第七話 諸国行脚『甲斐 山本勘助』
永禄3年 (1560年)6月中旬 甲斐甲府城下
藤林疾風
甲斐の城下町の外れ、鬱蒼とした竹藪に囲まれた屋敷が山本勘助殿の住まいだった。
夕暮れに金次の案内でやって来たのだが、夜は月が出ていなければ、迷いそうな曲がりくねった小道を辿り、夕暮れ時に着いた。
家人に案内され書院に通されると、待ちかねていた勘助殿に、酒膳を勧められながら、伊勢の様子や織田での出来事を聞かれるままに話していた。
「すると、
「はい、直ににそうなるかと。甲斐は信玄公の下に纏まっておりますから、平穏でございますね。」
「そうもゆかぬ。その方は知らぬだろうが、今川が敗れたことで越後勢が関東に兵を向けておる。
北条攻めになるじゃろう。さすれば、盟を結んでおる我が武田家も、近々戦となるじゃろう。」
「たいへん馳走になり、鍬も買っていただきましたこと、御礼申し上げます。夜も更けて参りましたので、今宵はこの辺で失礼をさせていただきます。」
「そうか。愉しげな一時であった。
礼を申すぞ。この後はいずこに参る。」
「越前に参ってみようかと。」
「ふむ、他意はないが。その方ら只者であるまい。
諸国見聞は儂も若い頃には、ずいぶんとしたものよ。大いに見聞せよ。」
「山本様。軍師の山本様に兵法を語るのは、釈迦に説法にございますが、信長公がなされた奇策は、寡兵なればこそのもの。
多勢が命運を掛けてまで、用いるべきものではありませぬ。」
「なぜ、それを。」
「ご縁がありましたものですから。」
史実では、明年8月に『第四次 川中島の戦い』が起き、武田軍は大損害を出し、勘助も討ち死にをしている。
おそらく自分の立てた『
「帰ったようじゃの。(日向)源藤斎。」
「はい、今宵は満月には少し欠けるものの、迷うほどの暗がりではありませぬ。」
「迷うていたのじゃ。それで善光寺に参り、阿弥陀如来様にも縋った。
そうして、あの者らに会うた。今は悟りを開いた気分よ。」
「 · · · 如何なされますか。」
「なにもせぬ。源藤斎もあの者らと話してみよ。
なにがしか得られるものが、あるやも知れぬ。」
翌日は甲斐を出て諏訪へと向かい、さらに信州上田へと向って、蓼科の山岳道を進んでいた。
「若旦那。この辺りは熊野のお山に似ていますね。なんだか懐かしい。」
「佐助さん、修行するお山は、風景が似ているのも当たり前よ。
北信濃の飯縄山の“飯綱使い”は有名だし、信州の戸隠山には、戸隠流忍術があるわ。」
「へぇ、お銀さんは、物知りだなぁ。」
そんなことを話しながら、速歩を進めていると、少し先の林の中から、争う喧騒が聞こえてきた。
「俺が、見て参ります。」
才蔵が一段と速く先を駆けだし、逆に俺達は歩みを緩めた。
間もなく、才蔵が戻った。
「この先で、数人の山伏と透波が争うております。」
「行こう。」
その場に辿り着くと、山伏が5人、透波が3人、刀を抜いて対峙していた。
「双方お引きなされ。透波同士の命のやり取りは、何の益もござらん。
皆、わずかな手当てのために働いてござる。
命のやり取りなどせず、己が役目をされるが良かろう。」
「何者だ。」
「
先頃、伊賀を襲った北畠を滅ぼし申した。
そして、忍びの者と民達だけの国を作り申した。
この度は皆様に会えて重畳。帰って各々のお頭にお伝えくだされ。
武士達にいいように使い潰され、一族を、里の者を悲しませるのは、おやめなされと。
一族で伊勢にお出でくだされば、自分たちの国が持てますと。
伊賀の者一同が、皆様をいつでもお迎え致しますと。」
すっかり度肝を抜かれた透波達は、双方、刀を収めて距離を取り、俺達に向かって言った。
「越後の軒猿、太郎左衛門。伊賀の疾風殿の申しよう、しかとお頭に伝え申す。
甲斐の方々に申す。この度は、出会ったが故に、立ち塞がれれば止むなしと、ことを構えたまで。」
「伊賀の疾風殿か。甲斐の三ツ者、武三郎と申す。某も頭に伝え申す。
越後の方々に申す。我らもお役目により、領内から間諜を追い払おうとしたまで。
命のやり取りまでは望んでおり申さん。」
「なれば双方お帰りくだされ。武三郎殿、
太郎左衛門殿、命を粗末になされますな。」
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永禄3(1560)年 6月上旬 伊賀藤林砦
藤林長門守
「大殿お方様。伊勢屋さんから使いが参りました。若様から文と荷が届いております。」
なにやら、荷物を抱えた侍女の絋が慌ただしく、その後に綺羅を抱えた乳母の梅と、文を持った楓が部屋に入って来た。
「なんじゃ、そんなに慌てることもあるまいに。」
「だって、荷が届いたのですよ。きっとお方様と綺羅様へのお品に違いありません。」
「ふうむ、儂にはないと申すのか。」
「もしかしたら、大殿にもあるかも知れません。」
( まったく、疾風のせいで儂の扱いが酷くなりおったわい。帰って来たら小言を言わねばならぬ。)
「ふふふ、鎌倉の鶴岡八幡宮で買ったお守りと、鎌倉彫りの漆器ですって。皆の椀と大殿とご家老のお二人には硯箱。私と綺羅や楓達には、
「わぁ、さすが若様っ。優しさに溢れてますっ。」
「調子が良いのう、絋は。伊賀の漆器職人達にも、渡してほしいとあるぞ。
おおぅ、半蔵と丹波への文は太い巻物じゃのう。また二人して頭を抱えるぞっ。はははっ。」
【 武田信玄の宗派 】
武田家の領内では、他宗派などから迫害のある日蓮宗の総本山久遠寺を庇護していた。
武田信玄自身は、信濃善光寺から御本尊の絶対秘仏などを、戦災から避難させたり、
激怒して信長と決裂した比叡山焼討ちで、甲斐に逃げた天台宗の覚恕を保護している。
信玄の比叡山焼討ちを非難した文には、
「天台座主の覚恕法親王の沙門(保護者)武田信玄」とあり、返書の信長の文には「第六天魔王(仏道修行の妨魔)信長」とある。
神仏宗派の教義に拘らず信奉したようだ。
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