ。」
「疾風。答えてやれ。」
「この国を戦乱の世にした、張本人の将軍家などに、頭を下げる謂れなどありませぬ。
我らは武家を憎む者なれば、武家の争いに関わるつもりなどありませぬ。武家どうし、争い滅びるのを待つばかり。」
「なんだと、国中の大名を敵に回すと言うのか。」
「ははっ、互いに勢力を競い領地を奪い合う大名達に、そんな纏まりがありますか。
どこを見ても、戦ばかりではありませぬか。
それに拝見したところ、将軍家の直臣達の軍勢は、我らには及ばぬようでございます。
帰って将軍家に伝えなされ。下剋上の世にもはや、武威のない将軍など不要だと。」
「うぬ、将軍家を愚弄致すかっ。」
「今すぐ立ち去らねば、刀の錆びに致しますよ。」
そう言って刀を抜くと、『ひいっ』と声を上げて、逃げるように立ち去って行った。
後日、京へ放った忍びの者達の知らせによれば、怒り狂った将軍が、伊賀近隣の大名に討伐の御内書を乱発したというが、いずこも応じなかったのは当然の結果だ。
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永禄4(1561)年4月 伊賀藤林砦 服部半蔵
儂は今、藤林家の家老として、伊勢の内政と尾張以東の探索を担う役目だ。伊賀の内政と紀州以西の探索は、百地殿が担っておる。
将軍家の使者が来てから、一月も経つかという頃、伊勢の志摩で争い事が起きた。
志摩の地頭達である、越賀、青山、国府、甲賀、千賀、的屋、浦の七家が、九鬼家の城波切城を攻めたのだ。
中伊勢以北の伊勢十三地頭達は、伊賀の支配地に囲まれており、伊賀の介入を恐れて加担しなかったようだ。
我ら伊賀が一昨年に北畠を滅ぼした際に、志摩の国人衆は、伊賀攻めに参加しておらぬことで、領地をそのまま安堵して自治を認めたのじゃが。
彼の者達は、海で生活をする海賊であり、伊賀の領民に対し害をなさねば、他国との関わり以外のことには、関与しないことにしておる。
九鬼家と志摩の地頭達には、長年の因縁がある。
熊野から出た九鬼家は、持ち前の水軍力と智謀で、志摩の地頭達の領地を奪いのし上がって来た家なのだ。
攻め滅ぼされた中には、九鬼の親族縁戚もあり、九鬼家に対する不信が根底にある。
例によって大殿と御曹子に、百地殿と儂の4人で、話し合った。
「伊勢 朝熊の代官 名張源四郎より、志摩の件の詳細が届き申した。
2日前の夜明け、速報にある7家の船団が田城城付近に上陸。そのまま城に攻め掛かり夕刻には落城させたとのこと。
城主 九鬼浄隆は討ち死に。嫡男の澄隆と弟の嘉隆は、生き残った一族を引き連れて、伊勢領内の朝熊山に逃亡して、代官の源四郎の下へ庇護を求めてござる。」
史実では昨年、北畠家の支援を受けた志摩十三地頭が結託して田城城を攻めている。
伊賀が北畠を滅ぼしたから、田城城攻めはなくなったと思っていたが、史実のでき事は変わらなかったようだ。
「争いを避け、志摩の地頭達を野放しにしたのが裏目に出たようですな。舐められておるのやも知れん。」
「志摩の地頭達が伊勢に攻め込むことはないと思いますが、いずれ九鬼が奪還を図ろうとするでしょうな。
九鬼家が伊賀に臣従してくれば、志摩との戦いは避けられませんな。」
「どうじゃ、疾風の考えは。」
「九鬼を庇護しなければ、九鬼は織田を頼ると思います。織田の支援を受けた九鬼水軍は厄介な勢力になると思いますよ。」
「御曹子。九鬼を臣従させるとして、志摩は落とさざるを得ないのではないですかな。」
「このまま志摩を野放にして伊勢の民を危うくする訳には行きませんね。
しかし、事を起こすにはまだ早い。六角が崩れるのを待ちましょう。九鬼澄隆と嘉隆を伊賀に呼び彼らの存念を確かめた上で、臣従させるかどうかを決めましょう。」
「では、そのように手配しますな。」
儂はそう言い、源四郎に指示を出すべく、通信塔へ向かった。
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永禄4(1561)年6月 伊賀藤林砦 藤林疾風
「藤林の大殿には初めてお目にかかります。
九鬼嘉隆と甥の九鬼澄隆にございます。」
「九鬼澄隆にございます。」
「まず申しておかねばならぬことがある。
当家は大名でも武家でもない。伊賀の郷士で民じゃ。そなたらと同じじゃ。
無謀な大名が、我らを攻め滅ぼさんとしたので、領民で抵抗し
「はあ、我らは伊賀に臣従したいと思うておりますが、如何様にすればよろしいので?」
「九鬼殿。当家には身分などない。あるのは役目と役職よ。それを承知いただけるかな?
農民も商人も坊主も、そなたが敬意を払うべきと思うた相手にのみ敬意を払えば良い。
あとはタメ語じゃ。はははっ。」
「伊賀に臣従するということは、伊賀の領民になるということじゃ。領民の誰をも蔑んではならぬし、信義を破ってはならぬ。
解るかな、これまでのように九鬼家として他家の領地を攻め取ることなどできぬということよ。」
「臣従して領地はいただけるので?」
「領地はない。役目に応じての俸禄になる。
もっとも、自分や郎党の食べる分の畑くらいは、与えらるがな。」
「我らは海で生きて来た者にございます。
他に生きる術を知りませぬ。それを配慮いただけるなら、臣従を致しとうございます。」
「どうじゃ、疾風。」
「伊勢には湊も商船も多くある。だがそれを護る水軍として戦う船も必要だ。九鬼殿には伊賀の水軍奉行として、戦船の造船と水軍の兵の訓練を務めてもらう。
志摩を攻めるのは、水軍の準備が整う2年後だ。忙しくなるから覚悟してほしい。」
【 戦国時代の水軍 】
水軍の呼称は江戸期以降で、それ以前は海賊衆、警固衆などと呼ばれていた。
その発祥は、平安期に陸上で悪党、海上(湖川)では海賊と呼ばれる武力勢力が生まれ戦国期には、悪党は武将となったが、海賊は領地や権力を持たない武力勢力だったので、海の盗賊、無法者といったの印象がある。
海賊は管轄地の神に仕える神人を自称して神域を通行する船から初穂料や上分を徴収をした。海の関所ということだ。
奉献であり、いきなり襲うことはなかった。海賊は警固衆とも呼ばれ、通行を徴収することは、社会的な理解を得ていたのだ。
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