閑話 第四次 川中島の戦い『山本勘助』

永禄4(1561)年9月 信濃国川中島 

山本勘助



 儂は迷うていた。妻女山に陣を敷き、籠る上杉政虎(謙信)と如何に戦うべきかと。


 別動隊により背後からの急襲で、上杉勢を山から追い出し、麓で本隊が迎え撃つ。

 しかし、これを読まれたらどうするか。

 ふと、若者の言葉が頭をよぎる。

『奇策は寡兵なればこそ、多勢には無用。』 

 フーっ、大きなため息を吐き、そして心に決めた。



 前年の8月に関東へ進出した長尾景虎は、越年して3月に鎌倉で関東管領に就任して、上杉政虎と改名し、10万もの軍勢を集めて相模の北条攻めを行なった。


 しかし、古河公方の後継者問題で関東勢と不和が生じたり、小田原城攻めの長期滞陣に前年の不作で兵糧に不安を抱える参加将兵の離脱などがあり、北条の支援の動きを見せる武田軍を叩くため、包囲した小田原城からの撤退を余儀なくされた。


 一方、武田軍は4月に北信濃の割ヶ嶽城を攻め落とし、川中島に海津城を完成させた。

 小田原城を包囲中の政虎にとって、背後の信越国境の防備は急務で、武田軍の前進拠点である海津城を攻略して、信濃から追い出す必要があった。

 一旦帰国した上杉政虎は8月になり信濃へ出陣。越後を出て善光寺を経由して妻女山に布陣した。

 これに対して武田方は川中島の対岸にある茶臼山に対陣した。




 8月15日に善光寺を出た上杉軍は、翌日に川中島の犀川さいがわ千曲川ちくまがわを越え、甲斐側の海津城の南側にある妻女山に布陣した。


 すぐに、海津城に攻め掛からなかったのは城攻めの最中に背後からの、武田軍本隊からの挟撃を避けたからである。


 武田軍本隊は24日に茶臼山に布陣した。

 そのまま睨み合いを続けていたが、29日になり海津城へ入った。

 両軍は再び睨み合いの膠着状態となるが、痺れを切らした武田の諸将が決戦を主張し、信玄は勘助と馬場信房に作戦立案を命じた。


 儂と馬場信房は、別動隊による妻女山への夜襲攻撃と、その間に妻女山を降りて来るであろう上杉軍を、武田軍本隊で迎撃する作戦(啄木鳥きつつきの戦法)を進言し、9月9日深夜に別動隊を出陣させ、本隊は川中島に布陣した。



 ところが9日の夕餉の炊事の煙がいつもより多いことに気づいた上杉政虎は、武田軍に動きがあることを察知し、先手をとって動くことを決断した。

 10日未明に密かに下山し、川中島に陣を構え夜明けを待ったのだ。


 下山した日の早朝の川中島は、あたり一面深い霧に包まれていた。

 午前8時になり霧が晴れると、そこには、目前に対面した互いの軍勢が浮かび上がっていたのである。

 敵に決戦を挑もうと士気が上がる上杉軍と突然無傷で現れた敵勢を前に驚愕する武田軍では勢いが違い、上杉軍は車懸くるまがかりの戦法で鶴翼かくよくの陣で支える武田軍の本陣を目指して、防御する隊を次々と撃破、武田信玄の本陣へと迫った。


 

 上杉軍の怒涛の攻めに、ついに武田信玄の本陣の防御は、馬廻りの者達だけとなった。

 そして一騎の武将が馬廻りの防御を抜け、太刀を振りかぶってお館様へと迫って来た。


 儂は夢中でお館様の前に出ると、懐に入っていた小鈴の束を、騎馬武将の顔目掛けて、投げつけていた。

 戦場に似つかわしくない『シャリーン』という音をたてて鈴は散ったが、ほんの一瞬、怯んだ武将の隙に、儂は槍を突き出した。


『間に合ってくれ。』という願い叶って儂の槍は、騎乗の武将が振り下ろす太刀より一瞬早く、武将の太腿に突き刺さった。

 かなりの深手を負うたと思う。足は騎馬を操るのに不可欠だ。

 武将はお館様に斬り掛かる諦め、馬の首を返すと戦場から去って行った。

 彼の武将が上杉政虎かどうか、わからぬが儂は九死に一生を得て、お館様を護ることができたのである。



 ここで史実との相違を付記しておこう。

史実では、妻女山へ向かった武田別動隊が12,000で、川中島で迎え撃つ武田軍本隊が8,000。

 対する上杉軍は、別動隊の足止めに1,000そして残る12,000で武田軍の本隊を突いた。


 だが、疾風の残した言葉が勘助を動かし、別動隊と本隊の数を逆にしていたのだ。

 それ故、武田軍の本陣前の防御は破れかけたものの、鶴翼の陣が機能し上杉軍と互角の戦いをなし得たのである。

 中央の本陣正面に、集中して攻撃を受けた武田軍の被害は、死傷者およそ2,700余。

 武田軍の鶴翼の陣で周囲から攻撃を受けた上杉軍の被害は、死傷者およそ2,600余。


 だが被害では、ほぼ互角の戦いであったが

武田軍は本陣への多大な被害を受けたが故に信玄の実弟の信繁など、数多の重臣を失い、実質的には敗戦と言える結果であった。



『儂は、数に勝る武田勢が奇策を用いることにわだかまりを抱いていた。しかし、妻女山に籠もる上杉政虎と決戦を仕掛けよという、お館様の命だ。

 夜襲が成功すれば、上杉軍を混乱に落とし入れ、陣形を崩して退避する上杉軍を川中島で待ち受ける、武田軍本隊で打ち破ることが

可能だろう。

 だがしかし、上杉政虎は軍神と言われる程の武将だ。見破られることもありえる。

 見破られた時にも備えなければならぬ。』



 勘助の懐にあった小鈴は、疾風の置土産であった。





【 川中島の一騎討ち 】

 後世の講談などで、上杉謙信が武田信玄に斬りかかった話は有名だ。

 上杉政虎が使った武器は槍ではなく、備前長光という名刀で刃渡り2尺9寸(約88cm)の太刀だと言われている。

 一般的な刀は約70cmで柄まで含め90cmだから、20cmも長くて馬上からでも攻撃できたのだろう。 

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