第10話 諸国行脚『見聞 野良田の戦い』
永禄3年 (1560年)8月中旬 北近江野良田
藤林疾風
浅井家は、長政の祖父の代に、北近江守護の京極家に対して下剋上を果たし、北近江の覇者となった。
父の久政は、隣国の朝倉家と同盟を結び、南近江の守護 六角家と対峙した。
その後、朝倉宗滴 亡きあとの朝倉家は頼りにならずと六角家に従属し、息子の長政に六角家の重臣 平井定武の娘を娶らせた。
しかし、六角家への従属に反対する家中の声に押され、隠居して家督を長政に譲った。
この年、浅井長政は15才。元服したばかりで、六角家からの嫁を離縁し、敵対を明らかにしていた。
数日前に、この地へ来て周辺の地形などを調べ、六角と浅井が布陣するであろう場所、そして俺達が、潜む場所をここに決めた。
事の起こりは、肥田城の高野瀬備前守が、六角の冷遇に愛想を尽かして浅井に寝返ったことだ。
それに怒った六角承禎が出陣し、肥田城を囲み水攻めを行なった。それは浅井が高野瀬備前守を救出に来ると読んでのことだ。
城は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にあり、水攻めに適していると考えられたのであろう。
水攻めは、肥田城を囲み長さ6kmの堤防を築いて、宇曽川の流れを堰き止め、堤防内に水を引き込んだ。
だが、先日の
そして今日、肥田城の高野瀬備前守の救援要請で、浅井長政が救援にやって来て、六角承禎が、これを迎え撃とうとしている。
承禎が率いた六角勢は25,000余、初陣の浅井長政が率いるのは11,000余。
数の上では、浅井軍が圧倒的に劣勢だ。
両軍が宇曽川を挟み対峙、睨み合いが続く中で、業を煮やした浅井方の先方が渡河し、六角方の先方の蒲生軍に攻め掛った。
両軍は第一陣に続き第二陣を投入し、一進一退の攻防が続く。そして疲れが出始めた頃両軍の本陣に動きが見えた。
六角勢の後詰めが右翼に向い、浅井の本陣は騎馬隊に動きが見える。
「才蔵、佐助っ。両軍の中間にある宇曽川の川面に霧を張れっ。」
「はっ。(承知っ。)」
二人が飛び出して行く。
六角勢は、後詰めを浅井勢の左翼側面から当てて、浅井勢を押し込み始めた。
その時、宇曽川の川面に薄っすら霧が立ち始め、それは六角の本陣から戦場の視界を遮るように広がった。
まもなく、浅井の本陣から出た騎馬隊が、琵琶湖の湖側から迂回し、宇曽川を渡らんとしていた。
これに、気づいた六角方の蒲生軍が慌てて兵を当てようと動いたが、時既に遅し。
宇曽川の霧を突き破って、浅井の騎馬隊が六角の本陣へ襲い掛かった。
突然の本陣強襲に六角は乱れ、そして敗走が始まった。
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永禄3年 (1560年)8月下旬 尾張国清須城
藤林疾風
野良田の戦いから数日後、俺達は清須城にいた。
信長は桶狭間の戦場から忽然と姿を消した俺にしかめっ面であったが、相模で北条幻庵に、甲斐で山本勘助に会ったことを話すと、呆れ顔に変り、越前一の谷で見た猿楽の話を興味津々で聴き入った。
野良田の戦については、途中で霧が出たことだけを
(隠したんじゃないよ、説明がいっぱいあったから、飛ばしただけだよ。)
清須城に一晩厄介になり、濃姫様と侍女さん達に『お土産ですっ』と、鎌倉彫りの
【 水攻め 】
水攻めは川を堰き止め、城を水没させるばかりではない。籠城する城の飲み水を、断つのも水攻めだ。
承禎が行った肥田城の水攻めは、本格的に堤防を築いた水攻めとしては、戦国史上初であり、有名な豊臣秀吉が行った備中高松城の水攻めより23年も前だ。
歴史上名高い水攻めとしては、豊臣秀吉が行った備中の高松城。のぼうの城で知られる石田三成が行った武蔵の忍城。紀伊の太田城の水攻めだが、いずれも秀吉が関っている。
秀吉の土木築城技術は、出自が技術集団の山の民なのではないかと謂われる所以だ。
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